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前編

「まあ、ほら。あちら。ご覧になって」


 囁くように聞こえてきた棘のある声に、シエナもつい惹かれるようにそちらに顔を向けてしまった。前方にいた令嬢たちと同じ視線の先、賑やかに中庭を歩く集団。注目されていることすら意識に無い振る舞いに、その中心にいる人物を見つけて、シエナの小さな唇からそっと溜息が零れ落ちた。


「殿下はどうしてあのような方を傍に置かれるのかしら」

「ご友人でいらっしゃるようですけど、いったいどのような関係のご友人かしら」

「そのように仰っては不敬──、ぁ」


 不意に途切れた言葉に、強く感じる視線に、シエナは俯きかけていた顔を上げて控えめに微笑んだ。そして慌てて礼を取る彼女らに目礼のみを返して、止めていた歩みを再開させる。

 ひそひそと、シエナが立ち去った後に交わされる言葉は聞かなかったことにして。


 目的地である図書室に訪れても、シエナの脳裏には先ほど見た光景が目に焼き付いて離れなかった。

 集団の中心にいたのは、この国の第一王子であるオーランド。彼は婚約者であるシエナには向けたこともないような優しげな笑みを浮かべて、その腕を取る少女に微笑みかけていた。

 胸が痛まないわけではない。

 婚約者であるシエナをないがしろにし、シエナよりも下位の貴族令嬢を優遇するオーランドに憤りを感じないわけではない。

 侯爵家の娘として、一人の令嬢として、なぜこのような辱めを受けなければならないのか、シエナは常に自問自答していた。令嬢たちの手本となるよう、勉学の手は抜けなかったし、シエナ自身、侯爵家令嬢としての誇りも自尊心もあった。

 まだ十になる前、第一王子の婚約者に選ばれた時だって、シエナは誰にも恥じることのない王子妃であろうと、王家からの厳しい教育にも弱音を吐かなかった。

 それはその当時はまだ、オーランドの心はシエナに向いていたからだ。

 だが、十四となり貴族の子息令嬢であれば必ず入学しなければならないアカデミーに入ってから、シエナの前に暗雲が立ち込め始めていた。


 最初の一年は平穏だった。

 アカデミーに通いながら王子妃教育も施され、日々が忙しくて仕方なかったが、息苦しい屋敷に篭りきりになるよりずっと息がしやすかったし、疲れればオーランドがそっと支えてくれた。

 このころは確かにシエナとオーランドの心は通っていた。

 けれど二年次に入った頃からおかしくなり始めた。

 きっかけは一人の少女イソベルがアカデミーに現れたことだ。とある子爵の隠し子で、元は平民だったというが礼儀作法はしっかりと身についていた。だが長年過ごした市井での感覚はそう簡単に抜けるものではなく、些細な問題は起こしていた。

 しかし貴族と平民の価値観の相違は、このアカデミーに通う者なら誰でも理解していた。だから特にこれという問題もなく、彼女はこのアカデミーに馴染めていたはずだった。

 おかしい、とシエナが感じ始めたのは、以前よりもオーランドと会える時間が減り、彼がイソベルと時間を共にしていると噂を聞くようになったからだ。

 オーランドは優しい心根の持ち主だ。だから、元平民のイソベルが貴族社会に早く馴染めるよう、オーランドが率先して関わっているのだと思っていた。だからシエナは何か手伝いはできないかと、オーランドに尋ねた。けれど。


「点数稼ぎのつもりか? 見苦しいな、シエナ」


 嫌悪も露わにして吐き捨てられた言葉に、初めて見るオーランドの様子に、シエナはすぐに言い返すことができなかった。いったい彼は何を言っているのだろうか。何かの行き違いがあったのではないか。尋ねたいことはあったが、あまりの動揺に舌は絡まるばかりで何の言葉もでなかった。

