第10話(21) 『無力感に打ちひしがれて』
天井には巨大な闇色の魔法陣が浮かび上がっていた。
そこから闇の魔力によって創られた糸が無数に飛び出て『それ』の両腕を吊るし上げ、柔らかく暖かさを感じた麦藁色の毛は重く垂れてしまっている。
心臓部は虚構の世界で見た漆黒の剣によって貫かれていて、だらりと垂れ下がった華奢な肩と肌は、どうしようもないくらいにその熱を失わせていた。
「は、ぁ、あ……?」
呆然と立ち尽くし、言葉にならない息を吐いていると唐突に魔力の糸が切れて――『それ』は落下する。
「――ぁっ!?」
それを見た瞬間、自分でも無意識のうちに痛む身体に鞭打って、なんとか『それ』を床に激突させてしまうことなく抱き抱えることに成功した。
燃え上がる灼熱が俺の肌を終始焼き、火傷の激痛があるにも関わらず抱き抱える力を緩めない自分の行動を客観視しながらも、世界は酷く熱いはずなのに俺の肌に触れる『それ』の熱は冷え切っている。
「ぅ、ぁ……」
喉が震え言葉にすらならない声を上げながら顔を見ると、髪で隠れた顔から僅かに見える口元には似合わないぐらい真っ赤に染まった血が吐き出されていて、その一滴が俺の肌へと落ちていった。
……何度も顔が強張り口元が震えたことで顔の筋肉は麻痺してしまって、もしかしたら今の俺は歪な表情になっているのかもしれない。
ガクガクと抜けていく力が『それ』を支えることを困難にさせて、滑り落ちそうになる身体を俺は慌てて抱き寄せた。
「……? ……??」
わからない。
何もわからない。
わかりたくもないし知りたくもない。
だけどそれを知らなければならないと警告を鳴らす俺もいて、俺は痛み震える指先を何とか麦藁色の髪に沿わせ、慈しむようにそっと前髪を横に流した。
――――セリシアが、死んでいた。
神の情愛を受け、権能を授かり、守護され、傷一つ負ったこともない優しい女の子が心臓を貫かれ絶命していた。
「セリ、シア……?」
たどたどしくも声を掛ける。
ただ寝ているだけなのだと。
ただ今の状態に気付いてないだけなのだと、そんな在りもしない可能性に縋っていた。
だけど現実はやはり変わらなかった。
目の前の優しい……こんなことになるような立場ではない少女は死んでいて、もう二度と俺に笑いかけてくれることはない。
もしも誰かが……それこそ信者がこれを見たら、美しいとでも思うのだろうか。
心臓を一刺しされただけでそれ以外に外傷は何一つない聖女の姿を、後世に語り継がせたいとでも宣うのだろうか。
……そんなのは異常だ。
たくさんの死を見て、その度に受け入れてきたことのない幸せな愚か者だけが言える戯言だ。
ただ悲しみに染まる以外に、思うことなど何一つとしてありはしなかった。
「せり、しあ……」
何度名前を呼んでも、誰も答えてなどくれない。
もう枯れ果てる程の涙を流してる。
心も身体ももう限界だ。
熱気と共に水分が失われて、最早視界だけでなく思考すらもぼんやりと纏まらずに、これが幻なんじゃないかと錯覚する程だ。
だけど俺は、命が簡単に消え失せることを知っていた。
何の予兆もなく、いとも容易く一瞬で先程まで話していた人たちがこの世から消えて行くのを知っていた。
「――――」
だから……もうわかってるんだ。
守りたかった人達は全員、誰一人として守りきることが出来なかったんだって。
「……どうして」
全てが、壊されてゆく。
教会で過ごしてきた日々が。
三番街のみんなが俺に信頼を向けてくれていた日々が。
子供たちが毎日を懸命に生きて、元気に遊んでいた日々が。
ルナと共に穏やかな時を過ごしていた日々が。
テーラが俺のことを守って、手を貸してくれていた日々が。
そして……
セリシアが……陽だまりみたいに俺に笑いかけてくれた日々が。
壊されてゆく。
全部、無くなっていく。
憎しみを抱き、殺意を宿し、恐怖と畏怖を全て憎悪へと変えて俺は男を睨み付けた。
「どうしてぇ!!」
「……どうして、みんなが死ななければならなかったのかと……君はそう疑問に思っているはずだ」
少しも傷が出来ないよう丁寧にセリシアを床へと寝かせて立ち上がると、酷い火傷による激痛など気にもせずに聖剣を引き抜いて、剣先を床に引き摺らせながら男へと近付いていく。
それでも尚、男が表情を変えることは一切無くて、くつくつと可笑しそうに嗤い俺を見下ろしてるだけだった。
「三番街に欠陥があって、それで狙われやすかったとしても……どうして聖女を殺したのかと、知りたくて知りたくて堪らないはずだ。力や聖痕を狙っているだけなのだから、聖女だけは殺されるはずがないと、そう……高を括ってたはずだ」
わかったように俺の考えを全て見抜く男への不快感は増幅するばかりで、俺の紅い瞳には殺意の光が強く灯った。
殺す、殺す、殺す、殺す殺す殺す。
魔族は、悪党は、罪人は、クズ共は、馬鹿共は、邪魔する奴はみんなみんな【断罪】されるべきなんだ。
悪意を持つ者が全て消えさえすれば必ず平和と平穏に満ちた世界が生まれるはずなんだ。
平和と平穏すら維持出来ない神も何もかも、みんな死んじまえばいいんだ!
