第10話(16) 『愛された天使』
……神様は何もしてなんかくれなかった。
天使としてずっと神様のためだけに生を全うすることが当たり前だと教えられ、その代わりに平穏な日々を守ってくれると、そう思っていたのに……それは只の偽りでしかなかった。
平和なんて。
幸せなんて。
俺の世界の何処にもない。
あるのはこれまで積み上げてきた死体の山と、そこから流れる血溜まりの中心に座り込む独りぼっちの天使だけだ。
この人の言う通り、今まで祈りを捧げてきた神様なんて世界の何処にもいはしなかった。
「友愛、親愛、慈愛、愛敬、愛護……天使という種が持つ無償の愛を、君だけが誰よりも受け続けている。素晴らしすぎる愛情だ。素晴らしすぎる感動だ。素晴らしすぎて……頬が吊り上がり続けてしまうよ」
……そうだ。
俺は、いつもみんなから愛情を貰ってきた。
アルカさんもラックスさんも、決して『他人』なんかじゃなかったんだ。
最初から本当のことを伝えてさえいれば必ず最後の最後まで俺に手を貸してくれていたはずだ。
一緒に悩んで、苦悩して。
たとえ最終的に敵対することになったとしても、決して死んで良いような人達なんかじゃなかった。
それなのに俺は……俺は、また『選択』を間違えたみたいだ。
「『痛い、痛い、痛い、イタイッッ!! どうしてこんなことするんだ!? 何も悪いことなんかしてないのに! 俺は、僕は、私はただ、お前を、君を、あなたを助けようと、手を差し伸べただけなのにっ!? それなのに! それなのにっ……死んじゃったよ』」
「ひ、ひっ――!?」
後悔を宿した選択の結果を嘲笑い、揶揄うように『痛い』と男が悲鳴を上げる。
その度にそれがアルカさんやラックスさん、今まで殺してきた人たちの声と同化して、ずっと脳に刻まれていた殺しの瞬間を思い出してしまい、俺は逃げるように必死に手で両耳を塞いで蹲る。
聞こえない!
何も聞こえないっ!!
だが幾ら耳を塞いだ所で、どうしてか男の声を遮断することは出来なくて。
「……だけど忘れるなよ。君は、君だけが家族の平和を守れてる。これから先もずっと君は家族からの愛情を受け取ることが出来るんだから。妹さえ助けることが出来れば、な」
「おれ、は……」
「だから君は間違ってない。君の『選択』は……正しかったんだよ」
男はゆっくりと空から地へと足を付けて俺の傍まで近寄り、俺の手越しに囁くように鮮明な声でそう告げた。
それはあまりに俺にとって都合の良すぎる言葉で、その甘美な囁きに心が吸い込まれていくような感覚にさえ陥り始めていた。
……本当に、正しかったのだろうか。
だって、それは俺が本当に欲しかったものとは大きくかけ離れているような気がする。
俺は本当に、家族だけを幸せにしたかったんだっけ。
思考があやふやになって思い出せない。
だけど違う気がする。
俺はもっと、父さんみたいにみんなを……優しい人たちを――
「正しかったけど……まだ君の『欲望』は終わらないよなぁ?」
だが正常な思考を構築しようとすれば、それをまた男の甘い声が崩壊させた。
「そこに転がる死体が見つかった後、騎士団が目撃者を探すことになったらどうなるか……君ならよく分かっているはずだ。今日はあと一人、殺さなきゃいけない奴がいるだろ?」
男は思考を止める言葉を囁く。
「もしも君と出会ったことが騎士団に伝わったら……そこの死体に刃を突き刺した意味が無くなっちゃうもんな?」
男は思考を止める言葉を吐き出す。
「幾ら願った所で、神様は何もしてはくれない。なら自分でやるしかない。己のエゴのため、欲望を成し遂げるための口封じを。……であれば」
……瞳が大きく、揺らいだ。
俺がこれまで積み重ねてきた悪行を正当化し無駄ではなかったと思い込むためには、あと一人死体を築き上げる必要があるのだと、この人はそう言ったんだ。
誰のことか、なんてとぼけることも出来そうにない。
男の声を聞かないようにすることもいつの間にか忘れて、俺はただ次の言葉を無抵抗に待ち続けていた。