 それが、いけなかった。

 シエナの動揺を図星を指されたからだとオーランドは決めつけたのだ。焦ってシエナが否定したのも悪かった。思い込みを強めたオーランドはシエナの一切を拒絶し、立ち去ってしまった。

 それからというもの、オーランドはイソベルとの関係を隠さなくなった。堂々とイソベルをエスコートし、傍にあることを許し、親密な関係を見せつけた。それと前後するようにオーランドの側近候補である子息たちまでイソベルに侍るようになり、アカデミーは静かに乱れ始めていた。


 確かにイソベルは愛らしい娘だった。

 柔らかなハニーブロンドの髪に、澄んだ湖畔のような青い瞳。屈託のない笑みは無邪気で、癒しの力でも秘めているように心を安らがせる。

 本音を良しとせず、建前と繕いに満ちた貴族社会に浸かる子息たちにとっては、感情を露わにし本音を語るイソベルが何よりも代えがたい存在であるように見えたのだろう。

 まだ婚約の状態でありながら、それ以上自身の婚約者との関係を深めることより、目先の安息を彼らは選んだのだ。


 側近候補の子息たちの婚約者は、まだいい。たとえ政略が絡んでいたとしても、実家の意向によって婚約を解消することも叶うかもしれないのだ。

 けれどシエナは違う。そんなことはできない。

 王家からの打診によって結ばれた婚約を、シエナから破棄することはできない。たとえオーランドに瑕疵があったとしても。だからこの婚約を穏便に解消するには、オーランドから言い出してもらわねければならない。

 だからシエナは邪険にされようとも、オーランドと対話の席を望んだのに。


「君との婚約を解消するつもりはない」

「え……」

「それと、イソベルはただの友人だ。私は友人と語らうことも許されないのか?」

「し、しかし、オーランド様は先日のパーティでイソベル様をエスコートしていたではありませんか」


 私ではなく、と滑りかけた言葉を、シエナはぐっと飲みこむ。

 まるで嫉妬に駆られたような醜い言動は、貴族令嬢らしくない。貴族令嬢らしく、王子妃らしく、ふさわしい振る舞いを見せなければならない。

 それはシエナにかけられた呪いのように、シエナが告げたい本当の言葉を奪っていく。


「ああ。イソベルが王宮でのパーティに興味があるというから招待したんだ」

「……では、ドレスや宝石を贈られたのは」

「子爵家では王宮にふさわしい装いを準備するのも大変だろう」

「そのことを軽々と言いまわるイソベル様のお陰で、私達の婚約が破棄されるかもしれない、という噂が出回っていることを承知の上での発言ですか」

「彼女には私から注意しておこう。婚約を破棄することはないと彼女にも伝えているのだがな」


 億劫そうに語るオーランドの態度に、シエナはスカートの上に置いた手をきつく握り締めた。

 ドレスも宝石も、イソベルが現れてからオーランドに贈られたことはない。そのせいで社交場でシエナがどういう風に笑いものにされているか、オーランドが知らないはずはないというのに。

 知った上で、オーランドはシエナとの関係を維持したまま、イソベルとの関係も終わらせるつもりはないのだ。


 いったいどうして、こうなってしまったのだろう。


「……殿下のご意向は承知しました。ですが、でしたら婚約者としての務めも果たして下さいませ」


 次に王宮で開かれるパーティには、他国からの貴賓も多く招待される。その時にオーランドの隣に立つのがイソベルであれば、招待した者たちに大きな誤解といらぬ憶測を与えてしまう。

 面倒そうにではあるがエスコートを承諾したオーランドにほっと胸を撫でおろし、その場を辞したシエナではあるが。

 招待状は届けどドレスも宝石も何も贈られることもなく、当日になってもエスコートのために迎えに来ることもなかったオーランドに、ついにシエナを保ち続けていた糸がプツンッと切れてしまった。