それを俺がやる。
俺が必ずやってみせる。
それが俺の信念だから。
そうすれば理想の世界が訪れるはずだから。
だから殺す。
何の躊躇も慈悲もなく殺す。
そうすれば……
そうすればみんなも俺を、赦してくれるはずで――!
「だから一つだけ……勘違いを正そう」
怒りに呑まれ、ずっと俺を射抜くだけで動く様子もない男の前に立ち聖剣を振り上げる。
罪人が生きたままだったら死んだ人たちも浮かばれないと、復讐に満ちた激情のままに肩を震わせて剣先が小刻みに揺れ動いていた。
――それでも男は終始、口角を吊り上げていて。
「――君が生きてさえいれば、それ以外はどうでもいいんだよ」
「…………は」
そうして聖剣を振り下ろした刹那――世界に闇色の波紋が広がった。
その波紋は途端に強烈な風圧となって俺の髪と服を靡かせ、その異常な魔力の質に危機感を感じた俺は慌てて後退しようとステップを踏む。
「――――がっ!?」
だが幾ら距離を離した所で絶対的な力の前には何の意味も持たなくて、突如として強烈な重力が俺の全身に伸し掛かり、耐えることも出来ずに俺はそのまま地面へと叩き付けられてしまった。
……左手の甲にある『聖痕』は――光らない。
復讐を成し遂げられなかった時も、セリシアに苦渋の選択を刺せてしまった時も、テーラに庇われてしまった時も……そして今も。
何処までも何処までも俺を苦しめ続けてきた大魔法を止める方法を、俺はいつも肝心な時に持てていなかった。
「――ぐっ! ぐっ!?」
必死に起き上がろうとしても、俺の身体は終始重力に負けて床に叩き付けられるだけだ。
何度も受けてきたため最早周知の事実ではあるが大魔法というだけあってやはり単純ながら効果は絶大で、人間だろうが天使だろうが誰もこの魔法を克服することなど出来はしない。
だけど、『聖痕』だけならそれを無力化することが可能だった。
可能な、はずなのに、俺の手の甲に刻まれた聖痕は何も応えてはくれそうにない。
……ずっとわからなかった。
闇の魔力を遮断するはずの『聖痕』がどうして大事な時に限って使えなくなるのかを。
本来であれば、俺はもう魔族に負けることなど無いはずなんだ。
事実あの時、この聖痕があったおかげで俺はクーフルの重力魔法を無力化し簡単に撃破することが出来たのだから。
魔法にばかり固執している魔族など、その自信さえ崩すことが出来れば簡単に【断罪】することが出来ると、ずっとそう思っていた。
だけど違った。
今回の一件では、俺の『聖痕』は全く持ってその力を使えてなんていなかった。
「知りたい、知りたいと……君の欲望は止まることを知らずより僕に力を与えてくれる」
「――っ!」
重力に押さえ付けられ、動くことも出来ない俺を男は見下ろし続けてる。
俺を見下し、まるで相手にもしてないようなその態度が感情を激怒させ左腕に雷の魔力を纏わせるものの、それも簡単に魔力の残滓となって散っていってしまった。
どうして、魔法まで……!?
