過去編5(カーラ視点)
――世界は、人間のものではない。
ソロとその仲間たちが竜の支配から人々を開放して十余年が過ぎたころ、突如響き渡ったひとつの宣言。魔力を秘めた声は常世と器の繋がりを介して拡散され、国中の人々の体の内側に恐ろしく、悍ましく、響き渡った。
竜は本来、言語を持たない。
言葉とは異なる自我を持つ人間が統一した目的を共有するために使うもの、つまりは弱小な個体が群れるために使う道具であり、自立した個という概念のない、世界の意志そのものである竜には本質的に不要なのだ。
それでも、青の宝竜は言葉を用いて人類に宣言した。どうしても自分の敵意を人間に伝えたかったのだろう。つまりそれほどまでに、人間を憎悪していたということに他ならない。
――人間は、世界にふさわしくない。
そのたった一言で十分だった。人々はそれだけで、竜の怒りを理解した。
何より、人間主体の社会を築くきっかけを作ったソロのことを、竜は敵視していた。だからこそ竜は行動を開始する。ソロの国を敵と定め、そこに住まう人々を蹂躙した。
新たに生み出した眷属の魔物たちが群れをなして襲ってくる。魔法の発達していない黎明期のドラスタ―王国では、竜とその眷属による襲撃から民を守るための軍備は未だ整ってはいなかったため、国民の生活は一瞬にして崩壊した。
圧倒的な強者による生命の搾取。そして、十余年経って喉元を通り過ぎようとしていた竜の恐怖を、人々は思い出す。
恐慌状態に陥った人々は今までずっと竜に服従することで人間は命脈を保ってきたのに、逆らうからこんなことになるのだ、とソロを責めた。自分たちが何を敵に回してしまったのか、そこでようやく気づいたとでも言うかのように手のひらを返し、ソロに全責任を負わせて事態の収拾を求めた。
ソロはその要求に応じて出陣する。自分が今まで戦いを共にし、魔力を分け与えた仲間たちと、大きな魔力を持って生まれたきた子どもたちがそれに従った。カロルド、バルバルド、ジェニマールである。
しかし宝竜とて、真っ向から戦えばいずれ人間の数の力によって負けることは他の宝竜が追いやられた事例からわかっていた。
だから、
「竜の討伐に軍勢を率いて赴いたソロを無視して、息子であるカロルドを誘拐した」
カーラの前で、竜眼の彼はそう言いながらソロの幻影を指さした。すると時間が巻き戻るかのようにシスティーナを含めた仲間たちや、ソロの子どもたちが彼を囲む。しかし彼の言葉が終わった途端、幻影のソロとシスティーナの元から、黒髪の少年が離れていく。少年は青く透き通る鱗を持つドラゴンの元へ走り、その影に隠れてしまった。
「竜に捕らえられたカロルドを救うため、ソロとシスティーナはあらゆる手段を講じた。このころはまだ、ソロはと周囲の人々は固い絆で結ばれていた。絆は魂を結ぶ力となって、彼に魔力を与えられた人々が魔法を使って竜を追い詰めた」
カロルドを取り戻す戦いには数年を要した。その中でも一番活躍したのは母であるシスティーナだった。
幻影の彼女が剣を抜いて青き竜に駆けよる。行く手を竜の眷属の怪獣が阻むが、魔力を通しているらしく刀身が輝いている剣から繰り出される強烈な剣戟は簡単にその体を引き裂いた。竜はその様子を見ると瞳を閉じ、影に光があたったかのように消えていく。
そこから出てきたのは、攫われたカロルドだった。システィーナは彼を抱き寄せ、安堵の表情を浮かべて、ソロたちに迎え入れられる。竜という恐怖が過ぎ去り、微笑む人々は皆幸せそうだ。
しかし、カロルドの瞳は不吉に青く輝いている。