 パーティの間中壁の花を務め、招待客たちの怪訝な眼差しや嘲笑の混じる会話をどうにかやり過ごし、邸宅へと帰宅した頃にはシエナにはもうどうすればいいのかわからなくなっていた。

 一人で出掛け、一人で帰宅した娘にも父である侯爵は何も言わなかった。


「……シエナお嬢様」

「ロザリー……、私、もうどうすればいいのかわからないわ。オーランド様は婚約を解消するつもりはないみたいだし、お父様もアカデミーを卒業するまでのお遊びだろうと耳を傾けても下さらない。私が我慢すれば、すべて丸く収まるのよ」


 けれどシエナにはもう我慢するだけの気力も残っていない。今をやり過ごしても、オーランドへの不信感が消えることはなく、そのような状態で王子妃を務めなければならないなど、シエナにとっては耐え難いものでしかない。


「お嬢様……」


 そっと抱き締めてくれる温もりに、シエナはそれまで張り詰めていたものを緩めて涙を溢した。ロザリーはただそんなシエナをひたすらに抱き締め、頭を背を撫でて慰めてくれた。

 ロザリーの優しさにますますシエナの涙腺は緩み、けれど泣き暮らしてなどいたくないシエナの矜持が、涙を止めてしまう。

 湯で温めたタオルで腫れた目元を癒していると、何かを決意したような硬い声でロザリーが呼びかけてきた。

 シエナはタオルを外し、ロザリーを見つめ返した。


「シエナお嬢様。……ルイス様に、ご相談されてはいかがですか」


 ロザリーが口にしたその名に、シエナはかたく体を強張らせた後静かに首を横に振った。


「だめよ。ルイスお兄様には……話せないわ」

「ですがこのままではシエナ様が……!」


 なおも言い募ろうとする侍女を宥めて、そっと目を伏せる。


 ルイスはシエナの兄ではあるが、血の繋がりはない。侯爵の一人娘であるシエナがオーランド第一王子の婚約者に選ばれたため、侯爵家の後継のために家門の中から引き取られてきた養子だ。

 太陽のように煌めく金の髪と、怜悧な緑の瞳は物語で読む王子様のようだと、初めてルイスと顔を合わせたシエナは思った。シエナのくすんだ淡い金の髪と白茶けた緑の瞳とは違う、本物の色を持った美しい人。

 そんな彼がシエナの兄になるのだと聞かされて、胸がときめかなかったわけがない。だが、シエナの浮ついた感情もすぐに地上へと叩き落とされた。


「私は君の兄になったつもりはない」


 冷たくその言葉をかけられて以来、シエナはルイスとは関わりを持たないようにしていた。

 成人すればシエナは侯爵家を出ていく存在でもある。子爵家から引き取られてきたというルイスにとって、侯爵家の後継になるためにもシエナは不要な存在だったのだろう。


 最低限の挨拶以外、声をかけなければ顔も合わせない。そういう生活を何年と続けてきた。

 そういえば今日のパーティに行く直前、珍しくルイスの姿を見かけたような気もしたが、言葉も交わさずに発ってしまった。

 それだけの関係であるルイスに、何を相談すればいいのだろうか。それにシエナはオーランドとの婚約を解消したいのだ。もしそうなれば侯爵家はルイスではなくシエナが引き継ぐことになる。ルイスにとっても、シエナは婚約を解消してほしくないはず。

 それでも、と、シエナは思う。

 シエナに関して流れる不名誉な噂は、ルイスにとっても不本意極まりないものだろう。第一王子にないがしろにされる婚約者の生家として、我が侯爵家はどういう扱いを受けているのだろうか。

 今までまったく思い至らなかった──考える余裕のなかったことに、シエナの顔からさっと血の気が引いていく。ルイスはシエナを嫌っているようだが、だからといってシエナはルイスに嫌われたいわけではない。

