後編
翌日、シエナは必要な荷物だけを持って、ルイスと共に領地へと向かった。突発的に決まったことではあったが、シエナが眠っている間にルイスが手配を整えてくれたらしく、シエナはただ流れに身を預けているだけでよかった。
だが、今回のことはそうやって他人の意志に委ねていたせいで起こったことかもしれない。オーランドとも父とも、もっと話をすればよかったのだ。シエナの想いを伝えればよかったのだ。そうすればルイスとの関係が変わったように、何かが違っていたはず。
領地に着いてしばらくの間は緩やかな時間を過ごし、その環境に慣れてくるとシエナはルイスの仕事を手伝うようになった。領地経営には関わって来なかったが、王子妃となるために受けてきた教育は決して無駄ではなかった。
ルイスの役に立てるとわかったとき、そうしてルイスに頭を撫でて褒められたとき、シエナは強いやりがいを初めて感じることができた。これまではそれができて当たり前で、できないことこそを叱責された。
けれどルイスはたとえシエナが失敗したとしても、決して叱ることはなかった。共にその原因を考え、解決策を探り、シエナを導いてくれた。
王子妃になりたかったわけではない。それでも選ばれたのなら精一杯頑張ろうと思っていた。
事実、シエナは頑張れていたのだ。
オーランドにぞんざいに扱われるようになるまでは。
なにがそう思わせてしまったのか、シエナにはわからない。領地に来てからの日課となった、ルイスとのお茶の場でそれを溢してしまったこともあったが、答えは出なかった。
ただルイスが可能性の話としてと前置きして語った内容は、あながち外れていないように思えた。
「オーランド王子は、シエナが頑張る姿を見て勘違いをしたのだろう」
「勘違い、ですか?」
「ああ。……シエナをどう扱っても構わない。この女は王子妃になるためならどんなことにも耐え忍ぶはずだ、とね」
「そんな……」
ショックだった。でもその半面で納得もできた。
だからオーランドはシエナとの婚約を解消しないのだ。シエナにだけ我慢を強いるオーランドに対して強まる嫌悪は、どうしようもなかった。
気分が優れなくなってしまったシエナを慮って、その日の茶会はそこで切り上げることになった。ルイスの腕に抱かれて自室に戻る間、未練のように残っていたオーランドへの情が、ぽろぽろと零れ落ちていく音がした。
それから少しずつシエナの中でも感情の整理がつき始め、平穏な日々を過ごしていたが、ある日届いた一通の手紙が事態を急変させた。
それはこれまで何の音沙汰もなかった父からの、王都へ呼び戻す手紙だった。領地でいくつの季節を巡らせている間に、オーランドがアカデミーを卒業することになったのだ。
卒業式の後にはささやかながらパーティが催される。そこにオーランドの婚約者であるシエナがいないのは、周囲からは不自然に映ってしまう。
だがこれまでもそうしたパートナーが必要な場に、オーランドはシエナではなくイソベルを伴っていた。それにシエナが領地に来てからというもの、オーランドは一度たりとも訪れたことはない。
一度だけ、領地に移ってすぐの頃に手紙が届いたが、その内容も婚約者を気遣う内容ではなく、面倒をかけるなと冷たくあしらうもので、冷えた心は凍りつくばかりで溶けることはなかった。
どんなに行きたくないと思っても、婚約が解消されぬうちはシエナはオーランドの婚約者だ。
領地を離れる日。
その日はシエナの心情とは裏腹な晴天が広がっていた。
久しぶりに足を踏み入れた王都は懐かしく、感慨深い気持ちに襲われた。
王都に着いてからすぐに、シエナは長らく顔を合わせていなかった友人たちの茶会に顔を出した。好奇心に満ちた目で見られることも、楽しげな顔つきで領地での生活を聞かれることも、すべて想定内のことだった。
シエナは彼女たちのことを親しい友人と思っていたが、そうではなかったのだろう。
隠しきれない嘲笑は、婚約者を他の女に奪われ領地に引き籠っていた憐れな女に向けられたものだ。そしてこの先に待ち受けているだろう修羅場を、とても楽しみにしている。
