第10話(20) 『答え合わせ』
絶対的な恐怖が俺を支配していた。
俺も、俺以外でもどうすることも出来なかった絶望が今、ここにいる。
失っていた記憶を取り戻し、幼い頃からこの人に心を壊されるまでの一幕を追体験した俺は、いつもであればすぐ抜くはずの聖剣も抜くことが出来ずにただただ子供のように身体を震わせ降伏することしか出来ずにいた。
「なん、で、あんたが……」
ここにいるのかと。
そんな至極真っ当な疑問を抱く。
あの体験通りなら、目の前の男と会ったのは俺が10歳だった時……つまりは6年も前のことだ。
それ以降記憶の中で会ったことなど一度も無かったし、何よりここは天界ではなく人間界だ。
仮に出会うにしても、この場で対面すること自体おかしかった。
だって……この異常事態を引き起こしたのはルナを攫ったあの魔族のはずなのだ。
だからこの人がここにいる理由が、わからなくて。
数々の困惑や混乱といった感情が俺の脳を侵していく様を、男は不敵な笑みを浮かべて見続けている。
「――まずは、答え合わせをしようか」
そして俺の質問に答えるわけでもなく、男はそんな突拍子もないことを口にした。
「君は疑問に思っているはずだ。どうして僕がここにいるのか。どうして三番街の住民が死ななければならなかったのか。どうして教会の子供たちが殺されなければならなかったのか。欲望のままに知りたくて知りたくて……堪らないはずだ」
神経を逆撫でする声が聞きたくないと声質にすら恐怖していた俺の魂を引き寄せる。
だが確かにこの人の言う通りで、引き気味だった身体を無意識に戻していた。
……全て俺が知りたかったものだ。
どうして、どうして、どうして、と。
何もかもどうしてそうなったのかがわからなくて、その度に答えがすぐに見つからなかったから後回しにし、わからないままここまで進み続けてきた。
それをこの人は、知っているというのか。
そう思うと、まるで魂に刻み込まれた癖みたいにいつの間にか俺は男の言葉に耳を傾けていた。
「だからまず……君の選択の結末を告げよう」
そう言って男は闇の魔力によって上空に藁人形に似た魔力の塊を創り出すと、指先に魔力の糸を垂らし、藁人形たちによる人形劇を始め出す。
その行いが、まるで俺の選択の結末が遊戯の延長でしかないと告げているみたいだったが、どうしてか俺は不快感を感じもせずその劇に目が離せないでいた。
「ここに辿り着くまでの分岐点は幾つもあった。まず一つ。君は――聖女を連れて行かなかった。『伝えるべきではない』と騎士団に言われ、街の住民に言われ……君が本来考えていた最善の道を放棄した。聖女が死ぬわけでも無いのに、君は死よりも安静を優先した。そうして『信者』に選択を委ねた結果……全てを、失ったんだ」
言葉を紡ぎながら、男は藁人形を操っていく。
一人の藁人形が大勢に囲まれ弾圧されて背を向ける様子は、まるであの時の俺のようで、俺はその時の記憶が鮮明に呼び起される。
「君が聖女に問題を告げて協力を呼び掛け、中央広場の住民たち全員を教会へと避難させていた場合、教会を出さえしなければ皆意識を取り戻していた。そしてそのまま聖女を連れて行けば……扉は開き続け、魔導具に保有されていた闇の魔力は全て浄化されて機能を完全に停止させることが出来ていただろう」
言葉を紡ぎながら、今度は有り得たかもしれない未来を描く。
俺が住民たちの静止を振り切ってセリシアに相談することで儀式は中断されてしまうものの、必死にみんなを説得するセリシアに負けて住民たちは教会に避難し、墓地の地下で俺とセリシアの二人で事を成し解決する劇を繰り広げている。
そんな記憶は無いのに、俺の脳裏に突如としてその未来が鮮明に浮かばれていく。
セリシアは疲労困憊な状態ではあったが、それでも全ての魔導具を停止して三番街は助かり、俺とセリシアの二人で笑い合っている情景が映し出された。
そんな輝かしくも平和と平穏に満ちた未来が浮かばれてしまえば、当然それを掴みたくなり現実との大きな差を感じて俺の心を痛め付けた。
俺があの時、みんなの意見だけを聞いて反論を諦めてしまったのは……俺が、自分を過大評価していたからだ。
俺が自分一人で何とか出来ると思い上がっていたから、間違った選択を受け入れてしまったんだ。
「おれ、は……」
――俺も、セリシアと二人で笑い合えるような……そんな未来を求めていた。
有り得たかもしれない未来は俺の選択を糾弾し、瞳を大きく揺らがせて思わず頭を抱えてしまう。
「そして二つ目……僕がどうして教会に侵入することが出来ているのか。僕らにとっては常識だけど……知らないみたいだから教えてあげよう」
その言葉で、俺は再度顔を上げた。
それも俺にはわからなかった。
教会は、聖神ラトナによる結界によって守られているはずなのだ。
結界は悪しき者全てを弾く。
それはたとえ三番街の住民であろうが、帝国によって選ばれた子供たちであろうがセリシアの許可無しに入ることは絶対に出来ない。
入れるのは、本当の善だけを持っている者だけ。
結界を通り抜けることが出来るのはセリシアと……俺だけの、はずなのに。
なのにこうして、男はいとも容易く教会内に侵入することが出来ている。
