第10話(19) 『絶望に誘う声』
熱せられ、焼けた肩の痛みに耐えながらも礼拝堂に入ると、何処からともなく耳鳴りのする聖歌が聞こえてくる。
だがどうしてか俺はその聖歌に疑問を抱かずゆっくりと一歩を踏み出していた。
「みんなは、どこに……」
室内は外以上に酷い有様だった。
礼拝堂に並ぶ長椅子には炎が揺らめき、天井を支える柱は崩れ、【聖別の儀式】に使用していた道具は全て倒れて、赤い世界を創り出している。
だが礼拝堂の一番奥だけは唯一炎が消火され焦げ跡だけが残っていた。
それはあそこに積み上げられていた聖水入りの瓶が全て割れたことで大量の水が掛かったからだと推測する。
きょろきょろと辺りを見回すが、室内は異常な熱気による陽炎によって視界が歪み鮮明に全貌を見ることが出来そうにない。
みんなは何処にいるんだ……!?
一階から外に出る方法なら幾らでもあるし、各部屋の通路が塞がれている様子も今の所見られない。
まだ幼い子もいるとはいえ、もしも一階にいたのなら既にみんなで脱出出来ているはずなのだ。
だというのに避難出来ていないなら……みんな二階に集まってしまっているという可能性が浮上する。
だがもし二階にいるのならどうして窓を開けて助けを求めないのか。
その理由がわからない。
わからないけど、何かが起きてしまってて、その行動が取れないのであれば余計に急いで救出しに行かなければならないだろう。
きっと不安で不安で堪らないはずなのだ。
セリシアを筆頭にメイトとユリアが年少組を落ち着かせどうにか打開策を考えながらも、刻一刻と近付いてくる『死』に恐怖を感じているはずだ。
俺が助けに来てくれることを信じて、耐え忍んでくれているはずなのだ。
「――っ!?」
だからすぐに二階に行こうと身を乗り出すと、突如天井から建材が崩れ落ちて、二階へ行くための通路を複雑な道へと変えてしまった。
炎や崩れた建材によって足場は悪く、これでは二階に行くためには炎の中を突っ切らなければならないだろう。
身体は既に火傷だらけで、乾燥した状態でこの火の中を突っ切れば最悪どうなるかなど容易に想像出来る。
「俺が助けに行かなきゃ、誰があいつらを助けられるんだよ……!」
けれど、たとえ俺の身体がボロボロになってしまったとしてもそれよりも大事なものが上にあるから、俺は教会に居ていい証である白服を脱ぎ意を決して大きな一歩を踏み出した。
――ぴちゃっ。
だが――その決意は突如聞こえた水音によって簡単に崩れ去った。
その音が聞こえた瞬間俺の身体は硬直し、ぬめりのある感触が靴を濡らす。
何度も……何度も何度も何度も何度も聞いてきた音と感触だった。
見たくなくて、聞きたくなくて、こんなものを見なくて済む日々を求めていた。
だけど俺の人生はいつもこの光景ばかりを見続けている。
ゆっくりと、その感触の答えを見るべく顔を落とした。
――赤い液体が……水溜まりを作っていた。
火事で上昇した温度に負けることなく、その液体は新鮮な状態を維持している。
それどころか、横から新たな液体が流れ水流を作り出しているように見える。
「……いや」
ただの液体だ。
この教会には平和と平穏しか無くてはならなくて、俺は顔を強張らせながらも首を横に振っていた。
だけど……幾らとぼけようと自分の心に嘘を吐いても、目の前の光景はどうしようもない程に俺がこれまで行ってきた悪行の光景を思い出してゆく。
これは血だ。
逃れようのない絶望を俺に突き付ける『赤』だ。
震える身体、揺らぐ瞳、痙攣する口元。
歪む視界はその血溜まりだけを収めていて、酸素の行き届かない脳が何とか現状を整理しようと躍起になっている。
……血が、こちら側へと流れてるんだ。
真新しい血液が、絶えず俺の足へと流れて来ているんだ。
それはつまり流れてくる方向に何かがあるということで。
水流に追従するように、俺は呆然と視線を動かしていた。
――五人の死体が転がっていた。
「――――は」
言葉にするだけなら……簡単だった。
言葉だけを受け入れるのであれば、そのあまりの非現実的な事実故にそれを呑み込むことも出来たのかもしれない。
それでも視界が、言葉だけでは終わらない現実を見せつけてくる。
小さな子供に、天井から落ちたであろう木片が突き刺さっていた。
小さな子供の身体は裂け、獣の咬み傷と引っ掻き傷がその命を刈り取っていた。