カロルドの瞳はこの瞬間に、後天的に宝石眼となった。カロルドは周囲に、システィーナの進撃にもはやこれまでと悟った青の宝竜が自分に魔力を託したのだと語った。恐ろしい敵意を抱いていたドラゴンがそんな末路を選ぶだろうか、と疑問に思った者もいたが、竜は消え、カロルドは宝石眼を手に入れたこの現象にそれ以外の説明がつくはずもなく、次第にその主張は受け入れられていった。
「怪我ひとつなく戻ってきたカロルドは、以前と変わらないように見えたよ。
だけど、その魂はまったくの別人だった。すぐにそれに気づいていれば、きっとまた違う結果があったかもしれない。けれど、魂が別物でも器と体が同じならそれを見分けるのは難しい。それこそ、魂だけで器に乗り込まない限り証明するのは不可能だ」
竜とは魔力の塊そのものであり、人間のように肉体や器という概念がない。魂だけの存在と言っていいだろう。そこに質量はなく『容れ物』さえあれば、どこであろうとその巨体を隠すことは容易だ。
つまり青の宝石竜は、カロルドの器を自分の隠れ蓑に選んだに過ぎなかった。魔力を手に入れてまだ日の浅かった人間たちには、そんなことが可能であることすら思いもつかない。
魂だけでカロルドの器に寄生した竜は器と体の支配権を奪い、カロルドとしてソロの周囲に溶け込んだ。
竜は復讐のためにそこでも言葉を用いた。竜は人間の強さは共感と協働にあると見抜いていた。団結力、絆、社会の持つ力。それこそが感情を呼び起こして共感を呼び、器に秘められた魔力を連動させて強力な魔法となって竜を蝕む。
しかしそれは、人間の最大の弱点でもあった。
他者からの共感を失った人間は、自分たちが築いてきた社会の中で孤立するしかないからだ。
だから、カロルドの器を掌握した竜は城の内部から人間関係をゆっくりと破壊することにした。
例えば、ここに一人の男がいる。
ソロの竜の支配を打ち破るという理想に賛同して親友となり、自慢の体躯を活かして竜を倒すために力を貸した男だ。
男は自分よりずっと弱いソロを気遣い、弟分のように扱ってきた。妹のシスティーナはソロと恋に落ち、男はそれを嬉しく思っていた。大層な理想を語るソロが自分を頼るのが心地よく、いつか家族になるソロを、妹ともども守ろうと固く誓っていた。
冒険が始まり、最初に出会った竜はソロを選んで自分の魔力を譲る。魔法が使えるようになったソロは男よりも強くなった。男はそれを喜ばしく思った。そして、こうも思った。
今回の順番はソロだった。だから次の竜を倒せば、次は自分が同じ力を手に入れるだろう。今はソロの方が強いが、自分は戦い、守る側の人間である。魔力さえ手に入れれば力関係は元に戻るのだから、またソロやシスティーナを守ってやろう。
ソロは男より弱いのだから、自分が守ってやらねばならない存在だ。男はそれが物事の道理と信じて疑わない。
しかし、それが現実になることはない。その後、ソロが倒した竜は己が魔力をヒトに譲ることをせずに消えていった。最後まで、男は親友と同じだけの力を手に入れることはなかったのだ。
弱いから守ってやらねばと思っていた相手は大きな力と共に不老を手に入れ、一方自分は老いて、自慢だった筋肉も衰え、力を失っていく。
自分にはソロに授けられた魔力がまだ残っている。しかしそれは、自分の子どもには遺伝しなかった。一方、ソロとシスティーナの子どもたちは皆優秀で、優れた魔法の使い手でもある。
男は考える。自分とソロは、何が違ったのか? なぜソロだけが力を手に入れたのか?
