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心残りは、たくさんあった。
世間では賢者などと語られ、私の善行が私そのもののように伝わる。だが私とて、唯人には変わりなく、他の人よりも少し知識があり、与えられた選択肢が多かっただけだった。
だから。
わが身の罪の意識から逃れるためにあの災厄と語られた悲運の子供と取引をし、同胞の身の安寧と引き換えに私自身をもってあの災厄を封じ込めた。どちらにも謗られることを疎んだ私の弱さが私の終着点。
あの子供と取引をしたのも、人々の代わりに私が人柱となるのも同じことだった。残りの命数が少ないものが先に逝くべきだと思ったのだ。ただ、それを見知らぬ他人に押し付けたのはあまりにも身勝手だとは承知している。
けれど、唯人に過ぎない私には奇跡など用意できなかった。
叫び、嘆く民衆に、煩悶し、惑う王に、乞われた末の末路。
いつか此処へやってくる異邦の人よ。
私にできたことは、その誰かへ選択肢を預けることだけだった。奇跡など起こりはしない。全てを負わせる身勝手の代償は私が支払おう。
最後の心残り。
私の願う奇跡は一つだけ。幼子よ、どうか、健やかであれ。その人生に幸多からんことを。私の、いとし子。
「ようこそ、異邦人。」
扉をくぐる前に声がかかる。チュートリアルは相変わらず笑っているばかりで、一緒に行こうという気はないらしい。腹を括るしかないのだろう。
「あいにく、お茶の類は切らしているのです。歓待とはいきませんが、入ってください。」
男の、穏やかな、齢を重ねた声だった。少し、安心する。それにつられたわけではないが一歩、小屋の中へ足を踏み入れると俺の後ろで軽い音ともに扉が閉まる。軽やかな軋み音とは裏腹に、断絶を感じた。
「あ、どうも……。」
小屋の中は外から見た通りあまり広くなく、小さな部屋とその奥につながる扉が一つあるだけだった。その小さな部屋の真ん中にテーブルがあり、こちら側とあちら側へそれぞれ椅子が一脚ずつ。こちら側は少し引いてあり、空いている。
「どうぞ。おかけください。」
向かい側には座っているのはローブを着て、フードを目深に被った隙間から豊かな白鬚があふれる人物。いかにも賢者といった風体だった。勧められるままに椅子に掛けた。
「初めまして。異邦からの人。私はこの国の王都の守護をしております、賢者です。よろしくお願いします。」
フードの奥は暗く、容貌はうかがえない。豊かな髭の奥から初老の男性の声が聞こえるばかり。賢者というからもっと爺さんめいた話し方をするのかと思ったが違うらしい。案外、髭の奥はスタイリッシュ爺かもしれない。
「こちらこそ、初めまして。俺……私は東野 勇樹といいます。よろしく、お願いします。」
握手とかの文化はないらしい。差し出しかけた右手を何事もなかったようにテーブルの上において誤魔化した。
「ああ、いえ、そんなにかしこまらないでください。えっと、私も異邦からのお客様など久しぶりで。何か失礼があればすみません。」
困ったようにあちらも両手を彷徨わせた。普通に誤魔化せなかったらしい。
「久しぶりってことは前にも来たことあるんです?俺みたいな。」
チュートリアルも言っていたが、帰りのことは気になる。というよりこれが目下最大の問題だ。何をするともよくわからないのだし。
「ありますよ。貴方が気になっているのは元の場所へ帰れるのかどうか、という事でしょうか?それだったら、答えられます。帰ることはできます。」
賢者はテーブルの上に載っている畳まれた布の上で両手を組んだ。それから少し、首を傾けてこちらを伺う。顔が見えないのも相まって、何を考えているのかわからない。静かで穏やかな賢者だが何とも言えない違和感がある。
「帰ること、は?」
「はい。少し前――、に災厄、がありました。それ以降、あなたの場所とここは少しずつ離れていっています。それが、余りにも遠くなってしまうとあなたは元の場所へ届かなくなってしまいます。」