でなければ嬉々として、シエナがいない間のアカデミーでオーランドとイソベルの様子を語り聞かせるはずがない。
シエナが領地に向かった後、しばらくの間二人はそれまでと変わらず過ごしていたようだが、月日を重ねるごとにイソベルがオーランドの婚約者であるように振る舞い始めたという。
それを諫めた者はいない。
イソベルを囲っていたのはオーランドだけではなかったが、他の令息たちはその頃を境にイソベルから離れていったらしい。婚約者の元に戻った者もいれば、それまでの態度を鑑みられて婚約を解消された者もいる。
局所的に静かに荒れたようだが、大きな騒ぎとまでは至っていない。
だからこそこの一連を傍目で見ていた者たちは物足りなさを感じ、次に起こるであろうオーランドとシエナの一幕を心待ちにしているのだ。
こうした者たちが貴族のすべてではないとはいえ、己よりも上位の者たちが起こす騒動を遠巻きに愉しむ者たちもいる。
以前のシエナであれば表面を繕いながらも内側で傷付き、自分を責め、誰にも話せずに一人で抱え込み続けていただろう。
だがシエナはもう決めたのだ。
オーランドのことで傷付きはしないと。
卒業パーティで何が起ころうとも、オーランドとの婚約を解消すると。
王都に戻ってからも、オーランドはご機嫌伺いの手紙ひとつ送ってくることはなかった。
その程度の繕いも必要としないほど、シエナはオーランドにとってどうでもいい存在なのだ。
復学の手続きは行っていないため、シエナは王都でも領地にいた頃と変わらぬ生活を送っていた。
これまでとは打って変わって親しくやりとりするシエナとルイスに、王都の使用人たちは一様に驚いた様子を見せていたが、これまでの関係が異常だったのだ。それに二人が仲睦まじくいることで屋敷の雰囲気もどことなく張り詰めていたものがなくなり、すごしやすくなったことで好意的に見る者がほとんどだった。
ただ一人父である侯爵だけは、眉間の皴を解こうとしなかったが。
「綺麗だ、シエナ。君によく似合っている」
「ありがとうございます。お兄様もとても素敵です」
いよいよアカデミーで卒業式が開かれる日。
シエナは午後からのパーティにのみ参加するため、朝から時間をかけて丁寧に磨き上げられ、ルイスと揃いで誂えたドレスで着飾っていた。
今回もオーランドからドレスも何も贈られず、ただパーティには必ず参加するようにとの言伝を王宮からの使者を通じて受け取っただけだった。
わかってはいたことでも沈んでしまう気持ちを持て余していると、ルイスがドレスを贈ってくれると申し出てくれた。シエナの人生の区切りになる大切な日なのだからと、そう言われて断ることはできなかった。
そのうえエスコート役まで買って出てくれて、簡単にシエナの気分は浮上してしまった。
そうしてあの時断らなくてよかったと、正装を纏うルイスを眺めて思う。
目の前にいるのはまさに物語から抜け出してきた理想の王子様のようで、ついぼうっと見惚れてしまう。そうなっていたのはシエナの身支度を手伝ってくれた侍女たちも同じで、彼女らはルイスから向けられた視線に華やかな声を上げて賑やかに部屋を出ていった。
「申し訳ありません、お兄様。私の侍女たちが……」
「気にしてない。それよりシエナ。耳元が寂しいだろう」
ルイスに言われて、シエナは姿見に自身の姿を映した。
髪をアップに纏めているため、露わになった何の装飾もしていない耳が寂しげに見えた。侍女が着け忘れたのだろうと、用意されているはずのイヤリングを探そうとして、ルイスに静止をかけられる。
近寄ってきたルイスの手には、小さな箱が載っていた。そっと開けられた箱の中に入っていたのは、ルイスの瞳と同じ色をしたイヤリングだった。
「これをつけてくれないか? きっとシエナに似合う」
そう囁いて、シエナに拒絶がないのを感じたのだろう。ルイスの指先が耳に触れ、器用にイヤリングをつけられてしまった。
促されて再び鏡を見れば、何もなかった耳元で鮮やかな緑が揺れている。
「思った通り、よく似合っている」
