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とある王子の悔悟

「オーランド様!」


 湖のほとりに佇んでいた少女がふいに振り返り、その顔に満面の笑みを浮かべた。

 オーランドは自分を待ち侘びる少女の隣へとゆっくりと歩み寄り、悪戯な風に乱れさた少女の髪をそっと整えた。気恥ずかしそうに俯き、物言いたげな視線に自然と口元が綻んでいく。


「一人で先に行ってはいけないよ、シエナ」

「……はい。申し訳ありません。オーランド様」


 しゅんと萎れた顔をするシエナの頭を優しく撫でて、オーランドは手を差し出した。

 シエナはびっくりしたような顔を見せたあと、はにかんだ表情を浮かべて指先を重ねてきた。その手を柔らかく握り締めて、オーランドはシエナと共に湖の散策を楽しんだ。


 それはまだ、婚約が決まったばかりの、幼い頃の思い出だ。


 互いに手探りで関係を深めていたある時、オーランドは王家の所有する保養地にシエナを招待した。王子妃としての勉強に励むシエナに休息を与えたかったこともあるし、最近できた義兄との関係に悩む彼女の気が少しでも紛れればと、そう思った。

 王都にいる時とは違う、緩やかに流れる時間にシエナだけでなくオーランドものびのびと羽を伸ばし、ここにいる間だけは自分の身に纏わりつくしがらみも忘れていることができた。


 その時の安らぎもあたたかさも忘れたことはなかった。

 だがオーランドは、そのすべてを自ら踏みにじった。


 優しい思い出に亀裂が走り、シエナの柔らかな笑みが散り散りに砕けていく。崩壊を止めさせたくてもそれはオーランドが伸ばした手をすり抜け、遠い暗闇へと呑み込まれてしまう。


「さようなら、オーランド様」


 すべての感情を押し殺した静かな声が、世界の崩壊を加速させた。



「────っ!」


 何かを叩きつけられたような急速な意識の覚醒に、オーランドは目を見開かせて呆然と天蓋を眺めていた。耳につく荒い呼吸が、自分のものであると認識するまでにいくらかの時間が必要だった。

 汗で不快に湿ったシャツの胸元を握り締めて、肺に溜まる澱みを吐き出すように荒く息を吐く。だが一向に、気分が晴れる気はしなかった。


「はっ。未練がましい」


 悪態を吐き捨てるように言葉を吐き出しても、苛立ちが募るばかり。

 オーランドはサイドテーブルに置かれた水差しへと手を伸ばして、グラスに移した水を一息に呷った。叩きつけるようにグラスの底をテーブルに打ち付け、持ち上げた手はぐしゃりと前髪を握り潰した。


 どうしてこうなった、と。

 どこにも吐き出せない焦燥が胸の内を暴れまわり、だが責められるべき人間が自分自身しかいないという事実に打ちひしがれる。すべては身から出た錆。自業自得と、他でもない自分がよく理解している。


 握り締めた手から覗くこげ茶けた髪。そしてそれを見つめる黄橙色の瞳。

 どれも母から譲り受けたもので、王家の色はひとつとしてオーランドには与えられなかった。



 身支度と朝食を済ませた後、オーランドは数人の侍従を連れて執務室へと向かっていた。そこに側近候補として名を連ねていた子息たちの姿はない。

 オーランドよりも年嵩の者ばかりで、それが監視を兼ねていると誰に言われずとも知っている。


「兄様!」


 呼び止める声に、オーランドの表情から一瞬だけ、感情が抜け落ちた。それを見咎めた者はいない。

 足を止めて振り向くと、廊下の向こうから幼い影がパタパタと走り寄ってくる。その背後には、無理に引き留めることもできず慌てて追いかけてくる侍女の姿が見えた。

 侍従たちをその場に控えさせて、オーランドは追いかけてきた影と視線を合わせた。


「廊下は走るものではない、セドリック。何事かと徒に城の者たちは警戒し、何よりお前を追う侍女が大変だ」

「あ……。ごめんなさい、オーランド兄様」

「私への謝罪は不要だ」


 しゅんと小さな頭を項垂れさせて上目遣いに見つめてくるセドリックを見下ろし、その視線を背後へと滑らせる。そこでは追い付いてきていた侍女が、肩で息をして体を落ち着けようとしていた。