災厄。チュートリアルの言っていた災害のことだろうか。あまり聞かない言葉で、異世界という事を思い出させられる。
「本当だったら、今すぐにでも、と言いたいところなのですが。すみませんが貴方にお願いがあるのです。」
賢者を両手を組んでこちらを見ているのだろう。その姿は祈るように、見えた。俺は黙っている。
「その、災厄を斃して欲しいのです。これは、私達にはできない。」
だから、と賢者は続けた。
「貴方をここへ呼んだのです。」
それは、チュートリアルにも聞いた。だが。
「なんで俺なんです?」
「さっき、災厄以降、あなたのいた場所が遠ざかっていると言いました。遠い場所から移動するにはより多くの力がいる。しかし、力は限られている。では、あなたならどうします?」
「何を運ぶのかは決まっているんですか?」
なぜ質問をしたのに質問が帰ってきているのか。試されているのか、馬鹿にされているのか。
「はい。種類は。」
「……質問の定義がよくわからない。」
そもそも、この世界と自分のいた世界の物理法則が同じ根拠などないのに、何を答えさせられているのか。魔法が存在している時点で何でもありじゃないのか?
「単純なことなのです。より軽いものを運ぶ。」
「何をもって軽いとか重いとかいってるんです?」
なんとなく、分かった。種類は、人間を指しているのだろうか。その中で俺を選んだ理由の話。
「その場所との繋がりです。この繋がりが大きいほど、移動するのに余計に力が必要になる。」
だから。
「繋がりの最も薄いあなたを選ばせていただきました。一方的なお願いで、こうして勝手に連れてきて、申し訳ないと思ってはいます。」
なぜ質問に質問で返ってきたのか分かった気がした。俺に自分で答えて、納得してほしかったのだ。自分の言葉で解釈して、ならば仕方ないと。
「……なるほど。それは分かった。けど。移動するに使える力が限られてるって言いましたよね。だったら場合によっては帰りの分がなくなったとか、そんなこともあるんじゃないんですか?」
すべてが概念論でしかなく、結局のところの説明がない。納得できる要素がない。
「すみません。言葉が足りませんでした。使える力が限られている、というのは私たちが用意できる魔力の話ではなくて、移動に使うための力なのです。本来繋がらない場所への移動。一番近づいた場所へ、確実に力を与える必要がある。境界面は時間がたつごとに狭まる。狭隘な通路へ大量の魔力は流せないのです。狭く、遠くなる道のりを届けるために大きすぎる魔力は使えないのです。」
またよく分からないが、おそらく小さな穴に大きなものは入らないといったことなのだろう。ただ、言葉を尽くして説明をしようとしたというのは分かった。俺と賢者の間には相互理解がなさすぎる。
「つまり、これ以上俺のいた場所が遠ざからなければ、俺はちゃんと帰ることができると。」
「その通りです。えっと、これから王国へ行って、災厄を斃して、そのまま帰途へ。手筈はすべて整えてあります。」
話しあぐねたような喋り方が消えた。俺にとっても実に分かりやすい話題でいい。
「王国って、さっきからちょくちょく話題に出てますけどどこなんです?」
話題が飛ぶたびに百面相で悩んでる俺に対して賢者は実に静かだ。話し方こそ揺らぐものの、組んだ手も立派な髭も微動だにしない。これが年の功か。
「ここも王国の一部です。王都の、ああ、王の住む城のある町ですね、のはずれの森です。ですからこの後は城へ行っていただいて。そこで災厄を斃していただきたい」
「災厄って王都にあるんですか。というか、そう簡単に倒せるものなんですか?」
「はい、王城の地下に封じてあります。私たちにはできませんが、あなたになら。」
それと、と言って賢者は言葉を切り、ずっと組んだままだった両手を開く。
