第10話(1) 『理想に堕とされて』
……温かな光が部屋の温度を上げて、心地よい眠りをより深くしようとしていた。
光はカーテンで遮断され、太陽の熱だけがカーテン越しの窓から通り俺の身体を温めていく。
寝返りを打ちながらも外から聞こえる鳥のさえずりが子守歌に変わって、このままほんの少しだけ目覚めた意識はまたしてもまどろみの中へと深く落ちていった。
「おにーちゃーん!!」
「ぐえっ」
だがそんな昔からずっと思う淡い期待も、毎度のことのように邪魔されることによって無へと還すことになる。
勢いを全く殺すことなくジャンプした小さな少女が、布団越しに俺へと飛び付いてきた。
最初の頃は普通に受け止められず鳩尾を抉られることがあったものの、毎日のように受けていれば対処法も学んでいくもので、特にダメージを受けることなく優しく受け止めることに成功する。
「エウス……お前今何歳だよ」
「えっと……8歳だよ!」
「そうだよな。というわけでお兄ちゃんもうちょっと寝たいんだけど?」
「健康の秘訣は早寝早起き朝ご飯! おはよう! お兄ちゃん!」
「……おはよう」
純白に輝く白髪を二つに結び、ニコニコと嬉しそうに笑みを浮かべる妹に年齢相応の気遣いというものを説いても意味はないようで、有無を言わせない姿にいつも通り俺は折れるしか無い。
そもそも鍵を掛けて入れないようにしようにも、それを一度やったら扉の前で泣かれたため諦めるしか選択肢はないのだ。
ただ妹のおかげでそれこそ健康な身体でいられてる可能性も微レ存だし、起こされてる立場なため強く言うことも出来ず幼いエウスを抱えて起き上がった。
「父さんと姉さんは?」
「お姉ちゃんは今日も部屋で勉強してる! お父さんは下でお兄ちゃんのこと待ってるよ!」
「じゃあ下降りよう」
「うんっ!」
床に足を付けさせ、一緒に手を繋ぎながら一階のリビングへと降りる。
ここ最近姉さんが俺達と食卓を囲むことは少なくて、父さんが言うには『反抗期』というものらしく特に気にしてないみたいだった。
家族みんなでご飯を食べるのが好きな俺としては少しだけ不満だけど、父さんは姉さんのことを『優しすぎる子だから許してやってくれ』って言うから溜飲を下げるしかない。
ビビッて家の何処かですれ違う以外に会話した記憶が最近ない俺とは違いエウスは毎日部屋に突入してるようで、姉さんに対しての関わりは深いみたいだ。
俺としても久し振りに家族らしい会話をしてみたいものだが、時間はたっぷりあるのだし急ぐ必要は無いと、姉さんの部屋を通り過ぎながら思ってみる。
階段を降りて洗面所で顔を洗う姿をエウスに見られつつ、軽く身支度を整えた俺はようやくリビングに入った。
「――よっ。おはよ、メビウス」
「おはよう、父さん」
「相変わらず寝坊助だなぁお前。偶にはお前がエウスを起こせよ」
「ち、違うよ。俺が遅いんじゃなくてエウスが早いだけ」
「お前が一番最後なのにそれは無理があるんじゃねーの?」
「うぐっ」
軽く言い訳を垂れ流してみるが当然通じるわけがなく、父さんはニヤニヤと揶揄うように会話に付き合いながら逃げ道をいつも無くしてくる。
そんなことを言われれば俺としても何も言えなくて、バツが悪いまま言葉を詰まらせとぼとぼと自分の食器を棚から取り出すことにした。
「お父さん手伝うよ~!」
「お、さんきゅ。メビウス~シリウスを呼んで来てくれ~」
「えぇっ!? なんで俺!?」
「末っ子の妹は父さんのこと手伝ってくれるってよ」
「ぐぬぬ……わかった」
「素直でよろしい。じゃ、よろしくな」
妹が手伝ってるの強調されてしまえば、兄である俺がだらけるわけにもいかない。
先程急ぐ必要はないと逃げ腰だった手前非常に行きにくいがそうも言ってられないため、俺は再度階段を登り二階に上がり廊下を歩く羽目になる。
「ね、姉さん……朝ご飯出来たから呼んで来いって父さんが……」
軽くノックをし、ゆっくりと扉を開いて部屋の中を覗き込む。
すると俺達みんなと同様に白色の髪を持ち、肩より少しだけ短いぐらいに切り揃えた髪がこちらを振り向いたことによって軽く靡いた。
――エウスの言う通り本当に日も出てきたばかりなのに、姉さんは椅子に座り勉強に精を出していた。
「朝ご飯いらないって言ったけど」
「俺に言われても……」
姉さんは来年で13歳。
7歳から3年制の学園生活が始まるから、今年で進級試験がある歳だ。
姉さんの学力なら勉強する必要なんて全く無いと思うけど、こうやって必死にやっている以上何か思うことがあるのだろう。