だけどそれも非常に簡単なことでしかないと言うように男は俺に嗤い掛け、
「――信者が全員死んだから」
「……は?」
「だから結界が消滅した。ただそれだけの話だ」
まるでそれが極々一般的な常識であるとでも言うように、男はそう公言した。
「信仰とは神にとっての力なんだよ。信者のいない神はその存在を保ち続けることが出来ずに消滅する。そしてそれは聖女も同じだ。【三番街の聖女】という存在もまた、その神々しさに、神秘的な力に、敬い、祈りを捧げる者がいなければその力を維持することは出来ない。誰もが聖女を聖女と認識しなければ……どんなに力ある聖女だろうと、ただの劣等種に成り下がるだけだ」
「――っっ!?」
藁人形を操り、男は分かりやすく言葉通りの展開を表現している。
大量の藁人形が大袈裟に倒れていく度に徐々に一人の藁人形が聖女へと近付いていき、そして聖女の目の前に到達すると、聖女を思い切り引っ叩いて吹き飛ばした。
だがたとえそう表現しようとも、俺はそんな説明をセリシアから聞いたことなど一度だってなくて、俺の頭を困惑だけが支配した。
さすがにそれを知ってて街の自衛を聖神騎士団にのみ任せるなど馬鹿げてる。
セリシアがそれを知っているのなら、教会にだけ結界を貼ろうだなんて思うわけがないはずだ。
そして男が告げた結界消滅の条件とは、他の街と同じように街全体を結界で囲んでさえすればそもそもそんな事態にはならないということでもあった。
「だがそれはあくまで、【イクルスの三番街】での話だ」
そしてその仮説は正しかったのだろう。
男もそれを壊せるのは三番街だけであると、そんなニュアンスを含んだ言葉を俺に告げる。
「君は何もわかっちゃいない。どれだけあの三番街の聖女が、優しさという皮を被っただけの愚かで自分勝手な慈愛を振り撒いているのかを。あの女は、聖女という存在がどれだけ世界にとって重要視されるのかを、何もわかっちゃいないんだ」
「――っ」
「たとえ信者の何人かが過労で死のうとも、それが許容範囲内である限り聖女と信者たちの平穏は守られ続ける。聖女の力は維持され続ける。……取捨選択が大事なんだよ。いらない者を捨てさえすれば本当に大切な者たちを守り続けることが出来ていたんだ。そのために、三番街以外の全ての聖女がマニュアル通りの日々を送り続けているのだから」
「それ、を……セリシアは」
「知っている、と言えば君の聖女に対する考えは変わっただろうが……皮肉なことに、知らないだろう。その事実を知っている人間共は富や権力、自分たちの都合だけを考え他者に公開しなかった。マニュアルで聖女の行動を縛り付けることで欲望の対現物を生み出しているんだよ。何とも愚かで欲深いが……君のに比べれば汚らわしい」
「――――」
「これら全てが……君の『選択』の結末だ」
……ゆっくりと、首を横に振る。
どうして……どうしてこうも善人だけが苦しみ続ける世界ばかりが生まれてしまうのか。
聖女はみんなにとっての、希望なのかもしれないけど。
聖女だって同じ、人間でしかないはずだろ。
信者のみんなだってそうだ。
誰もが平和で平穏な日々を求めてるだけなのに……それを悪党は利用し、金に換え、欲望の限りを尽くし簡単に命を使い潰してゆく。
聖女が生きさえすれば、誰かが死ぬことは仕方がないって言うのか?
セリシアみたいに、聖女も信者も非教徒も、みんなが幸せでいられるような世界を望むことこそが悪だって、お前らはそう言いたいのかよ?
理想の世界を求めたから三番街は何度も狙われて、そしてみんなが死んでしまったとしても、それは仕方のないことだったって言うのかよ!?
「言って、くれさえすれば……!」
言ってくれさえすれば……俺もセリシアも、こんな結末になる選択などしなかった。
全員、死んだんだ。
もしもそれだけでも、それだけでも言ってくれさえすれば、こんな悲劇は起こらなかった。
悪党たちがほんの少しだけでも善意を示してくれさえしていれば、こんな結末にはならなかったんだ。
……だけど、もう遅い。
死んでしまった人は、人間であろうと天使であろうと帰っては来ない。
それを俺は知っている。
嫌になるくらい……知ってるんだ。
だから、セリシアだけはと。
セリシアだけはこれから守り抜いていかなければならないのだと、泣きたくなる想いを糧に身体を揺らす。
「――くはっ!」
だがそんな俺の苦悩の中に宿る僅かな希望の光を見て、男は優悦に浸り高揚感を抱き口角を吊り上げると、
「そしてその結末に相応しい終幕が――これだ」
――指を、鳴らした。
――血の雨が、降り注ぐ。
重い……落下音が響いた。
「――――ぅ、ぁ?」
あまりにも唐突に、あまりにも脈絡もなく、あまりにも変わらない光景だったにも関わらず。
男のたった一つの行動だけで、俺の視界に映る世界は一瞬で赤色へと変貌を遂げた。
俺と男との間に終始振り落ちる血の雨は燃え上がる炎を消火することも出来ずに、ただ意味も無く床を赤黒く染め続けている。
意味がわからなくて、それが何なのかわからなくて、わかりたくもなくて。
ただ俺の表情の変化を噛み締めている金色の瞳と視線を合わせながら、徐々に視線の焦点は上へと向かって行った。
――天井に吊るされていたのは赤色に染まる中に僅かに白を残した、操り人形だった。