第10話(17) 『帰る場所』
――とても長い、長い夢を見ていた。
平和で平穏で幸せな毎日を過ごすはずだった世界がいとも容易く崩れ去ってゆく様を見届けながら、俺は悪夢と化した虚構の世界からようやく抜け出すことが出来たのだ。
「ん、ん……」
そしてそれが夢だったと認識できたのは、冷たい床が俺の肌を撫でたことによる肌寒さからだった。
全身に襲い掛かる気怠さを感じながらも俺の意識は徐々に覚醒しゆっくりと瞼を開ける。
「……ここ、は」
そうして何とか身体を起こし辺りを見回すと、辺り一面薄暗い遺跡の中に俺一人取り残されていることに気付いた。
夢の世界と体格が大きく違うから若干の気持ち悪さと違和感を感じるものの、徐々に虚構の世界と現実との記憶が混ざり合っていく。
……覚えてる。
この場所が何処か、俺はちゃんと覚えてる。
だが意識の覚醒が近付いてくると同時に俺の脳裏に鮮明に浮かぶのは現実の記憶ではなく、夢の中で体験した悲劇でしかなかった。
「――ひっっ!!」
ぼんやりとした意識の中でもこれまで体験してきた殺人という名の悪行をまるでつい先程までしていたような感覚になって、俺はラックスさんの悲鳴と悔しそうな顔を思い出し逃げるように頭を抱える。
「ち、違う! 違う違う違うっっ!! 俺、じゃない……俺じゃないんだよ!?」
あれは俺じゃない。
俺に似た、別の子供のはずなんだ。
あんなことをした記憶は俺には無かった!
エウスだって……あんな、あんな模様を刻まれていたことなんて無かった、はずなのに。
「俺は……悪党を【断罪】してきただけ、で……」
理由のない、善人を殺したことなんて一度だってなかったはずだ。
優しい人たちを殺したくなんてないから、俺はみんなを不幸にする悪党だけを殺すって、そう……決めていたのに。
「……ぁ、れ」
……であれば。
そもそも俺が悪党だけを殺そうと思ったのは、どうしてだったろうか。
「あれ……?」
初めて人を裁いたのはクーフルの時だった。
天界でも人間界でも、それまでは【断罪】と称した暴行ばかりをしてきて、本当の覚悟を持って悪党を裁いたことなど一度だって無かった。
だけど……それにしてはやけに簡単にクーフルを殺した気がする。
普通は多少なり躊躇するはずなのに、手慣れた動きで人を刺し、手慣れた動きで眉間を撃ち抜いた気がする。
それが出来るのは……人殺しをした経験のある悪党だけだ。
アルカさんやラックスさんみたいな善人ばかりを殺してきたからこそ、出来たことだ。
「ち、ちがっ! おれ、じゃ! 俺じゃない!!」
何度も何度も同じ否定を繰り返し、錯乱して頭を抱えて、じたばたと俺を射抜くたくさんの糾弾するような視線から目を隠す。
だけど実際は誰も俺を見てなんていなかった。
罪悪感と後悔が姿の見えない瞳となって自分の心を更に傷付けているだけに過ぎない。
「アルカさんもラックスさんも魔天戦争の時に死んじゃった、はずで……」
そもそもあの二人は俺が12歳だった頃に父さんと同じように戦死してしまったはずなのだ。
みんな……みんな魔族に殺されてしまったから、俺は魔族を……
「……あれ?」
……本当に、そうだったのだろうか。
よくよく考えてみたら、12歳になる頃にはアルカさんとラックスさんと会ったことなど一度だって無かったような気がする。
騎士として日々平和を守っているであろうと信じて疑って無くて、城に何度か入った時も、何処かで稽古や周辺警備をしているんだろうと思っていた気がする。
だけどあの追体験をして、俺の手には確かに大切な人を殺めた感触がこびり付いていた。
手には肉を貫く感覚が残っていた。
血が顔に掛かる感覚を肌で感じていた。
もしも記憶を消したことが現実から目を逸らし続けた故の逃避で、本当に人間界に来る前から人殺しをしたことがあったのだとしたら。
クーフルやアルヴァロさんを簡単に殺せた自分を納得することが出来てしまう。
「おれ、は……」
声にもならない息を吐く。
悪人だけでなく善人すらも殺したことのある自分が酷く歪な存在に思えた。
