エピローグ(3) 『真逆の結末』
――冷たい床が、肌を撫でた。
寒くて、寒くて、暖かさが欲しくて。
それでも確かに自分の心臓の鼓動が聞こえた俺はゆっくりと瞼を開けた。
「う、く……?」
ぼんやりとした思考を持ちながらもつい先程までの記憶は鮮明に刻まれていたため、自身の身体に違和感を抱いた。
……何処も、痛くない。
火傷の痛みも、身体を貫いた痛みも、身体の内部を破壊された痛みも何もかも。
全身が熱せられる暑さも感じなかったから、俺の意識はその疑問によって覚醒を始めた。
「ここ、は……」
身体を起こし、きょろきょろと辺りを見回して思わず動揺の息を吐く。
「……どう、して」
視界に映るのは、墓地の地下であろう一室の中だった。
見れば虚構の世界から抜け出すことが出来た時と同様に固く閉ざされていた扉は開かれ、中央部にあるであろう魔導具も光を発している様子はない。
「なんでだ……俺は、確かに」
奴によって殺されたはずなのだ。
起きて、歩いて、そうして俺の選択の結末を嫌という程見せ付けられたはずなのだ。
だが脱いだはずの白服も着たままで、身体の何処にも血が滲んだ様子はない。
俺は起きた時の姿と、何も変わっていなかった。
だが俺の脳裏にはあの悲劇が、あの絶望が鮮明に刻まれている。
「……べるぜ、びゅーと」
どうして最初の姿に戻っているのかはわからない。
それでもセリシアや子供たち、三番街のみんなが死んでしまったという事実は変わらない。
俺が来てくれると信じて、待ち続けて、そうして苦しみながら死んでいった人たちがいるという結末は変わらないから。
「ベルゼ、ビュート……!!」
俺の大切な全てを壊した【悪魔】の名前に、憎悪を乗せた。
奴は紛れもない【悪魔】だった。
人の不幸を楽しみ、人の欲望を喰らい、人の人生をただの遊戯としか思わずに悪意と混沌に満ちた世界を望む正真正銘の怪物。
「ころ、す。ころす、ころすころすころす……!!」
【断罪】しなければならない。
あの男こそ、この世界で一番生きてちゃいけない大悪党だ。
「ころ、す……」
けれど……そう思えば思う程心と身体に刻み込まれた畏怖が表に出てきて、俺の言葉とは裏腹に身体が震えて動けない。
殺意を持って行動しようとしても、身体が、足が一歩も動いてくれなかった。
「く、くっそ。く、そぉ……!」
それが何よりも悔しくて悔しくて、俺は自分の無力さにうんざりする。
――奴には勝てない。
いくら激怒と憎悪と殺意を向けた所で、それは全て俺に返ってくるだけだ。
もう嫌になるくらいそれを教えられてしまった。
俺はもう奴の道具としてこれから生き続ける運命なのだと、身体に教え込まれてしまった。
「……死のう、かな」
それにあまりにも救いが無いから。
思わずそんな言葉が口から吐き出されてしまう。
だが実際、一生奴の思い通りに生きることに果たして生きてる意味はあるのだろうか。
みんな、死んだんだ。
守りたかった人達は、みんな死んでしまった。
もう帰る場所も、俺の帰りを待ってくれる人もいない。
仮に天界に帰る方法を探して、そして帰ったとしても、奴の呪縛からは逃れることは出来ないんだろうという確信もあった。
「……死のう」
この先不幸しかないのなら。
死ぬことが怖くない俺には、その選択が簡単に思い浮かんでしまう。
どうして一度殺されたはずの俺がこうして生きているのかはわからないけど、どうせこの先もずっと不幸な道を歩き続けることになるのなら、全てを諦めてしまった方が楽だと思う自分がいた。
「……まだ、死ねない」
……だがそれでも。
俺は死ぬ前に、俺自身の選択による贖罪をしなければならないと思い至った。
「みんなを、埋めてあげなくちゃ……」
それが俺に出来る最後のことだと思った。
死んだあとも苦しむ必要は無いんだ。
地上にずっと縛られ続けて、ただ生物に貪られるのを黙って見ないことにするなんて俺には出来ない。
幸いにもここの墓地には空きがそこそこあるらしい。
たとえ空きが無くなったとしても、新しい墓を作ればいいだけだ。
「みんなの、ために……」
それが俺がみんなに出来る唯一のことだと思うから。
だからただそれだけのために俺はもう一度立ち上がり、震える身体のまま出口に向けて一歩を踏み出した。
――
……俺の人生に、意味なんてなかったと気付かされた。
平和と平穏に満ちた日々を送る。
たったそれだけの、簡単であるはずのその願いを、俺はいつも手に出来ずにいた。
だけどいつかは。
いつかはと。
そんな日々が必ず来ることを信じて、それを壊そうとする悪党を【断罪】してきた。
けれどその考えも全てベルゼビュートの思い通りの思考でしか無いのなら、果たして俺という存在は一体何なんだろうか。
……それどころか最早【断罪】自体、俺には出来ていなかったのかもしれない。
未だ根本的に【断罪】という信念を持つことになった時のことを思い出せないまま、言葉だけが12歳の頃からずっと独り歩きしていたような気がする。
結局、俺は記憶を失っていたが故に自分が容易に行えていた人殺しという事実に【断罪】という言葉を被せていただけなのだろうか。
もう自分の感情は俺が決めたものなのか、それともベルゼビュートによって誘導されているものなのかすら曖昧になって、自分自身すら信用出来なくなってしまっていた。
「こうして俺が三番街にまた行くのも、お前の思惑通りだって言うのかよ……」
墓地から出て森を歩き、土に埋まる根っこを乗り越えながら小さく呟く。