「あと一人、殺さなければならない天使がいるはずだ」
噛み締めるように、俺の心に刷り込ませるように、男は同じ言葉を反芻する。
そうすればまた妹を助けるための一歩に近付くのだと。
赤の他人如きに人生を壊されるなんてもったいないだろうと。
親愛なる人たちを殺すことよりも、他人を殺すことの方が抵抗も薄く簡単だろうと。
数々の正当化するための理由を並べて、誰もが自分の中に潜ませている保身的な感情を呼び覚ましていた。
「…………」
……ゆっくりと、耳を塞いでいた手を降ろす。
目の前の死体を見つめながら、紅い瞳に宿っていた光に黒いモヤが掛かり始めていた。
つい先程ラックスさんの愛情のおかげで飛散していった黒い粒子も集まってきて再度俺の身体を駆け巡ってゆく。
「壊れて、壊れて……でも君の器は歪な形で修復され続ける。誰かからの愛情を受け、偽りの平和の中に身を落としさえすれば。それはなんとも……堕落に堕ちた者の末路としては充分過ぎる幸せだとは思わないか?」
男の声が聞こえたはずなのに、どうしてかその言葉だけは耳から耳へと流れ脳に定着することはない。
ただゆっくりと地面に投げ飛ばした漆黒の剣を再度手に取りふらつきながらも立ち上がって、月明かりに照らされた血溜まりから映る自分の顔をぼんやりと眺めている。
血溜まりに反射するのは俺だけで、すぐ傍にいる男の姿はどうしてか映らない。
だが映る俺の顔はまるで……男の顔そのもののような気がした。
「……」
全ての行動や感情さえもこの人に身を委ね、今もまた現実から逃げ続けている。
そうして手に入れるものは何になるのか、俺にはもうわかりそうになかった。
いや……わからないのではなく、考えられなくなってしまっている。
――いっそ、全てこの人の言う通りにしてしまえばいい。
もう一人の自分がそう囁いているとさえ思えた。
「さあ……『選択』の時だ。自分の選んだ未来を意味のないことにしないためにどうするのか……君が、選択するんだ」
……また、選択の余地がない二択を選ばされている。
アルカさんを殺して、ラックスさんを殺して……もう戻れない所まで来ているのに今更隠し通さないわけにはいかないのだ。
挙動不審で路地裏に入った俺に手を差し伸べてくれたあの人も、良い人だった。
きっとこんな所で出会わなければ、もっとたくさん話したり遊んだりする関係になった未来もあったのかもしれない。
それでも……今は他人だ。
神様に選択を委ねる、主体性のない天使の一人だ。
死んで当たり前。
自分で考えず打算で善意を向けるような偽善者など、本当の優しさとは到底言えない。
「俺は……」
――けどそれなら。
……この人に選択を委ねようとしている自分と、一体何が違うのだろうか。
「…………っ?」
唐突に左手の甲が――淡く光る。
……そうだ。
たとえ打算での善意だったとしても、理由が明確な分わからない善意よりかはよっぽど信用することが出来るって、俺はそう思っていたはずなんだ。
たとえ偽善者だとしても、悪意を持って善意を向けさえしていないのならそれは立派に誇れるものだと、そう思ってたはずなんだよ。
そして、俺は知っている。
打算があったとしても、誰かのために精一杯頑張れる人達のことを知っている。
そして――
それよりももっと凄い……こんな俺に無償の善意を捧げてくれた人が、一人だけいた気がするんだ。
――
――
――
――
――
一人、だけ。
「――――ぁ」
「…………なーんだ、時間切れか」
何かを察し、つまらなそうに俺から離れ男が呟く。
その刹那、突如俺の左手の甲に宿していた光が輝きを大きく増して――時が、止まった。
その光が増幅し一気に波紋のように広がったかと思うと、突如として地面に広がる血溜まりも、風も、音も、何もかもが静止して、世界にはただ俺とすぐ傍にいる男だけが取り残される。
そして手の甲に宿る光は俺の身体の奥底に眠る『魂』を照らしたかと思うと、『魂』を囲んでいた黒い霧を一斉に晴らした。
「――――!」
パズルのピースのように、封じられていた記憶が器に嵌まって行く。
