第10話(15) 『蠅の怪物』
まだ何も見せてないし、何もしていない。
だけど俺は、今まで自分が求めていたものが何だったのかがようやく分かったような気がした。
誰かを守るための力は、何かが変われば誰かを傷付ける力に変わる。
使い方を間違えただけで、その結果は大きく変わることになる。
……それでも。
誰かを傷付けた末に大切な人を守ることが出来るのであれば、それはまさしく俺が求めていた都合の良い力に成り果てるだけだ。
「本当にいつもあの人の言う通りになっちゃうな。神様なんかよりもよっぽど……嫌なくらいに信用出来ちゃうよ」
あの人は『その力を使えるに値するかは君次第』と言っていたが、恐らく俺がこの力を扱えるようになったのもまた、あの人はわかっていたのかもしれない。
でも……それでも今はどうでもよく感じる。
今はただ目の前の『敵』を殺すことだけを考えていた。
全身に闇の粒子が纏われてゆく。
暗闇の中で光る俺の紅い瞳には魂が籠められているようには見えなくて、自分の感情が本心からのものなのかすら心に霧が掛かったような感覚があってわからなかった。
「その、剣……! まさかお前、師匠が言ってた……!?」
ラックスさんの瞳はずっと俺の手に持たれている漆黒の剣に注がれている。
その顔は明らかに何かを知っているような反応で、戸惑うように俺と剣とを交互に見ていた。
「……お前っ」
俺の持つ剣が何を意味しているのかを知ってるからか、俺に対しての戦意が消失してしまったみたいだ。
「……」
だがその態度に対して俺は何の感情も抱くことはなかった。
子供であるため身体に合わない刀身故にゆっくりと地面に触れる剣先を引き摺りながら、俺は一歩を踏み出して。
軽く剣を――振るう。
「――っっ!? ぐううっっ!?」
それを瞬時に防ごうと剣を構えたラックスさんの腕はいとも容易く弾かれ、強烈な風圧によって身体ごと吹き飛ばされて大きく後ろへと後退してしまった。
「嘘、だろ……!?」
何とか体勢を立て直せたようだがその瞳に宿る動揺が俺にまで伝わってくる。
当然の反応だろう。
最早俺の剣はラックスさんの剣に当たってすらいなかった。
風圧だけで大の大人を吹き飛ばした時点で、今の俺は明らかに子供どころか天使としての能力を超越していた。
「――――」
それでもまだラックスさんを殺せてはいないから、俺はラックスさんの命を刈り取るために再度漆黒に染まった剣を振るう。
「くっ――!」
剣が振るわれる度に巻き起こる風圧を何とか捌きながらもラックスさんは俺との距離を縮めることが出来ずにいた。
風圧を避ければその風は当然路地裏の壁へと辺り、それを破壊し尽くしていく。
最早『斬撃』に近い風を受ければ天使と言えども致命傷は免れない程だった。
「お前っ……! その剣を何処で手に入れたんだっ!?」
だがやはりラックスさんは強い。
何度も手合わせしてきたからわかってたことではあるけど、伊達に父さんの弟子を名乗っていない。
路地裏という狭い場所で回避出来る距離など限られているというのに、初見の攻撃以降は一切受け止めることはせずに背中の翼を翻して前後左右に移動し斬撃を剣で受け流し続けている。
斬撃なんて摩訶不思議な力だ。
生きていて見られることも体験することだってない。
だというのに徐々に斬撃の速度に順応し、ラックスさんは少しずつ俺に距離を詰めるためのタイミングを伺っていた。
絶えず横腹から多量の血が流れているにも関わらず一切スピードを落としていなくて、痛みに耐えながらも覚悟を持ってここに立っていることが伝わってきた。
「……」
「何も言うつもりはない、か」
だが無言のままラックスさんの言葉に耳を貸さない俺を見て会話をする気が無いと悟ったのだろう。
分かってあげられない自分自身に嫌気が差したかのようにラックスさんは小さく息を吐いた。
「不甲斐ない大人でわりぃな……アルカだったらもしかしたらお前の悩みに気付けたのかもしれねぇけど、やっぱ俺には子供の気持ちは分かりそうにねぇや……お前の気持ちは、これでも分かってたつもりだったんだけどな」
喋る余裕があることに少しだけ反応しつつも、より早く剣を振るって斬撃を飛ばす。
だがラックスさんは決して喋ることだけに意識を向けているわけではなくて、眼球を的確に動かししっかりと斬撃のタイミングを予測して、覚悟を宿した身体は終始俺を捉えていた。