そんな疑問さえ無視して、男は終始自分のペースで言葉を紡ぐ。
「神はいつも僕から君を遠ざけようとするんだ。君の欲望を、君の選択を修正しようだなんてつまらないことをしようとする。だから……【神託】を押さえ付けるのも大変だったんだぜ? それに【神託】と違って『聖痕』は何度も僕に逆らおうとするから……今も余計な力の消費ばかりだ」
「……いま、も?」
「神の力に干渉するのも大変だって……そう言ったんだよ」
「――っっ!?」
そんな、ことが……出来るというのか。
確かに俺は今回の一件、必ず聖女に何か影響がある事態だとは思っていた。
だからてっきり『聖書』が反応し【神託】を授かることでいつか必ず現状がバレてしまうだろうと、そう思っていたのにその未来は来なくて、結果的にセリシアに対する異常事態の秘匿は完遂出来てしまった。
それは一重に……力を押さえ付けていたからだと、この人は言う。
そして『聖痕』。
それもまた、この人がその力を押さえ付けているのなら全て納得出来るものがあった。
「そんな、ことが……」
同時に……神の力を抑えるという人類では到底出来ない行いに、先程まで抱いていた憎悪の瞳は大きく揺らいで、絶望故に全身に入れていた力は抜けていってしまう。
聖女の力にすら干渉出来る相手に、勝てるわけない――
そんな弱音を思わず抱いてしまう俺を男は満足そうに眺めながら、女神の椅子から立ち上がり地に這い蹲る俺の目の前へとしゃがみ込むと、両頬に手を乗せて高揚感を高めた顔で俺を見下ろし続けてる。
「どうして君の大切な人達が殺されなければならなかったのか……教えてあげるよ」
そしてハイライトが中心に寄った特徴的な金色の瞳で俺を射抜いて、
「――君が『変わりたい』と願ったから」
「…………は」
「君が変わりたいなんてつまらないことを考えてしまったから、わざわざ蓄積していた力を使ってまでこの舞台を用意してあげたんだ」
そんな簡単過ぎる理由だけで大切な人達の命を奪ったのだと、そう告げていた。
「お膳立てはしてきたつもりだったんだ。君がようやく天界から離れ僕が干渉出来る人間界に堕ちてくれたから、君の堕落さを確認するためにつまらない欲望を持っていた人形を唆して送り込んだ。もしも人間界に来た君がその人形よりもつまらない『欲望』しか持っていなかったら君への興味も失せていたけど……君は、僕の期待以上に堕落していた」
「ぃ、や」
「『欲望』だけが僕の力となる。だからこれでも君の代わりにあの人形……魔族の欲望には付き合ってあげてたんだ。ちゃんとあの時の君と同じように力を授け、それなりに期待していたというのに……あの人形は、あのガラクタはその力を使えるに値しなかった」
「――――」
「落胆したよ。これまであんな不味い欲望を喰らいざるを得なかった僕自身に。けどそれで君がそのままでいてくれるようになったから、損だけではなかったけど」
いみ、が……わからない。
だって、この人の言う魔族とは恐らくあの時三番街を襲ったクーフルのことなはずで、であれば俺が初めて人間界に転移してしまった時から既にこの人に俺は狙われていたということになる。
クーフルを差し向け、そうして起こした俺の『選択』がこの人にとって都合の良いものになるように、人間界に来てからずっと俺の感情すらもこの人に操られていたとでも言うのか。
男の理想の欲望を持った……人殺しのままでいる俺になるように、と。
「だからもっと堕落させ、欲望に依存した『選択』を僕に喰らわせ続けてるだけで良かったのに……『変わりたい』なんてつまらない選択をしようとするんだから。本当は君に姿を見せるつもりもここまで場を整えるつもりもなかったのに、君のためだけにこうして僕が動いてあげたんだ」
「おれ、は……」
「――君のせいだ」
声が震え、言葉にならない息を吐く俺の耳元まで近付き、男は小さく囁いて、
「君が変わりたいと願ったからこの悲劇を生んで……君の守りたかった人達は全員、死んだんだ」
全てが俺の『選択』のせいであると、男はそう突き付けた。