――だが俺に定着した記憶は決してそれだけではない。
「――――」
記憶が徐々に戻り始め現実とリンクしていくに連れて、自分が何処にいるのかを把握し始めていた。
ゆっくりと顔を上げ、辺りを見回す。
冷たく無機質な石造りの一室。
その壁側に並んでいた篝に灯っていた青炎は消え去り、薄暗い世界にたった一人取り残されたような不安を抱いた。
だけど俺は……ここに一人で来たわけではないことを思い出す。
一人で、ここに来たわけじゃなかったんだ。
「……ル、ナ」
縋るように辺りを見回す。
固く閉ざされ俺とルナとを引き離したはずの扉は……まるで何事も無かったかのように開かれていた。
「テー、ラ……」
立ち上がり、縋るように中央部にある台座に上がる。
部屋の中央に構築されていた魔法陣には既に淡い光すら灯っていなくて、台座の窪みに隠されていた魔導具も破壊され完全に機能を停止していた。
まるで何も無かったみたいに、俺の『選択』の結果だけが消え失せている。
まるで何も起きていなくて、最初から俺一人でここに訪れたかのように、暗い世界に俺一人立ち尽くしていた。
「ルナ……テーラ……」
だけど、そんなはずないことは俺が一番よく分かっていて。
愚者の失敗による結末を変えるために俺はゆっくりと、ふらつきながらも台座から降りた。
ルナは魔族に攫われた。
テーラは転移魔法陣によって何処かへ……魔族たちの巣窟であろう何処かへと飛ばされた。
「助けに……助けに、行かなきゃ……」
これ以上失敗は出来ない。
余裕のある姿を見せ、頼られるような存在である本当の『メビウス・デルラルト』になるためには少しの時間も無駄には出来ないと、俺は無理矢理自分を鼓舞して大きな一歩を踏み込んでゆく。
「助けに……」
だが既に余裕のある顔なんて何処にもなくて、ただ親を探す子供のように弱々しく眉を落とし、靴を引き摺りながら俺は出口に向かって進み続けていた。
――
墓地にあった地下を出る。
既に朝になっていたのか、祝福の象徴でもある太陽は痛々しいくらいに俺を照らしていた。
「……うっ」
夢の世界でも日中というものを感じていたはずなのにまるでずっと暗闇の中にいたような感覚を抱いて、俺は眩しさのあまり思わず目を細め手で光を隠し遮光する。
「何日、経ったんだ……?」
ここに来たのは夜中だったから、少なくとも半日は経ったということになる。
事前にコメットさんたちにこの場所のことは伝えていたから何らかの変化があると思ったのだが、特に墓地付近に気になるような変化はなくて、ルナを攫った時に付くであろう誰かを引き摺ったりしているような形跡も見られなかった。
「ルナは、何処に……」
だが形跡が無かったとしても、何処かに転移してしまったテーラはともかくルナは確かに外に連れていかれたはずなのだ。
だけど何処にも手掛かりはない。
足を止めて膝を折り、土を満遍なく見てみるものの足跡一つ見つかることは無かった。
俺達三人の足跡すら無いとなると、既に半日以上は立ってしまってることになる。
それか誰かが消したか。
だがルナを攫った魔族が、ルナを連れながら暗闇の中で一つ一つ全ての足跡を消そうとするとは思えない。
そもそもそんな几帳面なことをするなら、最初からここに来るまでの手掛かりを残すわけがないはずだ。
「助け、なきゃ……」
それでも、手掛かりが無いのなら手掛かりがないまま探すしか道は残されていない。
「助けなきゃ、俺はっ……」
まるで脅迫概念のようにそれだけを考え、それが出来なければ自分に価値は無いと思い続けて。
「俺は……」
俺は元々持っていたはずの思考も放棄して、ただ自分の失敗を挽回したいがために行き場のない『何処か』へと再度歩き続けた。
――
見捨てられたくなかった。
見限られたくなかった。
だから期待に応えるために頑張ってきた。
カッコいい英雄であるメビウス・デルラルトになるために。
そのためにこれまで選んできた『選択』は決して間違いでなかったはずなのだ。
だが果たして、そもそも期待をされていたのだろうか。
救えば救う程、俺という男の卑小さが露呈されてゆく。