 その姿に気付いたセドリックが小さく声を洩らし、オーランドの指摘を思い出して歩いて近付いていく。


「アンヌ。大丈夫?」

「はぁ……、だ、大丈夫です。セドリック殿下! お気遣い下さりありがとうございます」


 大きく意気込んだ少女の声が廊下に響き渡る。侍従たちの表情に変化はないが、後ほど侍女長を通じて彼女は注意を受けることになるだろう。

 ふっと緩んだ唇をそのままに、オーランドは低い位置にあるセドリックの頭を軽く撫でた。銀色に燦然ときらめく髪が指の隙間をさらさらと流れていき、夜空を切り取ったような濃紺の瞳がきょとりとオーランドを見上げてくる。


 オーランドは持つことのできなかった王家だけが持つことのできる色を宿した、オーランドとは母違いの年の離れた弟。

 胸中では複雑な心情が絡み合うが、それでもオーランドは弟を妬んだことも疎んだこともなかった。


 この世に生まれ落ちたそのときから、オーランドはセドリックの──正妃が産む子のスペアとして在ったのだから。


「私に何か用があったんじゃないのか」


 オーランドから話を振ると、セドリックははっと何かを思い出した顔をして見返してきた。


「しばらく、オーランド兄様とは一緒に食事ができないと聞きました」

「ああ」


 そんなことかとオーランドは頷きを返し、軽く言葉に迷った。

 王室の決まりのひとつとして、朝食の席には必ず揃って集まらなければならないというものがある。古くからの習わしで、記録によれば愛妻家で子煩悩でもあった当時の王が、王族としてではない家族としての時間を過ごすために作ったものと言われているが、定かではない。

 王都を離れているときや、病に伏しているときなどどうしても集まれない場合は仕方がないが、オーランドは王宮で暮らしているし病に罹っているわけでもない。

 どの程度セドリックが説明を受けているかもわからず、さて困ったとオーランドが傍らの侍従に視線を向ければ、彼は静かに頷いてからセドリックに一礼する。


「発言をお許しください、セドリック様」

「あ……。兄様の」


 侍従の存在を思い出したセドリックが、躊躇いながらも許しを与える。


「ありがとうございます。オーランド様はしばらくの間ご公務に集中なされるため、陛下に願い朝食の席を欠席されることとなりました」

「……そういうことだ。とはいえ王宮を離れるわけではない」

「そう、なのですね……。兄様がどこかに行かれるのかと、心配しました」

「しばらくは視察の予定も入っていなかっただろう。時間が取れればそのうち茶の相手をしてくれるか、セドリック」

「! はい、もちろんです! お呼び止めしてしまってすみませんでした」

「いや、いい。気にするな」


 自室まで再び駆けて行ってしまいそうなセドリックの後姿を見送って、オーランドも執務室へと向かう。無言でついてくる侍従を一瞥した視線は、すぐに正面を見据えていた。


「陛下に話がある。午後に時間は取れそうか」

「確認して参ります」


 執務机についてすぐに出した指示に、返事をした一人が足早に部屋を出ていく。その姿を見送ることもせず、オーランドは早速と侍従が差し出す書類を受け取り、ペンを手に取った。


 公務に集中している間は、オーランドを占めるのはこの国の領地のことであり、民のことであり、貴族のことであり、数字のことだ。ただ国家をより円滑に動かすための歯車として、自身を取り巻く環境のことも忘れることができる。


 第一王子とは名ばかりの、継承権も持たぬ側室の子。

 それがオーランドだった。


 国王夫妻の仲は睦まじかったが、なかなか子宝には恵まれなかった。原因はわからぬまま、婚儀から四年、五年と経つうちに王へと側室を望む声が出てくるようになった。跡継ぎを得るためと臣下の望みは理解できても、王妃を愛していた王はそれを承認することはできなかった。

 王には外に嫁いでいってしまった姉妹しかいなかったが従弟がおり、万一の場合はその子を後継と迎え入れる案もあった。

 しかしそれに、他でもない王妃が待ったをかけた。

 王家の血を絶やしてはならないと、王妃自ら王に側室を持つことを勧めたのだ。ただひとつだけ、ある条件を提示して。


「どうか側室を。わたくしが不甲斐ないばかりに王である貴方の血を絶やしてしまうなど、我慢ができないのです。ですがもし、わたくしが王子を宿すことができれば、継承権はその子に。わたくしが生んだ子が、この国の正当な後継なのです」


