第12話(8) 『子供の成長』
そのどうしてか心に深く残る声はこれまでずっと聞いていたもののはずだ。
でもその声質は今まで聞いたこともないぐらいに静かな怒りに満ちているように思えて、俺は思わず喉から出掛かっていた言葉を呑み込み恐る恐るその声の主へと顔を向ける。
……セリシアは静かに、怒っていた。
綺麗な姿勢をぴくりとも動かさず、それでもその神秘的な瞳は顔前にいるカルパディアを強烈に射抜いている。
その神に等しい威圧を一身に受け僅かに眉を跳ねさせたカルパディアに、セリシアは言葉を告げた。
「メイト君もその地で生を受けた方々も……決して誰かが貶していい方々ではありません。どれだけの地位があったとしても、それで聖神ラトナ様が差別をお許しになるとお思いになられているのであれば今すぐその地位を捨て神様に懺悔するべき事柄です」
「……不快にお思いになられたのでしたら大変申し訳ございません。ですが私は、起こるべき現実を告げているに過ぎません。決して今の彼を非難しているわけでは――」
「私達もスラム街と呼ばれてしまっている土地に住んでいる大切な方々も、皆同じだと言っているんです」
あくまでカルパディアの口から出た謝罪には、結局の所スラム街の人間が汚物であるという思考が消え去ったわけではない。
メイトへ向けたものも含め、奴の言葉全てをセリシアは否定しているんだ。
だが彼女の発言には、差別の意識がない俺でも思わず困惑してしまう程のものであることは確かだ。
聖女と……同じだなんて。
流石にそれは謙遜だろと、冷静な自分が声を上げているのがわかる。
故にセリシアがどういう想いでそんなことを言っているのかが気になって、思わず顔色を伺うように視線だけをそちらへ向ける。
「――――」
「…………!!」
だがその表情を確認した時、セリシアは『たとえどんな人達であろうと聖女である自分と何も変わらない』と本気で思っていることが伝わってきた。
……その凛々しく真剣な顔に、目が離せない。
自分の穢れもまた彼女の持つ光で祓われてしまうみたいに、セリシアの静かな怒りはあまりにも神秘的だった。
「……っ」
そんなセリシアの光を正面で受けたカルパディアも流石にセリシアから伝わってくる覚悟の重さは想定外だったようで、目視出来る程の一筋の汗が頬を伝う。
「もう一度言います。――謝罪してください。誰一人、あなたが軽蔑していい方は存在しません」
「……っ。私、は、聖神ラトナ様の為を想って言っているのですよ? 常にラトナ様のことを考えた故の発言です。聖女様の気持ちは理解出来ますが、現実を受け入れどうするかを考えることもまた、彼の為になると私は思います」
「……そう、ですか。聖神ラトナ様のために……」
良い心がけだと……セリシアは言うのだろうか。
俺には神の名を使って自分の発言を正当化しようとする体のいい戯言にしか聞こえないが、セリシアはこんな奴の言葉にも納得してしまうのだろうか。
如何にも君の好きそうな言葉だ。
俺も君に、そんなことばかり言ってきたから良くわかる。
流石にセリシアと違い本気で神様が云々と思ってるわけではないだろう。
改めてカルパディアは悪党だと確信した。
でも同時に言いようのない感情が俺の顔を曇らせこの後の展開を見据えてしまったから、諦めたようにセリシアを一瞥する。
「……!」
でも、セリシアの瞳はまだ……カルパディアを射抜いたままだった。
「『司祭カルパディア。では聖女セリシアの名において、あなたに――』」
「――ッッ!? お待ち下さい!!」
刹那――セリシアの腰に装着されたブックホルダーに収納されている聖書が淡い輝きを放ったかと思うと、カルパディアは先程までの笑みとは打って変わって初めて笑み以外の『焦り』の表情を見せセリシアを静止させようと腰を上げた。
俺も自分の思っていた行動や言葉とは大きく異なった結果になったことに、思わず驚きの目でセリシアを見てしまっている。
