タイムマシン
この街に一ヶ月前から住み始めたペンキ塗りのおじさんは、実に働き者だった。塗装の剥げた家を見つけたらすぐに訪ねて行って、笑顔でペンキを塗っていた。ありがとうございます。ちょうど困っていたんです。と返すと、快活に笑って、構いませんよ。ぜひまたご贔屓に。と言うのである。
服は汚れて、ペンキ臭もきつかったけれども、確かにおじさんは楽しそうに働いていた。
だからだろうか、こんな事を話したのは。
「今日の授業は将来の夢、についてです。皆さん。自由に考えてみましょう!」
中学に入って二年目。中学生活の半分を終えようとしていた時期の授業でのことだった。
夢の事を考えるのは、僕はあまり好きではない。僕は父さんのペンキ製造の会社を継ぐことになっていて、それに文句はない。
しかし、いつからかそのことに疑問を覚えるようになったのだ。
それは本当に自分の意志なのか。自分で決めた道を進めているのか、と。
「いいよな、笹川は、将来大北ペンキを継ぐんだろ?」
「羨ましいぜ。夢が決まってるってのはな。」
クラスメイトの大多数は、将来の展望はぼんやりとしか見えていないらしい。それもそうだろう。生まれたときから将来が用意されている人間なんてそう居ない。そんなわけで僕は彼らからは夢を追える輝く人間に見えているのかもしれない。だから口々にそんなこと言ってみせた。
でも僕はそうは思わなかったのだ。確かに父さんの会社は継ぎたい。
でも、果たして本当にそうなのだろうか。そうとしか思えない環境にいたからそう思うようになったのではないか、とだんだん疑心暗鬼になっていって、僕はどんどんと行き止まりのほうに進んでいっているみたいだった。
ほんとにそれが自分の気持ちなのか。それとも単に父の願いなのか。
もし、父に会社を継ぐという選択を投げかけられた日に戻って、それでその選択肢を選ばなかったら。そうしたら自分はどんな道に進むのか見てみたかった。アパレル店員か。サッカー選手か。ミュージシャンか。そんな無き夢の数々は、どうやら僕の選ぼうとしている未来よりもずっと輝いて見えるような気がして、僕はふっと呟いたのだ。
「タイムマシンでもあったらなぁ。」
誰もいない帰り道に僕の独り言が波紋を打つ。それは誰にも拾われる事なく、減衰して無くなっていく。そのはずだった。
「そんなの、どこにだって転がっているよ。」
ふと、後ろから声をかけられる。びっくりして飛び退くとその声は快活に笑い、すまんすまん、驚かせちゃったね。と言った。
「え!?ああ、ペンキのおじさんじゃないですか?」
「はは、僕はそんな風に呼ばれているのかい。」
ペンキのおじさんはまたも快活に笑い、こう言った。
「いやあ、すまない。君があんまりにも浮かない顔をしていたもんでな。」
ドキッとした。僕は無表情な部類の人間だと良く言われる。家族にだって心が読めないと言われることがあるし、友達には怒っていることはおろか、喜んでいることでさえ気付かれにくい。初対面のおじさんに、悩みという難しい感情をいとも容易く見破られたのが衝撃的だったのだ。
「なんで、ですか?」
「ふむ、なんでとはどういう事かな?それより君は何で悩んでいたんだい?こんな老骨で良ければ話を聞くよ」
老骨と自分を称したおじさんはせいぜい三十代半ばに見えたものだけれど。僕はなんだかそこで彼と僕の間に何かしらの共通点を感じたのである。
だから、こんなことを聞いたのだ。
「おじさんは、なんでペンキ塗りをしているんですか?」
一瞬の沈黙。彼は少し考え込むように顎を抑えると、さらりと答える。
「うーん、ずうっと昔からの夢だったからかな。厳密に言えば内容は少し違うんだけど、それこそ小学校低学年くらいからの夢だったなぁ」
「じゃあ、おじさんは、その夢に疑問を持った事は無いですか?」
不思議な人だ。話せば話すほど、僕は彼と自分が似通っているような気がしてならなかった。
「ああ、何回もあったさ。これはほんとに僕の夢なのかってね。ふむ、もしかして、君も同じような悩みを抱えているのかな?」
急に核心を言い当てられたかのような気がして黙り込んでいると、彼はそのまま話を続ける。
「ふむ、どちらでもいいが、君と僕は似た境遇のようだね」
そう言っておじさんは遠くの空を一瞬見て、それからしっかりと僕の目を見た。
「タイムマシンの存在を信じるかい?」
「随分藪から棒ですね。タイムマシンですか。どうだろう。考えた事無いですね」
「じゃあ、あったらいいな、とは思うかい?」
「そりゃあ、そうでしょう。過去に選択を変えていればどうなったかとか、知りたいじゃないですか」
「なるほど、君は過去の選択を変えてみたい、と思っているわけなんだね」
カマをかけてたのか!?
