お茶会編20
ルビーの瞳を媒介にドラゴンが顕現して、茫然として動けないカーラ達とは裏腹に、ソロの行動は早かった。
まずはドラゴンとの間合いを詰めるため走り出した。ドラゴンがソロをめがけて爪を振り下ろすのをぎりぎり避けたかと思えば、その爪を足掛かりに尖った鱗に包まれた体を飛ぶように登っていく。ドラゴンがそれに気づいて大きく体をゆするだけで、整えられた中庭はますます破壊されていった。
そして、その尾がカーラのすぐそばを薙ぎ払ったところで、カーラの耳に女性の叫び声が聞こえた。
「ルビー様!」
カーラが視線をドラゴンから戻すと、ロミーナがルビーの元に駆け寄ってくるところだった。カドヴァスやエバンズもいる。王太子を含め、今まで周りを囲んでいた貴族たちはドラゴンの顕現と共にいなくなり、代わりに公爵家の古参使用人たちがルビーを囲んだ。
「カーラ、一体ルビー様はどうされたんです?」
「わたしにも、よくわかりません…」
カドヴァスの問いに、カーラは自分にわかっていることだけを説明する。カロルドを問い詰める最中に、突然ルビーが苦しみだし、まるでその体から呼び出されたようにドラゴンが顕現した。カーラがわかっているのはそれぐらいだったが、それがどんなに荒唐無稽でも実際のドラゴンを目の当たりにすれば誰でも納得せざるをえない。
ソロとドラゴンが交戦する轟音が響くので叫ぶように会話する中で、公爵家の人々も何が起こっているのかの理解よりも、どうやってルビーを避難させるかについて話を進めた。
「ルビー様、ルビー様、目を覚ましてください!」
ドラゴンが顕現した途端に、ルビーは意識を失ってしまった。心配なのはルビーがさっきからピクリとも動かないことだ。公爵家の面々が声をかけても、まったく反応がない。戸惑ったように使用人たちが視線を交わすが、答えを持っている者なんてどこにもいない。そのはずだった。
「内部に巣食う悪夢を取り除いただけです。ルビーはすぐに目を覚ましますよ」
その言葉は轟音が響く中庭で、驚くほどまっすぐ届いた。使用人たちの視線が声の聞こえる方角に集中する。カロルドがまっすぐにカーラ達の方を向いていた。どうやらソロは拘束魔法を施してから彼の元を離れたらしく、腕を縛られたように後ろに回した体勢のまま座り込んでいる。
その顔に先ほどまでの笑顔はない。ただ、淡々と彼は言葉を紡いだ。
「あの竜は彼女の一部、拒絶すればするほど大きくなる悪夢。彼女が認めたくなかった内面の本心の具現化です。凝り固まったその膨大な感情が彼女の魔力の大部分を生み出して、それが宝石眼という形で彼女の表層に現れていました。要は、それを抜かれたことによる一時的な魔力欠乏なんですよ。だから意識の維持に必要な分だけ魔力が回復すれば、目を覚まします」
カロルドからは、先ほどまで笑顔に隠されていた害意がすっぽりと抜け落ちたようだった。それが不思議で、カーラはカロルドに向き直って訊ねる。
「カロルド、あなたがルビーの中からドラゴンを引き出したのね?」
カロルドは鷹揚ともとれる態度でカーラの言葉に頷いてみせた。公爵家の使用人たちが息を呑むのがわかる。ロミーナの腕の中で、ルビーが瞼を震わせたことに気づかないほど、空気が再び緊迫していく。
「なぜそんなことをしたんです! ルビー様があなたに何をしたというんですか!」
「……ソロに、本気を出させるために。こうなったら彼は、自分の生命をかけてでもあのドラゴンを止めようとするでしょう」
「あなたは、ソロを、殺したかったの? そのために、こんなことまでしたの?」
言いながら、それはおかしいと思った。ソロの命が狙いなら、彼をカロルドの心の中に閉じ込めた時点で企みは成功しているはずなのだ。あの闇の世界に閉じ込めておけば、きっとソロは命を落としたはずである。だとすればこんな大掛かりな舞台を作る必要はない。カーラやルビーを利用したというカロルドの真意が、カーラには全然わからない。
「いいえ。今日、この場所が必要だったんです。あの規格外の勇者はちょっとやそっとの騒ぎでは、のらりくらりと逃げてしまう。ソロとまっとうに話をするためには、彼に本気を出させるほどの危険……この国が壊滅するほどの危機が必要でした。そして、ルビーはとてもよい素質を持っていた」
「痛っ……!」
カロルドが話している途中で左目にピリッとした痛みが走り、カーラは目を手で覆った。それなのに、映像が視覚から流れ込んでくる。それは今まで目の前で見えていた、フードを被ったカロルドではない。
ソロがドラゴンと戦っている様子が左目から流れ込んでくる。ソロが惜しみなく魔力を使うことによる共振だった。
右目と左目とで違う光景が見えるので、平衡感覚をたやすく失ってカーラはよろめいたが、その様子を気にすることなくカロルドは言葉を続けた。