 椅子を鳴らす勢いで立ち上がったシエナに、ロザリーが驚いた声を上げた。


「ごめんなさい、ロザリー。そうね、あなたの言うとおりお兄様に相談してみようと思うわ。いつでも構わないから時間を取っていただけないか、確認してくれる?」

「かしこまりました」


 折り目正しく礼をして退室するロザリーを見送って、シエナは力なく椅子に腰を落とした。オーランドの婚約者として張り詰めていた糸は切れてしまったが、シエナは侯爵家の娘である。そのよすがまではまだ切れていない。

 ルイスは今、侯爵について領地経営に始まり様々なことを学んでいる。忙しくしているルイスがシエナのために時間を取ってくれるかどうかは賭けに等しかったが、ルイスもシエナを取り巻く噂については打開したいと考えているだろう。


「お父様と同じだったらどうしよう……」


 急に押し寄せてくる不安にきつく己の腕を抱き締め、深く息を吐き出す。だがここでシエナが一人で考えても、何の答えがでるはずもない。

 もしそうであれば、何もかも捨てて自由になってしまいたい。


「もう、疲れたの」


 言葉にしてしまえば、自分が何を望んでいるのかがよくわかってしまった。

 すぅっと気が楽になって、今なら何でもできるような気がする。


「お嬢様。ルイス様がこれからお会いしたいそうです」


 だからといってロザリーが持ち帰ってきた返事は、あまりにも急すぎてどうすればいいのかわからなくなってしまったのだが。



「失礼します、お兄様」


 許可を得て部屋に入る足が緊張に怖気づいていた。思い返せば食堂や屋敷の廊下以外でルイスと顔を合わせるのは初めてのことであり、彼に執務室として与えられている部屋に入ることさえ、初めてだった。

 執務机に向かっていたルイスはシエナの姿を一瞥すると、書きかけだった書類を手早く書き上げて控えていた従者にそれを手渡し、立ち上がった。


「お前も座りなさい、シエナ」

「……はい、失礼します」


 かたく緊張するシエナを知ってか知らずか、ルイスはソファに移動すると手振りで従者に何かの指示を出す。主の意を汲んだ従者が退室するのを横目に見ながら、シエナは静かにルイスの対面に腰を下ろした。

 食堂で顔を合わせるときは二人以外にも侯爵や使用人たちが控えているが、今はルイスの従者も部屋の外に出てしまい二人きりだ。緊張しないということのほうが難しい。

 まともに会話をしようとするのも今日が初めてのことで、どう切り出せばいいのか悩んでいると、ルイスが小さく息を吐き出す音が聞こえてきた。知らず、シエナの肩が跳ねる。


「……泣いたのか」

「え?」


 言葉が言葉として耳に入ってこず、つい無作法に聞き返してしまう。

 とっさにシエナが言葉を発しようとする前に、ルイスが自らの目元を指先でトンと叩いた。


「目が腫れている。お前の侍女は何をしている?」

「あ……。お見苦しいものを、申し訳ありません……」

「そうではないが……、まあいい」


 ルイスが言葉を切り上げたのと同時に、扉がノックされる。入ってきたのは先程出ていった従者で、見ればティーセットの載ったワゴンを引いている。カップはもちろん、二客用意されている。

 まさかもてなされると思っていなかったシエナは驚いて腰を浮かしかけ、理性で留まった。


「あの、お兄様。私、お兄様の休憩をお邪魔してしまったのでは」

「違いますよ、シエナ様。むしろルイス様はお仕事中はあまり休憩をとられない方なので、シエナ様が訪ねてくださってちょうどよかったです」

「無駄口を叩くな、ミゲル。用が済んだら早く去れ」


 思わずシエナが身を竦めたくなるルイスの冷えた声にもミゲルは気にせず、二人の前にカップを置くと飄然と去って行ってしまった。半ば呆然とそれを見送っていたシエナの意識を、ルイスがカップを手に取る音が呼び戻す。

 ルイスを窺い見ると、苦虫を噛み潰したような表情でカップに口をつけ、肩を竦める。それはシエナが初めて見るルイスの表情と仕草で、どういう反応をすればいいのか、シエナにはわからなかった。


「軽い男だが信用はできる。あれで茶を淹れるのがうまいのが腹立たしいが、味は私が保証する」


 シエナがカップに手をつけようとしないのを、ミゲルを警戒してのことだとルイスは考えたのだろうか。

 なんだかむずむずとした、照れくさいような嬉しいような、複雑な感情が胸の底から沸いてくる。


(お兄様は私のことを嫌っているわけではなかったの……?)