嫉妬にまみれた羨望は、ソロとの固い絆があるうちはなりを潜めていた。ソロと自分の、人間としての器の違いだと納得できた。竜を倒すなんて発想は、自分には到底できなかった。ソロがいたからここまで来られたのだ。
ソロはすごい奴だ。だけど自分だってずっとそんなソロを支えてきたのだ。現状に満足し、精進していけばまた、ソロが自分を頼ることもあるだろう。
男はそう言い聞かせて悲鳴をあげる自尊心を強引にねじ伏せた。
それなのに、一度竜に攫われて帰ってきたソロの息子は力を手にしていた。何より焦がれた宝石の瞳がその両目に嵌っている。
――無限の魔力をなぜ手に入れた。なぜ竜は、お前を選んだ。
問われて、カロルドは答える。
――なんだ、竜から力を得る方法を、お前は親父に教わらなかったのか。
どういうことだ、と問いただす男に、カロルドは噛んで含めるように言い聞かせた。竜から魔力を奪うのはそう難しいことではない。知識さえあれば誰にでもできる。
その知識を、ソロは独占しているのだ、と。
そんなはずはない。ソロと自分はずっと一緒に冒険をしていた。次は自分が力を手に入れるのだ、と語ったことだってある。多くの人間が力を手に入れれば、それだけ竜との戦いも、これからの人間文明の発展も容易になる。だから、力を独占する必要なんてどこにもないのだ。
男の反論に、カロルドの姿をした竜は微笑む。
ソロは自分に対抗できる勢力を産みださないために、あえて力を手に入れる方法を黙っているのだ。自分より強い者がいなければ、永遠に自分だけが最強でいられるのだから。
最初の竜だけは、ソロ一人では立ち向かえなかった。そのために協力が必要だったから、男に媚びを売って力を借りたのだ。しかし、その見返りにソロが男に何かを与えたことがあったか?
何もない。妹も、人生も、全てをソロの理想に捧げてきた。
自分に残ったのは年老いた体と、分け与えられたなけなしの魔力のみ。ソロには絶対に勝てない程度の魔法だけ。
――要するにお前は、ずっと騙されていたんだよ。
何のことはない。自分は騙されていたのだという考えは男の思考を容易に支配した。
自分は十分な見返りもなく力を搾取され、これからも搾取されていくのだろうか。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう。
カロルドは弱った心に、わかりやすい解答を用意する。
――それは、お前が弱いからだ。
弱い。弱者。格下。
格下。自分がソロに抱いていたはずの思いが、今はソロから自分に投げかけられている。ソロに面会するたびに、いつでもその言葉が心に浮かぶ。
そうしているうちに、一度ねじ伏せたはずの自己愛に満ちた考えが頭をもたげる。
ソロが力を得たのは正しかったのか? ソロよりも自分こそが、その力を得るのにふさわしかったのではないか?
いいや、自分も年老いた。もはや力などどうでもいい。それよりも大事なことがある。
いつまでも若く、誰より強い王。そんなものは人民に寄り添い共に歩むのにふさわしくないのではないか?
竜の力を持つ王は、この国にふさわしくない。それを是正する機会は、今をおいて他にないのではないか? なぜならこれからは、竜ではなく人間が文明を作り上げていくのだから。
そうやって、一人ずつ一つずつ心がソロから離れていく。
ソロへの疑念や嫉妬は少しづつではあったが確実に城内を蝕んでいった。
一度心の距離が開いてしまえば、あとは早い。一度でも集団に埋没する異物であると認識されれば、そこから居場所を奪還するのは難しい。ソロだけを取り残し年を重ねていく環境はその変化に拍車をかけた。人々がソロと自分の違いを実感すればするほど、ソロの居場所は狭くなっていく。
人間は言葉によって意思を統一し、共感によって想像力を共有する。それは進歩を続けるのに大事な力だ。一人一人にできることは小さくても、協力すれば大きな力となる。
しかし同じ力は、もちろん逆にも働かせることができる。
