魔法学校編4
カーラは硬直から立ち直ると、そのままむんずとカロルドの腕を掴み、教室を飛び出した。
本校舎の西翼と東翼を結ぶ渡り廊下、それと中庭に面したところに学生食堂がある。中等部以降は授業が選択制になるうえ、王立魔法学校を根城にする研究者たちも多く利用するのでいつも混んでいるのだが、昼休みになると特に人でごった返す。カーラはカロルドの腕を掴んだまま人ごみを泳ぐようかき分けて空いたばかりの席の争奪戦に勝利し、力づくでカロルドを座らせた。
木を隠すなら森の中、である。国家資格を持つ魔術師たちはカロルドのようにローブを身に着けている者も多いし、少なくとも年少クラスにそのままいるよりは目立たない。
キッチンに注文を二人分出して受け取った昼食の乗ったプレートをカーラがばんばんとテーブルの上にたたきつけるように置くまで、カロルドはそこから少しも動こうとはしなかった。カロルドにもプレートを一枚押し付けると、カーラは猛然と自分の分のサンドイッチに噛り付いた。それを咀嚼し、飲み込んでから言う。
「カロルド、なんでこんなところに来たの!」
声を押さえようと思うのだがどうにもうまくいかない。そもそも、カーラはこの学校に入学してから一度もソロたちのいる研究室に行っていなかった。年少クラスに入学した、と言うのがためらわれたというのもあるが、それよりも純粋に、忙しすぎてそんな余裕がなかった。
カロルドは興奮したカーラを前に、目元を隠した黒い布の下で、その薄い唇をニマニマと歪めている。
「大体、ソロのそばを離れていいの? あなた、憲兵隊に捕まったらまずいんじゃなかった?」
「これをつければ出ていいって、親父のお墨付きだよ」
そう言って彼は自分の顔に巻かれた黒い布を指し示した。
「それに、ずっと親父と同じ空間にいるなんて息が詰まってしょうがない! 俺のこといくつだと思ってるんだよ、この歳になっても父親にべったりだなんて気味が悪いだろ」
――実際、いくつなんだろう。
八百才は越えているはずだけれど、正確な数字をカーラは知らない。
そんなカーラの疑問なんて気にもかけず、カロルドは目の前に置かれたサンドイッチに手を伸ばした。顔に巻かれた布で手元が見えるのか、これもまた疑問だが、彼は特に苦労する様子もなくそのままサンドイッチに噛り付く。
付け合わせのポテトフライを食べながらその様子を見て、カーラは何の気なしにカロルドに訊ねた。
「その布、前もつけてたわよね。それをつけていても、前が見えるの?」
「ん? あー、これは封印布だよ。魔力を持つ者が悪事を働いた時に、自由に魔法が使えたらまずいだろ? そういうときに王命によってつけさせられる布。封じられるのは魔力だけで、視界は良好だ。年少クラスじゃまだ習ってないかもしれないけどな」
「ふうん?」
ちょっとよくわからないわ、と顔に書いてあるカーラがとりあえず頷くと、カロルドはそのまま続けた。
「俺の魔力の封印は器に刻み込まれた呪いだから、こんな布に意味なんてないけど、これをつけてれば他の人間も『ああ、あいつは悪いことしたから魔力を封じられて、でも有能だから労役を科せられてるんだな』ってことがわかるんだよ、普通は。年少クラスだとこんなことも教わらないのか?」
「ええと。要するに『触るなキケン』ってみんなに知らせるためのものってことよね。でもそんなの、すぐに外しちゃえばいいじゃない」
「魔法による簡易催眠で自分じゃ外せないようになってるんだ。おいおい、年少クラスで本当に勉強してるのか?」
カロルドは年少クラス年少クラスと何回も繰り返した。
カーラはカロルドに年少クラスに入学したことなんて話してない。それでもこの様子を見れば、どこからか情報を嗅ぎつけたカロルドがカーラをからかいに来たことなんて明白だった。これも嫌だから、入学したあと研究室に顔を出していなかったのに。まったく、どこから情報が漏れたものだろう。
カロルドが知っているのなら、当然ソロにも、カーラが年少クラスに入学したことなんて伝わっているに違いない。その事実は、カーラを少し憂鬱にした。
「……ソロ、わたしが年少クラスに入ったって聞いて、何か言ってた?」
「『へえ、そうなんだ』って笑ってたけど?」
予想通りすぎてがっくりくる。
けれどうつむいてなんていられない。
顔を上げろ、負けるもんか。あの人が遠いことなんて知ってる。自分を遠ざけたいと思ってることだって知ってる。どんなに距離を置かれたって無視できないくらい、自分が大きくなればいいことなのだ。
がくんと首を傾けたと思ったら鼻息を荒くしてサンドイッチに再びかぶりついたカーラの様子を見て、カロルドは「めげないねえ」と呟いた。
そのつぶやきはどこか満足げで、それを不思議に思いつつ、カーラはカロルドにずっと聞きたいことがあったのを思い出す。
「……あなたはなんで、ソロに殺されたいの?」
