伯爵夫人の長い一日
「しんどい、、。君は変わったね。昔の君はそんなじゃなかった、、。」
夫の凍りつくような視線に私の感情はめまいに揺れた。
「僕は君が言うからちゃんと調べたよ。でも君は、、」
夫はそのあとも、理路整然と、私にわかりやすく言い聞かせるように何か言い続けていたけれど、私は目の前がくらくらして目の焦点が合わず、どうしてこうなったのか、どうして、と思わずにはいられなかった。
私の名はハーレルイ・シュミット。夫はヨハン・シュミット伯爵。結婚二十年の記念にこの間豪華なパーティで皆に祝っていただいたばかり。子供は男の子が一人。まだ十代なのに婚約者を勝手に決めてきて、ピンク頭女、夫は鼻の下を伸ばして丸め込まれたけれど、私はそうはいかないわ。
お気に入りの扇で、ピンク頭が粗相をするたびに椅子やテーブルを叩いて叱咤した。その度に息子や夫が飛んできて、まるで私が悪者のように、ため息まじりにピンク頭をかばう。
そりゃ、私も年をとりましたよ。我慢がきかなくなってきた自覚はありますとも。子育てするには否応なく女は強くなるしかない。大抵の男には子育てなんて出来ないのだから。
昔と違って今は女の地位が上がった認識もきちんと持っています。けれど、私のような、子育てしかしてこなかった女の地位など、誰も認めてはくれない。
昔の君はそんなじゃなかったですって?それを貴方が言うの?
貴方はご自分の足元をご覧になったことがあって?
昔の貴方は、、、
「好きすぎて辛い。かわいいよ、ルイ。」
私の頬に触れながら、コツン、と額と額をくっつけた。
ええ。ええ、わかっています。あの頃と比べられないくらい私はふくよかになりましたわ。でもそれは貴方のお腹も同じでしょう?
私はただ。私はただ、私を見て欲しかっただけ。ピンク頭がアクセサリーやバッグが欲しいと言えば買い与える貴方。テーブルが傷んできたと言っていたから商団を呼ぶついでに雨漏りがすると言っていたバルコニーの修理も頼んでおいたよ、とまるでそれが私へのプレゼントのようにドヤ顔の貴方。
ピンク頭が焦げたクッキーを作った時も美味しいと食べる貴方達は、その裏で焦げたオーブンを、調理場の使用人が一生懸命洗っていることも知らない。それを労って私のへそくりを渡していることも。
ピンク頭が息子と夫からお金を借りて友人と美味しいディナーや小旅行に行っても笑顔で送り出し。私が寝付けなくて夜中にパンをつまみ食いすれば「また食べてるのか」、顔を洗う時チョロチョロと水を流していれば「水流しっぱなし」だと顔をしかめる。
私はいつから、愛されなくて当たり前になってしまったのだろう。そう思った私が、こう思うのは当然の成り行きではなかったか。
爵位を息子達に譲って田舎でゆっくりしたいわ。
夫は田舎でゆっくり出来る候補地をすぐに探してくれた。治安のいいところがいいわ。交通や買い物に不便過ぎても困るわ。夫の選んでくれた候補地を地図を広げて見てみたら、あら、治安がいいと夫から聞いていたけど、こうして見てみると細道が入り組んでいて危なくないかしら。ねえ、貴方?
そうして、冒頭のそれである。
私は夫と会話がしたくて。ディナーの後、思いついた事をキッカケにして話しかけただけ。何でもよかった。貴方に話しかけたかった、笑顔で返事をして欲しかった、私にも、笑顔で。
それからどうしたかしら。私は気がついたらベッドルームに逃げ込んで、毛布を被って丸くなっていた。
涙があとからあとから流れてシーツに滲んでいく。
リフレイン。しんどい。
夫の声が何度も繰り返し思い出された。その度にぶわりと涙が粒となって溢れていく。
私がいけなかったのかしら。しつこく聞きすぎたの?
