第10話(22) 『祝福の歌が鳴る』
俺が『変わりたい』なんて考えを抱いたからこんなことをしたのだと、男は当然のようにそう言った。
それこそ、何の躊躇も戸惑いもなく命を容易く見ているということがわかってしまうぐらいに、あまりにも男は人の人生を軽く見ていた。
それがわかっても……わからない。
その命に対しての価値観だけは、俺には絶対に理解出来なかった。
「…………は、ぁ?」
たった……それだけの、ために?
たったそれだけのことで、みんなは殺されなければならなかったって言うのか……?
確かに思ってた。
今のままじゃ駄目なのかもしれない、みんなの傍に胸を張っていられるような奴になるためには、きっと今のままじゃ駄目なんだと、そう思っていた。
けど思ってただけだ。
そこまで重要視していたわけでも、そうして何か変わるための行動を起こそうとしていたわけでもない。
きっと……少し何かが起これば簡単に主張を変えるような、そんなただの思い付きの考えでしかなくて、そんなすぐに変われるわけがないって自分でもそう思っていたんだ。
けれど男は俺があのタイミングから『変わってしまう』ことが絶対だったとでも言うように息を吐き、そんな未来を想像したのかつまらなそうに息を吐いて肩を竦めている。
「……そん、なの」
だがそうだとしても、だ。
俺が本当に変わろうとして、そうして結果的にみんなに胸を張って生きられるような存在になれたとしても。
「俺、じゃなくても……!!」
俺じゃなくても、いいじゃないか。
『欲望』が欲しいだけなら、俺なんかよりももっと欲にまみれた奴らがたくさんいるじゃないか!?
なんで、俺だけ……いや、違う。
俺じゃない。
なんで、俺以外のみんなが不幸にならなくちゃならなかったんだよ……!?
そんな疑問を男は容易く一蹴する。
大切な人達が死んだのは君のせいだと、そう言って。
「……平和と平穏がずっと続くことなど絶対に無いというのに、君はそれを望み続ける。望み続ける限り、誰かのための『欲望』に終わりは来ないんだ」
「そんな、ことはっ……」
「だから……気付いたんだよ。君の欲望なら、神を殺せる程の力になるって。神を殺し、悪意と混沌の混じった、欲望にまみれた世界を創り出すことが出来るって。だからもう、決めたんだ」
決めた、と。
そんな押し付けがましい言葉で勝手に決め付け、簡単に俺の人生を絶望に染まる世界へと変えたのだと、この人はそう言ったのだ。
「――――」
どうしようもない、運命を変える程の力も無い故の絶望が俺を支配していた。
俺が望み、俺が求め続けてきた世界をいくら目指そうとしても、ずっとこの人に見られ続ける日々を送る羽目になると、男はそう告げている。
いや……既にそうなっていたんだ。
俺はあの時に男の理想の『選択』をしてしまってから、こうなる結末は決まっていたんだ。
「…………」
抵抗しなくてはならないのに、みんなの仇を取らなくてはならないのに……もう身体に力を入れることは出来そうにない。
この人には勝てない。
自分の人生を、俺はもう諦めてしまいそうになる。
「……だからさぁ」
だがそれでも――男は最後の最後まで俺を使い潰す気でしかなかった。
耳元から離れて俺の顔を覗き込むと、唐突に右手に大量の黒い粒子を呼び寄せて自身の腕へと纏わせてゆく。
「君はずっと、希望という可能性を持ち続けてなきゃ駄目なんだよ。壊して、壊して、壊して壊して……君の心を限界まで砕いた先にある小さな光に縋らせ続けなくちゃ極上の欲望を手にし続けることは出来ないんだと、一度失敗して気付いたんだ」
「い、みが……」
「けどその希望の中でも『変わりたい』という選択だけはしないように……一度君には罰を与えないと」
そう言って男が魔力を宿した人差し指をくいっと上げると、それに付随するように突如として上空にある巨大な魔法陣から無数の糸が一斉に飛び出してきて俺の身体へと巻き付いた。
「――っっ!?」
それはセリシアを吊っていたのと同様のものだ。
驚くのも束の間、俺の身体を魔力の糸が絡め捕ったことで拘束が完了したからか重く伸し掛かっていた重力の世界は消えてゆく。