「けどお前の気持ちがわからねぇなら……俺の今の責務は大人としてお前を止めることしかねぇ。どんな理由があったとしても、俺はもうお前にこれ以上人殺しをさせるわけにはいかねーんだよ!!」
そう吠えて、斬撃と斬撃との僅かな隙にタイミングを合わせたラックスさんは、飛翔したまま一気に翼を自身に巻いてローリングし急速接近。
「――ふっ!!」
斬撃が強力なのであれば漆黒の剣が振るわれる前にその剣を手から離れさせてしまえばいいと、ラックスさんは身体から流れ落ちる血液を俺の顔面に振り掛けることで視界を奪おうとするのと同時に勢いよく漆黒の剣めがけて斬り上げた。
……確かに、幾ら強力な武器を持っていたとしても、使用者の力が弱ければそれは結局件に持たされているだけだ。
幾ら強い武器を手に入れようと、俺自身が変わっていなければ父さんの弟子であるラックスさんが子供に負けることはまずないだろう。
……俺も変わっていなければ、だが。
「――――」
「――なっ!?」
だがラックスさんの思惑とは裏腹に、振り掛かった血液が俺の顔面へと直撃する直前、突如として俺の全身を黒の粒子が駆け巡り纏わりいてゆく。
その粒子が代わりにラックスさんの血を被り、そのまま俺の全身を黒く包み込んでいった。
――そしてラックスさんの振るった剣は俺の持つ剣に当たることなく空を切る。
斬られる直前、俺は路地裏の影に溶け込み完全に闇と同化して姿を消した。
「なんだよ、それ……!?」
突然姿を消した俺に驚き剣を構え直しながらも、警戒の目でラックスさんは周囲を見渡している。
その瞳に宿る僅かな畏怖が俺にまで伝わってきて、何だか新鮮な姿を見れたことでこんな状況なのに嬉しく感じられた。
「――ひひっ」
だから思わず笑みを溢しながら、ラックスさんの真横から紅い二つの光の線が暗闇を横切っていく。
「――ぐあっ!?」
警戒していたためラックスさんの反応も速い。
だが何処から来るかわからない以上ピンポイントで俺の攻撃を受け止めることなど不可能に近くて、俺の薙いだ刃がラックスさんの背中を斬り裂いた。
そして斬撃が――貫く。
「――――ぐうっっ!!」
だが斬撃が次点で来ることは既に把握していたようで、ラックスさんは背中の激痛に耐えながらも限界まで身体を捻ることで横に身体が引き裂かれることを防ぎ、頬に一筋の深い切り傷が走った。
だがそこまで身体を無理に動かせば、当然これまで受けた大怪我に痛みが轟く。
激痛に呻き地に膝を付けてしまったラックスさんだったが、それでもまだ自分のことよりも俺のことを気にかけてくれているのか、片手で横腹を抑えながらも顔を上げた。
「――は、ぁ!?」
そして……俺の全身を見て驚愕に目を見開く。
影から飛び出した俺の姿には、既に『白』など何処にも無かった。
全身を覆った真っ黒な粒子の余りが俺の周りを飛び回り、天使としての原型すら保てているとは言えない醜い姿を晒していた。
それは最早子供でも天使でも……『俺』ですらない。
更には静寂だけがこの世界を支配するはずなのに、俺の身体からは異常な不快音が響き渡っている。
「お、まえ……」
ラックスさんはまるで俺の姿を認めたくないかのように、ゆっくりと首を横に振り続けていた。
だが同時に静寂を破る異常な音に対して疑問を抱いたらしく、目を凝らして粒子の一つに焦点を合わせる。
……暗闇の中で月明かりだけが俺を照らす。
俺の身体を飛び回るソレは、粒子であって粒子ではなかった。
――無数の羽音が不協和音を奏で続けている。
ソレは……虫の形をした『何か』だった。
虫ではない。
全身を黒く濁らせ、それに重なるように紫色のオーラを纏わせている。
目を凝らし続けてみれば『何か』の背中部分には魔法陣のようなものが描かれていた。
だが、見た目上だけで判断するのであれば。
「蠅、なのか……!?」
それは紛れもない、穢れたモノの周りを飛び回る蠅でしかなかった。
「メビウスっ……!」
……どうして、そんな顔をするんだろう。
ラックスさんは悔しくて悔しくて堪らないみたいに、俺に同情と後悔の目を向けていた。
そんな顔をする必要なんかないのに。
だって、俺は今凄く清々しい気持ちになれている。
自分が何をすればいいのか、それ以外のことなんて無かったみたいに鮮明に脳裏に浮かばせることが出来るんだから。
もう迷うこともない。
俺はもう、悩んで悩んで苦しみ続けることも無くなったのだ。