的確過ぎる指摘に何も言えなくなった僕を見て、おじさんが少年のように笑う。
「なら、確かめて見ればいいんじゃないか?」
「確かめる?」
「君はいつ頃からペンキ会社を継ごうと思い始めたんだい?」
「えーっと、小三の八月中旬頃からでしょうか」
今でもよく覚えている。父に継ぐという選択を渡されたときである。
そう言うとおじさんは、何故かふふっと笑って口を開いた。
「随分具体的に覚えてるんだね。そんな印象に残る日の思い出は、何らかの形で残ってるんじゃないかな?」
すくっと、おじさんが立ち上がる。
「思い出してみたらどうだい?夢を抱いたはじめの気持ちを。思い出を。心はいつまで経っても色褪せないものだよ。」
そう一方的に言い残し、彼は路地裏を抜けてどこかへ行ってしまったのである。
不思議な気分のまま、家に帰って物置を漁ってみる。ここは小六のときの、ここは小二。あった。小三の時の物が入ってる棚だ。
教科書類はホコリを被っていた。これは、セミの抜け殻!?ああ、夏休みの自由研究じゃないか。懐かしい。
小学三年生の時の自分は、多分今みたいに難しく考えて無かったんだろうな。
見つけた写真に映る僕は、今と違い全て満面の笑顔。そんな形跡は浮かぶのに、そんな夢に関わるものは見つからない。
「タイムマシンなんて、どこにだって転がっているよ」
ふと、おじさんの言葉が浮かぶ。
そんなの、どこにもあるわけないか。
ははっと苦笑して上を見上げて、腰を抜かしそうになった。
「うわぁぁぁぁ!」
薄暗い中に、何者かの目が見えたのだ。注意深く見ると、それはただのお面だった。
「なんだ。お面か。」
ふと手にとって見てみる。薄暗くて押し入れの中じゃ分からなかったが、随分カラフルなお面だ。
その瞬間、思い出が頭に溢れかえった。和室に父と向かい合って初めて真面目な話をしたこと、幼心にも、僕のことについて真剣に考えてくれていると察していたこと。
これは、あの日に書いたお面、思い出のタイムマシンそのものだ。
ペンキ屋になると決意したその日にベタベタに塗ったお面は、今もペンキ臭くて、色褪せずに残っていた。確かに、その日僕は父の会社を継ぐという選択をしたのである。
「中卒?どうするつもりなの?」
「いえ、父の仕事を継ぐに当たって、そちらの知識の方が必要なので」
「ふーん、まあいいわ。笹川くんなら成績優秀だったし、大丈夫でしょう」
「はい、ありがとうございます」
進路懇談で、僕はそう言い切ってみせた。もう後悔も心残りもしない。そう心に決めたのだ。
にしても、あのおじさんは不思議な人だったなぁ。あの人が居なかったら今、どんな夢を抱いていたんだろう。
「君はいつ頃からペンキ会社を継ごうと思ったんだい?」
そんな言葉が思い出される。
「ずっと昔からだったなぁ。」
誰にとも無く呟いた。
あれ?そういえばなんであの時おじさんは僕がペンキ会社を継ぐって知ってたんだ?
「タイムマシンなんてそこらじゅうに転がってるもん、か。」
もう一度。誰にとも無く呟いて、快活に笑ってみた。




