第10話(7) 『未熟な決断』
「――っっ!?」
窓は……閉まっていたはずだ。
それは俺も姉さんも一度も窓を開けていなかったからだし、開いていないのなら入口が開かない限り部屋の何処にも風が吹く場所など有りはしなかった。
なのに、確かに俺の髪は横に靡いて。
同時に聞き覚えの無い声が耳に届き、俺は慌てて声のする方を振り向いた。
「子供らしい、現実を理解してない反応だな」
――そんな言葉と共に、そこには白以外見たことがない漆黒に染まる髪色をした一人の青年が、窓枠に座って俺を見下ろしていた。
「だ、誰!?」
天使のような純白色の髪とは違い、初めて見る漆黒に染まった髪色を持つ男。
ハイライトが中心に寄った特徴的な瞳は『金色』に輝いていて、天使の誰が見ても異質だと思えるオーラをその青年は放っていた。
こんな人見たことない。
俺はいつも父さんに引っ付いていたから、父さんの知り合いであろうエンデイルの人達全員とは顔見知りだと自負している。
だからこそ父さんの知り合いでも無いと断言することが出来た。
いや……だが最早それすらも考える必要はないのだろう。
男の背中にも頭上にも、天使の象徴である光輪や翼は何処にも無くて、目の前の青年が天使でないことは明らかだったから。
天使以外なんて見たことがない。
……だからこそ警戒する。
「――っ!」
心臓がバクバクと鼓動の音を響かせながら、それでもたった一人の妹だけは守ろうと背に隠し大きく両手を横に広げた。
だがそんな俺の行動に笑いが抑えきれなかったのか、男はくつくつとやけに耳に障る笑い声を上げている。
「そう警戒するなよ。僕は何処までも君にとって『都合の良い男』でしかないんだから」
「都合の、良い……?」
「ああ……妹、苦しそうだよな? 辛くて堪らないはずだ。今すぐにでも助けてほしいと願ってる。他でもない『君』自身に」
「……っ」
どうしてこの人がエウスのことを知っているのかはわからない。
それでもその言葉は疲弊した俺の心を揺さぶるのには充分過ぎるものだった。
「で、でも父さんが必ず助けてくれるって! だから、父さんならきっと――」
「くはっ! ……本当に、間に合うと君は思うのか?」
「……え」
そんなことを言ったから、抑えていた笑いが限界を迎えたのか大きく息を吐き出した男は口角を吊り上げながら俺に流し目を送る。
その言葉に動揺する俺を尻目に、男は俺の背に隠れて寝ている妹へと視線を移し頬杖を付きながらも口を開いた。
「子供の体力が無造作じゃないことは君もよく分かってるはずだ。君は不安に思わないのか? 果たして妹の体力がどれだけ持つのか……身体が弱かったら、制限時間はもっと短いかもしれないぜ?」
「――っっ!」
「君の父親は未だ解決の糸口を見つけられず、君の姉も未だ少しでも症状を緩和させる方法を見つけられない。なら――その間、君には何が出来るんだ?」
「そ、それ、は……」
「君が何もせず無力な自分を恥じている中ゆっくりと……妹は、死んでいくんだ」
それが遠くない未来で起きる俺の結末だと。
何かを成す力も無くて、何かを成す知識もない俺は、どこまでもどこまでも無力のまま妹が弱っていく様を見ていることしか出来ないのだと。
「……いや、だ」
そんな未来を想像してしまって、俺は身体を震わせながらもそう呟く。
エウスは、俺の目の前で死ぬのか……?
いつか水すら飲めなくって……まだ8歳なのに明日を生きるための命を失ってしまうのだろうか。
誰にも、助けられずに。
――助けたい。
今すぐにでも助けてあげたい。
だけど父さんや姉さんですら解決策を見つけられない中、子供の俺が出来ることなんて何一つとして在りはしない。
……母さんの時みたいに妹がいなくなってしまう未来を想像する。
食事が並んだ食卓で俺や父さんや姉さんがいる中、空いた二つの椅子がポツリと置かれてる未来を考えてしまう。
「いやだいやだいやだ!」
それを考えてしまったから、俺は首を大きく横に振り、同時に動揺と混乱で喚き散らすように言葉を吐き出した。
瞳孔は焦点を合わせることが出来ず大きく左右に揺らいでいて、すぐにでも誰かにこの嫌な考えを吹き飛ばしてほしい気持ちでいっぱいになる。
だからこそ、男はどこまでもどこまでも口角の釣り上がった顔で俺を見下ろして。
「……だが。君だけが妹を助けられる方法があるとしたら、君はどうする?」
「……え?」
神様ですら答えてくれなかったのに、この男は本当に何処までも俺にとって都合の良い言葉を並べ立てていた。
そんな方法があるなんて思いもしなかったから、俺は震えていた身体を抑え込んで反射的に顔を上げる。
「そ、そんなのがあるの!?」
「ああ……君が自分の『欲』に忠実なら、な」
「……! じゃあその方法を父さんに早く伝えれば!」
方法さえ分かれば、あとは父さんが全て何とかしてくれる。
父さんなら必ずエウスを救い出してくれるはずだ。
今まで真っ暗だった世界に、光明が見えた気がした。
縋ることしか出来なかった故にここ数日感じていた疲弊が一気に癒えたような気持ちになって、ぱあっと表情を明るくさせて黒髪の男を見る。
――だがそんな俺とは対照的に、男の表情は先程とは打って変わっていて。
「あ~あ……それは――つまらない」
「……え」
