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小高い森から王都を見下ろしている。
王都よりもこの森の方が少し標高が高く、開けた場所から王都を臨むと自然と見下ろす形になるのだ。少し曇った空の下、森を背に緩やかな平原が広がり、その森と平原の境目にを縫うように真っ白な城壁が連なる。その内側に、大きな城、その後ろへたくさんの建物がが軒を連ねている。ちょうど、王城の真後ろから王都の街並みを見下ろしている。
せっかくの異世界なのだから、真っ青な空の下にでかい城門と、まっすぐなメインストリートの向こうにそびえる白亜の城とかが見たかったのだが。そんなファンタジーな世界より、どちらかというとヨーロッパの古い町並みに似ている。世界遺産か何かの、中世の城塞都市の保存地区の写真を見た記憶が脳裏をよぎる。
森とは反対側の城壁の終わりの方は城壁の外側にも町と呼べるほどの家の群れが広がる。街はそのまま平原を切り取る海へ向かって広がる。遥かにかすんでほとんど見えないが、きっと港もあるのだろう。そこから離れるにしたがって建物はまばらになる。海に面していない側は、城壁の外側の緑と茶色の平原にポツリポツリと平屋建ての家が点在する程度だ。何軒か一緒に建っているようだが、集落というほどのものでもなく、どちらかというと大きな農家の印象に近い。
「さて、ここからはまた、二人旅ですね。どうです?異世界を見た感想は?」
にこにことチュートリアルがこちらを見上げてくる。賢者がチュートリアルをガン無視してこの王都が見える場所まで連れてきてくれた時は真顔で歩いていたのに、現金な奴である。賢者はこの森から離れられないという事だったので、この先には行けないらしい。
「なんか、割と普通だな……。天気悪くて遠くは見えないし。」
ぼんやりと正直な感想をもらす。今のところ最大の異世界を感じたのは賢者のホログラムチックな消失だった。景色としてはなかなか圧巻だがいかんせん標高が低い。
「おや、そうです?残念です。まぁでもそうですね。一雨来るかもしれません。その足元の装備では若干心もとないですねぇ。」
チュートリアルは頬に掌を添えて唇を尖らせている。こういうところがうさん臭いのだが、可愛いのでよしとする。それにチュートリアル以外の同行者もいないのだし。
「なにかクロッカスに恨みでもあんのかよ……。」
森から下る斜面を獣道を辿って降りていく。確かに滑って少々手間取ってはいるが。
「いやないですよ。むしろすごく便利だと思っていますけど?」
履いたことがあるのか。この世界からすれば異世界産クロッカスだが。異世界産になるとクロッカスのレア度が跳ね上がった気がする。
「俺だって異世界向きの装備じゃないことくらい分かってるけど。少なくとも俺のとこは夏休み初日の人間にちゃんとした格好でいる奴は帰省組だけだった。」
そもそも寮内であの時靴を履いてたのは俺とトイレでスリッパを履いてたやつだけだと思う。誰が異世界に落下する想定で日常を営んでいるんだ。
ずりずり斜面を滑りながら下る。スリッパじゃなくて本当に良かったと思う。
「ずいぶん遅い夏休みですね?」
先導するチュートリアルが仰向いて俺を見上げた。空模様と俺の様子の確認を一動作ですませたようだ。たぶん、俺の方は空模様の確認のついでだ。
「そうか?」
7月中盤はわりと普通だと思うが。
と、視界を直線が横切った。続いてぱた、ぱたと音がする。
「あ、降ってきましたね。ちょっと足場のいいところまで行って小休止としましょうか。」
チュートリアルは掌を空に向けて、俺の方を振り返った。地面の色があっという間に変わり、叩きつける雨音がする。確認するまでもないほどには雨が降ってきている。
「急に来たな。」
ちょっとばつが悪そうな顔でチュートリアルは掌を引っ込めて足を速める。
「そうですね。あなたのほうは大丈夫です?」
そう言われて気が付いた。ローブに雨がしみてくる気配がまるでない。というより、雨だれがローブに当たってすらいない。
「このローブ?みたいなんすげえな。」
チュートリアルを追って水滴を散らしながら足早に斜面を下る。水滴を跳ね散らしながら進むが、ローブの外に出た足元以外は全然濡れない。