小さな子供の背中から業火が巻き起こり、全身を黒く燃やし尽くしていた。
小さな子供は落ちた建材の下敷きになり、隙間から見える瞳の光を失わせていた。
小さな子供の身体には大量の剣が突き刺さり、片腕だけが剣を留め具にし壁へと貼り付けられていた。
「あ、ぁぁ……!?」
平穏が……崩れ去ってゆく。
平和が全て消え失せてゆく。
何もかも夢であったら良いと願えば願う程、俺の露出した肌を撫でる灼熱が逃げる俺を引き止めている。
夢から覚めさえすれば……何もない平穏な日々に戻れると思ってたんだ。
突き付けられた過去から逃げさえすれば、俺が一番欲しかった日常に戻れると信じて疑っていなかったんだ。
「あぁ……ああ……!!」
なのに現実はそうはならなかった。
口の中が乾ききり、足が震えて立ち続けることもままならない。
教会が崩れてゆく音が不協和音を奏でて俺の魂を引き寄せ、その惨劇から目を背けようとする俺を引き止めていた。
「ああああぁぁぁぁぁぁッッ――!!」
頭を抱え、絶叫し、大粒の涙を流す。
誰に向けることも出来ない憎悪は止めどない激情となって己の心を責め立てて、砕け散った心の器を拾うこともしないままに喉を痛め付けていた。
どうして、誰が。
姿もわからない『何か』に対する憎悪が魂を燃え上がらせると同時に、明らかに三番街での異常事態とは異なる直接的な手の下し方に混乱し続けている。
あの魔族がこれをやったというのか。
けど教会には結界があって、俺以外の誰もが無許可で教会に入ることは出来ないはずだ。
だけど現実として悪党は教会を燃やし、こうして俺にとって大切な人達の命を奪い取っていく。
その激怒が、憎悪が、殺意がぐちゃぐちゃに混ざり合って、俺は誰に言うまでもなく感情に任せて言葉を叫び続けていた。
「なんでッ!? なんでだよッッ!? なんでこいつらが! なんでこいつらがこんなことにならなくちゃいけなかったんだよ!?」
みんな、死んだ。
俺なんかを鼓舞して、喧嘩して、泣いて、笑ってくれていたみんなが死んでしまった。
こいつらが一体、何をしたって言うんだ。
ただ毎日を懸命に生きて、明日も明後日もあると信じて俺の帰りを待っていてくれただけだ。
死んでいいような子たちじゃなかった。
明日があって、未来があって。
こんな惨たらしく、抵抗も出来ずに死んでいいような子たちじゃなかったんだ。
だがこの絶望を……俺は知っている。
人は簡単に死ぬ。
何の前触れもなくいとも容易く命が失われてゆく。
だから俺はずっと、ルナと初めて出会った時と同じようにどんなに平和な日々を送ろうとも人生を急かし続けてきた。
「俺は……! あいつらに何一つ、何一つしてやることが出来なくて……」
……何も言わずに、教会を出たんだ。
いってきますも、いってらっしゃいも言わずに、俺は自分の選択が間違っていないと思い込みたくて、ただそれだけのために俺は何も言わずにこの大切な場所から背を向けたんだ。
今度もまたこれまでと同じように、みんなが知らないまま事件を解決してやるんだって……そう、思い上がって。
子供たちを殺したのは、俺だ。
俺の未熟な『選択』のせいで、みんなは……死んだのだ。
「俺の、せいで……俺の…………」
後悔しないためにと生きてきたつもりだった。
だけど平穏に慣れれば慣れる程、絶望は俺にとって大切な人たちを赤く染めてゆく。
俺がもしあの時違う『選択』をしていたら、こうはならなかったのか。
あの時……あの時、別の何かを考え、別の方法を行っていたら、こうはならなかったというのか。
その『あの時』が何処か、なんて俺にはわからない。
何処が分岐点だったかなんてわかるはずもない。
何が駄目で何が正解で、何をしたら理想の結末を迎えることが出来たかなんて、全てを失ってしまった俺にはもう考える価値すらなかった。
これが……俺の罰だとでも言うつもりなのか。
たくさんの善人を殺してきた罪を、たくさんの善人が殺されることによって罰とし、俺の心を砕こうとしているだけだというのか。
「なら俺を……俺を殺せよッッ!! なんで俺だけが生き残って! なんで俺だけが痛い思いをしないで済んでるんだよ!?」
誰もいない世界に向けて激情のままにただ吠えた。
罰なら俺を殺せば良いだけの話だろ。
お前は悪だと、お前を裁くのだと、そう思うのなら俺だけを殺せば良かったんだ!