あの人は疲れていたのかな、もっと労ってあげるべきだったのかしら。
試行錯誤している頭の中で、ピンク頭に微笑む息子やあの人の笑顔が思い出された。
最後にあの人が私に微笑みかけたのって、いつだったかしら。
そう気付くが早いか、無意識か、私は左薬指の小さな宝石のついた指輪を外していた。
封印の指輪。
二十年間、私の記憶を封じ込めていた指輪を外した時、夫と結婚する前の、冒険家をしていた時の記憶が、流氷が溶けてドンバリンゴゴゴンと鳴り響くような衝撃が頭の中を突き抜けていったのだった。
古の魔女、最後の生き残り、ハーレクイーンオブハート。
ぐにゃり。私の人差し指と親指が、封印の指輪をひねり潰していた。
白髪混じりの枝毛髪に魔力が流れ、キラキラとした流星群が髪に流れると艶のある金色の髪へと変わった。
濁った瞳に生気が戻り、美しいエメラルドのような輝きに、長い睫毛がパサリと揺れる。
ふくよかな四肢は細く、二重顎はなくなり、垂れた乳房がむくりと上向き跳ねた。ウエストはキュッとくびれ、尻肉にぷりっとした弾力が戻り、指先に真っ赤なマニキュアが塗られた。
ぷっくりとした瑞々しい唇、シワもシミもない。
「、、はあ。死を別つまで、共に老いてゆく愛しさを君と、、だったかしら。」
私が寝室から出てリビングに向かうと、クラシックの流れる窓辺でピンク頭と夫が踊っているのが見えた。息子はそれをソファに座って見ている。
あら。私はここ何年も夫と踊っていないわね、とまた気付かされた。
腰に手を当て、リビングに入る扉の側で、ジッとそれを見ていると、夫の足がピタリと止まる。はっ。やっと気付いてくれたのかしら。
「解除」
私は何の思いもなくその言葉を口にした。
夫の左薬指にはまっていた指輪が私の右薬指に戻る。
魔女の祝福と呼ばれるその指輪は、着けた者に幸運を運んでくる。
夫の顔がみるみる青くなる。そして白く。
「君は、、」
「もう何も言わなくていいわ。全部夢だったのよ。」
私がそう言って微笑むと、何を勘違いしたのか頬を赤らめている夫。
息子を見ると、呆然とこちらを見ている。
男の子でよかった。女の子を生んでいたら魔力を全部吸い取られているところだったわ。こうなる運命だったのかもね。男の種には魔女の血は遺伝されないから、この先、隔世遺伝すら起きないから安心してね。そう告げると息子の眉が少し歪む。何言ってるのって顔だった。
ああ。私が貴方の母だとわからないのね。どうでもいいわ。
「ま、待って」
髪を靡かせ背を向けると、慌てて声をかける夫の言葉は、それきり聞こえなくなった。
背を向けたと同時に私は転移した。
瘴魔の森と呼ばれる王都から離れた樹海に、私の隠れ家があった。こじんまりとしたログハウス、留守を任せていた女の子が中から出てくる。
「おかえりなさいませ、ルイ。」
女の子の小指には不老の指輪が光る。
「ただいま、グレーテル。」
以前はこの子の兄もいたけれど、平凡な毎日から逃げ出して王都で何やら怪しげな噂を流して小銭を稼いでたみたい。それももう何百年も昔の話だから、どうでもいいけど。
どこにでも好きなところへ行っていいと言っているのよ?でもグレーテルはここでの暮らしが気に入っているらしいわ。魔女にでもなる気なのかしら。
うーん。今日は疲れたわね。でも明日からは久しぶりにのんびり出来そうだから、少しくらい夜更かししても構わないわね。
シュミット伯爵家にはもう幸運はやってこないから少しずつ落ちぶれていくだろうけど、どうでもいいわ。魔女の時間は悠久なのよ。失われた愛に泣き崩れるなんて無様なまね、いつまでもやってられないわ。ばかばかしい。
「グレーテル、久しぶりにあなたのお茶が飲みたいわ。」
「すぐ準備します。」
柔らかな微笑みで私の手を握るグレーテルは、ただそれだけで私の心を癒してくれた。
明日は何しよう。私の得意のイチゴのカップケーキを焼いてグレーテルに食べさせてあげようか。梅酒はかなり美味しく漬かってるんじゃないかしら、ふふふ、楽しみね。
晴れた空のまんまるな月を見上げれば、まだまだ今日はこれから、長い夜になりそうね。