だが同時に、記憶力には自信があるためセリシアのその言葉は一度だけ聞いたことのあるものだとすぐに気付いた。
あれはクーフルが教会で捕らえられた後にセリシアが信者のみんなの前で行った【聖神の神判】で告げた言葉と同じものだ。
それを証明するように、セリシアは淡い光を放っている聖書をブックホルダーから取り外し開かずカルパディアへと見せている。
結局あれをして具体的に何が起きるのかは判決が下された後すぐにクーフルを殺してしまったためわからずじまいだ。
でも恐らくその神判の意味を知っているであろうカルパディアは露骨に焦り、一筋の汗が頬を伝いマスクの中へと入って行った。
「私に……【神判】を下すつもりなのですか?」
「……聖女として未熟ですみません。でも、私にはあなたの『聖神ラトナ様のために』と言って発した言葉が本当に正しいことなのかを決めることが出来ませんでした。ですから、あなたが本当に心の底からラトナ様のことを想ってのものなのかどうかを、直接聞くべきだと思ったんです」
「た、たかがこれだけのことで神様の手を煩わせるなどと、そんな事例聞いたことがありません。聖女としてその力の行使の仕方はあまりにも軽率ではありませんか?」
「私にとっては、これだけのことが大切なのだと断言します。謝罪を拒否する程の信仰をあなたがお持ちであるのなら……私はそれが正しいことなのだと、認めるしかありませんから」
「くっ……!」
「真偽を明かしたいのではありません。ですがカルパディア司祭がメイト君に謝罪をせずスラム街に住む方々への偏見を無くさないのであれば、私は神判を介さずにあなたとお話することは出来ません」
「……っっ」
「お願いします。どうか、発言を撤回し謝罪しては頂けませんか?」
セリシアの意志は固い。
確かに頑固な一面があるとは思っていたが、まさかそんなことを言うだなんて思わなかった。
……いや、単純にセリシアが本気で怒っている姿をこれまで一度も見たことが無かっただけだ。
それは多分カルパディアも同じで、セリシアの初めて見る有無を言わない姿勢に加えこの世界の誰よりも強力な力を有している聖女の怒りに完全に気圧されてしまっている。
「……申し訳、ございませんでした」
幾ら敬虔な信者としての証である『司祭』だとしても【聖神の神判】で心の内全てを明かされてしまうことを受け入れることは出来ないのだろう。
だから悩んで、プライドが傷付けられて、それでも神判を受けるわけにはいかないから、カルパディアはマスク越しに頭を下げ子供であるメイトに謝罪した。
きっと屈辱的だったに違いない。
しかも神判を避けたことで、セリシアやメイトはともかく奴を疑っている俺に自分が決して潔白な人間ではないことを証明してしまったのだ。
本来の想定にはなかったであろう、完全に悪手の行動。
だがそれでもそれを強硬したのは、偏にカルパディアがセリシアのことを舐めていたからだろう。
奴はセリシアが納得しそうな言葉を用意した上で、思いもよらない彼女の強さを想像出来ずその場合の言葉を用意していなかっただけのことだ。
でも、この場で重要なのはそこじゃない。
大事なのは、この謝罪を聞いてメイトがどう思ったのかだ。
謝罪をしたとしても、それで心の傷が癒えるわけじゃない。
頭を下げ続けるカルパディアを前にしてメイトがどう思ってるかなんて本人の口から聞かなければわからない。
だから俺もセリシアも、恐る恐ると言った様子でメイトを見る。
「顔を上げてください」
「……!」
だがそんな俺達の不安が杞憂だとわかるぐらいにメイトの顔が曇っていることはなくて、むしろそれを受け入れた上で柔らかな笑みを浮かべていた。
「司祭様の言う通りです。たとえ今この教会で暮らすことが出来ているとしても、ボクがスラム街の出身であることに変わりはありません。ここで暮らすことが出来ていること自体奇跡だと今でも思っています」
「……」