ソロは孤立した。彼に共感する他者の不在は、それまで周りに人が絶えなかった彼にとって身を蝕む孤独になった。
確かにソロは誰よりも強くなった。できないことなんてほとんどない大きな力を手に入れた。
それでも、誰からの共感も承認も必要ない人間なんて、どこにいるというのだろう。
「竜の狙いはソロを孤立させることだ、と気づいたときには手遅れだった」
孤立した彼は人心を求めるあまりにシスティーナや子どもたちの反対を押し切り強硬な政策をとるようになり、なおさら人々の心は離れていく。
そうするうちにシスティーナや三人の子どもたちからも距離をとられ、執政権を剥奪される決議がついに下される。
すると、ソロは部屋に籠って自分の研究に没頭するようになった。ただ暴力に代替する力として使っていた自分の魔力、魔法とは何なのか研究するうちに、時間をかけて真実にたどり着く。
竜の真意、魂のありか。常世と魔力の関係。
それを解明するにつれて、カロルドが器の内部で魂が竜に蝕まれているのではないかと疑いを抱くようになった。恐ろしい悪意を持った竜の魂を器に取り込んだカロルド。彼の内部に根付いた悪意は、ソロを取り巻く社会だけでなく、世界を滅ぼすまで止まらないだろう。
しかしカロルドの魂が竜のものだ、彼はその悪意でこの国を滅ぼそうとしているのだ、と今更ソロが主張しても信じる者は皆無だった。
むしろ自分を脅かす存在としてカロルドを敵視しているのだと受け止められ、余計に溝は深くなる。
だが気づいてしまったからには、これ以上竜から生み出される毒を国内に蔓延させないためにも、一刻も早く対処する必要があった。
ソロは独断でも封印を決行することを決意してある夜にカロルドの私室に向かうが、それにシスティーナが気づく。彼女は息子を苦しめないでと嘆願するが、ソロがその願いを聞き届けることはなかった。
竜に対抗するために仕方ないのだ、と彼女を引き離すソロを、システィーナは信じられないものを見る目つきでにらみつける。
カロルドの体を破壊すれば、器に秘めた膨大な魔力が物質界に漏出して大惨事を招きかねない。魂ごと器を封印するしか手段はなく、ソロは泣いて止めようとするシスティーナを振り切りカロルドに対面した。
私室でソロを迎え入れたカロルドは笑っていた。今この瞬間すら、自分の掌の上で踊った結果だと言うような顔にソロは寒気を覚える。それでも、ソロが準備した封印式を発動すればそんな様子は掻き消えた。
今のカーラが知っているのと同じカロルドが、ソロが発動させた魔法によって苦しみ呻き悲鳴を上げる。
生きるために生命に蓄えられたエネルギーを外部から侵食され、選別され、蹂躙され、もう二度と自分の手の届かないところに隔離されるというのは、一体どれほどの苦痛なのか、カーラには想像もできない。ただカロルドの悲鳴だけが、それが痛くてつらいことなのだということをカーラに明確に伝えてくる。
幻影だと理解していてもそうなのだ。目の前でその様子を見ていたソロとシスティーナだってよくわかっていたはずなのに、それでもソロは強行した。そうすることで周りの反発がより一層強くなることなんてわかっていたに違いない。
それでも後戻りすることはできなかった。竜との戦いは、自分が自分の理想のために始めたことだったから。
封印を経て、カロルドの自我は崩壊してしまう。
誰が呼びかけても反応がない。ただ生きているだけで、そこに意識があるかどうかもわからない。眠っているか起きているかも周囲からは判別できない状態になったカロルドは、ソロの子ども、ジェニマールの施すまじないを幾重にも器にかけることによって機械的な日常生活を送ることになった。
ソロも協力して何度目かわからないカロルドの調整を終えると、ジェニマールは母システィーナからの言付けを伝えてくる。ソロがそれに従って玉座の間に向かうと、システィーナはソロが座るはずだった玉座で、彼を待っていた。
彼女は王冠を被って、剣を突き付け、戸惑うソロに宣言する。
