お茶会編6
カーラは公爵令嬢の顔を知らない。だから、瞳を閉じて眠っている彼女が本当にルビー嬢なのか確かめるすべは今のところない。けれど、ロミーナに聞いた限りで、この屋敷でドレスを着て眠っている可能性があるとしたらルビー嬢しかありえない。
――なんて……綺麗な人。
姉二人と共に暮らし、美人は見慣れているカーラでも彼女の美しさには目を見張るものがあった。
ソロから話を聞いて想像していたような、邪悪さなんてひとかけらも見えない。陶器のように真っ白な肌。色素の薄い金髪は緩いウェーブを描いてふっくらとハリのある頬の輪郭を柔らかく包んでいる。閉じられた瞳を縁どるまつ毛は眼もとに影を落とすほどに長く、彼女が瞳を開いたときに、その美しさは完成するのだろうと思わせた。
カーラがしばらくそのまま立ちすくんでいると、目の前の彼女が瞼をぴくぴくと震わせ、ゆっくりと瞳を開いた。
――ああ、本当に輝くように赤い色。
両目で瞬く宝石眼。やはり彼女こそが公爵令嬢だ。
だが彼女の瞳はソロのそれ(つまりカーラの左目)より、幾分か赤みが強い。ソロの瞳が太陽の下の薔薇だとしたら、彼女のそれは暗闇で蝋燭に照らされた薔薇。血を吸って育った薔薇である、と言われても信じてしまいそうな、禍々しささえ感じる赤。
ぱちん。
公爵令嬢の瞳を見たまま動けないカーラの胸元で何かが弾ける音がした。
その音で、カーラはやっと自分が動けなかったことに気づいた。
「あら、あなたは……」
鈴の鳴るような心地よい響きの声で、ルビー嬢は声を出した。
「わ、わたしはカーラです……今日から、お茶会まで、こちらでお世話になるメイドです」
「カーラ、カーラね。そう、ロミーナが今日からメイドが増えますと言っていました。それがあなたなのね。でも、ふふ、おかしいわね? お世話になるのはこちらのほうなのに」
まったく邪気のない微笑みに、カーラは毒気を抜かれる。このひとが本当に、ソロの言っていたような悪だくみをしていたというのだろうか。
ぱちん、ともう一度カーラの胸元から音が響いた。
――油断しちゃダメ。目の仕事は、彼を疑うことじゃないはず。
公爵令嬢は心なしか目を見開いてカーラを見つめた後、周囲の様子に気づいた。
「あら、何かしら、洗濯物……?」
どうやら、カーラが洗濯物を干す前からこの木陰で寝ころんでいたらしい。
「恥ずかしいわ、一度本を読み始めると止まらないのです。そのうちにうたたねをしてしまったみたい。ロミーナには言わないでくれる? 怒られてしまうわ」
もちろんです、とカーラが告げるとルビーははにかむように笑った。
「ありがとう、なにか、お礼になるようなことができるといいんだけれど」
「いえ、そんな……お礼を言われるほどのことではありません」
「そんなことはありません。ロミーナって、怒るととっても怖いのよ?」
だろうなあ、とカーラは思った。初対面の人間につんけんした態度を隠さない人間が、本当は優しかったという例をカーラは見たことがない。見た目の印象通り、ロミーナは典型的な「厳しいお局様」というタイプなのだろう。
ただし、公爵令嬢にもその厳しい態度を崩さないということは、身分によって態度を変えることはないという点では公平な人物なのかもしれない。
「ねえ、この洗濯物……あなたが干したんでしょう?」
「わかりますか?」
「わかります。ロミーナは人目に洗濯物をさらすようなことはしません。でも大丈夫? 見つかったらあなたも怒られてしまうのではないかしら」
「う……そうでしょうか」
「たぶん、きっと、そうでしょう。だから、わたくしが助けてあげます。それを、お礼にします」
言いながらルビーは立ち上がった。そのまま庭に干された洗濯物に向かう。
一体何をするつもりなのだろう、とカーラはその背を追った。
「もうだいぶ乾いていますね。これならすぐに済みます」
「あの、お嬢様。一体何をされるんですか?」
カーラが後ろから声をかけると、ルビーは振り向いてにっこりと笑った。
「こうするのです」
そう言って何気なく片手を上げた。それを合図にしたように風が踊りだす。二人を中心にして、風が渦を巻いて流れていくのを、舞い上げられた木の葉の動きでカーラはやっと理解した。
もし二人が暗闇の中にいたら、カーラはルビー嬢の瞳が赤く輝いたことに気づいただろう。
――これが、公爵令嬢の魔法……
「ふふ、楽しいですね? あんまり派手に力を使うと怒られますが、これくらいなら見逃してもらえるでしょう」
魔法を使ってあっという間に乾かした洗濯物を、風を操って次から次へとカーラの方に投げ飛ばしながら、ルビーは機嫌よく言った。
――一体、誰に怒られるんだろう。ロミーナさん? それとも、お父様とかかしら?
