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戦争の始まり (2)

 久しぶりに登った壁の上は高すぎて、ハイドは足をすくませてしまった。以前はこんなことなど何でもなかったはずである。それでもハイドは恐怖感を捨てきれなかった。


 「何怖がってんだ。さんざん俺に色んな事を言っておいて」


 案の定、アルがハイドのことを笑う。ハイドは過去の自分がアルに言っていたことを思い出した。ただ、まだ感覚を取り戻せていないだけだと思い込む。


 「寒いから感覚がなくなって落ちるかもって思っただけだ」


 ハイドはそんな子供のような反論をする。アルはそうですかとそんな言い訳を流した。


 「……なあ、ハイド」


 「何だ?」


 アルが話を変えようとする。ハイドは体を縮こまらせながら話の成り行きを見守った。


 「聞きたいことがあるんだけどさ」


 「前置きをしないといけないような話なのか?それなら話したくないな」


 アルがまた変なことを言い始めたと感じて、ハイドは先に予防線を引いておく。アルはそれを無視して話を続けた。


 「……ヨシノさんとのことなんだけど、聞いても良いか?」


 「ダメだと言っても話してくるんだろ?ヨシノさんがどうかしたの?」


 ハイドは諦め気味に反応する。また今回もホウカの差し金である可能性は十分にある。その可能性を念頭に置いて、アルの話を聞くことにした。今のハイドは退屈すぎて、嫌な話題であっても時間潰しにしなければならなかったのだ。


 「ヨシノさんをハイドに押しつけてから四ヶ月が経ったけど、どんなことをハイドが考えているのか気になって。ヨシノさんを押しつけられたことを根に持ってないか心配になったわけだ。……時間が経つ度に不満を募らせることってよくあるだろ?」


 アルは質問をした理由を述べる。それだけを聞いていると、アルが変な考えを持っていないように感じる。しかし、ハイドは細心の注意を払う必要があると感じていた。アルは狡猾な人間である。それを悪事に利用することは決してないが、ハイドを困らせるために使うことはしばしば見られるのだ。


 「そんなもの最初から持ってないよ。そりゃ始めは面倒なことを引き受けたと思ったけど、最後に決定したのは僕だからね。僕は自分で決めた事を人のせいになんてしない」


 ハイドは口ではそんな綺麗な言葉を並べておく。しかし、その考えの根本に存在している事情を話すつもりは全くなかった。ヨシノの人間性に惹かれつつあることを公にできるはずがなかったのである。


 そんなことを話してしまうとホウカやアルが黙ってないはずで、そもそもハイドがそれを目的にヨシノを受け入れたと考えられる可能性があった。そんな誤解を生んでしまうようなことを簡単に話せるわけがない。


 「……それなら良いんだけど。最近はどうやらヨシノさんとすごく仲良くしているらしいし、そんな雰囲気を受けているから心配はしてなかったんだけど」


 「……じゃあ、どうしてそんなことを聞いたんだよ?」


 アルに作戦を見破られたと思ったハイドは問いかける。遠回しに会話を運んでいるということは、アルが何かを疑っている証拠である。アルは警戒しているハイドに即答した。


 「ハイドに酒を飲まそう考えていたんだ。だから今日の夜間警戒終わりに一杯することにした。そのつもりでいてくれ」


 「そんなことを言われた後に行くかよ」


 ハイドは即座に拒否する。ハイドには、以前酒に酔ってヨシノに変な事を言ってしまった苦い過去がある。その教訓もあって、ハイドはアルの怪しい誘いには乗らないことを決めていたのだ。一時の感情の解放と引き替えに、ヨシノとの関係を完全に終わらせるようなことはしたくない。そう考えている時点でハイドの感情は決まっているも同然だったが、今はそれをアルに知られるか否かが重要な問題だった。


 ハイドがそうして警戒していると、アルは笑って言い返した。


 「あのな、自分が酔って変なことを言ってしまうその責任を俺に押しつけようとするのはやめてくれ。大体、ハイドがいつもあんなことになるまで飲むから悪いんだ。自分で制御できるんだから、変なことを口走らないように気をつけていたら良いだけの話だろ?」


 アルはハイドのことを小馬鹿にするが、その内容に関しては正論だった。ハイドが飲み過ぎてしまうのは、ハイド自身が後先考えないで飲んでしまうからである。それを制御できるのは本人だけなのだ。


 「今日はサービスして全部割引きで飲ませてやる」


 追加でアルの誘惑がハイドを襲う。先程までのハイドであれば、相手にしなかったかもしれない。しかし、自分の責任でなんとかなることを把握して、さらに割引に引き寄せられて結局断ることはしなかった。


 ハイドは最近一人で外出していなかったこともあって、最近は飲酒とかけ離れた生活をしていた。それからの解放を祝う意味でも、ハイドはアルの誘いに乗った。後から考えれば、乗ってしまったのだった。