『王位は私がもらいます。あなたにはもう、この国を任せることはできない』
泣きそうな顔で言う彼女は、花畑でソロと想いを交わしたことから随分と年をとっている。それだけの時間が流れた中で、ただソロだけはその瞳以外何も変わらない。
『ソロ、あなたは、私から奪ってばかりね。息子も暮らしも、たった一人の大切な夫まで。竜に対抗するためにはしかたない? そうね、竜なんて全部呪われてしまえばいいと私も思います。でもそれは、あなたにも当てはまるわ。竜の力を手に入れて、いつまで人間面をしているつもり? 誰より大きな力を手に入れ、世界の分銅としての役割を請け負った、あのときからあなたはとっくに竜の一員なのよ。人間のための世界を作ると言うのなら、今もっとも強力な障害は、あなただわ』
言葉の厳しさとは裏腹に、彼女はゆっくりソロに近づき、その瞳を隠すように顔の上半分だけを覆う仮面を彼に取り付け、その仮面越しにキスをする。
『あなたの、茶色の瞳が好きだった。宝石の眼さえなければ、私たちは普通の夫婦でいられたのでしょう。けれどあなたの身に宿した宝石は、私にとって何より強い毒でした』
その言葉は、システィーナからソロへの決別だった。
この瞬間がきっかけとなり、ソロは彼が築いたドラスタ―王国から出奔することになる。
仮面をつけてたった一人、城を出たソロの幻影の周りで、時間が簡単に流れていく。
一秒が過ぎるのと同じ速さで一年が過ぎ、そうやって二年三年、十年二十年、五十年を過ごし、仮面をつけたひとところに留まらない冒険者の噂は、その実績とともに次第に広まっていく。
《仮面の勇者》とは組織的な義賊であるのだとまことしやかにささやかれ、それが実際にはたった一人の業績なのだ、なんて言ってももはや誰も信じなくなったころ、ソロのもとにひとつの便りが届けられた。
システィーナの死後、王となっていたバルバルドからだ。
もはや、家族と過ごした時間よりも一人で過ごした時間の方が長いのだ。無視することなんて簡単だったが、ソロは仮面をつけたまま王城へ向かう。
ソロの顔も知らない近衛兵に案内された王の私室で、病床にある自分の息子は、自分よりずっと年老いていた。無駄に長い人生を歩んだ経験が、息子が発する匂いが間もなく常世に向かう人間のそれであると教えてきて、ソロは仮面に隠された表情の下で眉根を寄せる。
『来たか』
まるで自分の方が父親であるかのような貫禄で、バルバルドはソロを招いた。
『幼いころ、あなたを父上だなんて呼べるものかと思っていた。王になるなんて望んでない、まったく余計なことをしてくれたものだ、と。それでも私に与えられた居場所はここにしかなかったし、結果として人々は、あなたに与えられた理想がなければ竜におびえるばかりで安心して暮らすことも、夢をみることも難しかっただろう。未だに課題は山積みだが、あなたの行動は間違っていなかったのだ、と今なら思える』
バルバルドは、ソロが出奔した後何が起こり、何を為したかを語る。ソロを始祖と祭り上げた神話の創設。人々に伝えやすいように歴史を改竄し、始祖となったソロを神格化することで王家の権利を確立したこと。ソロが語っていた魔法学校の設立はジェニマールが引きついだこと。始祖という偶像を用いることで人々が団結し、徐々に広まりつつある魔法という力によって求心力を失わない国家が完成しつつあること。
『それでも、疑心暗鬼で隣人を疑い、敬うべき始祖を追い出したあの頃に戻らないとは限らない。だからお願いです、父上。……私たちを、見捨てないで。危機にあって、必要な時だけでいい。あなたの力でこの国を助けてください』
年老いた男が弱弱しい力でソロの手を握る。ソロの表情は仮面に隠され、カーラには見えない。
密度の高い情報の奔流が、そこで止まっていることにカーラは気づいていない。
バルバルドの願いは随分勝手な話だ、とカーラでも思う。
ソロはもう人間ではないから、人間の社会には不要だとソロを国から追い出しておきながら、いざとなったら頼るのか。
