戦争の始まり (13)
ハイドが目を開くと、見覚えのある風景が広がっていた。どこで見たのかは簡単に思い出せそうにない。それでも、良い思い出ではなかったことは断言できた。ハイドの頭の中はかなり冷静で、落ち着いて周囲の様子を確認できている。目覚めた場所が自分のベッドでなかったことも、混乱を招くほどのことではなかった。
窓の外からは光が差し込んできていて、空は晴天に恵まれている。周囲も騒がしいわけではなく、環境として自分の家よりも心地が良いと感じた。入ってくる情報が多くなってくると、ハイドの頭は考えることを止めていく。そして、自分がどうしてこんな所にいるのかということはひとまず棚に上げて、心地の良い目覚めを優雅に満喫していた。
ただ、突然叫びながら近づいてきた人影がそんなハイドの邪魔をした。ハイドは窓の外を眺めていたため、唐突に誰かに手を握り締められたことで急に現実に引き戻されたような感覚に陥る。
「店長!気がついたんですか?」
ハイドのことを店長と呼ぶ人間は、この街の中に一人しかいない。久しぶりに耳にしたその声の主は、ハイドが最も話をしたいと思っていた相手だった。
「………?」
ハイドはヨシノに声をかけようとする。しかし、ヨシノが顔を覗き込んでくるのに対して、ハイドは上手く返答できなかった。ハイドはそういえば以前もこんなことがあったと思い出す。
「店長!……良かったです」
どうしてヨシノが泣いているのか、ハイドはそれを理解できずに困った。ヨシノに手を握られていて、なぜか声を上手く出すことができない。ヨシノの声や泣き声を聞き取れていることから、自分の耳がおかしくなっているわけではないことだけ把握できていた。
「ヨシノ?……ハイド!?」
ヨシノがずっとハイドのすぐそばで涙を流している中、ホウカがヨシノの後ろから姿を現す。ハイドは今の状況をまるで理解できていなかったが、ホウカにこんな場面を見られると何か勘違いされて非難されることは察知できた。ハイドは握られている手を必死に震わせてヨシノに離れるように指示する。
しかし、ヨシノは余計に握る力を強くして、ハイドの腕を自分の体の方に引き込んでいく。そのままハイドの腕を抱きしめるようにして止まった。
「………!」
ハイドは訳が分からない状況で、ホウカの反応を凝視する。いつものホウカであれば、ハイドのことを変態呼ばわりして何をしたのか問い詰めてくるはずである。しかし、今日のホウカの態度は全く新しかった。
「一体いつまで寝ていたわけ?本当に馬鹿じゃないの!?」
叱責されたため、ハイドの予想は見当外れではなかったと言えるかもしれない。しかし、ホウカはヨシノがいる場所とは逆側からハイドに近づいて、ハイドの目を強引に指で見開かせた。ハイドはそんなホウカに戸惑うが、どうやら医者まがいのことをしているようだった。
ハイドはそんなホウカに視線を送り、ヨシノのことを気にするように合図を送る。自分がまた怪我をして心配させていたことは分かっている。問題は自分が話せなくなっていることと、ヨシノが見たことのない反応をしていることだった。
ホウカはハイドの視線の意味を理解すると、ゆっくりとヨシノに近づいてハイドから離れさせる。暖かいヨシノの体が離れていく感覚は良いものではなかったが、それでも今のハイドには必要なことだった。
「……それで?どうして何も喋らないの?」
まだ感情が落ち着いていないヨシノのことを宥めながら、ホウカはハイドにそんなことを尋ねる。それはハイド自身知りたいことであり、仮に知っていても伝えることができない。呼吸さえ不規則なリズムになっていて、体がおかしくなってしまっていることは間違いなかった。
ハイドが何も話さないでとにかく深刻そうな表情を見せていると、ホウカはある程度の状況を把握したのか、ヨシノにここで待っているように伝えてどこかに行ってしまった。ヨシノはその場でしばらくは座ったままだったが、少し時間が経つとハイドの方に近づいてくる。ハイドは何事と思いながら、ヨシノの腫れた目を見つめる。
