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お茶会編14

 深い眠りに落ちていくような、底無し沼に潜っているような。

 そんな「あともどりできない」何かに囚われているかのように、カーラの意識は深く深く沈んでいく。

 このままではいけないと思うのに、指先ひとつ自由に動かせなくて、そうしているうちに意識が鈍く鈍くなって、考えることすら次第に面倒になってくる。

 ここにあるのは、ひたすらの暗闇。冷たくも暖かくもない、ただ安寧な無。


――どうして?


 たったひとかけらの思いだけがわずかに残る。


 どうして、こんなことになったんだっけ。……なんにも、思い出せない。


 カーラが思考を放棄して瞳を閉じようとしたとき、何もなかったはずの空間で、空気が動いた気がした。

 ぬるり、と生暖かい気配があって、周囲を蠢くなにかにカーラは気づいた。


 闇の中の微かな光を反射して輝く鱗に包まれた巨躯。皮膜を張った巨大な翼を広げて、音もたてずに飛んでいる。頭上にあるのは大きな角。躯と同じほどに長い尾の先には、この暗闇の中でたった一つ、鈍く光る何かがはめ込まれている。


 ドラゴンである。


 物語の挿し絵でしか見たことがないその巨躯が、カーラの小さな体をぐるりと取り囲むように飛んでいる。まるで肉食獣が警戒しながら獲物に近づくときのように、何回も何回も回り込みながら距離をつめてくる。


 不思議と、カーラに恐怖はなかった。というよりも、心になんの感情も浮かんでこない。

 すべてがぼんやりしている闇の中で、カーラはただ、唸るドラゴンの低い声を聞いていた。


 どこかで聞いた覚えのある、懐かしい声が聞こえたのはそんなときだ。


「ばか、なにしてる! こっちだ!」


 声がした方向に瞳を向ける。漆黒のフードで顔を隠した青年がそこにいた。

 この人を知っていると思う。なのに、どこで会ったのか思い出せない。


――どうして?


 彼にそう問いたい気がする。なのに、どうしてそんなことを聞きたいのかもわからない。


「ああ、もう! 記憶領域までやられてるのか。いいから手を伸ばせ! こっちでひっぱってやるから!」


 彼が誰かなんてすぐに考えるのをやめてしまった。

 カーラはただからっぽの頭で、言われた通りに彼に向かって手を差し出した。


「ッ!!!」


 手を掴まれて、力強く引っ張られる。ゆっくりと続く落下の感覚からようやく逃げ出して、カーラはそこに地面があったことを知った。


「アイツの目は今、外の世界を見てる。だから今、ここからお前が抜け出そうとしていることに気づいていないんだ。この隙に、ここを駆け抜けるぞ!」


 黒いフードの青年はそう言うと、カーラの手を引いて走り出した。

 一歩踏み出すと、闇のなかでその足元だけが星のように輝く。ぼうっとしたままその様子を眺めながら、カーラは抵抗することなく青年についていった。


 彼に手を引かれて走り、どんどん遠ざかっていくドラゴンの姿。最後に見えたその瞳は、氷のように冷たい青だった。


  ※


 それからどれぐらい走り続けただろうか。ドラゴンの姿が闇に紛れて見えなくなってようやく、青年は走るのを止めた。


「ここまで、くれば……」


 どうやら青年はあまり体力がないらしく、座り込んで息を整える。未だカーラの手を繋いだままであることに気づいて慌てて手を離すが、カーラがぴくりとも動かないことを訝しんで顔を上げ、カーラが未だぼんやりしている様子を見て、青年は短く舌打ちした。