それでもソロはバルバルドとの約束を守ったのだろう。彼はずっとこの国を見捨てなかった。普段は冒険者として世界中で活躍し、危機に応じてこの国を守ってきた。カーラがソロと出会ったのが、約束が守られた何よりもの証拠である。
カーラは無意識につぶやいていた。
「どうして、そこまで?」
ソロはこの国に尽くすのだろう。八百年経った今となってもなお、彼は自分が力を貸す理由を「この国が好きだから」と言っていた。ここまでの仕打ちをうけて、なぜいまだに、そんなことが言えるのだろう。
「どうしてだと思う?」
質問に質問で返された形になるが、目の前の光景に意識を奪われているカーラは素直に考える。
ソロの人生。生活。そのすべてはこの国から始まった。八百年という歳月は人一人の身には長すぎて、全てを変化させる。親、きょうだい、友達、妻、子どもたち。自分からすれば変わったのは周囲の環境であるのに変わってしまったのはお前なのだと、もはや人ではないと断じられてもなお、
「この国が、ソロが人間として生きるために最後に一筋だけ残されたよすが、だから」
関わりのあった人が全部常世へ行っても、人間として存在した自分と人をつなぐ最後の絆がこの国なのだ。
「だから守っていたのね。それが、自分と人をつなぐ絆だったから」
カーラの答えを聞いて、質問した彼は微笑みとともに頷いた。
自分が人間であるために、ソロはずっと長いこと尽くしてきたのだ。
それを理解した途端なんだか泣きそうになって、カーラは鼻をすする。
もはや幻影はすべて消え去り、真っ白になった空間の中で、カーラは竜眼の彼と対峙していた。
彼が伝えたかったことはこれで全部なのだろう。でも狙いがわからない。なぜ彼は、自分にソロのこんな過去を見せたのだろう。
「言ったはずだよ、相互理解だって。歴史を知ることで、始祖に恋をするだなんてどれだけ無謀なことをしようとしているか理解してほしかった。いずれシスティーナのようにソロと決別するなら、最初から近づかない方がお互いのためだ。もう一度傷つくだけだからね」
システィーナの存在が今もソロの根幹にあるのはよくわかる。仮面も剣も、システィーナがいたからソロは今も身に着けている。
けれどそれが未だ痛む傷として残っているなら、ソロはもっと早くにカーラから距離を置いたとカーラは思う。誰かと恋愛関係になることがトラウマなら、好意を向けられること自体を恐れただろう。しかしソロは、自分が傷つくのを恐れて距離をとるようなことをしなかった。
それはあるいは、自分はどれだけ傷ついたってかまわないという諦念かもしれないけれど。
カーラは自分の考えを頭から追い出すようにかぶりをふってから、彼に向けて言葉を紡ぐ。
「……そんなことない。あのね、これは姉さまの受け売りなんだけど、歴史を知るのは視野を広げるためなんですって。歴史の選択っていうのは、たまたま選ばれた可能性の連続でしかないんだって。だから、今を生きるわたしたちの前に想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するために学ぶんだって。……聞いたときはよくわからなかったんだけど、たぶんきっとこういうこと。歴史は歴史でしかなくて、今を制限するものじゃないのよ。過去に選ばなかった選択肢を、今度こそ選ぶために歴史を理解するんだわ。以前うまくいかなかったからって、今回も失敗するとは限らない」
カーラが突如展開した持論を、彼は面白そうに聞いている。
そもそも彼はカーラの思考が読めるはずだ。あえて問いかける必要なんかないはずなのに、なぜかすぐに次の質問を繰り出してくる。
「へこたれないなあ! ならこれは? キミは始祖という特別な存在に恋することで、自分は特別だと思いたかったんだろう? けれどそれは彼にとって迷惑だと思わない? 始祖という偶像に恋しているなら、壁に掛けた絵に恋してるのと同じだ」
特別な存在だから、好きになった?