 そうして王は、側室を迎え入れた。

 王妃が提示した条件を包み隠すことなく伝え、王妃が後継者を産むまでの代理となる者を産むことを承諾した娘が、オーランドの生母エディットだった。


 エディットは侯爵家の三女として大切に育てられ、いずれは留学中に知り合った、海を渡った大国の貴族子息の元へ嫁ぐ予定だった。けれどその婚約者がエディットを迎えに行くために乗った船が、嵐に呑まれ沈没してしまった。

 助かったのは僅かに数名。そこにエディットの婚約者の姿はなかった。

 エディットは奇跡に縋りいつまでも婚約者を待ち続けたが、その願いが聞き届けられることはなかった。

 数か月と部屋から出ることもできず、泣き暮れて過ごしていたエディットに打診がいったのはそんなときだった。

 貴族の子息令嬢はそのほとんどが社交デビューの前後には婚約を結んでおり、いざ王の側室探しが始まってもその候補の選定は難航していた。まさか側室に召し上げるため、王の命令で婚約を解消させるわけにもいかぬ。

 そう都合よい未亡人となった夫人がいるわけでもない。側室には王の子を産んでもらわねばならないのだ。社交デビュー前後の少女と契りを交わすのは、王自身が激しく拒んだ。

 そして結婚間近で婚約者を失くしたエディットの噂が、王宮に届けられた。


 侯爵も王が側室を持つことについては肯定的であったが、娘の心情を慮り辞退を願った。それに王もやむなしと理解を示していたが、自分の側室の話であり、一度は願った側が不義理では済まされぬと侯爵家にエディットを見舞いに訪れ、状況は変わった。

 嘆き悲しむあまりエディットは心を弱め、婚約者の存在を忘れかけていた。幸せの絶頂から絶望のどん底へと突き落とされ、幸福だった記憶を封じてしまった娘に、侯爵はただ言葉を失うことしかできなかった。

 そして自失する侯爵に対し、王は当初の発言を翻してエディットを側室に望んだ。それは憐憫だったかもしれぬ。同情だったかもしれぬ。だが確かにこの時、王はエディットに対する情が沸き上がるのを感じていた。


 侯爵はエディット自身がそれを望むならばと、苦悩に満ち満ちた表情で力なく答えた。心を壊した娘など、誰にも望まれないだろう。間もなく侯爵家も代替わりする。いつまでも侯爵たちがエディットの面倒を見れるわけでもない。

 それから王は密かに侯爵家に通い、エディットと言葉を交わし、半年が過ぎるころに側室として迎え入れた。


 その翌年、オーランドは仮初の王子として生を受けた。

 このときにもまだ、王妃に懐妊の兆しは見られなかった。


 オーランドは物心ついた時から、すでに己の境遇を理解させられていた。多くを望まぬよう、間違いは起こさぬよう、いずれ生まれるかもしれない正当な後継者の良き補佐となれるよう、常に一歩引いた世界に立っていた。

 けれど王妃が男児を宿せなかった場合には、オーランドが即位することになる。側室の子といえど現在オーランド以外に王の血を引く者はおらず、王の従弟夫妻の間に生まれたのは愛らしい娘だった。


 第一王子として扱われ、教育を施されるなか、比較的早い段階でオーランドに婚約者が宛てがわれることとなった。不安定な立ち位置にあるオーランドに不穏分子を近付けさせないための、政略だった。

 カーティス侯爵は王宮内では実直な男と評される、王家にとっては毒にも薬にもならない貴族だった。侯爵の数代前には家門の中から王妃の生家の派閥へと嫁いだ者もおり、オーランドの後ろ盾にもちょうど良かった。

 オーランドは順調に婚約者となったシエナとの交友を深めていき、確かにその当時は与えられたものの中で幸福に過ごしていた。


 それらが一変したのは、誰もが諦めていた正妃がついに懐妊したときだった。

 生まれたのが王子であるとわかると城も国も湧き、誰もがセドリックの誕生を喜んだ。オーランドもその一人だ。自分が支えなければならない弟の誕生を、ずっと心待ちにしていたのだ。


