10回復魔法と涙と名前
「それよりも、その傷を見せてみなさい! ああ、血がでているじゃないですか!……【軽治癒】!」
「えっ!?」
想像していたよりもずっと優しい手つきで私の手をとる公爵様。
海の呪いに覆われて、しっとりと冷たいけれど優しい手。
ぽわわん、と青白い光が溢れ、一瞬にして傷が癒える。
と、同時に頑固にぶり返していた指先のアカギレにまで癒しの力が効果を発揮した。
まるで、生まれたてのような、ゆで卵素肌がつるりと現れた。
ふと、こんな風に他の人から心配されたのはいつぶりだろう? ……と、思った瞬間、勝手に視界が歪んだ。
「!? そ、そんなに……泣くほど痛むのならば、もっと早く言いなさい!」
「い、いえ、違います、大、丈夫……です、失礼、し、ました」
一度、決壊してしまった涙腺はなかなか放水を止めない。
必死に微笑みを浮かべたつもりだったのだが、わたしの表情筋は久しく使っていなかっただけあって、錆びついていてスムーズに動かない。
むしろ、わたわたと触手を縮めたり伸ばしたりしている公爵様のほうがよほど必死に見える。
頭の上からチンアナゴのような生き物が出たり入ったりを繰り返し、必死に何か言おうと「あうあう」している。
あれ? おかしいな? この人……呪われていて、おぞましい姿のはずなのに、何だか可愛い?
その様子に、ようやく凝り固まっていた表情筋が微笑みの形に動いてくれた。
「……す、すいません……こんな風に、優しく、してもらったのは、その、久しぶりで……申し訳ありません」
「優しく? こんな初級の【回復魔法】は少し魔導を勉強した平民だって使えるような術ですよ?」
「え、あ、す、すいません……」
実家の事を悪く言うことはできない。
うっすらと首飾りが熱を持った気がして、思わず背筋が寒くなる。
「あの、違うんです……わたし、その『魔の緑髪』ですから……魔法には極力触れないようにしていたので……」
「……そうですか……それにしても、何故この寝室に?」
公爵様もそれ以上、根掘り葉掘り確認してはこない。
……助かった。
「は、はい……あの、バードラ様の指示で、お掃除にあがりました……」
「私の寝室の掃除は不要だとバードラには伝えてあったと思ったのですが……」
ちらり、と公爵様は床を見て眉が有ったであろう筋肉の部位を少し上に吊り上げる。
「これを貴女一人で?」
指差された先は、公爵様からの分泌物がすべて取り除かれ、元の奇麗な木目の床が顔を覗かせている。
ついさっきまで、あれだけ水分豊富な呪いの欠片を敷き詰められていた床とは思えない。
うっすらと魔法陣みたいな文様が輝いているから、きっと魔法の結界が張られているお陰で床の腐食を免れているのだろう。
「は、はい……」
「そうですか。……ありがとうございます」
ぺこっと、小さく頭を下げる公爵様。
「えっ!? いえ、その、そのっ、わたしなんかに公爵様が自ら頭を……」
「マリクルです」
「は、はい?」
「……マリクル・レンロットです。……『公爵様』は止めて下さい」
「あっ……! は、はいっ!!」
公爵様……いや、マリクル様は少し気まずいのか、ふいっと視線を反らせながらブツブツと「どうしてバードラは名前呼びで、主である私が役職呼びなんですか」と小さく文句をおっしゃっている。
これは失礼なことをしてしまったようだ。
貴族の間では、当主ともなれば『レンロット公』や『公爵様』と呼ばれるのが普通なのだが、『家の中』というプライベート空間では家名や役職を呼ばれるのは珍しい。
確かに、自分の家の中で、自分の家族を『近衛師団長』とか『〇〇課課長』みたいな公の役職で呼ぶことはしないのが一般的だ。
同じ役職でも、家の中ならせめて『旦那様』とか『ご主人様』辺りが普通だろう。
「失礼いたしましたっ!!」
しかし、そんな粗相をしてしまったわたしに対して、優しくわたしを撫でようとして、分泌物交じりの手を悲しそうに引っ込めた。
そして、ふいっと顔を反らし「今後、気をつけてくださるなら構いません」とおっしゃっていただいた。
……この人の何処が一体『厳格なうえに気難しい性格』なのだろう?
もっとずっと傷つきやすくて繊細な方なのに……
わたしが、妹のように魔法を使えたら、この呪いを解いてさしあげられるのだろうか? ……いや、無理か。
そもそもマリクル様自身が、魔導士としてトップクラスの技量を誇るお方だ。
そのご本人が解呪できないレベルの呪いを格下の伯爵家の娘風情がどうこうできる訳が無い。
せめてわたしができる事といえば、こうして、多少は心地の良い住環境を整えることくらい……
そう自覚してしまえば、より掃除や洗濯、料理に力が入った。