投げ飛ばされた洗濯物を器用に籠でキャッチしながら、カーラはそんなことを考えていた。
そうしてすべての洗濯物を取り込み終えて、カーラは改めてルビーに頭を下げた。
「お嬢様、ありがとうございました。おかげさまで洗濯物は全部綺麗になったし、ロミーナさんにも怒られないで済みそうです」
「これくらい、どうってことありません」
どや顔で微笑む公爵令嬢は聞いていた年齢よりも幾分子供っぽい。『公爵邸に閉じこもってプライドばかりが高く、自分の魔力を使って人を操って悪だくみをしている』というイメージからはかけ離れているが、人間は見た目の印象がすべてではないことくらいカーラでも知っている。
――ソロの目として、彼女を見極める。それがわたしの仕事だ。
胸元が熱い気がして胸を抑えると、不意にルビーが距離を詰めてカーラの顔を覗き込んできた。
「あなた……左右で少しだけ、瞳の色が違うのね?」
その近さに驚いてカーラが後ずさると、公爵令嬢は頭を下げた。
「あら、ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったのです。ただ、とても珍しくて……」
左右で瞳の色が違うのは確かに珍しいが、ヘーゼルの瞳はありふれている。ルビーの真意が掴めずカーラが黙っていると、彼女は続けて言葉を発した。
「カーラ、忙しいとは思いますが、仕事の合間にまた話し相手になってくれますか? ロミーナが若い人を雇うのは本当に久しぶりなのです。いろいろお話がしたいわ。ロミーナには話しておくから、余裕のある時にわたくしの部屋にいらしてね」
「! はい、もちろんですお嬢様。こちらこそ、よろしくお願いしますね!」
渡りに船とばかりにカーラはその提案に飛びついた。とにもかくにも、彼女とお近づきにならなければなにも始まらないのだ。
洗濯物に埋もれるように籠を持ったカーラはその場で一度ルビーに別れを告げ、屋敷に戻ってロミーナを探すことにした。洗濯が終わったことを報告して、次の仕事の指示を受けなければならない。特に指示がなければそのまま、ルビーの部屋に行くつもりだった。
それにしても、とカーラは思う。宝石眼を持つ人は距離の取り方が独特だ。ルビーは若い人間が珍しかったのだろうか。公爵令嬢だなんて究極の箱入り娘の前には、同世代の人間も選ばれた者しか側には寄れないのかもしれない。
屋敷に戻るとロミーナが待ち構えていた。「洗濯は終わりましたか」と仁王立ちで聞いてくるあたり、洗濯物の山は一種の試験だったのかもしれない。
「ええ、全部綺麗になりました!」
そう言って籠の中身を見せれば一瞬怪訝な顔をしたもののなんとか合格ラインに入れたようだった。それからこまごました雑用をこなしたのちに、カーラは正式に、公爵家の使用人用の小さな個室をあてがわれた。これからはしばらく家には帰れない。ここで寝泊まりをすることになる。
小さいが清潔で居心地のいい部屋で、カーラは今日の分の日記をつけた。日記帳には特別な魔法がかけられていて、書いたことがそのまま、ソロが持っているもう一冊の日記帳に浮き出る仕組みになっているらしい。魔法ってすごい、とカーラは思う。
結局今日は、公爵令嬢の部屋に入ることはできなかった。明日から頑張る、といったことを日記帳に書いてから閉じる。
忙しく働くことは性にあっているが、なれない環境に疲れてしまったカーラがそれからようやくメイド服を脱ぐと、胸元からキラキラした何かの破片のようなものが零れ落ちた。
キャロルとシェリルがくれたお守りに付けられたビーズのうちの一つが、粉々になって砕けていた。