学園祭編(エピローグ)
たっぷり時間をかけて硬直から回復したカロルドは、そのまま無言で踵を返した。
まだツボにはまった笑いから解放されないソロも、ベッドから動けないカーラもそれを止めることができずにいる。
カーラのお母さん発言を聞いてから、カロルドが苦々しい表情を最後まで崩すことはなかったが、去り際の言葉を放つときにはいつもの調子を取り戻していた。
「……ああ、そうだ親父。眠っている相手に勝手にキスしたこと、謝ったほうがいいんじゃねーの」
え、ちょっと待って、どういうこと、とカーラが聞き出す間もなく、ばたん、と扉が閉じられて、カーラとソロは研究室にふたりきりになる。
「……ねえ、勝手にキスしたって、どういうこと?」
そう問えば、ソロは容易く狼狽した。
「あれは、その。きみの器と体と魂の同調が弱くなってたから強制的な刺激が必要で、その」
らしくない早口でまくし立てたかと思うと、こちらを伺うような視線をする。淡く照らす魔石灯の光を反射して宝石のように赤く輝く右目。すべての光を吸い込むように何も映さない左目。
「ごめん……ひっぱたいても、殴ってもいいよ」
まるでお母さんの機嫌を伺う子どものようだ。なんでもできる力を持っているくせに、なんにもできない子どもみたいなそぶりをする。
そんなソロに向かって何か告げようとした瞬間に、研究室に人が流れ込んできた。おそらく、カロルドがカーラが目覚めたことを研究室の前にいた人々に告げたのだろう。研究室の前で様子を窺っていたらしいクラスメイトたちに、カーラはもみくちゃにされる。その中にはルロワやキャロル、シェリーの姿もあった。
そして、そこからはてんやわらわの大騒ぎになった。
クラスメイトたちは口々にカーラの無事を確かめたり、何が起きたのか詳細を聞きたがったり、ソロは本物の始祖なのか真偽を確かめようとしたり、カーラが目覚めて安心したのかとにかくテンション高めにカーラとソロに詰め寄ってくる。そして、それをかきわけてシスルが現れたかと思ったら、目を真っ赤に腫らして年相応の泣き顔でカーラに許しを乞うのだ。
あなたがこんな目にあったのは全部私のせいです、と、ごめんなさい、を繰り返すシスルに、カーラはどう返していいものかわからない。
カーラとしては、なぜシスルが謝るのかまるで見当がつかないのだ。カーラは、今回の騒ぎの原因はカロルドが周到に準備して自分を陥れたのだという、夢の中で竜から聞いた話しか知らない。
戸惑うカーラに、クラスメイトたちがカロルドがしていった説明をなぞって教えてくれる。カロルド自身に魔力がないから、そのために歌を介して器を共鳴させて、カーラを器の深層に落としたのだ、という話を聞くにつれてシスルの顔色が悪くなる。
しかしカーラとしては、聞けば聞くほど「やっぱり悪いのはカロルドでは」という思いを強くした。
だってシスルは利用されただけなんだから。謝ることなんて何一つない、カロルドが迷惑かけてこっちこそごめんなさいと言えば、シスルはなぜか頬を紅潮させて反論してくる。
「いいえ! 私が悪いんです。カロルドの誘いに乗ればあなたを苦しめるということはわかっていた。けれど、それでも、あなたをちょっと懲らしめてやろうという誘いは魅力的で、私はそれに乗ってしまった。私は、自分で自分の器を汚したんです。ごめんなさい、カーラ、私を責めて。私には、罰が必要なのだから」
責めるもなにもない。そもそも謝る必要がないのだ、ともう一度言うと、シスルはなぜかより一層眉根を寄せた。
「罰が与えられないなら、私はすぐに居場所を失ってしまう。みんな、私が何をしたのか知っているのですもの。償わなければ、それを見せなければ、誰も私を認めないでしょう」
「ええと。罰を与えられて、それを償えば、シスルは満足するの?」
カーラが首をかしげてシスルに問えば、シスルはじろりとこちらを睨んできた。