それなのに……ラックスさんはずっと怯えることなく蠅によって見えない俺の瞳を見続けていた。
「師匠が、言ってた……漆黒に染まる剣を持つ者は、ただ強大な悪意によって操られてるだけなんだって」
言葉を続ける。
「この先自分が何のために人殺しをしてるのかもわからなくなって、魂が濁って塗り替えられちまうんだと……お前を誑かした奴の力を取り戻すためだけにお前は利用され続け、いつか助けようと思ってた人すらも手に掛けちまう『怪物』になっちまうんだって!」
顔を上げ、必死に語り掛けるように言葉を続ける。
「剣を持っちまった奴は悪くないって、師匠がそう言ってたんだぞ!?」
「――――」
「お前は【悪魔】に惑わされてるだけだ! メビウスっ!!」
……その言葉は俺には届かない。
こうなってしまった俺がどうなるかもラックスさんはわかっているのか、俺に届かなかったと分かった瞬間勢いよく翼を広げて空へと一気に飛翔した。
きっと情報を大きく得たから、ここで俺を止めるよりも一度父さんたちと合流して対策を考えることを重視することにしたのだろう。
……さすが『大人』だ。
素晴らしい判断だ。
「……はぁ」
だが、ぼーっと。
路地裏の狭い空を直線状に飛ぶ天使を眺めながら、俺はあまりのつまらなさに落胆の息を吐いた。
……駄目じゃん。
一度剣を向けた人は、敵から背を向けて逃げちゃ駄目なんでしょ?
父さんの弟子なんだから。
だったら相手の……俺の命と人生を背負う覚悟を持たなくちゃ。
それにここに俺達二人がいること自体が神様のお導きだって言うんだからさ。
天使として、それを受け入れないと駄目なんじゃないの?
「……くはっ」
空を飛び、月に重なる天使は影に呑まれ、全身を疑似的な影として生まれ変わらせている。
それはつまり空にも影が生まれたことを意味していて。
「――どうでもいいよ、そんなこと」
「――っっ!?」
闇に溶け込んだ俺は一瞬でラックスさんの前面に創り出された影に瞬間移動すると、そのまま胸倉を掴み、自身の翼を広げ勢いを付けてラックスさんとの位置を反転させた。
今度は月明かりに俺の背中が照らされる。
驚きの声を上げるラックスさんを尻目に漆黒の剣を、振り上げる。
「だって、信じられるのがそれしかないんだから」
そして俺は冷めたように紅い瞳でラックスさんを見下ろして、ラックスさんの翼に向けて刃を勢いよく突き刺した。
「ぐっ!?」
鮮血が飛び散る。
――斬撃が、ラックスさんの片翼を両断した。
「ぐ、あああああああああああああっっ!?!?」
片翼を失ったことでバランスを崩したラックスさんを押さえ付けながら絶叫と共に落下し、再度ラックスさんを路地裏の中へと叩き落した。
べしゃりと、白を真っ赤に染めながら地に落ちる翼を横目に、俺はそのまま力が抜けたラックスさんの上に馬乗りになった。
……どうやら、ようやく抵抗するための力が無くなったみたいだ。
「……」
もうこれ以上苦しんでほしくない。
激痛に呻き、全身の白を血で真っ赤に染めながら俺を見るラックスさんを瞳に移しながら、今度こそこれ以上痛みに苦しまないように心臓を狙って両手で剣を振り上げた。
「メビ、ウスっ……」
……だがその瞬間、ふと俺の名前を呼ばれて振り上げていた腕が止まった。
「情けねぇよな……お前に頼られる男になれてると思ってたのに……俺は、お前に信じてもらえる男にはなれてなかったみたいだ……」
ゆっくりと、冷めていた目に火が灯る。
思わずラックスさんの瞳に視線を重ねると、ラックスさんは眉を潜めながらも全身を震わせ悔しそうに笑みを浮かべて。
「お前の笑顔を、俺が取り戻したかったのに……助けて、やれなくてごめん……ごめんなっ……!」
血で染まったラックスさんの頬に……一筋の涙が零れていた。
「――――――――――」
――曇り、濁っていた紅い瞳に光が灯る。
身体に纏わり付いていた黒い蠅が一気に離れ、どうしてか俺自身が露わになった。
「――――」
痛くて、痛くて、辛くて、何もかもわからないはずなのに、それでもラックスさんはずっと俺のことを想ってくれてる。
それを見てしまったから、自分がどんなに幸せで、どんなに恵まれた環境にいて、どんなに愛されていた日々を送っていたのかがようやくわかってしまった。
「――――」
たった一人の家族を救うためだけに、他の大切な人をたくさん殺す。
そんなことに本当に意味はあるのか?
