別にあなたのことなんて愛していない
私は私。名前はない。
私はアイリースの心を守るために生み出された。
私はアイリースを愛している。
アイリースを守るために存在することに喜びすら感じる。
なぜなら、私はアイリースにとって都合の良いように作られているからである。
アイリースのために生きられることにどうしようもないほど喜びを感じるのはきっと不自然なのだろう。
それでもいい。
「おはよう、アイリース」
アイリースの夫であるアレンは私の髪一房にそっと口づけた。
眠そうに伏せた目も、寝起きで掠れた低い声も、少し着崩れた寝間着から覗いて見える鎖骨も色っぽく、こんな姿を見たら、幼女から老女まで性別が女である人間は鼻血を出して倒れてしまうであろう。
『きゃっ』
この体の持ち主であるアイリースも例外でないようで、胸の奥底で悶えるような声がした。
アイリースは気付かなかったようだが、寝間着の隙間から赤い虫刺されのような楕円形の痕を私は見逃さなかった。
私以外の女が付けたであろう赤い痕が私が生まれた日を思い出させた。
アイリースとアレンは政略結婚であるが、幼馴染で気心が知れている。そして、アイリースは優しいアレンに淡い恋心を抱いた。
悲しいことに、アレンの優しさはアイリースだけではなく、全ての女性に向けられていたが。
アイリースはアレンと共に初夜を迎えるが、幸せな思い出となるはずが、アイリースはアレンに裏切られる。
アレンは「マリア」と呟いてアイリースを抱いたのだ。
呟いたのはたった一度だけで聞き間違いだろうと思いたかったが、そうはいかない理由がアイリースにはあった。
マリアという名の従妹がいた。マリアとアイリースは双子の姉妹かと勘違いしてしまいそうになるほど顔が瓜二つであった。
しかし、2人はまとう雰囲気が異なっていた。清らかで凛とした胡蝶蘭のようなアイリースとは対照的にマリアは触れてしまえば傷ついてしまうと分かっていても手を伸ばしたくなるような艶やかな黒い薔薇を思わせる。
マリアはその美貌と自由奔放で猫のような性格で男たちを誘惑していた。あと少しで触れられる、そう期待した瞬間するりとまたどこかに行ってしまう。そんな感覚が男達がマリアに夢中になる原因であるのだ。
マリアが侍らす男達に愛する夫も含まれると理解した時、私という人格が生まれた。
深く傷ついたアイリースの心がこれ以上壊れないように守ることが私の役目。そのために生み出された。
「アイリース、どうした?」
「いいえ、なんでもありません」
小さく唇が弧を描くように微笑む。これはアイリースの笑い方。
それならいい、と頭に掌を載せられ、ぽんぽんと撫でられた。振り払いたくなる気持ちを押さえて、恥ずかしそうに俯く。
『ああ、今日も気付いてくれないのですね。目の前にいる人は私ではないと……』
アイリースが泣き出した。
いい加減うんざりしてしまいそうなほどアイリースは私の中で泣いているが、それに対して私が呆れたりうんざりすることは決してない。そのような感情が生まれたらすぐに消え去るからだ。何とかその感情が出てきたと気付けるが瞬時に消え去るからその感情はないのも同じである。
可哀そうなアイリース
愛しいアイリース
アイリースの苦しみは私が取ってあげなければ
アイリースの幸せこそ私の幸せ
アイリースには私しかいないのだから
そして今自分が思ったことに恐怖する。負の感情を消された後には必ずこのような感情が強く湧く。
まるで私を洗脳しているような気がして気味が悪かった。
私はアイリースに都合の良いようにつくられたもの。もし、そうでなければとっくに気が狂っていただろう。
しょうがない。そう思ってしまうのは既に気が狂っているからなのだろうか。
『私に気付いて。そして私を愛して』
嗚咽をこぼしながら言うと泣き疲れてしまったのか寝てしまった。
アイリースの精神的疲労は私にも伝わるようで非常に疲れやすく、アレンが仕事に行くと死んだように眠ってしまう。
今日もお昼までぐっすりと眠るつもりだったが、「アイリース様、お客様がおいでになっています」との使用人の声でそうはいかなくなった。
(来客なんて聞いてないんだけどなぁ)
まだ気怠さの残る体をゆっくりと起こす。
使用人はどうやら急いで私に知らせに来たようで息を切らしている。廊下を走るわけにはいかないので、競歩の選手になれるのではないかと思えるほどの早歩きでティーセットを運ぶ使用人もいることから、予期せぬ客が来たということが分かった。
(疲れているのに……)
無礼な客に怒りを覚えながらも、この屋敷の主人として出迎えねばならない。使用人もかなり頭にきているらしく、浮かべている笑顔は引き攣っている。
使用人の手によって夏の澄んだ青空のようなドレスに着替え、髪を綺麗に結ってもらう。
髪を結ってもらう際、鏡に向かって笑顔の練習をする。
使用人がこんなにも機嫌が悪くなる相手は一人しかいない。その相手とこれから会うと思うと気が緩むと眉間に皺が寄ってしまう。