「……お兄様」
鏡越しに視線が絡み合い、微笑まれる。
感情が極まってしまったシエナは、せっかく侍女が施してくれた化粧が崩れてしまわないように、涙を溢さないようにすることで精一杯だった。そんな決して褒められた態度ではないのに、優しく肩に置かれた手のひらがシエナを慰め、ますます目頭が熱くなってしまう。
これまでドレスを褒められることは一度もなかった。
心の籠った贈り物を受け取るのも、シエナには初めてのことだった。
結局溢した涙で化粧を崩してしまい、呼び戻した侍女に直してもらっている間、ルイスはそれを楽しそうに眺めていた。お陰で血色をよくしてしまい、侍女らから送られる微笑ましそうな視線を耐える必要が出てしまった。
「シエナ」
ルイスのエスコートで玄関を出る途中、父に呼び止められシエナはゆっくりと振り返った。
どういうわけか相変わらず侯爵の眉間には皴が寄せられていて、跡が残ってしまうのではないかと、ついそんなことを考えてしまう。
「お父様」
「……お前は本当にこれでいいのか?」
それまでずっとシエナの意見になど耳を傾けてくれなかった父からの質問に、思わず目を見開いてしまう。シエナのその様子に何を感じたのか、ふと逸らされてしまった父の視線にどうしようもなく胸が痛んだ。
父の中にも様々な思いがあるのだろう。だがシエナはそれが何かはわからない。シエナの言葉の足りなさは、きっと父譲りなのだ。
「ごめんなさい、お父様。でも私は」
「それでお前が幸せになるというのなら、それでいい。好きにしなさい」
「お父様……」
「…………今まですまなかった」
背けられてしまった顔のせいで、父がどんな表情を浮かべていたのか、シエナは知らない。
かけるべき言葉もわからず立ち竦んでいると、エスコートの手を解いたルイスが前に進み出た。まるでシエナを守るように立つ背中で、父の姿が隠されてしまう。
「では、シエナのことは私にお任せください」
「……好きにしろ。だが帰ったら話がある。今後のことについてだ。逃げるなよ」
「わかりました。長居をするつもりもありませんので、手早く済ませて帰ってくることにします」
シエナがいつも委縮してしまう父の硬い声にも、ルイスの様子は変わらない。
早々に会話を切り上げたルイスの手を取りながらも父の様子が気になり振り返ると、父はどこか疲れたような表情で笑んでいた。それもシエナが初めて見るような表情で、急にこの場から離れがたくなってしまう。
「シエナ」
呼びかけてくるルイスの声に、シエナはそれを断ち切って馬車に乗り込んだ。帰ったら自分も父と話をしよう。
そのためにもまずは、目の前の問題を無事に片付けなければならない。
懐かしく感じるアカデミーの門をくぐると、不躾でない程度に視線が集まった。大半はシエナに向けられたものだが、誰にエスコートされているのかに気付くと令嬢たちの興味はすぐにそちらへと移っていく。
不仲と噂されていたカーティス侯爵家の兄妹が揃っているというだけでなく、着飾ったルイスはとても目を引くのだ。社交の場でも多くの令嬢や夫人たちの目を集め、シエナはそれを遠くから眺めていた。
だが今はそんなルイスに手を引かれて歩いていることがくすぐったく、新鮮な気分になる。
「シエナ・カーティス嬢」
ホールに向かう手前で呼び止められ、シエナはゆったりと振り返った。そこにはシエナも見知った、第一王子の侍従が恭しく控えていた。
「オーランド様がお呼びです。どうぞこちらへ」
「……わかったわ」
不安が押し寄せてきたのはほんの僅かな瞬間に過ぎなかった。安心させるように強く手を握ってくれるルイスの存在に励まされ、シエナはルイスの手を取ったまま侍従のあとに続いた。
領地ではシエナがルイスの後ろに控えていたが、ここでのルイスはシエナのエスコート役に過ぎない。侍従がルイスの存在を視界に入れないのも仕方のないことだとわかっているのに、納得することができない。
(私、すっかりお兄様に依存してしまっていたのね……)