「魔力切れか……」


 青年はそう呟くとフードをとって、カーラの前髪を片手で押さえると、カーラの額と自分の額をくっつけた。

 しばらくそうしているうちに、うっすらとカーラの体が光を帯びる。

 焦点を失っていたカーラの瞳がもとに戻ったのは、それからすぐのことだった。


「え……?」


 カーラが正気を取り戻したとき、青年の顔はどアップで目の前にあった。


「キャー!???」


 ばちーん。

 カーラが青年にビンタをすると小気味良い音があたりに響いて、青年は大きくよろめいた。


「いってえ! なにすんだよ!」

「こっちのセリフだわ! 一体わたしに何をしたの!」

「あのな、お前な……俺は命の恩人なんだぞ!」


 言っている意味がカーラにはわからない。フードを外していても、瞳を隠していなくても、さっきまで一緒にいた人を見間違えるはずもない。

 この青年は、城のまじない師、カロルド本人である。


「カロルド、あなたねえ……なにをしたのか、忘れたなんて言わせないわよ?」

「名前……知ってるのか?」


 カロルドは、カーラに名前を呼ばれて驚いた様子を見せた。

 カーラには、それで驚く理由がわからない。


「あなたが教えてくれたんじゃない!」

「いや、違和感ない? 俺って表でもこんなだった?」

「はい?」


 肩を捕まれてまじまじと視線を合わされて、さっき見たドラゴンと同じ、冷たい印象の青い瞳を覗きこんだ。

 目を覆い隠した黒い布こそないものの、服装も顔も、さっきまで目の前にいた呪い師そのものだ。

 だけど、呪いを与えると言って自分を闇に突き落としたまじない師は、こんなに距離を詰めてくる人ではなかったし、口調も違う。

 何より雰囲気が、公爵家で出会ったまじない師のトゲトゲした印象とはまったく違う。


「もしかして、まじない師さまじゃないの?」

「いいや、本人さ」


 なんなのよ、とカーラは思った。

 カロルドはそんなカーラに気づいた様子もなく続ける。


「お前が会った俺は、俺だけど俺じゃない。第二人格とでも言えば分かりやすいか」

「わかりやすい……?」

「ああ、うーん。要するに、まじない師の体にある別の人格なんだよ。それで納得しとけ。お前が表にいるまじない師にこの世界に落とされたから、こうして別の人格である俺に会えたってこと!」

「この世界って、ここのこと? ここはどこなの? わたしは、公爵家のお屋敷にいたはずなのに」

「ここは、まじない師の魂の内側。いわば精神世界、心の中だよ」

「心の中? こんなに暗いところが?」

「見えかたは、人によって異なる。そいつが見えやすい形で見える。お前がここを闇の中だと思うなら、それはお前がまじない師に持っている印象でもある。お前はここが真っ暗に見えるんだな。闇ねえ……まあ、いいセンいってるよ」


 相変わらず周囲には暗闇しか見えない。これが、まじない師の心の中。まじない師にカーラが抱いていた印象だと言うのだろうか。

 カーラには、よくわからない。心なんて目に見えないものの中に、入れるということがいまいち納得できない。


「人間は、器となる体と魂でできている。魂っていうのは、おおざっぱに言えば魔力の塊みたいなもんなんだよ。原子と原子のつながりが分子を産むように、魔力の組成が魂を形作る。まじない師に、呪いを移すって言われただろ。それは、魂を食らう魂喰いの呪いだ」

「要するにどういうことなの?」


 もうちょっとわかりやすく言ってほしい、と思いながらカーラはカロルドの話を遮った。

 するとカロルドは、一瞬勢いを削がれたような顔をして、そのあとでにやりと笑って言った。


「お前はまじない師に魔力ごと魂を喰われている最中だってこと! どうだ驚いたか!」

「驚いたわよ! 魂を食べられるって、そうしたらわたしはどうなるの!?」


 カロルドはカーラの反応に満足したように頷く。よっぽど話を遮られたのが嫌だったのだろうとカーラは思う。もう絶対、彼の話を遮ることはしないでおこう。


「魂を失えば、肉体は消滅する。存在の根幹たる柱がなくなるからな」

「それって……死ぬってことでしょ?」

「だいじょーぶ、俺は命の恩人だって言っただろ?」


 からりとした笑顔で、カロルドは笑った。その笑顔に自信が見て取れたので、死の恐怖に沈みそうだったカーラの気持ちは持ち直す。


「なにか、もとの世界に帰る手立てがあるのね?」

「ああ。だが、それにはお前の協力が必要だ。……協力、するよな?」


 当然だわ、という気持ちを込めてカーラは頷いた。


「よし、じゃあ俺についてこい! しばらく歩くけど、しんどくなったら言えよ。お前の肉体から離れている今、この世界ではお前には魔力が供給されない。ほっておくとあっという間に魔力が枯渇して消滅するからな」


 カーラはさきほど、カロルドの素顔を見てからずっと感じていた疑問を口に出すことにした。

 間近に見たカロルドの顔は、公爵邸で会ったまじない師にそっくりだったけれど。それとは別にもう一人そっくりな人に、カーラは心当たりがあった。


「なぜあなたは、魔力が枯渇しないのか、聞いてもいい?」

「無尽蔵の魔力、宝石眼の持ち主だからだよ」

「……あなたのその青い瞳も、宝石眼だということよね?」

「赤は始祖の色。始祖に力を託した赤き竜の善性。俺のこの色は、闇に堕ちた竜に魅いられた愚者の色さ」


 自虐的に呟くカロルドに、カーラはもっと直截的に尋ねずにはいられなかった。


「あなたとソロは、どんな関係なの?」


 その言葉を聞いたカロルドは、しばらくカーラの顔を見つめると、にやりと笑って人差し指を唇の前に立てて言った。


「ヒミツ」

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