勉強の邪魔はしたくないが父さんのお願いを無碍にすることは出来ないため、おずおずと顔色を伺いつつ会話してみる。
「じゃあお父さんに言っておいて。姉さんはこれから外で食べて来るから姉さんの分は食べて良いよって」
「姉さんが言ってよ……今度は父さんからの伝言も来て何故か俺だけが何度も往復する羽目になるんだから」
さっき起きたばかりなのだ。
階段を登ること自体そこまでの負担があるわけではないが、何度も繰り返せばさすがに疲労も溜まるというか最早それは筋トレに近くなってしまう。
さすがに朝からそれはハード過ぎる。
だから何卒と懇願するような視線を向けると、その瞳と目が合った姉さんは小さくため息を吐いた。
「私は長い目で物事を見るようにしてるの。ご飯を食べる時間に少しでも多く知識を蓄えた方が効率が良いでしょ」
「は、はあ」
「その方が将来的に家族にとっての資産になるし、いつか大人になったらその時にお父さんに謝って親孝行するつもり」
「…………大人に、なったら」
姉さんの言ってることはストイックだが間違ってないと思う。
今ではなく未来を考えるのなら、その方が効率面や幸福面においてもより良くなるのはきっと間違いではない。
それこそ何も変わらないまま、ただただ日々が過ぎるのであれば姉さんの言葉は正しいと思えるものだった。
……だけど。
そんな日は、来ない。
「……家族なんだからいつでも会えるし、わざわざ一緒にご飯食べる必要なんてないでしょ?」
「そんなわけない!!」
「――わっ」
姉さんの言ってることは間違ってる。
大事なのは未来じゃなくて『今』なんだ。
今幸せならそれでいいんだ。
失ってからじゃ何もかも遅いから、今少しでもちっぽけな幸せをたくさん抱え込む方が大事なんだよ!
そんな膨大な感情が勢いよく俺の心に流れ込んできて、俺は反射的に姉さんに対して声を荒げた。
だが姉さんに対してそんなことをしたのは生まれてから一度だって無くて、驚く姉さんを見ながら当の俺も自分自身に驚きを隠せずにいた。
「急に大声出さないでよ、びっくりした……どうしたの?」
「あ、あれ……いや、なんか……」
姉さんは開いていた教科書とノートを閉じ、わざわざ椅子から立ち上がって俺の様子を確認してくれている。
だけど俺自身も良くわからなくて、自分の行動に困惑するばかりだった。
まるで俺が俺じゃないみたいに、感情が爆発していた。
そんな自分自身が分からなくなって何も言えずに肩を落とすと、その様子をジッと見ていた姉さんは何を思ったのか俺の傍を通り過ぎていく。
「……わかった。行きましょ、メビィ」
「……え、いいの?」
「いいのって、私そんな何でも否定するような女じゃないでしょ」
「それは、そうだけど」
そんな簡単に受け入れるとは思わなかったから。
そんな感情が目に宿っているのがわかったのか、姉さんは一度だけ俺のことを一瞥すると、すぐに目を逸らして扉を開ける。
「確かにメビィの言う通りね」
「え?」
「今平和なことに感謝しないとって思い直したってこと」
そう小さく呟いて、姉さんはそのまま部屋を出て行ってしまった。
良く分からないけど、考えを改めてくれたみたいだ。
父さんに与えられたお願いを遂行出来たことに安堵しつつ、俺も急ぎ足で姉さんの後に続く。
階段を降りて再度リビングへと戻ると、俺の到着を待っていた父さんは一緒にリビングに入る俺達を見て意外そうに目を見開いた。
エウスも姉さんが来たことに嬉しそうに顔を綻ばせている。
「あ、お姉ちゃん!」
「おお。ホントに連れて来るとは思わなかった」
「え、そうなの? じゃあ適当に切り上げとけばよかった……」
「よく私の真隣でそんなことを言えるわね……」
「正直なのは良いことだ。連れ出してくれてありがとな、メビウス」
「……! うん!」
「……お父さんは家族に甘すぎるんだよ」
確かに父さんは家族に甘い。
父さんが激怒したこと、いやそれどころか叱ったことだって一度もないような気がする。
基本的に何をしても褒めてくれるし、もしも人に迷惑を掛けるような間違ったことをしてしまったらその時はわざわざ目線を合わせてまで諭してくれるぐらいだ。
俺達の考えをいつも尊重してくれていて、俺もエウスも……姉さんだってそんな父さんに憧れていた。
「全員揃ったし、飯にしよう! 最近はエウスもよく手伝ってくれるから支度が早くて助かるな」
「えへへ……! エウスは将来お兄ちゃんを養うからたくさん練習しなくちゃ駄目なの!」
「……甲斐性のある妹を持てたことに感謝するのね」
「……今日の夜ご飯は俺も手伝うよ、父さん。だから姉さんその目止めて……」
