魔法学校編1
カーラは勉強が苦手である。
無理もない。今年で15歳になったカーラだが、これまで学校に行ったことなんてなかったのだから。
この国の貴族が通うジェニマール王立魔法学校は学費が高く、没落貴族であるトラフ家にはその支払いが不可能だった。父の数少ないコネを使って姉たちは引退した騎士に懇願し、その屋敷に出向いて騎士や夫人から貪欲に学んで、学士と遜色ない学力と教養を身に着けたが、カーラはその屋敷には通わなかった。
そもそもじっと机に座って、ただひたすらインプットを繰り返すだけというのが性に合わない。裁縫をすれば作品ができる。家事をすれば仕事が減る。アルバイトに行けばお金が手に入る。しかし勉強は、何もカタチとして残らない。
そういう強固な思い込みが、カーラの中にあるのかもしれない。
読み書きと簡単な計算や、基本的な社会事情の知識は姉のキャロルやシェリーから仕込まれているものの、それだって大変な苦労をしてやっと身に付けた。この場合、主に苦労したのはキャロルとシェリーである。
「勉強なんていくら頑張ったってお金にならないもの。家事とか、アルバイトとか、体を動かしているほうがずっと向いてるし、みんなの役に立てるわ」
なんて本人は言っているが、要するに勉強が、苦手だから大嫌いなのだ。
キャロルがそんなカーラを心配していることは承知している。姉二人に尽くしても、二人が結婚してしまったらそのあと自分はどうやって生きていくのかということも時々考える。それでもなんとか教養を身に付けさせようとする姉を躱して、のらりくらりと後回しにして今まで来てしまった。
そんなある日のことだ。
いつものようにカーラがバスケットを片手に魔法学校から帰ってくると、キャロルとシェリーが玄関ホールで仁王立ちして待っていた。
あれ、とカーラは思う。
最近はひっきりなしに客人が来て、祖父や父、姉二人はその対応に追われていたはずだ。まだ日も高い時間帯に、二人の体が空いていることが珍しかった。
「姉さま? お客様はもうお帰りになったのかしら」
「カーラ、あなたねえ、黙っていなくなるのはやめなさいと何度言ったらわかるの!」
開口一番カーラに厳しい声を向けたのは下の姉のシェリーだ。
「ごめんなさい、姉さま。だって今日もたくさんお客様とお会いしていたでしょう? 忙しそうだったから、つい」
「つい、で妹が行方不明になってたら驚くし、悲しくなるわ。次からは気をつけてね……これも何度も言っていることだけれど。それでカーラ、今日もソロ様に会いに魔法学校に行っていたのよね?」
おっとりした調子でカーラの言葉に続いたのは上の姉のキャロルである。
「う、うん」
「ちょうどいいじゃない。そんなにあそこが好きなら、これ、受けてみれば?」
カーラが下の姉の勢いに押されて一歩後ずさると、シェリーはそれを追いかけてカーラに一冊の冊子をを押し付けた。
カーラが怪訝そうに首をかしげながらその冊子を受け取り、目を落とすと、装飾の施された字体で表紙にこう書かれているのが読める。
『ジェニマール王立魔法学校 募集要項』
「えっと、これはなあに?」
「カーラ。あなたは、学校に行きなさい」
――はい?