「……どこか痛くないですか?」
ハイドは必死に両目の眼球を上下させる。首を動かそうとしても、動いているのか動いていないのか分からなかったのだ。
「ごめんなさい、私のせいでこんなことに……本当にごめんなさい」
ヨシノが二択で答えられないようなことを話してきたため、その時点で意思疎通が図れなくなる。どうしてヨシノが謝っているのか、それはなんとなく理解している。ハイドも徐々にあの日のことを思い出しつつあったのだ。
「……よ……じ?……の」
意識して息を短く強く吐くと、音が出てくる。しかしヨシノの名前を呼んだはずが、それは全くハイドが予想した通りにはならなかった。しかし、ヨシノは嬉しそうに笑顔を見せた。
「店長……」
ヨシノは再びハイドの手をしっかりと握る。ホウカが戻ってきたとき、今度ばかりはハイドのことを睨んだ。ただ、ハイドとしてはそんな表情をされても困るだけだった。
ホウカは医者を連れてきてくれたようで、ハイドのことを観察していく。問診は行われなかったが、医者は三人に異常がないことを伝えた。ハイドには安静にしておくことを指示してくる。
医者が去ってから、ホウカは持ってきていたペンで紙に何かを書いた。何をしているのか分からなかったが、書き上げたものを見せてきたときにハイドははっきりと理解した。それには文字が列挙して書かれていたのである。
「話せないなら指差しで会話したらいい。どうせ紙に何かを書くこともできないんでしょ?」
ホウカは自信満々にそんなことを言う。しかし、ハイドはそもそも腕を動かすこと自体が困難になっている。言葉を発することに比べれば楽なのは確かだったが、ヨシノやホウカが知りたがっていることを伝えることにはかなりの時間を要した。それでも、二人はハイドの反応を喜んでくれた。
二人から伝えられた情報を整理すると、ハイドはほぼ一ヶ月に渡ってこの場所で眠り続けていたということだった。ヨシノとホウカを襲った暴漢と戦ったとき、ハイドは男が持っていた金属棒で体を突き刺されたのだという。それによって、ハイドは呼吸に必要な器官に傷を負った。手術後の数日間は外力に頼ってようやく呼吸できる状態を保っていたということだった。
街の中では至る所で負傷者が出ていたため、ハイドの命を繋ぐことに一役買っていたのはヨシノとホウカだった。そうしてハイドの呼吸器系はどうにかして自律するまで回復した。しかし、その後に二人が知らされたことは、ハイドが意識を取りもどすか分からないということだった。ハイドが救護所に運ばれてくるまで呼吸はほとんど止まった状態だったという。そんなこともあって、脳が損傷を受けている可能性があったのだ。
そんなことを知らされてから一ヶ月弱、二人はその可能性を頭のどこかで理解しないといけないと考えながらハイドを看病していたのだという。それを聞いて、ヨシノが取り乱していた理由もなんとなく理解できた。
その後、ハイドが意識を取り戻したということを聞いてアルも見舞いにやって来た。アルも相当心配していたようで、ホウカがそのことをハイドに伝えようとするとアルはそれを必死になって止めていた。ホウカはそんなアルのことを小馬鹿にするような目で見ている。それを不満に持ったのか、アルはハイドに八つ当たりをした。
「……そういえばハイド、大怪我を負った時のことをもう一度教えてくれよ」
意地悪い顔がハイドに向けられる。ハイドは自分が何か変な事をした覚えはなかったが、それでも何があったのか思い出そうとした。ただ、ハイドには無茶なことをしたという記憶以外なかった。
ハイドは何のことだと伝える。すると、アルは眉を動かして小馬鹿にするように笑った。
「俺のヨシノを泣かせやがって……だっけ?」
「えっ!?」
アルが言うと、ヨシノが瞬時に顔を赤くする。すると、なぜか言い合っていたはずのホウカもそれに参戦してきた。
「そうだ、思い出した。私が殴り飛ばされていたのに、私のことなんて全く気にもしないでいてくれたよね?」