確かにそうかもしれない。お城の舞踏会。致命的な傷を負った自分を包んだ、始祖としての特別な力。それによって命を助けられた。ふかふかのベッドで目を覚まして、すぐそばにあった自分を慈しむ赤い瞳と目が合った。あの瞬間に恋に落ちたと今なら断言できる。
それでも、好きになった理由は絶対それだけじゃないし、彼を知るうちにもっとずっと好きになっていく。
寝込んでいる自分が退屈しないように話を聞かせてくれた優しさも。片目が不自由になって遠近感が掴めず、あちこちにゴンゴンぶつかっても気にしないぼんやりしたところも。自分の魔法でどんな影響が出るかあまり気にしないちょっとずぼらなところも。ふとしたときに見せる寂しそうな顔も。丹精込めて作った食事やお菓子をもりもり食べてくれるところだって大好きだ。
だから、カーラは心から思うのだ。
「恋ってそんなに色々考えないといけない、難しいことかしら?」
ソロをそのまま、ソロとして見るってこと。
ただ、それだけでいいんじゃないかしら。
「迷惑をかけて、迷惑をかけられて、その中でバランスをとっていくことが大事だと思うの。寄り添うって、一緒に成長していくってことじゃないかしら。わたしはこの先もずっとソロと一緒に笑いたいし、隣にいるのがいつだってわたしだったらいいと思う。わたしはソロという個人に、寄り添って生きていきたい」
だけどカーラはそこまで話したところで、先日感じた疑問をぶり返す。
もしソロがカーラの気持ちを受け容れてくれなければ、自分一人で恋は続けられない。
「……もちろん、ソロが望んでくれれば、なんだけど」
恋は一人じゃできない。届かない思いは重荷になる。
ぎゅうと胸が縮まる感覚で瞳を伏せたが、それまで質問ばかりしてきた彼が笑い出す声で顔を上げた。
「なんだ、そんなこと!」
「な、なにがおかしいのよ!」
「あいつは、キミのことが好きだよ」
とっさに、カーラは彼の言葉が理解できない。
「超常の力を見せてなお、始祖だと知ってなお、キミはぜんぜん距離をとろうとなんてしなかった。知れば知るほど、なんの打算も隠さずに近づいてきてくれた。それがあいつにとって、どれほどあたたかで特別だったかなんて、たぶんキミはずっとわかりはしないだろうけど」
始祖という偶像ではなく、ソロという個人から目を離さなかったキミだからきっとあいつは年甲斐もなく惹かれたんだ、とソロと同じ顔をした彼が言う。
カーラは未だ混乱のただなかで、なにかリアクションをとる余裕もない。
いじわるしてごめんね、と彼は微笑んだ。
でも、ソロの孤独を知ってもまだ気持ちを貫けるのかどうか、キミの答えをキミに言語化してほしかった。
「あいつは最初から、キミだけは特別扱いだったって気づいてる? そうでもなければ、ボクだってここまでキミに肩入れなんかしない。あいつは押せば押すほどキミにひかれていくよ。始祖という偶像を押し付けてくる人間をソロは嫌悪しているけれど、キミがその気持ちのままに寄り添う限り、あいつは寂しさを忘れられるかもしれない」
カーラに彼の言葉が染み込んでいく。ソロの形をした彼がソロの好意を保証してくれたのだ。どうしたって心がむずがゆく、温かくなる。
カーラの心に反応するかのように、真っ白だった風景にもう一度花畑が広がっていった。
花弁を舞い上がらせる風で柔らかそうな髪をたなびかせて、ボクの正体がわかったかい、と彼はカーラに訊ねる。
そんなの考えるまでもない。彼はソロに託されたソロの魔力。魔力は世界そのもの、竜は魔力そのもの、彼の語る歴史を知った以上、その正体は一つしかありえない。
正解、と口を笑みの形に歪めて呟いたかと思えば目の前で溶けるように人の姿が崩れていった。
かわりに現れたのは、鱗のひとつひとつが宝石のように赤く輝くドラゴン。