(私は人形。私は笑う人形。私はピエロ)
そう心の中で呟いて笑顔の面を被る。
『どうしたの?』
目が覚めたアイリースが私に問いかける。
聞きたくなかった声を聴いてびくっと体を震わせた。
これから会う人物はアイリースにとってトラウマそのものである。なんて答えようか戸惑っているうちに後ろからこの状況を悪化させる人物が私に声をかけた。
「まったく、いつまで待たせる気なの!?」
大きく膨らんだものをまるで強調させるように腕を組んだマリアがいた。
マリアの声の姿を見て、背中に冷たいものが走った。
『あ、あ、あああああああ! マリア、どうしてここにいるの? 嫌よ、嫌嫌嫌嫌ぁぁぁ』
頭に響く甲高い声に頭が痛くなる。
中で暴れているのだろう、アイリースの声が聞こえる所から鋭い痛みが走る。
物理的痛みが走るが、アイリースの精神的な痛みに比べればどうてことない。
泣き叫ぶアイリースの為にマリアの相手は使用人に任せて私は私室に戻ってしまいたいが、アイリースが後々後悔して、もっと悲惨になることは目に見えていた。
妻としての仕事を果たさなければアレンに嫌われてしまうと、何日も泣き続けるのだ。
ふう、と短く小さくマリアに気付かれないようにため息をこぼす。
これはスイッチ。
泣くアイリースを気にかけていたら、マリアとは会話が出来ない。アイリースの鳴き声でマリアの声が聞こえずらい為、マリアの声を聞き取ることに集中する。
「この私を待たせるなんて。アレンに言いつけるわよ」
艶やかな真っ赤な唇を尖らせて怒りを示す。まるで口づけをするかのような唇に釘付けになっている男の使用人に思わず睨みつければ、普段怒った姿を見せないアイリースだからか、憎悪の浮かんだ瞳に真っ青になって震えあがった。そして、震える声でか細く「失礼しました」とだけ言うとお辞儀をして逃げるように客間から出ていった。
「前触れもなく来るのですもの」
全く困った人ね、と小馬鹿にしたように鼻で嗤えば、頬紅で赤く色付いた頬は怒りで真っ赤に染まった。
「どうやら、脳ではなく、お胸の方に栄養が行ってしまったようね。あらあら、どうしたのかしら? まるで茹蛸のように赤くなってしまって……」
「うるさいわね!! 私はアレンに愛されているのよ。そんな口聞いていいと思っているの!?」
『アレン様……! 嗚呼、アレン様に嫌われてしまうわ! 嫌われたくない嫌われたくないわ』
アレンを愛するアイリースにとって、マリアの言葉は拷問でしかなかった。
マリアが言った、私はアレンに愛されているの。という言葉に子供のようにアイリースは激しく泣き叫んだ。アイリースの先ほどとは比べ物にならないほど大きく泣き叫ぶ声でマリアの怒声は聞こえない。
アイリースが悲しく泣くと私の胸まで痛くなる。
泣かないで、そう言っても悲しみに囚われているアイリースには届かない。
アイリースは本能的にこれ以上の悲しみは受け入れられない、もう壊れてしまうと分かったのだろう。
気絶するように眠ってしまった。
「マリアって聖女の名前であるはずなのに、貴女は正反対ですよね。真逆でおかしくなちゃうわ。
貴女は悪魔のよう────いいえ、貴女は淫魔だわ。胸を強調させたデザインで男を誘い、甘ったるい声で愛を囁いて……」
マリアは私が言い終えるのを待たずに私の頬を平手打ちした。
マリアの庇護を誘うような細腕で殴られるだけなら、痣になるだけだったのだろうが、マリアの指には男から貢がれたものと思われる指輪をしていた。大きな宝石を取り囲むように小さな宝石が金属を隠すように取り付けられている指輪はきっと恐ろしいほどの金額なのだろう。
マリアの指輪に付いた宝石がアイリースの頬に傷を作った。
左頬がまるで燃えているかのように熱く、それでいて痺れていた。
鉄の臭いが鼻を刺激して不快にさせる。
大切なアイリースの体を傷つけてしまった。
手先が冷たくなり、それが全身に伝わっていくのを感じる。
唇がわなわなと震えた。
項垂れ、目に映ったものは血の付いた床。ここまで酷い怪我だと思わなかった私は信じられない気持ちで傷口に触れてみる。ぬるっと皮膚の上を滑る感覚にアイリースと同じように現実逃避をしたくなる。
このまま気絶してしまいたい。
「アイリース様! 誰か、綺麗なガーゼを持ってきて!!」
使用人のうち一人が叫び、止まった時が動いたかのように固まってしまっていた使用人たちが動き始めた。
使用人はアイリースを傷つけたマリアをじっと睨みつける。その姿に自分の不利な状況を理解したマリアはきょろきょろと辺りを見渡す。何を目的としているのかは誰からしても明らかであった。
マリアは男の使用人に庇ってもらおうと思ったようだが、残念ながらここには女の使用人しかいない。アイリースの二回りほど大きい形良い胸も、腕を回しやすい細くくびれた腰も、思わず口づけしたくなるような艶やかなぷっくりとした愛らしい唇も女の使用人の前では何の効果も持たない。