であればその思惑に乗らないようにとその考えとは真逆のことをしようとした所で、もしかしたらそれこそがベルゼビュートの望みだと思ってしまえばそれまでだ。
疑心暗鬼になり続ければ何も行動することなど出来なくなる。
その行動しないという選択すらもベルゼビュートの思惑なのではないかと思って、ただ無駄に精神を壊していくだけだ。
だから結局俺は自分の思った通りの選択をするしか道は残されていなくて、脳裏に過り続ける不快感から目を逸らし続けた。
……もう、何も考える必要なんてない。
どの道みんなを埋葬することは既に俺の中で決まってる。
ちゃんとお墓に埋めてあげさえすれば、きっとみんなの来世は幸せな日々になるはずだ。
俺は死んでもきっと天国ではなく地獄に行くだろうけど、今はそれも仕方ないと思う。
誰も守ることが出来ずに、殺された数だけ善人を殺してきた俺に幸せになる権利が無いなんてことは、嫌という程わかってるんだよ。
「……死ねば、全部終わる」
姉さんもエウスもまだ見つかってないけど、二人を見つけるまでずっと絶望の中を彷徨い続けるなんて俺はもう出来ない。
一人孤独感に苛まれながら人間界を歩き続けるなんて、一度ここで暖かさを知ってしまった俺にはもう出来そうになかった。
だから楽な方へ楽な方へと、そんな堕落した思考を持ち虚ろな瞳のまま森を抜けた。
……また、腐った死体を見る羽目になる。
俺を糾弾するように体液を撒き散らす死体の山を目にして、また壊れた心に追い打ちを掛けることになる。
だがそれを見るのもまた俺の持つ責任だと思うから、だから俺は森を抜け生気の籠らない瞳のまま顔を上げた。
――――三番街は、活気に満ち溢れていた。
「…………は?」
風に乗って、人々の騒がしくも心地の良い声が耳に届く。
まだ視界には人の姿は映らないものの確かに三番街には人の気配が、街に命が吹き込んでいた。
夢だと思う。
あまりに人生を諦めた故に映し出される幻想なのではないかと目を疑う。
それでも現実は変わらなかった。
人々の声が途絶えることはなかった。
「…………」
まるで導かれるように、俺はゆっくりと足を前に出した。
転んでしまいそうになるのを何とか防いで、変化を見逃さないように辺りを見回しながら舗装された道を歩き続ける。
……人が、いた。
疑いようのない程に、たくさんの人が中央広場に集まっていた。
「――!! おいみんな! メビウス君が来たぞー!」
その異常な姿に困惑し、現実を受け入れられず立ち尽くす俺に気付いた住民の一人が大声を上げると、集まっていた人たちが途端に俺の方へと振り向いて、歓声の声を上げながらこちらへと近付いて来た。
「また三番街を救ってくれてありがとう!」
「コメットさんから聞いたよ。私達が意識を取り戻したということは君が必死に頑張ってくれたんだって」
「もう二回も助けられちゃったわね。ありがとう」
俺を取り囲み、みんな口々に俺に感謝の言葉を伝え続けている。
俺が受けるはずのなかった友好的な目を向け、まるで俺がみんなを助けたかのように、まるで俺が英雄にでもなったかのように、笑みを浮かべ続けていた。
「……は」
……意味が、わからない。
どうして生きているのか、全くもってわからなかった。
俺は確かに失敗したはずなのだ。
全部が全部俺のせいで、俺の安易な選択の結果みんなは死んで、俺なんかに人生を賭けたせいで誰もが無駄な死を晒すことになった。
「……は、は?」
……なのに。
なのになのになのに。
視界に映る『何か』は俺に好意を示して、俺を祀り上げて、何故か血を通わせ命を吹き返している。
「お、おい……大丈夫か?」
「なんだか君らしくないな……どこか悪いのかい?」
その光景があまりにも信じられなくて、あまりにもそれを受け入れることが出来なくて。
呆然と固まってしまっていた俺を前に、住民たちは心配そうに声を掛けてくれていた。
不意に住民の手が肩に乗せられる。
服を挟んでも尚、そこには確かな熱があった。
「どう、して……」
「ん?」
「みんなは、みんなを、俺は助けられなくて……」
「「「……?」」」
熱が、体温が、あるわけがないのだ。
俺はみんなを助けられなかった。
あの異常事態を前にどうすることも出来なくて、誰もが死者の世界に取り残されて脱水症状に陥り死んでいったのが全ての結末だ。
その光景を、俺は見てきたはずなのだ。
だけど死体の山は俺の視界の何処にも無くて、まるで結末が変わったかのように俺が三番街を襲うもの全てを解決することが出来たという身に覚えのない結果だけが残っている。
そんな俺の動揺が、困惑が住民たちに伝わったのだろう。
みんな俺の様子の変化に疑問を抱きながらも、俺のことを労わろうとしてくれていた。
「もう何日も頑張ってくれてたんだから、きっと疲れちゃってるのよ」
「確かにそうか。悪いね、引き止めてしまって。また別日にみんなで教会に訪れることにするよ」
「聖女様も君が帰って来なくて心配しているんだ。聖女様の不安を取り除くために、早く顔を見せてあげるといい」
「……せい、じょ?」
みんな、俺に気を遣って送り出そうとしてくれている。
それに感謝の気持ちが芽生えると共に、その住民の言葉に俺は引っ掛かりを覚えていた。
こうして、あり得ないはずなのに目の前には死んだ人が蘇っていて、俺の見た死の存在だけが消え失せている。
……ならばもしも。
もしも、みんなが生きているのなら。
「セリ、シア……」
そう呟いて、俺はゆっくりと坂の上にある教会に視線を向けた。
……白煙は、空の何処にも見えなかった。