言葉通りつまらなそうに俺を見下ろすと、くいっと顎を軽く俺の後ろ側に向けて突き上げた。
「ぅ、ああああああああああっっ!!」
「――っ!? エウスっ!」
その行動とほぼ同時に、突如俺の背に隠していたエウスが悲鳴を上げる。
慌てて後ろを振り向き傍に寄ると、苦しそうに呻くエウスの首元にあった黒い模様が更に色濃く、そしてその大きさを増幅させていた。
「はぁ、はあ……!!」
「模様が……!! な、なんでっ!?」
「時間はあまり残されてないみたいだな」
「――っ!?」
この黒い模様が何なのかは未だにわからない。
それでもこれが良くないものだということは確かで、この模様の色が濃くなり、大きくなればなる程更に状況が悪くなるというのはこれまでの数日で何となく察することが出来る。
つまりこの人の言う通り、本当に時間は残されていないのかもしれなかった。
先程明るくなった表情を再度暗くさせ、俺は瞳を揺らがせながらエウスを見る。
「――うっ!?」
だがその行動はいつの間にか窓枠から離れ、俺の顎を指で掴み上げる男の手によって防がれることとなった。
やけに不安を誘う特徴的な金色の瞳はずっと俺を射抜いていて、喉がきゅっと締め付けられる思いに駆られてしまう。
「もっと自分の『欲』に素直になれよ。そうじゃないだろ……? 他の誰でもない、『君』自身が妹を助けたいと願ってるんじゃないのか?」
「俺、が……?」
「そうだ……父親みたいな英雄になりたい。それが君の願いなんじゃないのか」
「……っ!」
「だからもう一度だけチャンスをやる。……君が、君だけが妹を助けられる方法があるとしたら、君は……どうする?」
「俺、だけが……」
……確かに俺はずっと、父さんみたいな英雄になりたかった。
俺にとって父さんはみんなの笑顔を守ることが出来る英雄で、いつか俺も父さんみたいになれたらなって、ずっとそう思いながら生きてきた。
そんな俺が……まだ子供の俺が。
俺だけが妹を助けることが、出来るというのか。
もしもこのことを姉さんに伝えたら、きっと姉さんはあくまで冷静に父さんに判断を委ねようとするだろう。
でもそれでもしもその間にエウスが死んでしまったら……
きっと俺は後悔する。
後悔、するだろうから。
「……俺が、エウスを助けたい」
俺にそれが出来るのなら、今俺がそれをやらなくちゃいけないんだ。
そんな覚悟を決めてそう呟くと、男の口角が再度吊り上がったような気がした。
「教えて下さい! どうやったら妹を助けることが出来ますか!?」
「僕と【契約】を交わせば、僕は君に力を貸すことが出来る」
「けい、やく……?」
「ああそうだ……人生は選んだ一つの未来しか歩むことが出来ない。無欲か強欲か。それが個々の本質を暴き、たとえどんな結末であれ人はその強制力に抗うことは出来ないんだよ」
……そうなのだろうか。
まだ人生経験が少なくて、この人の言葉はいまいちピンと来なかった。
そもそも【契約】という言葉も聞いたことが無かった。
だが困惑する俺を知ってか知らずか男は俺の顎を掴んでいた指を離し、膝を付く俺に両手を掲げると。
「――さあ、選択の時だ」
右手に白色の炎を。
左手に黒色の炎を。
どうやってそんな摩訶不思議なことをしてるのかはわからないけど、それぞれ二つの炎を俺へと見せて金色の瞳を輝かせていた。
「ここに二つの選択肢がある。一つは僕の言葉を全て無視し、家族が妹を助ける方法を探すのを待ち続けるか。一つは僕の願いを叶える代わりに【契約】して力を得て君が妹を助けるか。君が、選ぶんだ」
……俺が選ぶ。
俺が、妹の生死を握ってる。
それなのに不思議と俺の心に緊張感は無かった。
それは一重に、片方に必ず妹を助けることが出来る選択肢があったからだ。
俺がとか誰かがとかなんてどっちでもいい。
ただ必ず妹を助けることが出来る選択肢があるだけで、俺が選ぶものなんて一つしかない。
……だから、俺は手を伸ばす。
揺れ動く黒色の炎を瞳に移し続けて。
そうして伸ばした指が炎に触れて熱さを感じないことを確認すると、俺は意を決して黒色の炎を掴み取った。
――――どくんっ。
「――――っっ!?」
――だがその刹那、黒色の炎が俺の右手にうねるように取り付いたかと思うと、突如として強烈な吐き気が俺の神経を支配して、俺は蹲り勢いよく左手で口元を抑え込んだ。
「うっ!? うえっ……!?」
吐きたいのに吐けない、気持ち悪い何かが蠢く感覚が全身を支配する。
まるで真っ白な器を黒く濁らせるかのように、黒色の炎は粒子となって俺の全身を駆け巡った。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い――!!
立ち上がれない。
蹲ったまま呻き声をあげ、ずっと『何か』が身体に順応するまで耐え忍ぶことしか出来そうにない。
「――【契約】は嘘を吐けない」
だけどそんな状態でも尚、あの人の何処か気持ちが昂ったような声だけは鮮明に聞こえて、俺はゆっくりと真意を問うべく困惑の目を黒髪の男へと向ける。
「それ以外は、嘘だけど」
その人はまるで俺を嘲笑うかのような、『愚者』を見るような目で俺を見下ろしていた。
どうしてか俺はその顔を……思い出せないけど、何処かで見たことがあるような気がしたんだ。