「あの竜を見ればわかります。少女の孤独、世界への絶望。それは、公爵家という狭い世界に閉じ込められていたからこそ育まれた自分勝手な勘違いかもしれない。けれど、それが彼女のすべてであることにかわりはありません。自分の不幸は宝石眼のせいだと言いながら、世界を逆恨みした彼女の限界。純粋培養された世界への悪意。それがあの、破壊の限りを尽くすまで止まらない竜のカタチになりました。あれこそが、私が求めたルビーの利用価値です」
「世界を滅ぼすほど強い悪意……ルビー様は、内面にそれほど強い葛藤を抱えていた、と?」
カドヴァスの問いの答えをカロルドから聞くことは叶わなかった。「ルビー様!」というロミーナの言葉に引き寄せられて、その場の全員が視線をルビーに戻したからだ。
ルビーが呼びかけに応えるかのように瞼を震わせて、閉じた瞳を開く。
その色は灰色だった。
「ルビー、その瞳」
その瞬間を見ていた、おそらくカロルドを除いた全員がはっとした。ルビーの瞳が灰色に変化している。それが意味するところはルビーの宝石眼が消失しているということで、きっとそれは、あのドラゴンが原因だということは、想像に難くない。
彼女はドラゴンを生み出すことを条件に、長年苦しめられてきた宝石眼から解放されたのだ。
「……なにも、見えない。どうなっているの? この音はなに?」
「ルビー様、目が、見えないんですか?」
「ええ……あなたはロミーナね? 一体なにがどうなっているの?」
カドヴァスがカロルドに向き直り、改めて訴えた。
「まじない師さま、あなたを信じていたルビー様に、これはあんまりな仕打ちです。あなたはルビー様から光さえ奪うのですか」
「……あのまま宝石眼を持ち続けていても、いつか限界を超えた魔力飽和は臨界点を突破し彼女は内側から崩壊を起こしていたでしょう。そんな呪いをもたらす宝石眼と、光を失うことのどちらがいいですか? 考えるまでもないですよね。あなたが一番悩んでいた眼がなくなったんです。ルビー、あなたはもう、苦しまなくていいんですよ」
周囲がみるみる破壊されていく中で、カロルドはまるで懺悔を受けいれた聖職者のように穏やかに告げた。
それを聞いたルビーが言葉に詰まったのがカーラにも分かった。それは公爵家の人々も同じだった。彼らはまじない師の言葉に理があるととっさに思ったのだ。
その場にいるカーラだけが、彼の言葉に納得がいかない。
「違うわ」
「何が?」
思わず言ってしまった言葉に、反応したのはルビーだった。カーラは一度怯んで、けれど話始めた。
もしかしたら、自分の考えは、長いこと宝石眼に悩まされてきた彼女を傷つけるのかもしれない。だけど、左目が熱いのだ。あの人がやろうとしていることは間違っている。それを止めるためには、ルビーの協力は不可欠なのだ。
「ルビー、ごめんなさい。わたし、あなたに瞳を取り戻してほしい。あなたの瞳はあなたに不幸をもたらしたかもしれないけれど。今、この場を収められるのも、あなたの瞳だけなのよ」
カーラの左目には、ソロの視界が映っている。あの人が今、どんな気持ちで戦っているのかなんて知らない。
だけど、何をしようとしているのかはすぐに分かった。
彼は、カロルドがドラゴンに施した呪いをすべて自分の身に引き入れようとしている。ルビーが少しづつ育ててきてしまった世界への憎悪を、世界の代わりに引き受けようとしている。カロルドがルビーからドラゴンを引き出したのと同じ要領で、自分の中にドラゴンを閉じ込めようとしているのだ。
目の前で倒れたカーラに瞳を託したのと同じように、彼は自分の身を犠牲にして周囲を救おうとする。
カロルドが自己犠牲を愚かと言った意味が分かった気がする。だってそんなのは全然、うれしくない。誰かに負荷を負わせて得る平穏なんて絶対居心地が悪いと思う。
なのに。カーラだけでは彼を助けることなんてできやしない。その方法がない。
だから。カーラはルビーを頼るしかできないのだ。
「ルビー、あの瞳をあなたに戻して。そしてソロを、助けてあげて」
カーラの言葉を聞いたルビーは、ロミーナの手を借りて立ち上がりながら答えた。
「……宝石眼は、私にとっては病気と同じ。壊死して腐ってしまった手足と同じ。身に取り戻せば命を縮める毒となる。せっかくそれを取り除くことができたのに、なぜそれを取り戻せというの?」
言葉の端々に怒りを含んでいるのが空気でわかる。ルビーを囲む使用人たちも、咎めるような視線をカーラに向けた。
「宝石眼は呪いなんかじゃないわ。だってわたしを助けてくれた。この左目だってそうだもの」