いつまでも続く関係だと思っていたわけではないのに、離れなければならないことがどうしようもなく寂しく思えてならない。だがそれはその分だけ、シエナとルイスの関係が改善されたということだ。憂いが消えたことこそを喜ぶべきなのだ。
侍従に案内されたのは、休憩室のひとつだった。
部屋にはすでにオーランドの姿があり、やってきたシエナを一瞥して不服も露わに顔を顰めて見せる。だが、シエナが誰かにエスコートされていることに気付き、ルイスの存在を認めた途端、その顔は驚愕から怒りに染め上げられた。
「なんのつもりだ、シエナ」
「エスコートもなく困っていた私に、お兄様が名乗り出て下さったのです」
「わざわざ見せつけるような恰好を選んでまでか? 私は婚約を解消するつもりはないと言ったはずだ」
相手の持つ色を纏うということは、親しい関係であることを対外に周知する行いだ。
シエナはルイスの瞳の色と同じイヤリングをつけており、ルイスはシエナの髪と瞳の色と同じラペルピンを挿している。服も揃いとなるように作られているとなれば、二人を兄妹と知らぬ者から見れば親密な間柄のように見えるだろう。
しかし、それをオーランドに指摘されては堪らなかった。
「それではオーランド様は、これまで私にイソベル様との仲をわざわざ見せつけていらっしゃったのですね」
オーランドがイソベルを伴ってパーティに参加するとき、常に互いの色を身に着けていた。ただの偶然で受け流すにも、数を重ねればそこには明確な意図が見えてくる。ましてそれらはすべて、オーランドが用意したもの。
つい今しがたのオーランドの発言で、言葉なき悪意が見えてしまった。
(私はそこまで嫌われるようなことをしたのかしら……)
吐き出してしまいたくなる溜息を飲み込んで、シエナはまっすぐにオーランドを見据えた。
好意はなくとも、良きパートナーにはなれると思っていた。恋も愛もなくても、きっと情はあった。
だけどもう、シエナの中には何も残っていない。
「婚約の解消に同意してくださいませ、オーランド様」
「王命に逆らうというのか?」
鼻で笑い飛ばすオーランドにも、シエナは何も感じなかった。
ただ、虚しかった。
これまで自分が積み重ねてきた努力と我慢は、いったい何だったのだろうと。見えないオーランドの本音に、そこまでの関係も築けなかった自分たちが、これから先うまくいくはずがないのだ。
「発言をよろしいでしょうか」
オーランドは訝しげな顔を隠そうともせず、前に進み出たルイスを睥睨し、許可する。
ルイスはそれを少しも気にした様子もなく一礼し、緩く唇を持ち上げた。
「オーランド第一王子様とカーティス侯爵家が娘シエナの婚約の解消については、すでに国王陛下よりやむなしとの返答を頂いております。シエナの意志については先程お聞き及び頂いた通り。あとはオーランド様のお返事のみです」
そう言ってルイスは懐から取り出した書簡を侍従に預けた。オーランドはそれを奪うように侍従から受け取り、封を開けて目を走らせていく。
それを眺めながら、シエナは動揺をうまく隠すことができなかった。
そんなことは一言も聞いていない。
初耳なのはシエナも同じで、オーランドが読むその手紙にいったい何が書かれているのか、気になって仕方ない。それを見て取ったルイスに密やかに笑みを向けられても、返す表情はかたく強張っていた。
「──ふざけるな!」
突然上がったオーランドの罵声に、シエナの体がびくりと震える。
「私は認めないぞ!」
「と申されましても、すでに王宮には一足早くオーランド様とイソベル様のご卒業を祝う品が届けられております。周辺国ではシエナとの婚約はとうに解消されたものと認識され、オーランド様のご婚約者様はイソベル様となっているのです。今更それを誤解と言ってまわるのは……」
ルイスはすべては口にしなかったが、シエナには言わんとするところがわかった。恐らくオーランドも理解したのだろう。怒りに顔を染めながらも、そこから飛び出してくる言葉はない。