「……その左目がある限り、あなたには私の気持ちなんてわからないのね、きっと。あなたは始祖に選ばれているんですもの。どんなに努力したって、いつか見捨てられる日が来るかもしれない。また居場所を失う日が突然くるかもしれない。そんな恐怖を、あなたは味わうことがないんだから」
「――それは違うわ」
シスルの言葉に反応して、思わず語気を強めた。
左目。ソロが託してくれた力。常世に向かう魂を繋ぎとめた、竜の魔力。
ソロは、この力によって一度居場所を失ったのだ。力があるということが居場所になるわけじゃない。
同じように、力がないということが居場所を失う理由にはならない。それに、
「居場所を失うかもしれないなんて考える必要がないと思う。シスルは素敵な子。優秀な成績だけじゃない、自分の理想に向かって努力する姿はみんなの励みよ。だから、罰なんてやっぱり必要ないわ。誰かから認められるために自分を貶めるなんて、シスルには似合わないから」
カーラの言葉を聞いて、シスルはかっと頬を赤く染めた。
しばらくそのまま何か言いたそうに口をもごもごさせたかと思うと、さっきまで泣いていたなんて信じられないほどはっきりきっぱりと、シスルはカーラに宣言する。
「だから、私はあなたが嫌いなのです!」
と言って今度は肩を怒らせて出ていってしまった。あっけにとられて理解できないカーラに、向かって、ルロワが「謝罪を受け入れられなければ、ずっと許されないのとおなじですからねえ」などと言ってうんうん、と頷いている。
よくわからない。
「何か傷つけるようなことを言ってしまったのかしら。先生には、シスルがなんで怒ったのかわかるんですか?」
「カーラ。正論よりも大事なのは、シスルが何を感じているか、です。シスルはあなたを陥れたことを後悔した。だから許しを得ようとしたんです」
「許すもなにも、わたしは何も傷ついてなんかいないのに?」
「許しを得るというのは、承認なんです。謝って、それを許す。過ちがなかったことにはなりませんが、その行動によって人はお互いの距離を測ることができる。場合によっては、もう一度関係性をやり直すことができる」
「……なら、わたしはシスルの謝罪を受け入れるべきでしょうか」
「それは、あなたとシスルが決めることですね。……個人的な見解を言わせてもらえば、今回のことはあの子の成長のチャンスだとも思うんですよ。シスルは優秀な子です。しかし自分を基準にすべてを考えすぎるので、他人に不寛容です。自分ができることを他人ができないのが許せないし、他人ができることを自分ができないのが許せない。自己と他者の境界が不明瞭な人間は大人になってもたくさんいますが、自分の在り方を肯定するために他人を見下す必要はないのだと、これを機に学んでくれるといいですね」
「ええと、つまり……?」
「あの子が怒ったのは、あなたに心を見透かされたと感じたからですよ。自分が外に伸ばした手を受け取ってほしかっただけなのに、自分が入ってきてほしくない場所に侵入されたと感じたから。……あと、カーラもシスルが十歳だからって必要以上に侮ることはないんです。年下だから舐められてる、と思うからあの子も意固地になるんです」
「うーん、そんなつもりはないんだけど……」
侮っているように見えるのかしら、とベッドで上半身を起こした姿勢のまま黙り込んでしまったカーラの頭を、ルロワはぽんぽんと元気づけるように撫でた。
「少しずつ、お互いの心地よい距離を測っていけばいいでしょう。なにしろ、あなたは目覚めて、これからまだまだ時間はあるんですから」
そうだ。今日だって帰ればシスルと一緒の部屋だ。時間をかけていっぱい話せば、いつか仲良くなれるかもしれない。
うん、今日帰ったらもう一度シスルと話をしてみよう、と決意してルロワを見上げたところで、彼の隣に訳知り顔でシェリーが立っているのに気が付いた。そして、二人の様子がなんだか、随分と親し気なことにも。
――あの、なぜ姉さまがそこに?