「そりゃぁ、賢者のくれた装備ですからね。国宝級ですよ。ありとあらゆる魔力への干渉をキャンセルしてくれる優れものです。」
斜面が緩んだ場所に出て、少し足を緩めたチュートリアルはさらっととんでもないことを言った。
「そんなすごいのか。ていうか、雨も魔力への干渉なのか?」
ローブの裾を広げると足元もガードできることに気が付いた。地面からしみてくる方は諦めるしかないが。できるだけ大きな水たまりを避けて行く。
「この世界はありとあらゆるものが魔力を帯びているんですよ。万有引力みたいなものなんじゃないですかね?」
急に難しいことを言われてもあいにくこちらは水たまりと格闘中だ。
「俺に聞くなよ……。」
「だからたぶん、ローブで隠れているところに関しては完璧な防水ですよ。」
チュートリアルは夕立ちみたいな雨の中、大きく迂回しながら後を追ってくる俺を待っている。
「だからクロッカスに突っかかってたのか……。」
「通り雨でしょうから、すぐに止みはするでしょうけど。足元気を付けてくださいね。」
急に親切なことを言われるとびっくりすのだが。お前は可愛いけどとにかくうさん臭い奴だったはずだ。
「……おぉ、ありがとう?」
「疑問形?」
なんだかチュートリアルの素が見えた気がする。
「ありがとう。お前も……。汚れないのな。」
ようやくチュートリアルに追いつき、地面から顔を上げると少しも濡れていないチュートリアルと目が合った。チュートリアルは一瞬だけ驚いた顔をして、それからにっこり笑った。
「……お心遣い痛みります。私、チュートリアルですので。」
大丈夫です、と芝居がかった動きで一礼した。
「あ、そこの木の下で待っていましょうか。雨が止むまで。」
「ああ。」
森を外れて坂を下り、王都は近づいてきていたが、鈍色の雨だれでほとんど見えなくなっている。叩き付ける雨だれは、ローブの布地に当たる寸前ではじかれる。ローブからほんの少し浮いたところで水滴は集まって、耐えかねたように時折まとめて落ちてくる。
「すごい撥水機能感あるなぁ」
ぼんやり王都のある方を眺めながらつぶやく。
「あなた、異世界への感動薄いんですねぇ……。」
同じように王都の方を向いていたチュートリアルが視線だけこちらに投げてよこした。
「自分が魔法使えるわけでもないし、こっち来てから会ったのお前と賢者だけだからなぁ。日本語通じるし。」
そもそもチュートリアルを第一村人と認定すべきところかは微妙である。
「通じなかったら困るでしょう。」
えぇ……とチュートリアルが肩をすくめる。
「そうなんだけども。海外行くのより違うところに来たって感じがしないんだよな。」
今のところ、異世界だから、という理由でひどく困ったりはしていないのだ。
「へぇ……。もしかしてそれ私のせいとか思っています?異世界感、欲しかったです?」
急に真顔になったチュートリアルがこちらを見上げている。急な温度差が酷い。
「いや、そんなことじゃないんだけど。あ、そういえばなんだが、世界との繋がり?ってなんだ?確かに寮住まいでご近所づきあいとかなかったけど寮生とは普通に飯食ったり風呂行ったりとかで話してたんだが……。」
そもそも監獄寮だったせいでご近所とかなかったのだし。
「……それは社会との繋がりでは?」
真顔だったチュートリアルは可哀想なものを見る目をした。
「……そうだな。」
そういわれると俺も大変悲しい気持ちになる。
そうですね……と、ちょっと考える顔をしたチュートリアルが口を開いた。
「世界との繋がり……ですか。なんだか馴染みの薄い言葉ですが。生き物が生まれた瞬間からその世界との繋がりができて。それから、死んだらその世界を離れてどこかへ。なんていうか、死んだら途切れるのだそうですよ。自分と世界との繋がりが」
なら、この世界で死んだとしたら。それで終わりで、元の世界へ帰れるなんてことはないのだ。ゲームなんかの死に戻りみたいなものはない。
「へぇ……。」
ぱたっ……とローブのフードから雨だれが滴る。次の滴は落ちてこない。それっきり。
通り雨は過ぎたようだ。
「あぁ、止みましたね。ではぼちぼち行きましょうか。あの小さい賢者からも聞いたかとは思いますが、この異世界との境界は徐々に狭まっている。時間があるとは言い難いのです。」
足元にお気をつけて、とチュートリアルはこちらを見ずに言った。