散々、シエナに見せつけるためにオーランドはイソベルを連れ回し、誤解を助長させ続けたのだ。今更シエナとの婚約は解消されておらず、イソベルについても王室とは関係のない令嬢だと公言するのは、王家の醜聞を撒き散らすことに等しい。
オーランドには自らが撒いた種として、責任を果たしてもらうほかない。
「ならばもう一度、シエナと婚約すれば良い」
「一度は破婚した相手を再び据えるなど、次の社交場では鳥がよく囀りそうです」
オーランドに睨みつけられても、ルイスには意に介した様子がない。シエナのほうが終始、ハラハラさせられてしまう。
当事者であるはずなのにどこか部外者のようで、だがシエナは言うべきことはもう伝えたのだ。まさか国王陛下の承諾を得ているとは思いもしなかったが、あとはオーランドに婚約の解消を認めてもらうだけでしかない。
「見苦しい真似はお止めになったら如何ですか、オーランド様」
「っ」
奇しくもそれは、かつてシエナがオーランドに向けられた言葉に似ていた。
オーランドの強い視線がシエナを見据え、ついルイスに頼りたくなってしまう。だが、ここが決別の時なのだと腹の底に力を入れて、シエナはオーランドを見つめ返した。
「さようなら、オーランド様」
傷付いたような顔をオーランドに向けられても、シエナの心は少しも揺るがなかった。それがオーランドに伝わったのか、すっと表情が抜け落ちていく。
「……もういい。好きにしろ」
「ありがとうございます。それでは、失礼いたします」
一礼し、シエナはルイスの手を取って部屋を後にする。来た道を折り返し、呼び寄せた馬車に乗り込んだところで体の力が抜けてしまった。
崩れかけた体はすぐさまルイスに支えられ、そのまま隣り合って座席に腰を下ろす。
「大丈夫か、シエナ」
「はい。……安心したら、なんだか気が抜けてしまって……」
終わってしまえば、随分とあっさりとした最後だった。
話が拗れることもシエナは予想していたのに、ルイスのお陰で杞憂に終わってしまった。
深く息を吐き出して、シエナはルイスを軽く睨みつけた。
「いったいいつの間に陛下とお話をされていたんです?」
「さあ、いつだったか」
「……今回の件で、お兄様はだいぶ無理をされたんじゃないですか?」
「気にすることはない。俺自身のためにも必要だったことだ」
ぽんぽんと頭を撫でてはぐらかされる。
本音が見えないのは、ルイスも同じだった。
どうしてここまで優しくしてくれるようになったのか。
シエナは家に留まるつもりはないが、それをルイスにも伝えてはいるが、カーティス家の正当な後継者はシエナだ。オーランドとの婚約が解消された今、継承権はシエナに戻される。
「お兄様は、今回の件での対価に、何をお望みですか?」
貴族は無償での奉仕をしない。そこには少なからず、何かしらの対価が潜んでいる。
次期侯爵家当主となるルイスに今のシエナがどれだけのものを払えるかはわからないが、それでも一生をかけて返すつもりでいた。それはルイスにこの話をしたときからずっと考えていたことだった。
真摯にそれをルイスに伝えると、不意にルイスが纏う気配が変化した。
それが何を意味するのか考える間もなく、ルイスに手を取られ指先に口づけられた。軽く伏せられた目には、それまで見たこともないどろりとした熱がくすぶっていた。
咄嗟に、無意識のうちにシエナは掴まれた手を引こうとしたが、それよりも強く腕を引かれ、いつかのようにルイスの胸に抱き込まれていた。
「愛してる、シエナ」
「──っ」
「俺が望むのは君だけだ」
深く抱き込む腕の中から抜け出したいのに、それは叶わない。シエナが身を捩るたびに腕の力が強められ、離れられなくなる。
「な、にをおっしゃって──、お兄様と私は」
「最初に言ったはずだ。兄になったつもりはないと。ずっと君が好きだった」
耳元で熱く囁く声に、息の仕方を忘れる。
確かにその言葉は聞き覚えがある。幼いシエナの胸に、突き刺さり続けていた言葉だ。だがそれはいずれ王家に嫁ぐシエナを妹として認めないと、ルイスの立場を脅かすかもしれない者に対する牽制だと思っていた。
だけどそれが、まったく違う意味を持っていた──?