だが両腕両足に巻き付けられた糸はまるで操り人形のように俺の動きを制限し、暴れようともがいても全く糸が切れる気配はなかった。
そしてその糸が俺の身体を強引の持ち上げて立ち上がらせる。
それを操作しているであろう男は、動揺する俺を前に嗤うだけだった。
「君は変わっちゃ駄目なんだよ。変わることで何もかも変わってしまえば、これまで君に固執し続けてきた日々が無駄になってしまう」
「は……? は!? なにを、なにをしてっ!?」
「……くはっ! だからさぁ。もっと僕を、僕だけを楽しませてくれるようになってくれれば良いなって思うんだ」
そんな自分勝手な主張をしながら男は糸を操作して俺を後ろへと振り向かせる。
そして暴れる俺を操作し強制的に足を動かすと、俺は床に寝かせたセリシアの前へと立たされていた。
その腕が、セリシアの心臓に刺さる漆黒の剣の柄を掴む。
途端に腕に力を入れさせられたのがわかって、俺は顔を大きく歪ませて首を振った。
嫌な予感がする。
これから何をしようとしているのかがはっきりとわかる。
だから必死に剣から手を離そうと腕に力を籠めても、それは強大で強固な糸によって押さえ付けられビクともしない。
「…………待、て」
「取捨選択は大切だ。何を選び、何を見捨てるのか。どちらも手にしようとするからこんな結末を生むことになる」
「い、いやだ! 待て! 待ってっ!!」
糸の固さも伸びも全てが男の操作下でしかないため、俺の抵抗に合わせ強度を変えることで男は完全に俺の身体を掌握していた。
それでも諦めるわけにはいかないから、俺は首を大きく横に振り、必死になって暴れ続ける。
それでも男に同情や慈悲なんてものが、あるはずもなくて。
「それはなんとも――選択のし甲斐があるよなぁ?」
そんな恍惚とした声と共に俺は――漆黒の剣を、引き抜いた。
「――――ぁ」
返り血が俺の身体に飛び散り、セリシアの胸から鮮血が流れていく。
剣を引き抜いたことで軽く浮いたセリシアの姿が生々しくもラックスさんの時と重なって、徐々に血溜まりを創り出す姿を男によって強引に見せつけられた俺は、思わず呆然とした息を吐いた。
血が、血が止まらない。
おびただしい量の血が俺の視界を埋め尽くしていく。
「ぁあ……あああああああああああああっっ!?!?」
その姿があまりにも俺の心を砕いたから、錯乱し絶叫を上げ、全身の力が抜けても尚俺の身体が崩れ落ちることはなかった。
むしろより強く俺の身体を締め付けているようにも思えて、俺は最早いつ枯れてもおかしくない程流した大粒の涙を落としながら、必死に男へともう止めてほしいという切望の目を向ける。
……だが。
「くはっ……あはぁ……!!」
男はうっとりと、そして口角を吊り上げ瞳孔を大きく広げながら、一連の流れを噛み締めるように凝視しているだけだ。
「……ぅ、ぁ」
それがあまりにも不気味で、気味悪くて。
そしてこの状況を楽しんでいるという異常さに、最早どうしようもない程の絶望が襲い掛かっている。
だがまだ終わらない。
男の欲望を満たす為だけに存在している俺は、今も昔もずっとこの人の欲望のままに歩き続けているだけだ。
「……おねがい、します」
糸が身体を引っ張り、漆黒の剣を持ったままセリシアの上に馬乗りにさせられる。
いくら抵抗しようとしてもその度に糸の締め付けが過剰な程に強くなって、最早この人にとって俺の想いなどどうでもいいということに気付かされてしまった。
それでも、弱々しい言葉を並べてどうにか説得出来るものがあるのではないかと、涙ながらに思い付く限りの言葉を吐き出す。
「もう、変わりたいなんて言わない……思わないっ……だから、だから……もう、やめ……やめて、ください……」
どんなに力を入れても、剣を持つ腕は高く上がる。
どんなに謝っても懇願しても、左手は剣を持つ手に添えられる。
カタカタと小刻みに揺れ動く漆黒の剣を視界に入れさせられながら、自分がこれから何をさせられようとしているのかがはっきりとわかってしまった。
いやだ……いやだ。
もうセリシアを傷付けたくない。
これ以上彼女が痛い思いをする必要なんて、あるわけがないんだ。
充分苦しんだだろ……もうこの世からいなくなっちゃっただろ!?