 だが、少しずつ歯車は狂っていく。

 元々感じていた仮初の王子へ向けられる憐憫の視線に不審が混ざり始め、言葉を交わす貴族たちの声音からは第一王子を軽んじる態度が感じられるようになっていた。

 それらは少しずつ伝播して、口さがない噂話はオーランドの耳にも入ることとなる。


 いくら成果を挙げたとて、国王にはなれぬ王子。

 いずれ弟王子に嫉妬し、よからぬことを企むかも知れぬ。

 王はいったいなぜ側室を迎え入れ、子を産ませたのだ。

 王妃が王子を儲けるとわかっていたのなら、賛成などしようはずもなかったのに。


 オーランド自身どうすることもできないそれらに、オーランドはただこれまでと変わらぬ日々を過ごし、セドリックとの仲を深めることで疑惑を晴らそうとした。

 言いたい奴らには言わせておけばいい。どうせそのような者らは、得意げに物事を吹聴する己に酔っているだけで、反論になど耳を傾けることなどしないのだ。まして自身が見下す相手の言葉に、誰が耳を貸すというのか。

 そのような判断力があれば、わざわざ耳目のある場所で、自国の王子をこき下ろせるはずがない。


 しかしいくら割り切ろうとしても、認められぬ自身の価値にオーランドが次第に鬱屈した思いを抱えていってしまうのは、無理のない話だった。

 オーランドは決して、心が強いわけではなかった。

 唯一安らげたのは婚約者であるシエナとの、しばしの交流の席だけ。

 シエナはオーランドにとっていわば運命共同体であり、自身を理解してくれる唯一の存在といえた。シエナは仮初の王子に唯ひとつ与えられた、仮初ではない確かなものだった。セドリックが誕生しても変わらずオーランドの傍に在り、オーランドの妻となるシエナに執着するのはいけないことだっただろうか。


 初めから歪んでいた執着は、けれど変わらぬ環境にあることで何の変化も齎さなかった。


 歪に保たれていた均衡が崩れたのは、シエナに代わり侯爵家の後継となったルイスがその頭角を現し始めたことにある。

 夜会の席でしばしばその名が囁かれるようになり、カーティス侯爵が顔繋ぎにと連れ立って現れた時には貴族令嬢たちが色めきだって騒ぎ始める。オーランドもたびたび言葉を交わすことがあった。

 華やかな見た目に柔らかな物腰。アカデミーを首席で卒業したというのだから、相応にできた人間なのだろう。

 けれど。

 オーランドの婚約者でありルイスの義妹となったシエナの前では完璧に作られた表情を浮かべ、極めて他人行儀に応対する。ルイスのシエナに対する態度はシエナ本人から聞かされていたこともあり驚きはなかったが、それがシエナの思い違いであることに気付けたのはオーランドだからこそだったのだろう。

 シエナに向けられる、激情を湛えた眼差し。

 それは到底、嫌っているはずの義妹に向けられる視線ではない。だからオーランドは注意深くルイスを観察し、理解する。ルイスの感情を。オーランド自身の焦燥を。

 すぐにオーランドはルイスのことについて調べ、その時にルイスとシエナの婚約の話が持ち上がっていた事実を知った。まだカーティス侯爵とルイスの生家で話し合う段階だったから、オーランドの婚約の話を持ち込めた。僅かにも遅れていれば、シエナはルイスと婚約していただろう。


 その事実を、シエナは知っていたのだろうか。


 オーランドは聞けなかった。シエナからそのような話は聞いたこともない。シエナはルイスのことを義理となる兄としか認知していないように思えた。

 ならばそれでいい。そのままがいい。

 シエナの関心がオーランドからルイスに移ってしまうことが、怖かった。

 シエナがいなくなってしまえば、本物を持たない自分はどうすればいいのか、わからなくなってしまった。

 だから卑怯にもシエナがルイスとの関係で落ち込む姿を見るたび、オーランドは密かに抱く歪んだ喜びに浸っていた。


「私、何も答えられなかったんです。お兄様のご趣味も、好きなものも、聞かれたことは何ひとつ」

「シエナ……」


 先日開かれた茶会の感想をオーランドが尋ね、返ってきた答えがそれだった。

 カップを持ち上げようとして諦めてテーブルに置かれた手に、オーランドはそっと自分の手を包み込むように重ねた。俯きがちだったシエナの顔がはっと持ち上がり、けれどすぐにその目は伏せられてしまう。