マリアの全く反省の色を見せない態度に苛立ちは募ってゆく。
マリアは男からは人気があった。しかし、女からはすこぶる嫌われていた。それも当たり前である。愛する恋人がマリアに愛を囁くようになってしまうことに嘆き、憤る女が後を絶たないのだから。
アレンが愛するマリアを邪険にすればクビになることを恐れていたが、妻であるアイリースに深い傷を負わせたのだから使用人も黙ってはいられない。私怨によって手荒くマリアを追い出した使用人は少なくないようだが、マリアの自業自得である。ほくそ笑まずにはいられない。
マリアを追い出した後、傷を医者に診てもらった。長いひげと少年のようなきらめきを持った優しい目をした老人で、サンタクロースを想像させる。
「うむ……。傷が深いですな……。化粧でなんとか誤魔化せるとは思うのだが、残念ながら傷跡は残りですな」
『え……嫌よ。顔に傷が残るなんて!! アレン様に嫌われてしまうわ』
私を非難する言葉が聞こえた。
どうやらアイリースは目が覚めたらしく、医者の言葉を聞いてしまった。
(ごめんなさい……)
アイリースに嫌われてしまう、そう思うと無性に恐ろしかった。
自分が大切なアイリースの体を、しかも顔を傷つけてしまったのに赦してほしいと思うなんて虫が良すぎると自己嫌悪した。
『頬が痛い……傷を負った私のことをアレン様は愛してくれることなんてないかもしれないわ』
肉体と離された精神状態であるアイリースは実際には痛みを感じていないのだろう。けれど、心が痛んでいる。
私はアイリースの心を守るために生まれてきたのに。
マリアが来たせいで眠れなかったことと、アイリースの精神的疲労のせいで非常に眠い。
深い罪悪感を抱きながら眠りについた。
アレンは家に帰ってこなかった。
きっとこの家から追い出されたマリアを慰めてやっているのだろう。優しく、甘い言葉で、マリアの怒りをドロドロに溶かすのだろう。
私はマリアを羨ましく思う。私も誰かに甘えたい、安心したい。けれどそれは私があげる立場だ。
マリアは涙を流せばアレンが優しく拭うのだろう。けれど私の涙を拭ってくれる人はいない。ううん、そもそも私が涙を流す事さえ許されてはいない。私はアイリースが頼れる人格でなければならないから。
私の心を必死に削ってアイリースの欠けた心を修復する。
私の心の悲鳴に気付かないふりをして。
翌日の晩、アレンは帰ってくるなり目を見開いて、頬に貼られた血がにじんだガーゼを凝視した。
「どうしたんだ、それは……!!」
痛ましげに歪んだ顔でガーゼに触れようと手を伸ばした。
アレンのスーツからふわりと香る瑞々しい薔薇の香りに耐えられず、その手から逃げ出そうと一歩後ろに下がった。
『アレン様が私を心配してくれたわ!』
嬉しそうに笑うアイリースに良かったね、と言えば機嫌よさげにうん、と答えた。
『心配してくれるのなら、傷を負って良かったわ』
ツキンッと頬に痛みが走る。
アイリースに痛みがないのなら、私が痛みを引き受けて良かったと嬉しくなる。
アイリースの幸せは私の幸せ。
アレンの襟に真っ赤な口紅が掠れた跡を見つけた。
アレンが心配してくれたことに有頂天になっているアイリースは気付かなかったようで、機嫌よく鼻歌を歌っている。
「マリア様にございます」
傍に待機していた使用人がアレンに冷え切った声色で言った。
それを聞いたアレンは一層目を見開いてことらを見る。まるで「聞いていないぞ」と驚いているような顔に苦笑が零れた。
「お疲れでしょうから、このお話はアレン様のお風呂を終えたら、に致しましょう」
「しかし……」
「お風呂に致しましょう」
使用人が有無を言わせないような強い口調で言った。
使用人は気付いているようだ。アレンの移り香や口紅の痕、そしてちらりと見えた赤い花びらのような痕。気付いていないのはアイリースだけ。
渋々といった様子でお風呂に向かう。
アイリースは心配してくれたと喜び、私はアレンが怪我を負わせた女と仲良くしていたと思うと腸が煮えくり返るような思いだった。
自分とは全く異なる感情を察知したのであろうアイリースは『どうして怒っているの?』と心底不思議そうに言う。私はアイリースに本当のことを言うか迷っているうちにアレンはお風呂から上がり、この部屋に戻った。
アレンの濡れた髪から石鹸の爽やかな香りが鼻孔をくすぐった。
もうあの移り香が消えていることにほっとした。アイリースが気付けば今度こそ壊れてしまうだろう。怪我に苦しんでいるときに愛する人がいないどころか、怪我の原因である女と愛し合っているなんて事実をアイリースが受け止めきれるはずがない。
アレンは傷を労わるようにそっと頬に触れた。お風呂上がりで体温が高いせいか、ガーゼ越しにアレンの体温を感じた。
私の顔は嬉しそうに微笑み、まるで撫でてもらって気持ちがよさそうにしている猫のようにアレンの掌に頬を摺り寄せた。
これは私の意志ではない。
何故?