およそ昼食時にふさわしくない話題を口にしてしまった、とカーラが気づいたのは、カロルドがそれまで身に纏っていたからかうような雰囲気を一変させたからだ。
「唐突だな」
「だって、不思議だったから。言い方はすっごく悪いし、そうして欲しい訳じゃないから絶対誤解しないで聞いてほしいんだけど、死にたいだけなら一人でも死ねるでしょう? なんでわざわざ、ソロに『殺される』ことにこだわるの?」
誤解なんてしねーよ、と今度は不貞腐れたように言った後、カロルドは身を乗り出してカーラに、耳を近づけるように指示した。よっぽど他に聞かれたくない話なのか、とカーラが耳を寄せると、カロルドはその耳を容赦ない力をこめて思い切り引っ張る。
「痛ッ!」
「ざまあみろ、俺に下手な同情をしようとするからだ。理解も共感も必要ない。しかもそれが、年少クラスのちびっこだなんてお笑い草だ」
引っ張られた耳は痛むが、どうやら自分の言葉は彼の心を傷つけた、のかもしれない。やりきれない思いはあったものの、カーラは素直に頭を下げた。
「ごめんなさい……あのね、言いたくないなら言わなくてもいいの。本当に、ちょっと気になっただけだから……」
神妙な顔をして謝るカーラに、これ見よがしにため息をついた姿を見せて数秒黙った後、カロルドは口を開いた。
「幼年クラスでも、神獣については習っているだろう」
「う、うん。世界の分銅でしょ? 彼らが実存することで、この世界は混沌から分離されて物質が存在できるカタチになったっていう」
「ああ。最初この世界は魔力だけが存在する混沌で、そこに神獣が生じて地平を作り上げた。そして神獣は、次々に妖獣を生み出していった。だから、この世界で魔力を持つ生き物は、神獣とそれに連なる妖獣たちだけだった。それ以外、物質世界が成立してから生まれた動物……例えば人間は、本来魔力を持ちはしない。だけど、この国では麗しの始祖サマによって神の獣であった宝石竜から魔力を授かったおかげで、人間も魔力を体内に留めて、扱えるようになった。魔力は子どもに受け継がれて広まるから、今のところ、この国でも魔法が使えるのは貴族だけだけどな」
「うん」
世界の成り立ち、この国の成り立ち。それはさすがに、カーラでも知っている。けれどこんな話をして、カロルドが何を言いたいのかは皆目見当がつかなかった。
「魔法的な概念だと、生物っていうのは、大体『体』『器』『魂』で成り立つ。この中で、生まれつきの魔力がどこに収められるかわかるか?」
「魂じゃ、ないの?」
「勉強不足だな……おまえの教師はさぞかし苦労しているだろうよ。正解は『器』だ。器は魂の容れ物。魂は器の中にある魔力を操作して、魔法を顕現する」
「せ、先生は今関係ないでしょ!」
「ほら、勉強不足だから、簡単に心を乱す。『感情をコントロールしろ』ってしつこく言われているだろ? あれは要するに、器を制御しろってことだ。器とはすなわち、心だから」
「? ちょっと待って。心と魂は、別物なの?」
「別物じゃねーよ。器は魂の容れ物だって言ったぞ。器、つまり心の中に魂がある。だからこそ、人間が魔法を使うには、器が生み出す感情の影響をてきめんに受ける。人間と神獣、妖獣の違いは、そこだ」
話がどんどん複雑になって、カーラは困惑した。
カロルドは一体、何が言いたいのだろう。
「神獣はともかく、妖獣は心と呼べるような、人間と同じほどの精神活動はない。要するに器が未熟なんだが、使う魔法は強力だ。妖獣は人間なんかより、魂がずっと強固なんだよ。そして妖獣は生命を終えると、妖精、精霊、そういった霊的な存在へと昇華していく。体も器もなく、魂だけで物質世界でも成立する意識体だ」
「それは、幽霊みたいなもの?」
「まあ……概念としては、近いか。八百年生きて、人間の幽霊なんて見たことないけどな。だけどそれは、人間の魂が妖獣よりずっと未熟だからだ。もし人間の魂が妖獣ほどに成長したなら、霊魂として意識が物質世界に残り続けることは、十分にあり得ると俺は思う。……問題は、そこだ」
カロルドが何が言いたいのか、その言葉でやっと、カーラにもわかった気がした。
彼はたぶん、幽霊になりたくないのだ。
「さてここで登場するのが、人間としては不自然に長い時間を生き続けている俺だ。親父が俺にかけた呪いは、器に生じる魔力を永久に食らいつくす『不変』の呪い。器から魔力の供給を絶たれた俺は体の成長も老化も一切受け付けず、魂が滅することもない。ただし呪いが欠けられてるのは『器』だから、『体』を切り刻んだり燃やしたりすれば、もしかしたら死ぬことくらいできるかもしれない」
カロルドの言葉をカーラが否定しようとして、手のひらで押しとどめられる。