だから……死の世界でぐらい幸せであってほしいって、本当にそう思うし、何より俺がもうこれ以上大切な人を傷付けたくなんてなかった。
「――つまらないこと言うなよ」
……けれど男はそんな俺の言葉に冷めたように息を吐くと。
「綺麗なモノを汚すことこそが、一番面白いんじゃないか」
「ぃや――」
最悪な言葉を吐いて潰すように拳を握った瞬間――俺の静止の声も届かずに糸で操られた両腕が一気に振り下ろされてしまった。
剣が……届いてしまう。
顔を強張らせ、どれだけそれを防ごうとしても、男の欲望に抗うことが出来ずにまた大切な人を俺自身の手で傷付けようとしている。
昔から何も変わらない。
自分の手で幸せを壊していく様を見せつけられ、そうするように仕向けられてきた人生は今も昔も変わらなかった。
それでも変わらなかったからこそ『変わりたい』と願い渇望するのは当たり前のことで、俺は必死に結末を変えようと抵抗し続けていた。
だけどもう刃はセリシアの身体を貫いてしまいそうになる。
アルカさんやラックスさん……天界のみんなと同じように、人間界でも同じ罪を繰り返そうとしている。
それだけは嫌だと願っても結局弱者が強者を前に抗うことなど出来るはずもなかった。
「――――」
そして刃が――肉体を貫く。
「――――」
肉を突き破るような感覚が腕に伝わってきて、貫いた証拠に大量の鮮血が脈動しながら身体の外へと流れ落ちていった。
それがセリシアの綺麗な身体へと掛かり、更にその色を赤く染め上げている。
だけどセリシアの身体には新たな刺し傷も、ましてや漆黒の剣が突き刺さっているようなことも無かった。
止めどなく落ちる血もセリシアからではなくその上から流れ落ちているように見えて、俺はゆっくりと自身の身体に視線を向けた。
「……かはっ」
――そこには俺が、俺自身の手で自分の身体を剣で貫いている姿が視界に映る。
血反吐を吐いて、俺自身も赤黒く染まる姿を脳が理解した瞬間、俺の神経が警鐘を鳴らし耐えがたい激痛が襲い掛かった。
「……ぁぁ」
……それでも。
痛くて痛くて、口から血を垂れ流してしまっているにも関わらず、こんな状況で俺は『セリシアを傷付けなくてよかった』と安堵の息を吐き顔を和らげてしまった。
ゆっくりとセリシアに覆い被さるようにして倒れてしまう。
どうして男がセリシアへの狙いを俺へと変えたのかはわからない。
心臓から僅かにズラして貫かせた時点で男が俺をまだ死なせるつもりが無いことはわかるものの、その理由だけはわからなかった。
「せり、しあ……」
だがたとえセリシアを傷付けなくて済んだとしても、後悔の念が尽きることはない。
死んだ人は……誰一人として生き返りはしない。
「ごめん……ごめんっ……!」
だからただ涙を流して、目を瞑り動かないセリシアを見ながら謝罪の言葉を口にすることしか出来なかった。
「……くはっ!」
……不意に俺の身体に巻き付けられた魔力の糸が全て切られ、脱力した俺の身体は支えてくれるものが無くなって軽く跳ねる。
「……ギリギリのギリギリまで絶望を持たせ続ける。それがパペッティアとしての力量だとは思わないか?」
そう言われて、俺はどうしてこの人が途中で標的を俺に変えたのかがわかってしまった。
この人はただ最後の最後まで……俺のことを弄んでいただけだったのだ。
「これ以上欲望に任せて力を使い続けてしまえば本来の目的に届かなくなってしまう。充分楽しめたし、君ももうこれからどうすればいいのかわかってくれただろ。だから残すは……あと一つだけだ」
人が苦しむ姿を、人が後悔する姿を、人が絶望する姿を……人の命が消えていく様を。
あくまで悦楽の道具として楽しみ、簡単に粉々に砕いていくこの人に対し、俺はもう隷属する道しか残されていなかった。
「神に次ぐ力を持つ僕達に、変貌を遂げ続ける『名前』は重要視されるものでもないが……君の魂に刻み込むために、敢えて今その名を告げよう」
男の言葉に吸い込まれ視線を向ける。
男は立ち上がり、再度女神の頭に足を組んで座り込むと、身体中に蠅の魔力粒子を纏わせた。
そして蠅の魔力は頭と背中に纏わり付いたかと思うと、密集した粒子が形となり二つの角と羽を創り出す。
俺は、それを知っていた。
天界で習い、厄災として恐れられ、魔族の誰もが夢見るという異形の怪物。
「――僕の名前はベルゼビュート」
その姿は……神が君臨する場所で、神を跪かせ、神の光を一身に受けながらも決して晴れることの無い闇を持ち羽を広げ高らかに名乗りを上げるその姿は。
「――【原罪の悪魔】ベルゼビュートだ」
紛れもない、【悪魔】だった。
思考が止まり、血反吐を吐きながらも絶対的強者を前に竦み続ける俺にベルゼビュートは手をかざすと、
「忘れるな……マリオネット」
「――ごふっ」
身体の内側にある何かが弾けて、視界が一瞬で真っ赤に染まっていった。
痛みも熱も何もかも感じなくなって、思考がぼんやりと薄れゆく中。
「――人生は『選択』の繰り返しだ」
その言葉と、終始奏でられ続ける聖歌だけが鮮明に俺の器に刻まれていて、その言葉を最後に俺の人生はゆっくりと――幕を閉じた。