「でも、結界を通ることが出来なくてまたあの場所に帰ることになったとしても、実はそこまで悲観的に考えてはいないんです。だって、あそこにいた時のボクと今のボクは、きっと大きく違っていると思いますから」
そんなことを言うメイトに目が離せないでいると、ふとメイトの視線がこちらに向き、まるで俺達を慈しむようにセリシアと似た優しい笑みを向けていた。
「自分で言うのも何ですが……成長、出来たんだと思います。ボクが本当に欲しいものは何だったのかを、この場所が教えてくれました。ボクが今出来ることは何なのかをこの街が教えてくれました。そして……ボクが本当に成したかったものは何なのか、どうすればそれを成すことが出来るのかを教えてくれた人もいたんです」
視線は教会に、セリシアに、そして俺へと向いて、最後にカルパディアへと真っ直ぐな目を向ける。
「ここはたくさんのものをくれました。夢も……出来たんです。その夢が叶うのかはわかりませんけど……だからこそ、司祭様について行くことは出来ません。たとえ叶うことのない夢で、スラム街にまた戻ることになったとしても……ボクは後悔しないって、自分を信じていますから」
「……」
「あの場所で生まれたからこそ今があると思うから、司祭様の言葉に何も思いません。胸を張って、スラム街の人間だったんだって誇ることも出来ますよ!」
そうやって笑みを浮かべるメイトに、カルパディアを置いて俺とセリシアは様々な感情が濁流のように流れてきていた。
幸福を得て、それでまた地獄に戻っても後悔しないだなんて並大抵の感情では到底思えないもののはずだ。
それでもメイトの瞳には虚勢など微塵も感じられなくて、俺にはそんなメイトの姿が初めて会った時よりもとても大きく感じられた。
「聖女様も師匠も怒ろうとしてくれてありがとうございます。でも今は、ボクのことは気にせず聖女様のためのお話をして下さい」
「……っ」
「メイト君……」
なんか二人で、感極まって泣いてしまいそうだ。
セリシアはともかく俺なんて何もしてやれてない。
メイトと約束した剣の稽古だってここ最近は全く出来ていないのに、メイトは文句も言わず自分なりに出来ることを精一杯やっている。
なのに俺のおかげでもあると言ってくれるメイトは、やっぱり贔屓目に見ずとも何処に出しても恥ずかしくない程立派だった。
だからこそ、いつも失った時のことを想像してしまうのだ。
生きていてくれることが嬉しくて、俺はますますメイトたちの成長を見届けたくて堪らなくなった。
「また何か必要であれば呼んで下さい。それでは失礼します」
少しだけ恥ずかしそうにしながらも、メイトはそのままそそくさと部屋を出て行ってしまった。
うっすら流れた涙をセリシアは指で掬いつつ、バツの悪そうに視線を逸らすカルパディアに小さく頭を下げている。
「すみませんカルパディア司祭。少し、事を大きくしようとし過ぎてしまいました」
「いえ、もとはと言えば私のせいですから聖女様はお気になさらないでください。……ですが、ここからは真面目な話になります。先程のことはお互いに水に流し改めて話を行いましょう」
「――っ」
「はい、もちろんです。ふふっ。メイト君が大人に見えて、なんだか嬉しくも恥ずかしくなってしまいます」
「……まあ、そう、ですね」
「……」
俺がカルパディアに敵対しているが故の感情なのかはわからないが、いちいち言葉の節々が癇に障る。
……何なんだコイツ。
何が互いに水に流す、だ。
自分の失敗を棚に上げてよくもまぁそんなこと言えたもんだ。
だが口を開けない俺にそれを問い質すことは出来ないし、先程怒る姿を見せたセリシアも流石にそこに思う所はないみたいだ。
だからこそ僅かな苛立ちを感じながらも、俺は溜飲を下げるしかなかった。
「では早速話し合いをしましょう。題目は『今後の三番街の実情と聖女様の立場について』です」
そうして話し合いは始まっていく。
会話を遮る者がいないから、カルパディアはマスク越しに見えるいつも通りの笑みを浮かべていた。