※
キャロルの話は、こういうことだった。
先日の大騒動で王太子とルビーの婚約関係は解消され、ついにキャロルが婚約者に内定される。しかし没落したトラフ家では王家とは家格が釣り合わない。そこでカーラの家の爵位を回復するか、キャロルが一度養子となってどこかの家に入るか、そのための話し合いが連日行われていた。客人が絶えなかったのはそういう理由だ。
未来の王太子妃の身内になりたい貴族は多く、あの手この手で勧誘されたキャロルだが、そうやって勧誘してきた貴族の中に、ウォード公爵の姿があった。ルビーの父親である。
まさか婚約を解消された側の家からそんな話が舞い込んできたことに驚きながら話を聞くと、公爵はキャロルが養子としてウォード家に入るならばトラフ家の借金も、キャロルの嫁入り仕度にかかる費用も、すべて引き受けてくれるという。
破格の条件だが、それに見合うメリットを公爵に提示できないと思って一度はキャロルも断ろうとした。しかしキャロルを養子として王太子妃に育て上げれば、公爵家は王家との結び付きをさらに強めることができるのだから、それくらいは有効な投資である、と公爵は穏やかに笑って言った。それに何より、ルビーがカーラの力になってほしいと父に頼んだのだ、とこっそり打ち明けてくれた。
「あなたの妹さんには随分お世話になりました。だから力になりたいのですが、わたしがあなたたちにできるのは、せいぜいこれくらいですから」
カーラも公爵邸に勤めていた間に何度か会ったことがある公爵は、こまめに手入れしている髭の似合うダンディなおじさまだ。降嫁した王族の姫を母にもつ、由緒正しい生粋の貴族である。
まさか、あの人がそんな風に自分たちを助けようとしてくれるなんて思ってなかった。ルビーを通じて、またお礼を言いに行かなくちゃ、と思った矢先、姉がびっくりすることを言いだした。
「だから決めたわ。そのお話、受けることにしました」
キャロルは至極真面目な顔で言った。カーラは耳を疑った。
「え、大姉さま、家を出るの!?」
「そうなるわ」
「なんで小姉さま、反対しなかったの!?」
「反対する理由なんてないじゃない。ウチの爵位を回復するという手もあったけど、それには資金が足りないし、あったとしてもどうせ一瞬でおじい様たちが食いつぶすわ。それくらいなら、姉さまはウチを出ていった方がいい」
「わたしは寝耳に水なんだけどー!」
「だってあなた、家にいなかったじゃない。無断外出はやめろとあれだけ言ったのに」
ぐ、とカーラは言葉に詰まった。噂の中心人物になってしまった今、無用なトラブルを避けるために外出は控えるように言われていたのに、ソロに会いたくて何度も家を抜け出していたのだ。その間にこんな重要な話が取り交わされているなんて、思いもしなかった。
「まあまあ、シェリー。カーラも反省しているようだからその辺にしておきましょう」
「姉さまはこの子に甘いわよ。そんなだから無鉄砲で同じ間違いを繰り返すんだわ」
「けれどシェリー。この子の無鉄砲さに、わたしは救われたわ」
救われた? とカーラが上の姉を見つめると、キャロルはカーラの手をとった。そしてじっとカーラの左右で色が変わってしまった瞳を見ながら、ゆっくりと話した。
「カーラ。公爵さまがね、あなたが娘の未来を切り開いてくれたって感謝してたわ。だけど、あなたに感謝しているのは公爵家の皆様だけじゃない。公爵さまがこんな提案をしてくれたのは、あなたが頑張ったからよ。あなたはそのひたむきさで、私の未来まで切り開いてくれた。だから、ありがとう」
上の姉は昔からことあるごとにカーラに感謝の言葉を向けてくれたが、そんな風に真剣に感謝されると、なんだか胸のあたりがむずむずする。そんなに大げさに、何かを成し遂げたという実感はカーラにはなかった。公爵家の一件で一番頑張ったのはルビーだ。自分はたまたまそこに居合わせたにすぎない。
それでも、姉から向けられる気持ちに悪い気はしなくて、むしろむずむずが胸から広がって言って、なんでか泣きそうになった。
頬が熱くなるのを感じる。鼻がツンとするのを姉に知られたくなくて、ことさら明るい笑顔でカーラは「どういたしまして!」と言って姉の手を離した。
その様子を微笑んで見ていたキャロルは、もう一度真剣な顔に戻ってカーラに言った。
「だから、もうあなたはわたしたちのために頑張らなくていいの。これからは、自分のために生きることを考えなさい」
「ええと? 急にそんなこと言われても、どうしたらいいかわからないわ」
「だから、まず学校に行きなさいってことよ」
「学校……この魔法学校のこと?」
「そう。ありがたいことに公爵様があなたの学費を援助してくださるそうだから、気兼ねなく行ってらっしゃい」
カーラはその話を聞いて、少し困ったような顔をした。
いい話なのだろう、と思う。姉二人だってできるなら学校に行きたかったはずだ。その二人が勧めるくらいなのだからきっといい学校だし、自分の将来のためにもきっと役に立つ。