「お兄様の婚約者についてもそう。お父様に聞いてもはぐらかされてしまって、私だけ除け者にされているみたい……」

「そんなことはないさ。私もルイス殿の婚約者については聞かないな。カーティス侯爵家はいずれ王家の縁戚となる。侯爵も選定に悩んでおられるのだろう」

「……そう、かもしれません。でもはぐらかさなければならない理由がわからないのです」

「侯爵には侯爵の考えがあるのだろう。家族でも話せないことはある。……君の苦悩は理解できるつもりだが、私の悩みも聞いてくれないだろうか」

「オーランド様の、ですか……。ええ、もちろんです」


 シエナが少しばかり不思議そうな表情をして首を傾げて答える。

 やや意気込んだ様子を見せるシエナに苦笑を溢して、オーランドはその瞳を眺めた。


「私の悩みは、どうすれば我が婚約者殿の笑顔が見れるだろうかということなのだが。何かいい解決策はないか?」

「……オーランド様」


 オーランドが重ねた手の指を絡ませ握り締めると、シエナはさっと頬に朱を差して視線を軽く彷徨わせた後、はにかんだ表情を浮かべた。

 じわりと満たされる喜びに充足感を得て、オーランドも笑みを返す。

 いつしかオーランドはさり気なく会話を誘導してルイスの話題を引き出しては、落ち込むシエナを優しく慰めることを繰り返した。シエナの愛情を確かめるように。心をオーランドに傾けさせるために。

 幼い子供がささやかな悪戯で親の気を引くような無邪気さで。


 繰り返し。


 繰り返す。


 それはアカデミーに入学してからも続けられ、そこでオーランドはイソベルと出逢った。

 ある子爵が親しくしていた娼婦が密かに産んだ娘で、平民として育っていたがそれを知った子爵が夫人の反対を押し切って引き取ったという。礼儀作法は貴族令嬢として見苦しくない程度に仕込まれていたが所詮は付け焼刃であり、育ちや思想はそう簡単に矯正できるものではない。

 オーランドがイソベルと言葉を交わしたのは偶然だった。王族であっても講師にとっては一生徒に過ぎず、一定の敬意を払われながらも対応は他の生徒と変わらない。

 たまたまオーランドが講師に呼ばれた際に、別の所用で呼ばれていたイソベルと顔を合わせ、言葉を交わした。たわいもない話だった。すぐに別れてオーランドは講師のもとへ赴き、その後側近候補のひとりに何となしにイソベルについて話せば、同じ講義を受けているという。

 元は平民だからこその苦悩を聞き、よりよい治世のためには直接平民の話を聞くことも必要だろうかと考え、オーランドはその子息にイソベルと親しくなれるならそうするよう、伝えた。

 孤児院への慰問は行っていたが、貴族と平民、どちらの環境も知ればこそ見える視点というものもあるだろう。ただそれだけの興味だった。


 だから子息にそれを伝えたのも偶然にすぎない。

 相手がシエナであっても、オーランドは同じように伝えただろう。


 それからオーランドは自然とイソベルとも話をするようになった。イソベルがオーランドのことを仮初の王子としてではなく、純粋にこの国の王子として畏れ敬い、そして時折覗く物怖じしない態度に、息のしやすさを覚え始めていたことも要因のひとつだった。

 シエナと共にいる時とは違う、気の安らぎ。

 ただのオーランドとして過ごすことの解放感に、オーランドはそこで初めて、仮初の王子としての重圧を感じてしまった。


 所詮オーランドは仮初の王子に過ぎず、離宮で静かに暮らす母もまた、仮初の王子を産むための借り腹に過ぎなかった。

 王は側室をそれなりに大切にしているようだったが、母は父を愛してはいなかった。


 そして最たる要因は、シエナがイソベルの存在をオーランドに指摘してくることにあった。シエナの視線が、関心が、オーランドに向けられている。普段は聞けないオーランドへの不安を、シエナがぶつけてきてくれる。


 そこに、悦びを見出してしまった。


 それからオーランドはわざとシエナの前でイソベルに気のある素振りを見せ、関心があるように示し、シエナに素気無い態度を取りさえした。

 シエナにはオーランド以外に頼れる者はいない。カーティス侯爵とは不仲であり、ルイスとの間にも隔たりがある。拠り所のないシエナには、オーランドしかいない。……傲慢に、独善的に、そう思い込んでいた。