俺の卑屈さ、俺の愚かさ、俺の下劣さを曝け出し、誰からも好かれるはずのない本心を見せてきただけだ。
だけどみんなは、俺を愛してくれていた。
だから俺はそれに甘えてしまって、ここにいて良いんだと思って、それを失わないために頑張ってきたというのに。
せめて俺の両手に抱えられるものだけでも取り溢さないようにしようと思っていたものは少しずつこぼれ落ちてしまってる。
――どうして、こんなことになってしまったのだろう。
『こんなはずじゃなかった』と俺は何度も反芻し、その度に自分の矮小さから目を逸らし続けていた。
他に方法があるはずだ。
俺は失敗したわけじゃない。
俺は間違ってない。
そうやって現実から目を逸らし続け、姿も名もない悪党にその責任を全て擦り付け、殺すことで全てを無かったことにしようとしていた。
持ってはならないとわかっていたはずなのに、殺せば全て無かったことになるという堕落的考えを持ち続けていたんだ。
――それでも。
幾ら失敗してしまったとしても、全部が全部、今度こそ俺なら解決出来るはずなんだ。
セリシアの手を煩わせずに三番街をまた救って、何事もない平穏な日常に戻る。
奪われたルナを救って、何処かに転移してしまったテーラを助け出す。
ただそれだけだ。
ただそれだけという確証もない自信……いや、そう思い込むことでしか今俺は自我を保つことが出来そうになかった。
「――――」
息が詰まる。
精神的に弱った身体は免疫を落とし、肺が痛み、動き続けているはずなのに全身の血液が冷えていくような感覚さえある。
土から覗く木々の根に引っ掛かりそうになりながらも、俺は少しずつ歩く速度と気持ちを早めている自覚があった。
茂みを抜ける度に鋭利な枝が身体を引き裂き、頬から一筋の鮮血を流しながら俺の紅い瞳はただ一点の光を見続けていた。
目的と目標があれば、それだけで『選択』を考えなくて済む。
だけど今は。
今だけは、俺にとっての『光』に身を落としたくて堪らなかった。
「は――はっ――」
自然と――足は前へ前へと進み続ける。
「は――はっ――!」
俺の背に迫る『悪夢』から逃げたくて、少しでも早く安心出来る所に戻りたくて、俺は何をしようとしていたかも忘れてただただ必死に大事な人たちを失ったあの場所から離れたかった。
「――――」
何処かに行きたかった。
何処か遠くへ……俺が守り抜いて、俺を待ってくれている輝くような聖域に帰りたかった。
ルナとテーラと……他にもやらなきゃいけないことはたくさんある。
だけど今の俺じゃ、理想のメビウス・デルラルトのままで居続けることが出来そうにない。
だから二人を失った代わりに得た平和と平穏を見たくて見たくて堪らなかった。
安心したい。
笑顔を見せてほしい。
俺が俺でいて大丈夫だという確証を見せてほしい。
「……!」
だから俺はそんな『欲望』に駆られて走り続ける。
森に囲まれ、自然に満ちながらも居心地の良さを感じる街。
大切な聖女とその子供たち、そして敬虔な信者たちが暮らす、イクルスの三番街へと。
そこが人間界で俺が唯一帰ることの出来る場所だった。
それを失いたくなくて、その平穏な日々に酔いしれていたくて、離れてゆく手を必死に繋ぎ続けていた。
……みんな神サマを信じていたんだ。
だけど、そんな中でも神を信じていない俺に街の人達は優しくしてくれた。
けれど……それはあくまで、俺がセリシアの隣に立つことを許された『使える人間』だったからだ。
聖女にとって、三番街にとって有益な存在だったから、他の非教徒とは違う態度を取ってくれていただけのこと。
それがたとえ偽りの好意であろうとも俺は構わない。
それをこれからも繋ぎ止める。
愛を装った依存に満ちた小汚い想いのままに、俺はただ目先の温もりを探し求めていた。
――森を抜ける。
森を抜けさえすれば、いつもみたいに賑わった平穏がそこにあって、誰もが笑みを浮かべる日常の中に溶け込むことが出来るのだと、そう信じ続けて顔を上げる。
「――――は」
……だというのに、三番街はあまりにも――静かすぎていた。