第10話(6) 『平和が崩れる音を立て』
父さんが告げた「助けない」という選択。
父さんにどんな考えがあろうと、それだけを鵜呑みにするのであれば妹を見捨てるという意味を持つ言葉を発したという事実に、俺達は驚愕のあまり一瞬時が止まったと錯覚する程にその言葉を受け入れることが出来ずにいた。
「――っ」
「な、なんで!? エウスがこんなに苦しんでるのに、家で治るのを待つなんて無理だよ!」
「……」
「父さんっ!」
いくら父さんを尊敬してるとはいえ、さすがに俺も姉さんもその判断には疑問を示さざるを得ない。
少なくともずっとエウスを家で寝かせるよりかは病院で寝かせた方が設備もきちんと整っていてより良い環境を整えられるはずなんだ。
今まで俺は父さんの判断に疑問を向けたことなんて無かったけど、それでも今回だけは素直に頷くことが出来なくて、無意識に困惑の目を父さんへと向けてしまう。
だけど父さんの目は、ずっとエウスに刻まれた模様に向けられていた。
「……シリウス。エウスの看病を頼む。受験勉強の時期で悪いが、学園も休んでくれ。メビウスも出来る限りエウスに水だけでも飲ませてやるんだ」
「えっ……お父さんはどうするの?」
「……俺はこれから城に戻って信用出来る奴らとだけで話を進める。数日は戻れないかもしれないから、それまでエウスを絶対に外に出させないでくれ。あと……誰にも、言っちゃ駄目だ」
「それは、いいけど……話って何を……?」
「……」
俺達に指示だけをして、父さんは何も言ってはくれない。
エウスに水分を取らせるだけならそれこそ病院に行った方が絶対に良いし、それにどうしてエウスの容態を誰かに言っちゃいけないのかもわからない。
父さんの真剣な瞳からは、いつもだったらわかる父さんの考えを読み取ることなんて出来なかった。
いや……違う。
考えだけじゃなく、父さんからはいつもの絶対的な余裕を感じられなかったんだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ父さん!」
それが何よりも怖くて、必ず助かるという確証が持てないから俺は思わず父さんを呼び止めてしまった。
「だ、大丈夫、なんだよね……? 父さんがエウスを助けてくれるんでしょ? 今までだって……だから、大丈夫なんだよね?」
言葉にしてくれなきゃ安心出来ない。
俺は生まれて初めて父さんに対して『不安』という感情を抱いていた。
それは一重に俺も姉さんもこの模様について分からず、そして今まで何でも知っていた父さんが俺達に何も教えてくれなかったからだ。
だから怖い。
何もわからないということが、酷く怖くて仕方がない。
だけどそんな俺の心配や不安に気付き、それを少しでも和らげようと父さんは笑って見せて。
「……ああ。安心しろって、メビウス。シリウスも。エウスは絶対に死なない。それに、父さんが必ずエウスを助けてみせるから。だからそれまで俺を信じて待っていてくれ」
そう言って、俺と姉さんの頭に手を置いて優しく撫でてくれた。
「……うん。そう、だよね」
……うん、そうだよ。
父さんがいてくれれば、必ずエウスの体調も治る。
父さんが帰って来るまでの間、俺がエウスの看病をちゃんと出来てさえすれば必ずエウスはまた昨日みたいに満面な笑顔を俺達に見せてくれるはずなんだ。
だから、大丈夫。
俺も姉さんも父さんの言葉を信じて、小さく頷いて見せた。
……だけどどうしてか。
「……いいか。『俺』を、信じてくれな」
俺は父さんが最後に発した言葉が、妙に頭の中に張り付いていた。
――
あの話を最後に父さんが家に帰って来なくなってから数日立った夜。
姉さんはともかく、10歳で肉体的にも精神的にもまだ幼い俺は少しずつ疲弊していっていた。
「エウス……水、飲めるか?」
「……げほっ! けほっ……!」
「エウスっ……!」
最初はコップに入れた水を少しずつ飲ませようとしても、エウスは喉を上手く使えないのかすぐに咳き込んで水を吐き出してしまっていた。