そう聞きたかったのに、声が出るより前にルロワはさっと雰囲気を変えてクラスメイトたちを促した。
「さあ、カーラも本調子ではないでしょうからそろそろおいとましましょう」
始祖であるソロと話したそうに様子を窺っていた級友たちは不満の声をあげるが、
「それに、演劇の片付けを後回しにしてしまいました。はやく終わらせないと、後夜祭に参加できませんよ?」
ルロワの言葉に反応して、みんなカーラを名残惜しげに見てから退出していく。
一緒になって出て行ってしまったキャロルとシェリーは、なんだか意味深な笑みをこちらに向けていた気がする。一体、自分が眠っている間に何があったというのだろう、とカーラは不思議に思うが、疑問に答える者はいない。
そうやって全員が退出すると、また静寂が帰ってくる。
ずっと年少クラスにいたことを黙っていたし、さっきのカロルドの発言もあって、ソロと面と向かい合うのはちょっと気まずい気がして、カーラはしばらくソロの方を見られないでいた。
ソロが立ちあがって研究室の端まで歩き、窓を開けたことをカーラは研究室に入り込んだ夜風で知る。防音の魔法が解けて、外の喧騒がここまで聞こえてくる。
前庭で開かれている後夜祭の、ダンスパーティだろうと思い至ったところで、カーラは鋭く叫び声をあげてしまう。
「あ!!」
ソロがいきなり大きな声を出したカーラに目を向けると、カーラは慌てて起きて立ち上がろうとして、足に力が入らずにバランスを崩して寝具を乱していた。床に座り込んでしまう前に、ソロは両手でカーラを抱き起す。
「まだ立ち上がるのは危ないよ。どこかにいきたいなら、手伝うから先に声をかけて」
「それどころじゃないの!」
級友たちから聞いたラストワルツのジンクス。「好きな人と踊れば、ずっと一緒にいられる」というそれのことを、カーラは説明する。
「僕と、踊りたいと思ってくれたんだ」
こくこくと頷くカーラの頭を「そうか」と言いながら撫でる。ここまであけすけに好意を向けられるなんて八百年生きてきてもさすがに初めてで、照れた顔を見られたくなくてソロはそのままカーラをひょいと持ち上げて窓辺につれて行った。
手すりに寄り掛かるように座らせると、前庭の様子がそこからでも少しだけ見えた。魔法で飛び交う粒のような光。踊りを楽しむ人々の賑わい。そして、奏でられる弦楽器の音色。
「聞こえる? 踊るのはまだ難しいけど……気分だけでも味わっておきなよ」
曲調が変わる。始まったのは、華やかな三拍子だ。
それを背景に、ソロは真剣な声を出してカーラに訊ねた。
「夢の中で竜に会ったんだよね。そいつから、何を聞いたの?」
「あなたのことばっかりよ。どうやって竜の力を手に入れたのかとか、システィーナさまとのこととか」
カーラの返事を聞いて、喉が詰まりそうになるのを必死でこらえる。
なんだあいつ。そんなことまでこの子に話したのか。
魔力を渡したのはカーラが初めてではなかったけれど、そこまではっきりと竜の自我を知覚したのは彼女が初めてだった。
「カロルドと何があったのか、とか。……どうやって、勇者と呼ばれるようになったのか、とか」
「……すごいな、なんでも知ってるんだ」
「そりゃあ、あなたの竜に仕込まれましたから」
僕の竜、ね。と自嘲気味にソロは囁く。
「僕の魔力は竜そのもの。悪意の薄い特殊な個体とはいえ、きみは、その竜を内面化してしまった。もう魔力、魔法、竜と無関係ではいられないよ」
「わたしの中で竜は消えてしまった。多分もう、会えることはないわ。それでも?」
「それでも。きみは魔法が使えるようになった。器の中に、魔力があるのを感じるだろう?」
確かに、目覚めてからずっと体に感じている違和感。この原因はきっと、変化した器に体がついていけてないからなのだろう。ルロワの教え通りに感覚を研ぎ澄ませようとすればたやすく、へその下あたりに灯のような温もりを感じる。
今までにはなかったもう一本の腕が生えたような、翼が誕生したかのような、もう一つ感覚器官が増えたような。これが、魔力を感じるということなのだろうか。
「またその魔力が暴れだす可能性がないとは限らない。ルビーのように、竜を産むかもしれない」
ソロは、窓際に腰かけるカーラの前髪をかき上げ左目を見る。
それは、彼の右目と同じ輝きをしているのだろうか。
「わたし、もう魔法が使えるの?」
「うん。もちろん修練は必要だと思うけど、今までみたいに一切の魔法が使えないってことはないよ。生まれつき魔力を持たない人でも、内面化した魔力があれば魔法は使えるんだ。なんて、八百年前を見てきたきみに説明は不要かな」
もし、自分にも魔法が使えたなら。もし、託された魔力を自由に使いこなせるようになったなら。それは今まで何度も自問したことで、何度考えたって、やりたいことは一つだった。
たった一つの思い付きを、カーラはすぐに実行する。
きっと左目が失明したままだと心配する。それを癒して、余分な魔力を返すのだ。
そんなに都合よくいくのか少し心配になるが、夢の中で会った竜は、魔法は想像力の範囲でなんでもできる力だと言っていた。