 どこかで何かの行き違いがあったのだろうか。そうであれば嬉しい。

 ルイスにじっと観察されていることにも気付かずにシエナはカップに口をつけ、ほぅっと吐息を洩らした。馴染みのない茶葉のようだが口当たりがまろやかで、すっと広がる香りが心地よい。

 その感覚はロザリーが用意してくれる、気分を落ち着つける効果のあるハーブティーとも似ている。


「少しは落ち着いたか?」


 その言葉にシエナは確信する。

 このお茶を選んでくれたのがルイスだと。


「はい。お心遣いありがとうございます、お兄様」


 もう一口とシエナが進んで口をつけると、ルイスの口角が笑みに持ち上がった。

 まるでたった一杯のお茶がシエナとルイスの間にあったわだかまりも解いてくれるようで、当初部屋に入ってきたときの緊張は、シエナの中のどこにもなかった。


「それで、侍女からはシエナから話があるということしか聞いていないが」

「……はい」


 だが、ふわふわと浮ついていた気持ちも、ぱちんっと弾けて消えてしまう。

 シエナはカップを下ろした手を膝に置くと、己を奮い立たせるようにきつく握り締めた。

 お茶を飲んだばかりだというのに、喉がからからに渇いていく。


「あの、……貴族の間での我がカーティス家の評判というのは、どうなっているのでしょうか」


 尋ねたのはシエナだが、その答えはあまり聞きたくなくて自然と顔が俯いていた。どうも何もない。カーティス侯爵家の評判を落としているのは、他でもないシエナだ。

 それがわかっているから、他でもないルイスからそれを肯定する言葉を聞きたくなかった。


「……あまりよくはないな。だが、先日と今回の一件でこの婚約をないがしろにしているのは王家であると、侯爵家に対しての同情も同じくらいある」

「そう……なのですか?」


 意外な答えに、シエナはつい目を丸くしてルイスを見てしまった。

 ルイスはまっすぐにシエナを見つめ返して、頷く。


「貴族の中で政略結婚の意味を知らない者はいない。まして王家の指名によって成り立った婚約であり、カーティス家は侯爵だ。何の瑕疵もない侯爵令嬢を不当に扱う奔放な第一王子への風当たりのほうが強い」