「まあ聞けよ。確かにおまえの言う通り、死ぬのは一人でできるかもしれないな。だけど俺が普通に死んだら、魂だけがこの世界に居残って霊的な存在になってしまう可能性が高い。だけどそんなのはごめんだね。魂が、霊魂として昇華されて精霊になるなんて冗談じゃない。俺が望んでいるのは完全な消滅なんだ」
そのために、神獣と同等の力を持つソロに殺されなければならないと語る彼の口調はいっそ穏やかだった。
自分の死について語っているだなんて、とても思えないくらいだ。
カロルドはきっと、何年も何年もどうやったら自分が納得できる死を迎えられるか考えて、考え続けて、そして実行しようとしている。
それはカーラには、ひどく悲しいことに思えた。
けれどそれを口に出せば、耳を引っ張られた時のように怒られるのは目に見えているので、代わりにもう一つの懸念を口にした。
「……ソロも、そうなのかしら? もう生きていたくないとか、思ったりするのかしら?」
なんだかそれはとても寂しい。
知らず泣きそうな顔をしたカーラに、カロルドは言った。
「親父は……自分の意志で死のうとか、考えたこともないんじゃないか?」
「そうなの?」
「あいつは八百年もこの国の始祖どころか、勇者なんて呼ばれて悦に入って、世界のヒーローやってるんだぞ。この国には自分がいなくちゃダメだ、くらいには過保護だろうし、世界の平和を自分の両手で守ってる、くらいは自惚れてる」
ソロを自慢したいのか貶めたいのかわからない言葉をカロルドが続けている間に、カーラはそのおでこにでこピンした。しゃべるのに注意を削がれていたカロルドは、それを避けることができない。
「お父さんのことを、そんな風に言うものじゃないわ!」
「ビンタされた時も思ったけど、手を上げるのが早いんだよなあ!」
衝撃を受けたおでこをさすりながら言うカロルドに、カーラはこっちのセリフだわ、と返して居住まいを正した。
そろそろいい加減、昼食を済ませないと午後の講義に遅れそうである。サンドイッチに再び取り組み始めたカーラに向き合って、カロルドが不意に真剣な声を出した。
「なあ、義母上。追いかけるなら俺にしとけよ。あんなやつ、追いかけたって無駄だって」
――俺にしとけ?
意味がわからない。
「なんの話?」
「親父の話。気づいてるか? 公爵令嬢の瞳からドラゴンが顕現したとき、親父は一度、お前を見捨てたんだ」
「え……?」
「前にも言った通り、お前の魂は今壊れかけで、それを親父の魔力でつなぎとめているに過ぎない。あの時親父が俺の目論見通り魔力を全開放して対消滅したら、お前の命も一緒に失われていたはずだ。親父はそれをわかっていながら、実行しようとした。あいつはな、世界の平和のためなら、お前の命なんて簡単に見捨てるぜ」
あの時公爵家で、ソロがドラゴンを倒していたら、カーラは死んでいた。
カロルドが嘘を言っている可能性をカーラは考慮しない。カロルドが今更、自分に嘘をつくとはカーラには思えないからだ。
言葉が出ない。口の中にあったサンドイッチがひどい異物感で、外に吐き出したくてたまらない。
あの時、そんな選択が行われているだなんてちっとも気が付かなかった。自分の命の危機があの場にあっただなんて思わなかった。
ソロの側にいるということは、まるで綱渡りだ。いつ命を失ったって、おかしくないのかもしれない。特にカロルドが近くにいれば、彼はいつ何をしでかすかわかったものではない。
水を口に含んで、カーラはサンドイッチを胃に流し込んだ。そして考える。
ソロはカーラを、『世界の平和のためなら簡単に見捨てる』。確かにそうだろう。だって『仮面の勇者』だ。カーラの命ひとつで世界が救われるならソロは世界を選ぶだろうし、そうするべきなのだ。納得できない話じゃあない。カーラは自分に言い聞かせるように、思考をなぞる。
それに。
「……なんでそれが、あなたにしとく理由になるのよ」
「ひどいな。あんな人間の風上にも置けない男にたぶらかされている義母上を、これでも一応、心配してしてるんだけど?」
「お断りだわ。人間味があるから、ソロがいい訳じゃないんだから」
もしソロの近くにいることで命を失うようなことがあっても、そんなのは突発的な事故に遭うようなものだとカーラは思う。
そんなの、ソロを諦める理由になんてなりはしないのだ。事故に遭うかもしれないから、なんて理由で、恋しいと想う気持ちを止められるなら、苦労なんてしない。
あの人の隣に立って、柔らかく微笑みかけてほしいだけなのだ。その気持ちだけで、今は進んでいける。この歩みを、止めたくなんてない。
決意を込めて、皿に残った最後のサンドイッチを食べるカーラを見て、カロルドはもう一度「めげないねえ」と呟いた。その様子はやはりどこか満足げで、そして封印布の下でゆっくりとカーラから視線を外すと、二人の様子をじっと観察していた別のテーブルの生徒に焦点を合わせた。
カロルドの視線の先にカーラの同級生がいることに、カーラはまったく気づいていない。