「それはソロさまに守られているからでしょう? あなたはただ、その瞳を借りているだけ。……それにあなたは妄信しているようだけれど、あの方は結局、私を助けてはくれなかった。宝石眼を持つ者が、魔力を操る才能に恵まれないなんて絶対に信じなかった。ご自分が高みにいすぎて、私の言葉なんて届かないのよ、そういう存在なの。あの方には私のような、弱い人の心なんてわかりっこない。そんな人に私の助けなんて、必要ないわ」
今、ソロを助けられるのはおそらくルビーだけだ。カーラの確信をルビーに伝えられないのがもどかしい。なんとか彼女にもう一度言葉を届けたくて、どうすればいいのかカーラは懸命に考える。
「ルビー、たぶん、あなたもわたしの姉さまを舞踏会の時に見ていたと思うの。とってもきれいな人よ。わたしはずっと、美しい姉さんたちを自慢に思っていて、だけどとっても憎らしかった……」
まるで関係ない話をし始めたと思ったのだろう、ルビーたちの胡乱げな視線を感じながら、カーラは言葉を続ける。左目に映るソロの戦いは熾烈を極めている。このままいけば、ルビーを説得する前に決着がついてしまうのかもしれない。
けれど今のカーラには、どうか間に合って、と願うことしかできない。
「わたしだってきれいになりたかった。でもそう生まれなかった。努力できる限界を超えて、誰が見ても明確な差があって、『どうしてわたしだけ』なんて姉さまたちを逆恨みしなかったなんて、とても言えない。あのね、もしかしたらあなたは、わたしのちっぽけな悩みと比べるなと思うかもしれないけれど。でも、自分が欲しかったものを持って当然の顔をしているソロを嫌うあなたの気持ち、だからちょっとわかるんだ」
望んで、どんなに努力しても自分の手には入らない。だけどそれを持っている人が目の前にいるのだ。恨むなと言う方が難しいし、そうやって考える間に何も持っていない自分のことがどんどん嫌いになる。
するとそのうち、動けなくなってくる。悪夢に捕らわれたように、前に進むことが怖くなる。
「そんな自分を受け入れることができたのは、自分にできることで姉さまたちを支えるようになってからだと思う」
服を作って着飾らせたり、バイトをして家計を助けたり。そうすることでカーラは、自分以外の他人の中での自分の位置を確認していった。それがカーラにとって、世界と調和するための方法だった。
「……きっとあなたにも、世界と調和する方法はある。あなたに何があっても、何がなくてもそれはあるし、それを一緒に探していきたいって思う。だけどだからこそ、あなたは瞳を取り戻すべきだと思うの。自分から光を手放すなんてこと、しなくていいじゃない」
「ですが、ルビー様はずっと苦しんできたんですよ。宝石眼を失った今、この状態であれば新しい生活を始めるのもたやすいのではないですか?」
「だけどそれは、今まで頑張ってきたルビーを置いてけぼりにしてしまう。それに、こうも思うの。あの瞳を含めて、ルビーはルビーでしょう?」
ロミーナたちはルビーの様子を窺っている。ルビーは唇を引き結んで、眉根にしわをよせて前を向いていた。
もしかしたら、怒ったのかもしれないとカーラは思う。だけど怒っているならそれでもいい。諦めて動かなくなってしまうより、ずっといい。
「状況に流されるままで、こんなにこじれるまで放置してしまったあなたは弱い人だったかもしれない。それに比べたら確かにソロは強い人でしょう。あなたが思っているとおりに。だけどそれは、助けを差し伸べないでいい、そんな理由にはならない。どんなに弱い人だって誰かを助けることはできるし、どんなに強い人だって、誰かの助けが必要なときはあるんじゃないかしら。助けたり助けられたりするのが、きっと生きるってことなんじゃないかしら」
「だが……さっきそこのまじない師は、このまま宝石眼を持てば魔力が増えすぎてそのうちルビー様の内部から崩壊してしまうと言っていた。瞳を戻すのは危険じゃないのか」
エバンズが戸惑ったようにカーラとルビーの間で視線をさまよわせる。どちらに賛成するべきか、立場を決めかねている様子だった。
「わたし、知ってるわ。魔法っていろんなことができるのよ。瞳を取り戻しても魔力をいっぱい使い続ければきっと、増える量より減る量が多くなるし……それにルビーは今までとは違うわ。さっきカロルドはこうも言っていた。『ルビーは完成した』『立ち上がる決意をした』って。体内の魔力が感情に左右されるなら、今のルビーなら魔力を制御できるんじゃないかしら。だったら、諦める必要なんて絶対にないと思うの」
「ご都合主義にもほどがありますよ。そんなの、絶対うまくいきっこない」
侮蔑の籠った声を出し、ねちっこい視線でカロルドがこっちを見てるのなんてへっちゃらだった。
どのみち、決断するのはルビーなのだ。ソロを助けられるかどうか、それはもはや、ルビーにかかっていた。
見慣れない灰色の瞳は感情がまるで読めない。
ルビーが口を開くのを、カーラは待っている。




