お茶会編21
一方そのころ、ソロはドラゴンを追い詰めていた。
竜の弱点は、固く全身を覆う鱗の中、どこかに一枚だけある柔らかい逆鱗である。どんな竜でも、それは変わらない。しかしそれがどこにあるのかは、竜によって違う。たった一枚の小さな鱗を見分けるなんてそもそも半端な冒険者には不可能だ。
だがソロは『半端な冒険者』ではない。彼はまず、振り下ろされた爪を起点にドラゴンの体を駆け上がった。ドラゴンは体が大きい。人間なんて小バエ程度にしか認識できず、それくらいの大きさの存在がいくら体をはい回っても、鋭い爪では自分の体を傷つけないように攻撃することが難しい。だから素早く移動しながら、弱点である逆鱗を探すのがドラゴンと戦う時の常道である。
もちろん爪で引き裂かれたり、一瞬の油断で踏みつぶされる危険は大きい。しかし活路を拓くためには、リスクをとって行動するしかない。ソロは慎重に、カミソリのように尖った鱗を一枚一枚確認していった。
ドラゴンがソロを振り落とそうと暴れる度、ブレスを使って公爵邸を燃やそうとする度、ソロは魔力を集中して障壁を生み出してドラゴンの行動を制限する。こんなときのために溜めこんでいた魔力を出し惜しみなく放出しているので、自分の右目はきっと赤い光を放っているのだろうと思う。
かつて隣にいたはずの女性は、この光を忌み嫌った。それ以来、ソロは仮面で瞳を隠すことにしている。
「……八百年前を思い出すなあ」
鱗の突起にしがみついてドラゴンが体を揺さぶるのを耐えている間、ソロは独りごちた。
竜と戦うのはソロにとっては初めてではない。けれどこれほど大きくて巨大な竜となると、思い出す存在は一つだった。八百年前、自分がこの瞳を得るきっかけになった、神代から生き続ける『宝龍』と呼ばれる特別な竜。
思えばあの竜も、こんな風に赤かった。
「きみは、今の僕を見るときっと笑うだろうね。『だから言ったじゃないか』なんて皮肉っぽく顔を歪めて」
独り言だ。
それなのに、まるで目の前に誰かがいるかのようにソロは話す。
あるいは目の前の竜に、かつて出会った竜を重ねているのかもしれなかった。
かの竜は、ソロが見た目通りの年齢だったころに出会った。あのころの彼はまだ若造で、世界の仕組みなんて、人間の心なんて、知ったかぶっていたくせにまったくわかってなんかいなくて、それなのに青臭い理想論を振りかざして力を求めた。
「この国を守るため、力を貸してほしい」
だなんて、世界の始まりから生きると言われる宝龍には、さぞ滑稽に映ったに違いないと今では思う。
しかし竜は彼に大きな力を与え、その代償としての責任も負わせた。
最強の魔力を秘めた宝石眼。その重圧は、不老の呪いと共に常にソロを蝕んできた。
『キミは、いつか後悔するだろう』
あの時、かの竜はそう言った。
『ボクの力は世界を滅ぼすための力だ。決して、守りたいものを守る力ではない。キミが守りたいと言った人々はね、いくら守ったってあっという間に寿命で損なわれていくよ。キミが後悔するときには、果たしてどれだけのヒトがキミの傍らにいるだろうか。……それでも、誰を失おうと、キミはここから、ボクの代わりに世界の分銅としていつまでも生き続けなければならない』
ヒトの身で、竜の孤高と孤独にどれほど耐えられるものだと思う?