それでも、カーラはためらってしまった。
「……どうしても、行かなきゃ駄目?」
「なによ。こんなに良くしてもらっておきながら、何か不満でもあるわけ?」
「シェリー、だからすぐケンカ腰にならないの。カーラ、学校に行きたくない訳でもあるのかしら?」
「だって……」
だって、そんなところに行ったら、ソロに会えなくなる。
ソロがまた、いつ勇者としての旅に出るかわからない。もしかしたら、その時はカロルドだって一緒に連れていくかもしれない。そんなことになったら、また彼が何かやらかすんじゃないのかすごく心配なのだ。だから、それについていきたい気持ちがあった。
いつ始まるともしれない旅だ。いつでも彼についていけるようにするには、学校に行っている時間なんてない。
「ソロ様ね?」
シェリーがそう言うので、カーラは驚いて顔を上げた。
「なんでわかるの!?」
「わかるわよ……公爵家から戻ってきてから、何回その名前を聞いたと思ってるの? でもねカーラ。今のままのあなたでは、あの方のお役には立てないわ」
「え?」
「この屋敷に滞在されていた頃、まさかあの方が始祖さま本人だなんて思いもしなかったけれど、《仮面の勇者》として大きな使命を抱えているのはわかったわ。そんな人の旅についていったとして、あなた、何かできると本気で思ってる? 役立たずだって嫌われて、置いていかれるのが関の山よ」
「……ソロは、そんなこと言わないわ」
「優しい方ですからね。でも、本当にそれでいいの?」
言い返す言葉がなかった。自分にできるのはせいぜい裁縫や料理などの家事くらいで、それでどうやって勇者の旅に貢献できるだろう。ソロについていきたいというのは、隣に立ちたいというのは、カーラの勝手な願望だ。ソロにとって何か得があるかなんて、考えていなかった。
「魔法学校の研究室であの方が何をしているのか、カーラ、あなたにはちっともわからないんでしょう? それはあなたが今まで勉強してこなかったせいだわ。結局あなたがソロ様の役に立てないのは、自業自得なのよ」
姉の厳しい言葉にカーラは身を硬くする。下の姉の真実を突き付ける鋭い刃は、時にカーラの心にぐっさり刺さる。さっきとは違う意味で泣きそうになったカーラだが、その様子を見てキャロルがシェリーをたしなめた。
「もう! シェリー。あなたの率直さは美徳でもあるけど、時に人を傷つけるって言ってるのに!」
「姉さまがこの子に甘すぎるから代わりに言ってあげてるだけよ」
ふん、と鼻を鳴らしてまったく悪びれないシェリーをカーラの前から押しのけて、キャロルが言う。
「ねえ、カーラ。どうしても学校に行きたくないなら、無理する必要はないと思うわ。だけど、シェリーの言うことも一理ある。知識があれば、ソロ様を手伝えることは今よりきっと、もっと増えると思わない? あなたはまだ原石。学ぶことは、自分を磨くということよ。ねえ、想像してみて? ソロ様と魔法の話ができる自分の姿を」
キャロルの言葉に、確かに、とカーラは思った。
一朝一夕の勉強で、人々に魔法をもたらした始祖であるソロから頼られる存在になれるとはさすがにカーラも思わないが、難しい魔法の話をしているソロとカロルドを見て悔しい思いをしたことは一度や二度ではない。勉強さえすれば魔法の知識もできるし、彼らの会話に入っていけるかもしれない。それに少しくらい、研究に関わることを手伝えるようになるかもしれない。いつか旅についていくことができても、彼の力になれるかもしれない。
そう考えると、魔法学校に入学することは、とんでもなくいいことのように思えてきた。
そして思考がそこまで至ったら、カーラはもう止まらなかった。
「わかったわ! わたし、魔法学校に入学して、勉強する!」
カーラのその返事を聞いて、二人の姉がこっそりと目を合わせてにやりと小さく笑ったことを、幸いなことにカーラは知らない。
カーラが姉におねだりするのが上手なように、姉たちもカーラの扱いなんてお茶の子さいさいなのだった。
そして、その日から、カーラの勉強漬けの日々が始まった。
しかし長年家事やアルバイトに明け暮れた彼女はやはり長時間机にかじりつくということに抵抗感があり、勉強はキャロルとシェリーの想像を越えて遥かに遅々として進まなかった。
それでも、時々は息抜きと称してソロやカロルドに会いに行ったりルビーに手紙を書いたりしながら、カーラ自身も今までになく熱心に試験勉強に取り組み、なんとか一通りの試験対策を終えて編入試験当日を迎えた。のだが。
「ちっともわからないということがわかったわ」
どこか遠い目をして帰ってきたカーラに編入試験の感想を聞いたキャロルは、カーラのそんな答えを聞いて随分気をもんだ。そして、その数日後に魔法学校から手紙が届いたという知らせを聞いて、カーラを呼んで目の前で手紙を開封させた。
カーラ本人よりむしろ姉が緊張の面持ちで見守る中、手紙を開いたカーラの顔がほころぶ。
そこには『合格通知』と書かれていた。