だが俺の心を照らす光に男は不快感の籠った目を向けて、その光を抑え込もうと手に闇の魔力を纏わせ勢いよく手を伸ばした。
「わざわざ過去の記憶に沿って動いてあげたんだ。これからもっと欲望にまみれた『選択』を見ることが出来たって言うのにそれを部外者が選ばせないなんて……つまらないよなぁ!?」
けれど男の伸ばした手は――俺を取り囲む『結界』によって弾かれる。
「……神って奴はどいつもこいつもつまらないことしかしない」
だが男は既に手が届かないことを理解していたのか、先程までとは打って変わり途端に落胆の息を吐くと、死体となり動かなくなったラックスさんを蹴り上げた。
俺がその行動に反応すれば光が濁ると思ったのだろう。
――けれど、聖なる光に包まれた俺がそれに反応を示すことは無い。
何故なら俺の視界に映る死体はラックスさんではなく、等身大の『藁人形』でしかなかったからだ。
……全てが偽りの世界なのだ。
夢、幻。
ただ変化のない過去だけを映し出しているだけの虚構の世界。
だから俺が『ソレ』をラックスさんだと認識しなくなった時点で世界を維持することが出来なくなり――崩壊を始めた。
そして男でも止められなかった輝きの光は俺の心に安心を生ませ、記憶の全てを呼び戻していた。
「……あ、れ?」
……何かが、おかしい気がする。
そんなこと、分かっていたはずなのだ。
神様はこの世界の何処にもいないって。
神サマは何もしてはくれないんだって。
何もしてくれないから、俺は平和で平穏な日々を守る為に悪党を【断罪】することにしたんだよ。
「――――っっ!!」
それを完全に思い出した瞬間、崩壊を始めていた世界の背景も、割れてゆく。
全てに亀裂が入りガラス片のような背景が壊れていって、黒ではなく白く染まった世界へと変貌を遂げた。
同時に俺の左手に宿る光は更に輝きを増して、手の甲に『紋章』のような模様が映し出された。
――俺はこれを知っている。
大切な、決して失ってはいけない信頼の証でもあるこの『聖痕』を知っている。
『――メビウス君』
「――!!」
そして――俺の身体に纏わり付いていた蠅の形をした魔力の塊も全て消滅し、純白の世界でも霞まないくらいに輝いた『何か』が空に浮かんで俺に両手を差し伸べていた。
「セリ、シア……」
顔も、姿もわからない。
視認しているはずなのに、異常な速度で記憶からその姿を失い続けている。
それでも、誰なのかすらもわからなかったはずなのに、どうしてか俺はその名前を呟いていた。
希望の象徴。
吸い込まれるような暖かな光。
それが身体に包まれていくと、途端に地獄だった現状から救い出してくれたような気持ちになって、俺は導かれるように『何か』に手を伸ばしていた。
「――――」
手を掴む。
すると自分が自分じゃ無くなるような、ふわふわとした感覚に陥りながら、俺は光に包まれていった。
安心する。
未来に希望が持てる。
そうして俺は目の前にある平和に吸い込まれるようにして……俺という存在は――消失した。
――
『メビウス・デルラルト』という存在が消えていく様を見ながら、男の頬に亀裂が走る。
「……神もまた酷なことをする」
記憶の所有者が消えたことで男の身体も原型を保てなくなり崩壊を始めながら、男は天高く輝く光を神様に見立て呆れたように笑みを吐き出した。
「なら指を咥えて見ているといい。その『選択』がどれだけ慈愛という耳当たりの良い言葉を被った、神らしい傲慢な押し付けでしかないということを知るいい機会になるだろう」
神様は何も出来ない。
慈愛という『愛』を受けたとしても、決して幸せになれるわけじゃないということを神は知らない。
「くはっ!」
だから、神にも教えてやるのだと。
最後の最後まで金色の瞳は空を見上げ続けていて。
「だってまだ……『選択』した結果が残ってるんだから、な」
夢にも現実にも平和で平穏な世界など何処にもないということに向き合わせようとする神サマを、男は崩壊を遂げるまでずっと嗤い続けていた。