「このローブと短剣を。守りの魔道具です。必ず役に立ちます。」
どうぞ、と言われたものの、差し出されはしない。文化が違うんだろうか。
「どうも。」
ちょっと立ち上がって、ローブと手のひらに収まりそうな短剣をこちらに引き寄せた。その時、俺の左手が賢者の手の甲へ触れた。
「あ、すんま……。」
顔を上げた瞬間、賢者は俺の触れた場所から溶け落ちるように音もなく消えた。
「は?」
テーブルの向かいには誰もいない。ローブと短剣だけは残っている。
何もなくなった空間を凝視していると、きぃ、と軽い音がした。最初、この小屋に入ってきた時と同じ。だが、音は俺の後ろの小屋の入り口ではなく、賢者のいた場所より奥の、もう一つの扉。ほんの少し空いている。
「すみません、驚かすつもりはなかったのです。」
ずいぶん低い位置から幼い声がした。
扉を開けて出てきたのは10歳程度の女の子。所在なさげに半開きの扉の前に立っている。
「えっと……賢者は?」
ローブを手に取った中途半端な格好のまま、幼い少女に尋ねる。
「私なのです。」
ちょっと意味がよくわからない。
「私が今、賢者の代わりをしてて。でも、信じてもらえなかったら困るので、おじいちゃんの姿の幻像でお話させてもらいました。」
小さな足音を立てて少女がテーブルへやって来た。栗色の髪を二つ結びにして鮮やかなオレンジの瞳でこちらを見上げてくる。
「えっと……さっきまで話してたのは……?」
丈のあっていないローブを床に引きずりながらこてんと首をかしげる。
「私です。」
あの髭の賢者の違和感は、静寂と微動だにしないこと。生きた人間なら当然のちょっとした仕草や衣擦れの音がしなかった。
「その、幻像が消えてしまったのもわざとじゃないのです。あれは魔力で作ったものだったので、魔法のない場所から来たあなたに触れて消えてしまっただけなのです。」
少女はもう一度、ごめんなさいと言ってから大きな瞳で俺に向き直った。
「それで、さっきの話の続きなのですが。一通りはお話しした通りです。今からあなたは王城へ向かってもらって、そこで厄災について、詳しいことを聞いてください。ここに長居をしても、時間がたつばかりですから。」
俺がローブを頭からかぶって、短剣を持っているのを確認して、少女は小屋の出口の扉に手を掛けた。
「では、王城へ向かってください。ご武運を。」
「王城って、どこなんだ?」
「えっ?」
急にびっくりされた。どういうことだ。こちとら異世界初心者だが。
「王城って、魔力のすごく濃い場所ですよ?なんとなくわかるかと……。」
少女は言いよどんで、しばらく沈黙した。
「異邦の方、でしたね……そういえば。外でお教えします。この森の守護をしているので、私自身はご案内できないんですけど。」
考え込む仕草をしながら扉を開ける。外ではチュートリアルが待っていた。
「おやおや、ずいぶん立派な装備になりましたね!クロッカスはそのままですけど。」
煽らずにはおれないのか。
「あのな……」
言いかけて、振り返る。確か、チュートリアルは他の人間には見えないんだったような。空間に話しかけるヤバイやつになってしまう。
慌てて少女のほうを振り向くと、少女はチュートリアルのほうをじっと見ていた。大きな鮮やかな両眼で、下から見上げて、口元を引き結ぶ。
「えっと……見えてる?」
「何がです?」
ぱたりと一つ瞬きをした少女は何でもなかった風に見えた。にっこりと笑って、
「おひとりでこの先を行かれるのは大変だとは思いますが、どうか。異邦の方よ。あなたに幸運がありますよう。」
と言った。
「あ、ああ。ありがとう。」
ちら、と後ろのチュートリアルを盗み見ると、同じように口角をきゅっと釣り上げて笑っている。いや、目元は全く笑っていない。ぞっとするほど冷えた視線で少女を見ていた。少女は、チュートリアルを、見ない。
「さて、では。」
声が重なる。
「行き先をお教えします。」
「行きましょうか。」