ホウカはいつか見たことがあるような恐ろしい表情をしている。しかし、ハイドには身に覚えがなかったため、すぐに否定しようと紙を指差そうとする。しかし、ハイドのそれよりも先にアルが言葉を加えた。
「もうちょうど良い頃だし、全部言ってしまおうか。……なあ、ハイド?」
「……あ?」
紙を使っていては返答に遅れると感じたハイドは、必死に声を出そうとする。アルとホウカはハイドの重要な秘密を知っている。色々なことを勝手に喋らせる訳にはいかなかった。
「なになに、何の話?気になるんだけど」
ホウカは知っている。それにもかかわらず、ホウカは何かの腹いせにとハイドのことを責める。ハイドはそんなホウカのことを睨みつけておいた。ハイドは自分が何をしたのか分からなかったが、ホウカにこんなことをされるような行動はしていない。ただ、それはアルに関しても同じことが言えた。
「……でも店長、そんなこと言ってませんでしたよ?」
三人で言い合っていると、ヨシノがおもむろに指摘してきた。ハイドはヨシノが常識人だったことを感謝しつつ、二人に事実を言ってやることを期待する。しかし、ヨシノは何かを恥じているような態度を取る。ハイドはそんなヨシノを見て不思議に思った。
「俺の……とは言っていませんでした」
「………?」
ヨシノは部分否定してまた黙ってしまった。そもそもハイドにはそんなことを言った覚えはない。何かの間違いだと信じていたが、ヨシノの表情がハイドのそんな認識を変化させた。ハイドが三人に紙を見るように訴えかけると、アルとホウカは仕方がないといった様子で覗き込んでくる。ハイドはそこで、慌てていたためそんなことを言ったかどうか全く覚えていないことを伝えた。ただ、アルとホウカは信じていないようだった。
それから、ハイドは怪我人として扱われない時間を過ごした。それはハイドの容態が良くなり、安心できるようになったからだとハイドは信じることにした。一段落ついた後、ハイドはアルから街の様子について多くの情報を伝えられた。
メンデレーで爆発を発生させたのは予想していた通り帝国派で、その多くは駐屯軍によって確保されたということだった。街がデモ集団によって大混乱した後、それを収拾したのはエイフから戻ってきた連邦軍だったという。苦戦したもののエイフの奪還に成功した連邦軍の一部が良いタイミングでメンデレーに戻ってきてくれたため、その力を借りてデモ集団は解散に追い込まれた。それ以降、メンデレーには連邦軍が今も駐留しているとのことだった。自警団だけでは治安維持が困難と判断されて、今では兵士が至る所を闊歩しているという。
怪我人も多く出てしまい、犠牲者の数も四人になったという。国境の街であることの問題点が徐々に露見して、街から出ていく人の数も最多を記録したということだった。アルの言葉を借りるならば、メンデレーは最も大きな岐路に立たされているという。
メンデレーが抱える問題はこれで解消したわけではない。軍が治安維持を務めるようになってから、帝国派の活動は全くと言って良いほど目にしなくなったという。それでも、メンデレーの住民を恐怖させるもう一つの重大な問題が残っているようだった。
それは、フリース連邦の各街に届けられてきたという帝国からの一枚の通達書である。そこに示されていた内容を見て、多くの人が今後の状況の変化を恐れているのだという。
その内容は、帝国で新しい皇帝が誕生したことを報告するものだった。そして何よりも重要なこととして、新しい皇帝が生まれたことで協力関係が築けていなかった帝国内の家柄が一致団結し、統一決定事項としてフリース共和国、アレーニ共和国、ボイシャ共和国、そしてアルダー連邦に戦争の危機を警告してきたということだった。
それは新しい緊張の始まりを意味しており、小さな街の住民はそれを回避する術を全く持っていない。特に、メンデレーは国境の街である。戦争に巻き込まれることによって支払わなければならない代償は、決して小さいものではないと誰もが理解していることだった。