「……」

「とはいえ、相手が第一王子であるからこそ、誰もが口を噤んでいるが」


 ルイスの語り口は淡々としているが、そこには王家への不信感が滲んでいた。正確には第一王子であるオーランドに対しての、だろうか。

 まさかルイスの口からそのようなことが聞けるとは思わずに諦めていただけに、シエナは驚きを抑えながらルイスの言葉を咀嚼することで精一杯だった。

 そうして侯爵家の立場は悪いものではない、という事実に少しの勇気をもらって、シエナはいよいよ本当に言いたかったこと、聞きたかったことをルイスにぶつけようとした。

 気分を落ち着かせるためにカップで唇を湿らせて、そっと深呼吸する。


 少なからず、ルイスからシエナを突き離そうとする気配は見えない。

 けれど次に口にする言葉で、それが大きく変わってしまうかもしれない。

 だけど、もう、シエナは疲れてしまったのだ。

 早く楽になってしまいたい。

 思い悩まされたくなどしたくない。

 それを口にすれば、シエナは楽になれるのだ。

 そう思えば躊躇っていたことが不思議に思えるほど、するりと言葉が落ちてきた。


「──お兄様。私、オーランド様との婚約を解消したいの」


 僅かに見開かれたルイスの瞳をまっすぐに見返して、シエナは痛みを覚え続けてきた胸を奮い立たせるように、胸の前できつく手を組んだ。


「オーランド様に申し出ても、解消するつもりはない、イソベル様はご友人だの一点張り。お父様にお願いしてもアカデミーに通う間の遊びには目を瞑れ、私は王子妃になるのだからと仰るばかりで、誰も私の気持ちなんて考えてくれない……。私は王子妃になりたいわけでも、望んでオーランド様の婚約者になったわけでもないのに」


 もう疲れたのと囁くように溢すシエナの瞳から、はらはらと静かに雫が溢れ出す。

 溢す涙など枯れたと思ったほど泣いたばかりなのに、シエナは本当に悲しかったのだ。辛かったのだ。

 耐え続けるシエナにまだ耐えろという周囲から逃げ出して、自由に息をしたかった。


「……そうか」


 それだけを返してくる静かな声に、シエナはすっと身が冷えていくような感覚に陥った。

 だがすぐに身近に感じた気配に、包み込む温もりに、一度引っ込んだ涙がぼろぼろと零れてくる。冷えていた体にじんわりとルイスのあたたかさが伝わり、抱き締められる心地よさに感情が解れていく。


「おに、さま……っ」

「よく頑張った、シエナ」

「っ、ぅ、く……、お兄様……、わた、私っ」


 感情が昂って思ったように言葉が出ないのに、追い打ちをかけるように優しく頭を撫でられて、もう我慢ができなかった。

 ルイスの体に縋りついて、シエナはこれまで我慢していたものすべてを感情のままに吐き出した。


 オーランドの素気無い態度に傷付いていたこと。

 オーランドがイソベルを優先するたび悲しかったこと。

 周りから同情や憐憫の目で見られるのが嫌だったこと。

 父に顧みられなくて辛かったこと。


 ルイスに冷たくされるのが、寂しかったこと。


 ずっと秘めたままでいるつもりだった想いが、止め処なく溢れていく。

 思うさまに吐き出す言葉は泣いていることもあって聞き苦しかったはずなのに、ルイスはシエナの言葉ひとつひとつに頷いて、慰めてくれた。


 辛かったな。寂しかったな。もう大丈夫だ。シエナはよく頑張った。


 慰めの声を掛けられるたび、その言葉がすっとシエナの耳から体の中に落ちて、癒してくれる。不思議なくらいに気分が安らいで、張り詰めていた糸は切れてしまったけれど、別の何かが優しく倒れたシエナを起こしてくれる。

 泣き続け、話し続けて疲れた喉を休めようと大きく呼吸していると、ぽんぽんと軽く触れるように頭を叩かれて、シエナは今の自分の状況を思い出し、かぁっと顔を赤らめた。

 いくら血は繋がっていないとはいえ、兄に、異性にここまで接触したのは初めてのことだった。ダンスの時でさえオーランドとは距離があって、体が触れ合うことなどなかったのに。

 おまけに皴ができるほどルイスのシャツを握り締めていたことに気付いて、シエナは慌てて手を離して体を仰け反らせた。


「ごめんなさいっ! おにいさ、あ!」

「シエナ!」


 焦って仰け反った体がそのまま重力に引き寄せられる。

 倒れ込んでもソファの上なのだから衝撃はそれほどないだろう。それでも迫り来る衝撃を覚悟してかたく目を瞑っていると、ぐっと腕が強く引かれ、体は離れたばかりのルイスに抱き締められていた。


「お、お兄様……?」

「シエナはお転婆だったんだな。知らなかったよ」

「っ」


 ふっと溢された初めて見るルイスの笑みに、ばくばくと鼓動が躍り出す。


(いいえ違うわ。これは先程倒れそうになってしまったからよ)