だから試行錯誤し、今はスプーンに掬えるだけの水を何とか飲ませているが、それもかなりのペースで吐き出してしまってる。
怠いのか身体に全然力が入ってなくて、目も熱く涙が零れながらも瞼を開けることさえ難しそうだ。
水だけでこれなのだから、溶かしたご飯なんか食べることなど出来なくて。
数日間胃に水しか入っていないエウスを見る度、俺の心は怖くて、苦しくて堪らなかった。
それでも水だけ飲ませた後、俺はゆっくりとエウスをベッドへと寝かせる。
寝間着から見える禍々しい模様は更に色濃く漆黒に染まっていて、その模様は徐々に身体全体を包み込むように長さを伸ばしているみたいだった。
「……っ」
エウスの体調は悪くなるばかりで、その解決策も未だわからないままだ。
もう既に窓から見える外は暗く、今日も何も成すことが出来ずに終わろうとしている。
姉さんも今は部屋に籠り、図書館からありったけの病気に関する本を借りてきては少しでも解決策を見つけようと躍起になってくれていた。
「どうしよう……どうしよう……!?」
だけど何も変化は訪れない。
それどころか症状の進行が速すぎてゆっくり考える時間すら持つことが出来なそうにない。
どうすればいいかわからなくて、俺は既に軽いパニックに陥っていた。
父さんも帰って来てくれなくて、俺の不安が解消される気配は一切ない。
もしかしたらこのままエウスは死んじゃうんじゃないかって、俺は不安で不安で堪らなかった。
「お、にぃちゃん……」
「――っ!! エウスっ!」
だけどそんな時、不意にエウスがぷるぷると腕を震わせながらも必死に腕を上げて俺の頬に手を添える。
けれどその腕はすぐにだらりと落ちそうだったから、俺は慌ててエウスの手を掴んで自分の頬に固定させた。
そんな俺の行動に、エウスは弱々しく笑って見せると。
「なか、なぃで……? ね……?」
「……っ!」
いつの間にか目尻から零れ落ちていた涙を掬って心配してくれた。
自分の方がもっと辛いはずなのに。
自分がどうなっているのかわからなくて、不安で不安で仕方ないはずなのに、それでもずっと俺のことばかり……
「……」
それだけ言うと、エウスはゆっくりと目を閉じて苦しみながらも疲れ果てて眠りに付いてしまう。
だけどそんなエウスを嘲笑うかのように、徐々に徐々に身体に刻まれた模様は長くなるだけだった。
「俺はっ、何も出来ない……!」
自分の無力さを思い知らされる。
ずっと父さんみたいになりたいと思ってきたけど、父さんでさえどうにも出来ていないのに子供の俺なんかにどうにかできるわけがなかった。
父さんなら。
父さんならと。
今まで俺は父さんに出来ないことなんて無いと信じてやまなかったけど、それが今こうして崩れ去ろうとしていた。
みんなを……家族を助けたい。
それを俺にはまだ出来ないから、俺が唯一出来ることは誰かに縋ることだけだ。
誰かを助けることが出来るのは父さんだけだと思ってたけど、父さんにすら出来ないのならあと俺が縋ることが出来るのは一つだけ。
ずっと俺達天使を見守り続けていると教えられ続けた、姿の見えない『神様』だけだった。
「お願いします、神様……! どうかエウスを……俺の大切な妹を、助けて下さい……!!」
だからいつものように両手を握り、必死に頭を下げて祈りを捧げた。
……みんな言う。
天使は、神様がより良い世界を創るための補佐をするために有るんだって。
だから神様は、神様に奉仕する人生を歩むために強い愛情を持つ天使たちを、逆に助けてくれるんだって。
ならどうして母さんは死んじゃったんだって疑問に思うけど、それでもエウスは……俺の妹こそは助けてくれるはずなんだ。
そう信じることしか出来なかったから、俺はずっと目を瞑り祈りを捧げ続けた。
……ずっと、ずっと。
「――神は何もしてなんかくれない。今も、これからも……何かを成し遂げたいのなら、それが出来るのは『自分』だけだ。……そうだろ?」
――だけどそんな願いは、一陣の風が吹き俺の髪を靡かせるのと共に、突如として窓側から聞こえた言葉によって阻まれてしまった。