だとすれば必要なのは信じる力で、思い込みの力で、自慢じゃないがそれにはかなり自信がある。
だてにずっと「思い込みが強い」と家族に言われ続けてきたわけではない。
――大丈夫、きっとうまくいくわ。
器と体を同調させる、と彼は言った。彼の器につなぐなら、きっとこれが一番いい方法なのだとカーラは確信している。
だから、目の前にあったソロの顔を両手で包み、ありったけの願いを込めてキスをした。
驚きに目を見開くソロの、その左目が自分が使った最初で最後の魔法でもう一度輝くのを見届けようとして、カーラは左目の視力が随分おちてしまったことに気がついた。
カーラとは逆に、左目が見えることに気がついたらしいソロが瞳を瞬いてから言う。
「カーラ、きみの、その目……」
カーラは自分の左目がどうなっているのか、ソロに教えてもらう。
どうやら虹彩にきらきらとした輝きが少しだけ残っているらしい。自分の中の魔力もさっきまでとは全然違うものの、まったくなくなったというわけでもない。企みとしては半分成功して、半分失敗したといったところだろうか。
「カーラ、きみは……力が欲しいとは思わないの?」
キスの衝撃が抜けきらないソロはカーラに驚きの表情のまま告げる。
カーラは、そんなに驚くようなことかしら、と不思議に思いながら言った。
「だって、片目が見えないのは不便でしょう? ずっと、どうすればあなたの目を治せるのか考えていたのよ。あなたが託してくれた力を返せば、きっともう一度、そのきれいな瞳が見られると思ったから。その瞳で、わたしを見てほしかったから」
カーラの返答を聞いて、ソロはもう一度笑い出す。そしてカーラを両腕の中にすっぽりと納めると、耳元で言った。
「きみの、全然思い通りにならなくて、予想外なところが大好きだ」
密着しているせいで顔が見えない。カーラはソロの腕の中でうごうごともがき、腕の力を緩めたソロの目の前に顔を出して、やっと彼の左目が光を取り戻していることを確認できた。それから、もう一つ気づいたことがある。
「ソロ。顔、まっかね」
「はずかしいんだよ……まさかこんな、八百年もたってからもう一度恋をするなんて思いもしない」
八百年生きてきたのだ。おじいちゃんなんて概念ではおつりがくるほど生きてるくせに、この人はなんてシャイなんだろう。
そのギャップを目の当たりにして笑ってしまう。止まらない。腹筋を使いすぎてお腹がいたくなる。それでもまだ止まらない。
笑い続けるカーラを止めようとはしなくても、恥じ入るような顔をしているソロに、ごめんごめん、と謝って、目尻にたまった涙を拭いた。
「特別な力なんていらないけれど、わたし、きっとあなたを置いていくわ。システィーナさまが死んでしまったように、あなたより長くはきっと生きられない」
お互い様だよ、と彼も笑った。
「僕だっていきなり姿を消す可能性くらいある。体はほとんど人間離れしているし、カロルドが今後何か仕掛けてこないとも思わない」
そうよね、と返してもう一度ソロの頬に触れた。恥ずかしそうに、くすぐったそうにしている彼の、二つの宝石眼を見つめる。よく見れば左右で少し色が違う。左目がくすんでいる気がする。それが、自分たちのつながりの証明のような気がして嬉しい気がして、カーラは思わず苦笑する。
「あのね、未来に辛い別れがあるなら最初から距離をとるべきだとは、わたしは思わない。未来のために生きるんじゃなくて、今を積み重ねて未来につなげていきたい」
「未来なんて不確かなもののために今を犠牲にする必要なんてない、っていうのには賛成かな。将来どうなるか、なんて誰にもわからない。僕だって随分昔から勝手に世界を見守っている気でいたけど、もうとっくに世界に竜なんて必要なかったことがやっとわかった。気づけたのは、きみがたくさんの可能性を見せてくれたからだよ」
ソロが抱えてきたものの重みなんてちっともわからない。だから、彼が何から解放されたかなんて想像もできない。
けれど、大事なのは今ここにソロがいるということで、隣に自分がいるということだとカーラは思う。
「隣に立ちたいと言われた時はくすぐったかった。移植した魔力に引っ張られているだけだと思って距離を置こうとしたのに、きみはいつまでもまっすぐだった。そんなきみに惹かれていると認めるは抵抗があったけど、いつだって予想外の方向からとんでもないことをしでかすきみを、もっと近くで見ていたいと僕も思ったよ。これからも、きみには笑っていてほしいな。……できるなら、僕の隣で」
なんとかなるよ、八百年生きてきて、なんとかならなかったことの方が少ないんだよ? と笑う彼の隣で、後夜祭のラストワルツを聞いている今を、絶対忘れないようにしようとカーラは思う。
一緒に踊ることはできなかった。置いていかれるかもしれないし、置いていくかもしれない。
それでも置いていかれたならどこまでだって追いかけよう、と思える人に恋をした。
カーラは告げる。
「あなたのことが、大好きよ」
そして、今度は愛情だけをこめて、キスをする。