そんなことをして、本当に俺は前と同じ平和な日々を取り戻せるのかよ?
もう俺には、わからない。
「……ううん。そんなことないよ」
だけど……もう止まれない。
全てを踏み台にしてたった一人の妹を救うことを『選択』してしまったから。
だから俺は喉を鳴らし、身体を熱くさせ、震わせ、何故か大粒の水滴がラックスさんの頬に落ちて、情けないくらいに変な声になりながらも。
「……助けてくれてありがとう、ラックスさん」
最後に俺が苦しんでる姿など見せたくないから精一杯の笑顔を見せて、振り上げていた腕を――降ろした。
――
……嗤いが止まらない。
「……ははっ」
『白』だった全身を、地面を、何もかもを赤く染めて、俺はただただ『天使だったもの』の上に跨っていた。
「……ははっ!」
その頭上に終始浮かんでいた光輪は闇に紛れて消えてしまって、その身体にはエウスと同じ『呪刻印』に似た模様が刻まれている。
俺の右手に映る数字は『59』と記されていて、たった一つの命の灯火が消え失せたことをどうしようもないくらいに突き付けていた。
「はははははははははは、あはははははははははっっ!!」
だから嗤う。
高らかに、全てを掻き消すかのように、何もかも全て幻想だと思い込むように。
「あああああああああああああああああ!!!!」
けれど……何も変わらない。
何も見たくなくて、何も聞きたくなんかなくて、それでも何かもかも全てが『現実』でしかないから、俺は声が枯れ続けても尚叫び暴れ続けていた。
「ああっ!! ああああああああっっ!!」
引き抜いていた剣を投げ捨て、頭を抱え、首を振り、何も見ず血溜まりの中へとそれを叩き付けて、背中に生える翼を掻き毟り赤く染まる羽が宙を舞う。
……死にたい。
何処か遠くで、いなくなってしまいたい。
ずっと……平穏な日々を求めてた。
それ以外何もいらなかった。
それを失いたくないから、父さんみたいになりたかった。
だけど結果はこれだ。
この手に残ったものなんて何一つ在りはしなかった。
血に濡れ、赤く染まり、悲鳴と悲劇を生み出して、手に入れたものの数より失ったものの数を数えてしまっている。
「俺は……俺はぁぁぁぁぁぁぁぁ……!!」
血溜まりの液位がほんの僅かに、視認出来ないくらいに上がる。
喉を締め付けながらも吐き出した言葉にならない激情は、俺を暗闇の中へと溺れさせていた。
……それでも、残酷なぐらいに時は進む。
「――くはっ!」
「――――」
月明かりが世界を照らす。
――汚らわしい、あまりに穢れた嗤い声が耳に響いた。
「神様は何もしてはくれない」
両目を見開き、地面に擦り付けていた額を上げ路地裏から見える空を見上げる。
……そこには。
ゆっくりと、噛み締めるように言葉を紡ぐ、
「……な? ――言っただろ」
吐きそうになるくらいに『穢れた光』が空を浮かび口角を吊り上げ、金色の瞳を輝かせながら俺を見下ろしていた。
……いや、光は一つではない。
俺の左手の甲にも――ほんの小さな淡い光が照らし始めていた。