そう言って竜は消滅し、ソロは宝石眼を得た。
もう八百年も前になる。
八百年経ったのだ。いつの間にかそんなに経っていた。あまりにも長かったような、でも短かった気もする。時間の感覚は、もはや摩耗していた。
公爵邸を破壊しようとドラゴンが咆哮する。大きなエネルギーの発生を感じて、その場所に相殺するようにソロは魔力を送り込む。だが左目の死角になるとどうしても完璧にはカバーできず、公爵邸へ降り注ぐエナジーシャワーは華美な装飾を容赦なくはぎとって、その破片は中庭に落下していく。
できるだけドラゴンの注意を逸らそうと人気のない方におびき出そうとはしているが、中庭にいるはずのカーラたちは無事だろうか。
このドラゴンを見て、また宝石眼が、それを持つ自分が恐ろしくなっただろうか。
かつての竜から宝石眼を授けられて、この力でみんなを幸せにできると思い込めたのはせいぜいその後の十年と少しだけだった。恐れられ、利用され、迫害され、終いには存在を無視されるようになり、もうここにはいられないから、と城を離れて冒険者となったのは何年前だっただろうか。
覚えていない。今となっては、つらかった記憶も時間の感覚と共に徐々に鈍くなった。
ドラゴンと一緒に振り回される視界がカーラ達を捉えた。どうやら無事であるらしいとわかってソロはそっと息を吐いた。
その脇にカロルドの姿が見える。さっきまで勢いよく呪詛を吐いていた姿からは想像できないくらいおとなしい。あの子に宝石眼を与えたのは自分だという自覚くらいは、ソロにもあった。
『竜種は繁殖しない。魔力の塊から自然発生するものだから。だけどキミは人間だ。キミの子孫は、キミが得た力を少なからず身に着けた状態で生まれてくるだろう』
消滅する前の宝龍の言葉を思い出す。
『魔力はそうやって拡散していく。魔法の力は、神からそれを受け継いだ竜種だけのものではなくなる。だけど、キミの子どもは、宝石の瞳を持って生まれるかもしれない』
最初の子どもは、生まれた時は宝石眼を持ってはいなかった。
それにほっとしたのもつかの間、生まれてすぐに、目を離したほんのわずかな隙に、その子は誘拐されてしまった。宝龍が人間に魔法を授けたと知った他の竜種が、自分たちと対等の力を得てしまったソロを脅威と認識し、対抗手段を作り出すために子どもを誘拐したのだ。洗脳してソロを敵と思い込ませ、殺させるために。
それがカロルドだ。紆余曲折の末ようやく再会したとき、彼の両の目には青い宝石眼が嵌っていた。
取り戻したはずのカロルドの精神は破壊しつくされていて、彼の魔力と記憶を封印して別人としての自我を植え付けなければ、人間として生活していくことは到底不可能だった。
そのための処置ができるのは、カロルドよりも強い魔力を持つソロしかいなかった。苦痛を伴うそれに絶叫するカロルド。絶望に歪んだ妻の顔、怖れを隠そうとしない家臣たち。あのときほど、魔力を手に入れたことを悔やんだことはない。
この国を、そこで暮らす人々を幸せにしたくて手に入れた力だったのに、守りたかった人々を不幸にしかしていないのではないかという不安は、いつまでも心の片隅にくすぶった。
だからこそソロは、自分の中の罪悪感と折り合いをつけるために、城を出てからも人々のために尽くさずにはいられなかったのだろう。
確かに魔法はこの国を豊かにした。ライフラインは他の国に比べて格段に整っているし、経済においても魔法を使った商品は輸出品としてかなりの割合を占めている。教育だって、ソロが設立した魔法学校を下地にした学園と呼ばれる施設が庶民の間でも浸透し始めていると聞いている。魔法がなかったら、この国は八百年も持たなかっただろう。だからトータルとしてみればプラスのはずだ。そのはずなのだ。しかし、
鱗の確認から目を離し、ドラゴンの体から中庭に視線を落とす。そこに蹲るルビー。カロルド。その姿を見るだけで胸が締め付けられる。