食器を並べ、フライパンに入ったベーコンをパンで挟み、洗われたサラダとスープを皿によそう。
個々によって量を調節されたそれらをテーブルへと置いて、全員が席へと着いた。
俺達がこうして生きていられているのは全て俺達天使を創造してくれた神様のおかげだ。
だから天使の責務として父さんの言葉に続いて、俺達を見守ってくれている神様に祈りを捧げる。
「それじゃ、今日も神様に感謝を籠めて。いただきます」
「「「いただきます」」」
祈りを捧げ終えると、俺達は両手を重ねてから食事を始めた。
「ほらスープ飲んで、エウス」
「うんっ」
エウスにスープを飲ませつつ、チラリと一つだけ空白のある椅子に視線を向ける。
母さんは事故で死んじゃったから、平凡な食卓の中で唯一その椅子だけが幸せな世界に歪さを感じさせている。
それでも……悲しいこともあったけど、こうして今はみんな平和に暮らせてるんだ。
「……」
いつもと変わらない、何気ない一幕だけど、それでもどうしてか俺はこんなひとときに幸福のようなものを感じていた。
いつもだったら、そんな当たり前なこと思いもしないのに。
「……なんかいいね、こういうの」
エウスにスープを飲ませた後パンを一齧りしながら、俺は辺りを見回して思わず顔を綻ばせた。
そんな小さな呟きは当然の如くリビング全体に響いて、全員がチラリと視線を向けてくる。
「……そうだな。こんな日がずっと続けばいいな」
「お兄ちゃんにベーコン一つあげるね! はいあーん!」
「それあげたらあなたの分が無くなっちゃうわよ。……そんなこと言うなんてメビィらしくないわね」
「……そう、かな」
各々反応は違うけど、それでも今はとてもこの空間が温かく感じるんだ。
どうしてか……ずっとこんな一日を求めていた気がする。
これだけでいいんだ。
毎日朝を起きて、ご飯を食べて、勉強して、遊んで、ご飯を食べて、話ながら寝る。
そんな当たり前の毎日を過ごすことがどれだけ難しいことなのかが、何だか今ならわかるような気がした。
エウスの厚意をやんわりと断り逆にこっちのベーコンをエウスの口に入れつつ、家庭の味がする朝食をゆっくりと噛み締めていく。
……今日は確か学園は休みなはずだ。
せっかく姉さんも部屋から出てきてくれたんだし、今日ぐらいみんなで一緒に遊びに行けないか後で相談してみよう。
いや、後でじゃなくて今言っちゃおう。
そう思って、嬉々として顔を上げる。
「せっかくみんな集まったんだし、今日さ――」
『――シロカミ』
――だがその刹那。
突如『紫色の髪を持つ、一人の女の子の姿』が脳裏を過った。
「――っっ!? ぐあっ!?」
それは脳裏だけでなく一瞬だけ視界全体にも映し出されて、チカチカと視界が真っ白になった感覚を抱くと同時に強烈な頭痛が俺の脳を刺激する。
何故か少女は手を伸ばしていた。
無表情だけど、確かに助けを求めている姿を俺に見せていた。
「メビウス!」
「だ、大丈夫お兄ちゃん!?」
「……っ!」
その頭痛はあまりに強くて、耐えることが出来ず頭を抱えて蹲る。
そんな姿に驚いたみんなは慌てて椅子から立ち上がって寄り添ってくれていた。
痛い、痛い、痛い、痛い――!?
まるで脳の奥にある『何か』を強引に引っ張り出そうとしているような強烈な圧力が出てるみたいだ。
だけど身体がそれを拒絶しているみたいだった。
それが対抗し合って強烈な頭痛に変わり俺を苦しめ続けている。
「どうした? 頭痛いのか……?」
「お兄ちゃん! しっかりして!」
「……さっきも変だったし、具合悪いなら部屋に戻って寝た方が良いわ。連れてってあげるからもしも厳しそうならすぐに病院に行きましょう」
「だ、大丈夫……! 大丈夫、だから……!」
家族による暖かな気遣いが功を成したのかはわからない。
だけど大事にしようとする家族たちの心配をさせまいと俺は痛みを我慢しながら、何とか否定の言葉を吐き出すことに成功した。
実際先程の痛みがあったのはほんの一瞬だけで、今はズキズキと痛みの名残があるだけで体調面に問題は無いと断言出来る。
――断言したから、俺の脳裏に浮かんだ『何か』は、まるで花みたいに何処か遠くへと飛んで行ってしまった。
……女の子、だったような気がするけど、もう既にさっき脳裏に浮かんだものは忘れてしまって。
だから、俺はこんなことで貴重な一日を無駄にしたくないと平気な顔を偽って椅子に座り直す。
……うん、大丈夫。
俺は、大丈夫だから。
「心配させてごめん。朝ご飯食べようよ」
何か大事なことを忘れてしまった気がするけど。
俺は、今が幸せだから……何も考える必要なんてないんだ。