「でっ、でしたらなぜ、ずっと私に冷たく接していたのですか!」
そのことにどれだけシエナが心を痛めたのか、もう知らぬはずはないのに、いまさらそんな言葉は聞きたくなかった。
ぐらぐらと足元が揺れるような、過去が虚像と崩れてしまうような不安に詰るように声を荒げてしまう。
ルイスは僅かに腕の力を緩めると、唇に苦い笑みを浮かべた。
「君は知らないだろうが、元は俺と君が婚約する予定だったんだ。だがその直前になって、王家が話を捩じ込んできた」
「……ぇ」
「おかげで君と婚約する話は消えてしまった。しかし君が王家に嫁げば侯爵家を継ぐ者がいなくなるため、俺は君の婚約者としてではなく次期当主として侯爵家に入ることが決まったんだ」
これまで知らなかった話に、気持ちの整理が追い付かない。
そんな話は聞いたこともなく──、恐らくは嫁ぎ先となる王家への不審をシエナが抱かないようにするための配慮だったのだろう。
「君の兄として接すれば、この想いも忘れられるかと思った。だけどシエナにお兄様と呼ばれるたび、胸が裂けるほど苦しくなって、名前で呼ばれたいと強く思っていた。そのせいでシエナに辛く当たってしまったのは、俺が子供だったせいだ。そして修復もできずにそのまま来てしまった」
当時のことを思い返しているのか。苦しげに歪んだ顔で力なく笑うルイスに、どんな言葉もかけることができない。
苦しんでいたのはルイスも同じだったと、知りもしなかった。
自分ばかりが辛くて、苦しくて、頼れる者などいないといないと思っていたのに、こんなにも身近にシエナのことをずっと想い続けてくれた人がいたのだ。
とくとくと、高まる胸の鼓動がどこか懐かしい。
初めてシエナがルイスと顔を合わせた時も、こんな風に胸が高まっていた。けれどこれは、その時とは少し違う。
「今も、私がお兄様と呼ぶのは辛いのですか」
「…………慣れたくはなくても慣れてしまうものもある」
「おに──っ、……ルイス、様」
いつものように呼び掛けて、シエナは初めて婚約者から兄にならざるを得なかった人の名前を呼ぶ。
嬉しそうに、泣きだしそうに溢された笑みに、ぎゅっと胸が締め付けられる。
「ああ……。君に名前を呼ばれるのは、こんなにも幸せなことだったんだな」
先ほどまでの力任せの抱擁とは違う、大切な宝物を包み込むような優しさに、シエナは素直にその身を預けていた。
僅かな間にすっかり慣れてしまったルイスの腕の中が、これまで以上に心地いい。何もなくなってしまったシエナの中が、ルイスの優しさで満たされていく。
「今まで苦しめてごめんなさい、ルイス様」
「自分で蒔いた種だ。俺も人のことは言えないな」
いいえ、とルイスの腕に抱かれたまま、シエナは首を振る。
ルイスのそれは自分を守るための盾だった。それにルイスは過去を悔いている。シエナが傷付いた過去は消えないが、きっとすぐに忘れることができる。
(だってこんなにもルイス様の腕は私に幸福をもたらしてくれる)
以前には考えられなかったことだ。
しばらくの間ただ静かに抱き合い、馬車の揺れを感じていた。
徐々に理性が宿り、恥ずかしくなったシエナが体を離そうとしても、ルイスがそれを許してはくれなかった。仕方がなくシエナは離れることを諦めて、ルイスの胸にそっと凭れた。
「返事を聞かせてくれないか、シエナ」
「……ルイス様は、侯爵家に来られる以前から私のことを知っていたのですか?」
すぐに出せる答えでもなく、代わりに気になったことを尋ねる。
これまでずっと、シエナはルイスのことを兄と、新しくできた家族と思い過ごしてきたのだ。結ばれなかった婚約者だと、想いを寄せていると伝えられても、すぐに切り替えられることでもない。
シエナは誰かを思うことが怖い。
思った相手が心変わりしてしまうのが怖い。
相手がルイスであれば余計に、その恐怖心は強くなる。
「ああ。一度だけそれよりも前に侯爵家に行ったことがあって、君を見かけた。声をかけることも顔を合わすこともなかったから、シエナが知らなくて当然だ。……一目惚れだった」
ぎゅっと深く抱き込むように囲われて、耳元で囁きを聞いて、どうしてか体が熱くなっていく。
はしたなく思えるのに、どうすることもできない。
「……時間を、ください。オーランド様との婚約を解消したばかりでルイス様と婚約すれば、要らぬ種となってしまいます」
「もちろん、構わない。……だけど」
「ひゃっ」
ちゅ、と耳元で軽い水音がして、シエナは咄嗟に首を竦めた。ルイスを振り仰げば、優しいだけではない色をした眼差しで見つめられる。
「シエナも俺との婚約を望んでくれると、そう思っていいのか」
「……ルイス様が想ってくださるように返せるかはわかりませんが、それでもよろしいのですか?」
「シエナがそうなってくれるように努めるのが、俺の役目だ。急がず、ゆっくりでいいから、俺を兄としてではなく望んでくれると嬉しいよ」
その日が来るのはきっとすぐだと、ルイスの優しい抱擁を受けながらシエナはそう感じた。