「どうしてあの時、私を『マリア』と呼んだのですか?」
唇が私の意志とは関係なく動く。
この体の持ち主の意志だと気付く。それと同時に、私がもう必要ないということにも気づいた。私の存在理由はアイリースの心を守るため、心の休息をとるためであった。しかし、今アイリースは幸せで心が回復している。
マリアの名前に動揺したようにぴくりと不自然にアレンの掌が動いたことにまたしてもアイリースは気付かない。
このままではいけない、そう思ってアイリースに声をかけるが届かない。
私の存在がどんどん消えていく。
指先から感覚が無くなっていく。
「あの時?」
「初夜の時です。アレン様は一度だけ私をアイリースではなく『マリア』と呼んだのです」
ほろりと頬に涙がつたう。涙は温かいはずなのに、アイリースの悲しみの感情のせいか酷く冷たかった。まるで氷の粒が目から零れ落ちているように感じた。
「マリアは毒花だ。マリアと顔は瓜二つだが、マリアとは違い、政略結婚とはいえ、心優しいアイリースと結ばれて良かったと思ったんだ」
それが口からこぼれてしまったのだが、その一部しか拾えなかったのだろう。そう言って優しくアイリースの頭を撫でた。
アイリースの喜びの感情が強くなるごとに私の存在理由がなくなっていく。
(アイリース! 騙されないで)
消えてしまう前にアイリースを救おうと懸命に叫ぶがアイリースには伝わらない。
(アレンの嘘を信じないで)
声を張り上げ、もし、肉体があるのなら喉はもう限界だろう。
懸命にアイリースに警告する。しかし、私が消えかけているせいなのか、それともアイリースの頭の中はアレンで一杯だからなのかは分からないがアイリースに私の叫びは届かない。
私の中にいる小さな小さなもう一人の私がか細い声で「どうしてこんなに頑張らなくてはならないの? 私はこんなにもアイリースに尽くしているのにアイリースは何もしてくれない」と訴える。私はもう一人の私に「私はアイリースを愛し、守るために生まれた存在。それ以外の選択肢なんてないの」と答える。初めから答えが用意されていたかのような模範的な回答とも思えるような自分の答えに絶句する。
小さな小さな私は風船が膨らむようにどんどん大きくなっていく。
もう一人の自分はアイリースにとって不必要な感情の私。私が消えていくごとに私に巻き付けられた厳重な鎖が解けていくからこそ、不必要な私が大きくなっていくのだろう。
アイリースへの慈しむ心が消え去っていく。
あれほど必死にアイリースを守ろうとしていた私がとてもとても可笑しかった。
守る価値なんてないアイリースをどうしてあんなに必死になっていたのだろうか。答えが分かっていても自問自答してしまう。
精神的肉体的苦痛を引き受け、アイリースを一番に考え……。
本当に私はアイリースにとって都合が良いだけの人間だったんだ。
私が消え去った後、アイリースはどうするのだろうか。
嫌なことは全て私が引き受け、優しい世界で微睡んでいたアイリースはアレンがマリアと今日も愛し合っていたことを知ったら壊れてしまうのだろうか。
私に守られ、それを当たり前としたアイリースにはもう守ってくれる人がいない。
これからアイリースの身に起こるであろう至難を想像すると今まであった愉しいこととは比べ物にならないほどの幸福感に包まれた。
私の薄暗い感情は全てアイリースにとって都合の良い感情に変換されていた。
すべての私を縛る鎖が解けた今、私の心はとても軽い。
「私、貴女のことなんて愛してなんかいない。私に肉体があるのなら、貴女の細首をへし折ってやりたいわ」