 自分でもわかるほど赤く熱くなっていく頬に、シエナはそれを見られまいと深く顔を俯けた。だから、ルイスがどんな表情をしていたかなんて、シエナは知らない。


「少し落ち着こう、シエナ。まだ君と話しておきたいことがある」


 そう言われて持たされたカップの中身を飲みながら、シエナはルイスが自分に対して呼びかける言葉が変わっていることに気付いた。気のせいか、言葉の雰囲気も少し柔らかい気がする。

 どういうことだろうかとシエナがそっとルイスに視線を送ると、柔らかな笑みが返ってくる。今まで無表情に見られるか、不快そうに眉を顰められていたのに、この変化はなんなのだろうか。でもこれは、嬉しい変化だ。

 シエナがルイスに冷たくされるのが寂しいと言ったから、優しくしてくれているのだろうか。


「申し訳ありませんでした。お兄様。もう大丈夫です」

「そうか? それじゃあ改めて聞くが、……シエナは本当に、オーランド王子との婚約が解消されても構わないんだな?」

「……はい。たとえ一時の戯れであったとしても私は十分傷付きましたし、たとえオーランド様から謝罪を頂いたとて許せそうにはありません」


 きっぱりと言いきってから、シエナは形の良い眉を下げた。

 未だシエナの腰にまわした腕を解こうとしないルイスの近さにドキドキとしながら、控えめにルイスのシャツを握る。ルイスの腕の中で存分に泣いてしまったせいだろうか。離れていることが今は寂しく感じられる。


「ですが、もし婚約が解消されてしまえば」

「ああ。シエナは王室に入らず、カーティス家の家督はシエナに譲られる」


 わかりきっていたことだった。

 いなくなるシエナの代わりにルイスは迎え入れられたのだから、シエナが家を出る必要がなくなれば、ルイスもまた必要もない存在ということになる。


「お兄様。私、婚約が解消されれば修道院に入ろうと思っているの」

「シエナ? いったいなにを」

「私とて侯爵家の娘ですもの。結婚に夢を抱いていたわけではありません。ですが、この先もきっと私は夫となった誰かの心変わりを、ないがしろにされる恐怖に怯えながら生き続けることになる。……もう疲れてしまったの」


 婚約が解消できた後のことは誰にも言うつもりはなかった。手紙だけを残してひっそりと消えるつもりだった。

 だが、ルイスのこれまでが無駄になってしまわないよう、安心してルイスが侯爵家を継げるようにするためにも、伝えておいたほうがいいだろうと思えば、自然と言葉が零れていた。


「……そうか。シエナがそれで後悔しないというのなら、それもいいだろう」

「ごめんなさい、お兄様」

「謝らなくていい。だがシエナ。君は自分で口にしている以上に疲れている。領地に戻ってゆっくり心と体を休めて、それから決めてもいいと思うが、どうだろう?」

「ですが、アカデミーと王子妃教育が……」


 自分の気持ちをすべて伝え、否定されなかった安堵だろうか。ルイスの落ち着いた声と優しく体を撫でる手のひらを感じていると、少しずつ瞼が重くなってくる。

 ルイスと話をするために起きていたいのに、どんどん意識は眠りに引き寄せられていく。


「アカデミーは休学という手があるし、婚約は解消されるのだから教育を受ける必要もない」

「お、兄様……?」


 眠りに落ちかけている眼差しでルイスを見上げれば、大きな手のひらに優しく両目が覆われ、視界が優しい闇に包まれる。

 ふと耳元に感じる息遣いに体を捩らせても、鉛のように重くなった体はただ僅かにルイスに甘えるように震えただけだった。ルイスの胸に深く抱き込まれても、シエナは何も考えられないほど、眠かった。


「おやすみ、愛しいシエナ」


 低く甘い声に誘われて、シエナの意識は深い眠りに落ちていった。

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