 それが決定的な間違いだったと、気付きもせずに。

 次第にシエナの関心を引く行為はエスカレートしていき、シエナの代わりにイソベルをパーティに伴うこともした。悲しむシエナの表情を見るたびに、歪んだ心が満たされた。

 オーランドはイソベルに靡いていたわけではない。イソベルもまた、オーランドに気があったわけではない。彼女はただ、平民のままでは得られなかった高位貴族や王族が暮らす世界に憧れ、物語のヒロインになれたような自分に酔っていただけだ。

 オーランドが贈った宝石を、いずれまた平民に戻った時の生活費の足しにするために隠しているのだと、イソベル自身に明け透けに告げられた時は呆れ、笑ってしまった。

 イソベルは自分が貴族には向かないたちの人間だと、よく理解していた。

 その割り切りの良さが、オーランドにはどこか気持ちよく、羨ましかった。


 シエナがついにアカデミーを休学した時にも、オーランドは自分の気を引くためだろうと考えた。オーランドのために傷付くシエナに、そこまで自分の存在が埋められていたのかと嬉しくさえ思った。

 多少、シエナが休学することに周囲は騒がしくなったが、気にも留めなかった。散々仮初の王子と、不信の目を向け扱き下ろしていた者たちが今更何を言うのかと、取り合うことをしなかった。


 まさかその裏でシエナとルイスが急速に距離を縮めていたなど、思いもよらなかった。

 ただシエナの関心を引くことばかりに躍起になり、周りが見えていなかった。


 だからこそ、領地から戻ってきたシエナがルイスを伴って目の前に現れた時、オーランドはサッと夢から醒める思いがした。

 揃いで誂えたと思しき衣装。

 シエナの耳を飾る、透き通るように鮮やかな緑色のイヤリング。

 そしてシエナがルイスへと向ける、信頼と親愛に満ちた眼差し。

 寄り添う二人は、まるで似合いの恋人同士のようで──。


 過ちに気付いた時にはもう、手遅れだった。

 子供のような駄々をこね、足掻いてもどうにもならなかった。


「さようなら、オーランド様」


 別離の言葉は、虚しく耳を掠めていった。




§ § §


 オーランドは玉座に座る王を眺めながら、心がひどく凪いでいることに気付いた。ひとつの重責が外れたような、これまでオーランドを押し込めていた殻を破ったような、心地の良い穏やかさだった。


「お時間を頂き、ありがとうございます」

「よい。私もお前とは話をするべきだと思っていた」


 部屋の中にはオーランドと王のほかには誰もいなかった。王の傍に控える宰相の姿もなく、オーランドにはそれが王がオーランドへ向ける慈悲と感じた。

 婚約者であったシエナを蔑ろにした振る舞いに、大臣たちの王家への──オーランドへの信は揺らいでいた。そうしてカーティス侯爵家からの婚約解消の申し出の一件が決定打となり、オーランドを廃嫡する声が上がり始めた。

 王妃は無事に王子を産み、オーランドの役目は終えている。国の威信を揺るがしかねない不穏分子は排除すべきという考えを、オーランドも否定はしない。

 ゆえに王にシエナとの婚約解消を了解したことを伝えると同時に、王家の食卓への参加をオーランド自ら辞退した。王妃もセドリックもオーランドを快く迎え入れてくれているが、オーランドが抜けた姿こそが、本当の王家の姿なのだ。


「此度の一件ではご迷惑をおかけしました。我が身の未熟さが招いた結果とはいえ、多くを巻き込んでしまい、お詫びの言葉もございません」

「起こしたことは仕方あるまい。どう責任を取る?」

「私を廃嫡するようにとの声が上がっているようですが、しばしの猶予を頂きたく」

「……名誉の挽回か」

「ええ。私の──ではなく、カーティス令嬢の、ではありますが」


 その名を口にしたのが意外だったのか、僅かに目を見開かせた王にオーランドは小さく苦笑する。

 そしてそっと息を吐き出した。


「聞くところによるとカーティス侯爵は後継を令嬢に戻し、その伴侶としてルイス殿を迎える予定だとか。しかしながら私の一件で彼女にも謂れなき噂がまことしやかに囁かれており、それは私も本意ではありません」