そうすれば、みんなは……!
だが……そこで俺は、一人だけいるはずの人がいないことに気付いた。
「セリ、シアは……」
そう思って顔を上げ、俺は少しも取り溢さないように辺りを見回した。
誰よりもこの教会と子供たちを大切に思ってるあの子なら、こんなことになる前に行動を起こしてるはずなんだ。
それこそ魔族がセリシアの聖女としての力や聖痕を求めているのなら、こうなる前にクーフルの時と同じようにそれを受け入れようとするはずだ。
仮にそうなる前に子供たちにこんな悲劇が訪れてしまったとしても、子供たちがここにいる時点であの子だけ二階に取り残されてるなんてことは有り得ない。
……であれば。
「セリシアは、どこに……」
一人だけ教会から逃げ出すなんてあの子は絶対にしない。
どこかにいるはずなんだ。
どこかで……俺に助けを求めてるはずなんだ。
謝りたい。
謝った所で子供たちや街の人達が帰って来ないなんてことわかってる。
それでも自分の行った『選択』の結果迎えた終末がこんなことになってしまったのなら、少なくとも謝罪をしないと始まらない。
ルナを奪われ、テーラに庇われ、街の人達を助けられず、子供たちは無残に殺された。
守りたかった者のほとんどを守ることが出来ず……悪党によって奪われてしまった。
だけど、セリシアだけは。
セリシアだけでも、守らなければならない。
「悪党を、【断罪】しさえすれば……また――」
大事な者を失っても尚、笑顔を――取り戻せるのだと。
それが俺の出来る唯一の贖罪であると、そう驕っていた。
……だけど違った。
俺はそれすらも、思っていい存在なんかじゃなかった。
――コツン。
突如として耳に届いたのは、礼拝堂の奥から小石がこちらに跳ねてくる音。
石、なんてものが上から落ちるにしてはまだ教会はその形を保ち続けていて、であれば何の石なのかと、涙を流しながら俺はゆっくりと顔を上げる。
するとそこには……聖神ラトナの石像の頭と胴体とが、真っ二つに切り離されていた。
首から上、慈愛の笑みを浮かべる女神の顔だけが、唐突に人間界の地へと落とされてしまっている。
「な、にが……」
頭が落下し、床に激突した音は聞こえなかったものの、最初からこんな風にはなっていなかったはずだ。
それに仮にこうなっていたとしても、火事が起きてるだけならこんな綺麗に頭と胴体とが切り離されるなんてことあるはずがない。
だから憎悪を身に宿しながらも困惑が俺の思考を支配する。
炎によって生まれた陽炎により視界が歪に揺れていて、自分が見ているものが現実なのか幻想なのかすら、最早俺には分からなかった。
「――うっ!?」
だがそのぐちゃぐちゃになった意識を引き戻すかのように、延焼して崩れた木片が天井から俺の目の前へと落下し揺らめく炎が眼球を撫でた。
反射的に目を腕で隠すことで火種の飛散を防いだ後、目を細め視界が若干ぼやけつつも徐々に目の焦点が合わさっていく。
それは一瞬の瞬きとなって、刹那の暗闇を創り出した。
「――――『選択』の結果から逃れることは出来ない」
……声が、聞こえた。
その瞬間俺の脳裏には虚構の世界での全てがフラッシュバックして、無意識に身体が震え、心臓は怯えるようにその鼓動を早めていた。
「ぁ、ぁあ……!」
その全ての記憶が俺の心に強烈な畏怖を感じさせて、俺の身体は立ち向かおうともせずに半歩後ろへと下がってしまう。
先程まで瞳に宿していた憎悪の炎は鎮火し、熱気によって体温は上昇しているというのに身体は急速に冷え、ただただ弱者のようにガクガクと歯を鳴らしていた。
逸らしたいのに瞳が正面以外を向くことはない。
そこには俺の人生を壊し、俺から何もかもを奪い去っていった、
「たとえ神の慈愛を受けたとしても……『欲望』の末に選んだ結末をその目に焼き付けるまでは、な」
虚構の世界にいた黒髪の男が、真っ二つになった神様の頭の上に座りながら金色の瞳で俺を射抜き、口角を吊り上げていた。