ルビーは、王国の歴史の中でも久しぶりに生まれた宝石眼を持つ子どもだった。ソロが城を離れてからも、時々そういう子どもは生まれていた。だがどの子も魔法の才に優れ、宝石眼をコントロールして自分の力とし、強かにそれを楽しみながらも魔法学の発展に寄与してきた。だからルビーが眼の制御に手こずっていると聞いても、一時的なもの、時間の解決するもの、と流してしまったところもあったかもしれない。
その結果、持て余した魔力が体内で結集し、心の世界で巨大なドラゴンを生み出すまで彼女は苦しむことになった。
ドラゴンは強い魔力が結集して現出する。そして、力の均衡を保つために世界を破壊する。神が作り出した、そのための存在なのだ。だから彼女の心の中にドラゴンが生まれたのなら、そいつは彼女の心の世界を壊すまで暴れ続けただろう。それを止めるためには、カロルドが彼女の心からドラゴンを召喚するのを見守るしかなかった。それが自分を陥れ、現実の世界に危機を招くカロルドの企みだったとしても。
宝石眼は、こんなものを生み出すほど彼らにとって呪いで、重荷なのだ。
だとしたらこんなもの、自分とともに滅びてしまうのが、もはや一番いいのかもしれない。
不老の呪いを破り自分の存在を消し去れば、少なくともこれ以降宝石眼を持つ子どもはこの国に生まれなくなるはずである。そのための方法を、長い時間をかけてソロは導き出していた。
自分が絶命すれば世界は分銅を失うことになるが、もはや魔力のかけらはそこかしこに点在しているし、人々が魔力を持たなかった八百年前とは状況が違う。あとは生きている者がなんとかするだろうと思ったし、そうするべきだった。
八百年も生きたのだ。もはや現世に未練なんてあるはずもなかった。
ただ、カーラの左目を除いては。
自分がいなくなれば、彼女の左目は世界を映すことがなくなるだろう。
「ごめんね」
視界の端に映るカーラを一瞬だけ見てから、ドラゴンの頭部に飛び乗った。
腕も尾も足も、胴体にもどこにも逆鱗はない。残るは頭部のみだった。頭に飛び乗った瞬間ドラゴンはぶんぶんと頭を振り回してソロをはがそうとするが、魔力を使って張り付いているソロはびくともしない。
とうとうドラゴンは己の防御を顧みずに鋭い爪を使ってソロを攻撃してきたが、それを難なく飛びのけて避けて、そして彼はついにドラゴンの左目尻に逆鱗を見つけた。
腰に下げた剣をすらりと抜いて構える。逆鱗を撫でるように剣の切っ先を置けば、どんな竜でも反射的に動きを止める。その見開いた竜の左目の視線を受け止め、ソロは口を開いた。
「わが同胞よ、世界を呪うお前の怨嗟は僕のものだ。わが身に宿り……しばらく休むといい」
右手で後頭部のひもを解いて仮面を外し、右目で竜と目を合わせれば、竜は抵抗するかのように嘶いた。
しかし逆鱗を封じられ体中から力が抜けていくのを止めることはできない。ゆっくりと竜の体は公爵邸の中庭に倒れ伏し、ソロの体も地上に戻る。
このドラゴンを自分の魔力として吸収すれば、ソロの体内の魔力飽和が一気に進み、限界を超えて体ごと弾けて消えるだろう。空気を入れすぎたシャボン玉のようなものだ。肉体という殻を失えば、魔力はあっという間に拡散し、この世界に解けていく。
そしてそれは、カロルドにも及ぶこともわかっている。召喚者と召喚獣は魔力によって繋がり、召喚獣が絶命すれば召喚者とて無事では済まない。
(あの子が、僕と一緒に消えることを望んでいるなんて思えないけれど)
それでも。
自分はここで消えよう。
この国の始祖として、この世界を守るために。
「いいえ、ソロさま。その必要はありません」
いよいよドラゴンの逆鱗を割ろうと剣を持つ手に力を込めた瞬間、後ろから声をかけられた。
振り向くとそこには、カーラに導かれてルビーがこちらに向かって歩いてくるところだった。
何も見えないはずの灰色の瞳で、それでも前を向いて凛と立つ彼女には舞踏会の時に見た妖艶さなんて微塵もない。憑き物が落ちたように清廉で、まぶしいくらい美しかった。