 瞼の裏には今でもシエナの微笑みが、耳にはシエナの柔らかな声が蘇るのに、それらはもうオーランドのものではなくなってしまった。

 他でもないオーランド自身が、突き放して手放してしまった。

 下らない自己肯定感、醜い独占欲の成れの果てに。


 しかし本心からシエナを傷つけたかったわけではない。

 このままシエナの傷となり、残り続けることに歪んだ自分が喜びを見出してしまうが、それよりもシエナに幸せとなって欲しいという思いが勝る。

 婚約が解消された原因がオーランドにあろうとも、口さがない者たちはシエナにも原因があったのではないかと囁きだす。彼女の新たな婚約者がルイスと知った者が、下種な勘繰りを始めるかもしれない。そんなことが許せるはずもなかった。

 たとえそれがオーランドのエゴでしかなくとも、何もしない自分でいたくなかった。


「どうかそれが成せるまで、お待ちいただきたい。期限はセドリックが王太子となるまで。その後、私は謹んでこの身を返上致しましょう」


 そう告げるオーランドの表情は晴れやかだった。

 一分の後悔も未練も見れぬ表情を王はしばしの間見つめ、そしてゆるりと玉座に深く凭れかかると息を吐き出した。


「お前の気持ちは分かった。──しかし、どうするつもりだ? 下手にお前が動けば、窮地に追いやられるのはカーティス令嬢の方だ」

「その通りです。なので、カーティス令嬢との婚約は私がアカデミーを卒業するまでの限定的なものだったと、今後はそのように事実を伝えます。あの日に私たちが婚約を解消したことはすでに多くの者が知っています。その場にルイス殿が同席していたことも」


 思い出せば痛みだす胸を無視して、オーランドは王を見据えた。


「カーティス侯爵家のシエナ令嬢とルイス殿の婚約を、王家も祝福していると流してください。カーティス令嬢は私との婚約が解消されれば、最初からルイス殿と婚約を結びなおす予定だった。王家のために日陰の者となり、献身的にカーティス令嬢を支えてくれていたルイス殿に王家は感謝しているとも。あの日はそれを伝えるために設けた場だったのです」

「……フリーズ令嬢との一件はどうだ」

「間もなく婚約が解消となる令嬢を婚約者と披露し続けることに気が進みませんでした。フリーズ子爵令嬢は私とパートナー契約を結び、務めて下さっていたのです。その謝礼として、私個人の資産から子爵令嬢にドレスと宝石を贈りました。いずれ換金しやすいものをというのは子爵令嬢からの指定だったので、そのようになりました。彼女との契約も、アカデミー卒業と同時に終了しております。必要とあらばその際に交わした契約書もご用意できます」


 すべてでまかせだ。そこに真実などありはしない。

 だが、たとえそこに真実がなかろうとも、事実として公に語られればそれが嘘でも事実となる。王家が流す事実に反論できる者はいない。真実を知っていても、それを呑み込むほかない。

 オーランドがシエナを軽視していたことを知る者は多い。

 すぐには納得されぬだろう。

 しかし真実を語ることと己の保身とは、いったいどちらにその比重は傾くだろうか。


「…………落としどころとしては無難か」


 重く長い溜息が部屋に響いた。

 感謝を伝えようと頭を下げかけたオーランドを、王が制する。


「だが、私はお前を廃嫡するつもりはない。セドリックの治世をよく支えよ」

「陛下の御意のままに」




 数年後、成人を迎えると共にセドリックが王太子として立ち、第一王子であったオーランドには大公の爵位と王家の所有地のうちのひとつが与えられた。通年、王家が保養地として利用していた、澄んだ湖のある地だった。

 アカデミー在学時代には一時期華やかな噂が流れたとされるオーランドだが、彼は自らが側室の生まれであること、その血を継ぐ者が生まれれば将来国が荒れてしまう火種を作る可能性があることを告げ、生涯独身を宣言し、これを貫き通した。

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― 新着の感想 ―
[一言] オーランドにも色々あったんだね。 でも、シエナを傷つける必要はなかった。 何年も深く傷つけておいて代償なしではいられないよね。シエナが幸せになってくれたことが、心から良かった。
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