 夜間警戒は問題が発生することなく終わった。一時の街の混乱を思い出せば、今はかなり落ち着いている。他の自警団も、夜間警戒をただ時間を過ごすだけの仕事だと認識し始めていた。平穏に越したことはないが、それに伴って自警団員の意識が下がっていくことはこの混乱の最中では問題がある。しかし、そのことを問題視する人間がいない。


 「さて、今日は楽しく飲もうぜ」


 自分の店に着くなり、アルはそう言ってハイドの肩に腕を回してくる。ハイドはそれを押しのけて自分の手は上着のポケットにしまった。朝方が一番冷え込む時間帯である。冷たい空気はハイドから力を大量に奪い去っていた。


 「つれないな。……まあいいや、いろんなお祝いを兼ねて男の時間だ」


 アルはやけに張り切っていて、ハイドは嫌な感覚を得る。しかし、アルが何かを企んでいたとしても、ハイドがそれにはっきりと気がつけることはない。ハイドはそのことが分かっていて、アルに面倒な話を持ちかけることはしなかった。


 アルの店にやって来たのは久しぶりのことだったが、店の中の様子が変わっていることにすぐに気がついた。席の位置が変わっているというようなことではなく、酒の陳列が変わっていた。


 「ゲリラの攻撃のせいで、一部の酒の調達ができなくなっててこんな感じだ。まあ、大体の種類は集めているから心配しないで良いんだけどな」


 「やっぱり商人がやって来ないのか?」


 ハイドは一つのカウンターに座る。アルは厨房に入ってそこの椅子に腰掛けた。


 「まあそれもあるな。でも一番の原因はアルコールの別途使用だ。燃料になるアルコールはこれからは酒としてではなくて、資源として利用する方向になっている。それで供給不足が続いているみたいだ」


 アルは棚から一つの酒を出す。それはハイドがいつも飲んでいるものだった。そんな話を聞かされた後だったため、ハイドの喉は無意識に閉まる。


 フリース共和国が戦争に利用している主な資源は石炭である。連邦では石油が産出しているため石油から得られる重油やガソリンなどが資源となっているが、フリース共和国では石油はほとんど産出していない。最近になって連邦から供給されるようにはなったものの、それでも大部分は自国で補うことができる石炭が利用されていた。これを合成燃料に変化させることで、燃料として使用している。


 しかし、最近では本格的な戦争に備えて代替燃料の利用が促進されているということだった。アルの店もその方針によって被害を受けていたのである。


 「気にすることはない。密造酒なんていくらでも出回ってるし、酒で困る時代なんてこないだろうよ」


 ハイドの前にグラスが置かれる。ハイドはそれを少し眺めた後、口にした。久しぶりの苦みを感じて顔をしかめてしまう。そんなハイドの前ではアルが豪快に酒を飲んでいる。それを見てハイドも喉が焼けるような感覚を味わった。


 それから小一時間が経つと、ハイドは完全に酔っ払った。ハイドは酔いつぶれてしまわないように量を気にして飲んでいた。しかし、いつもであれば何でもない量を飲んだだけでハイドは目を回して方向感覚を失っていた。そんな隣でアルが笑っている。


 「あれ?いつもの酒とは違うやつだって気がつかなかった?ボトルは同じもの使ってるけど、今日のために中身替えておいたんだよ」


 アルはハイドの前でそんなことをばらして話す。しかし、ハイドはそんなアルの言葉をしっかりと理解することができない。唯一まともに考えられることは、帰ってホウカに怒られるかもしれないということだった。


 「それで聞きたいことがあるんだけど……教えてくれる?」


 アルがハイドの肩に腕を回して話題を変えてくる。ハイドは揺らぐ視界の中でアルのことをなんとか視認した。


 「……何だよ」


 「本当は今日もハイドから本心を聞き出そうとしてこんなことをしてるんだけど、何のことを聞こうとしているか分かる?」


 アルが単刀直入に問いかけてくる。すると、そんな質問にハイドの口はすぐに動いた。


 「ヨシノさんの……ことか?」


 「なんだ、まだ頭が回るのか」


 アルは笑ってハイドに酒をすすめる。ハイドはそれを押しのけて大きく息を吐く。


 「何も言わない。……この前も同じようなことがあった」


 ハイドはかなり酔っているが、それでもまだアルに思考を漏らしてしまうほどではない。ハイドは何も言わないように口を閉ざして、アルに話す意思がないことを伝えた。アルは一瞬だけ困った顔をする。


 「……今日は何としてでも答えてくれないとなぁ。俺が何言われるか分からないから」


 アルは何かに悩んでいる。ハイドはそれが何なのか必死に考えた。しかし、ヨシノのことで気にするようなことがアルにあるようには思えなかった。


 「何を聞こうとしたんだ?」


 「いや、ハイドがヨシノさんのことを好きなんじゃないかなってことを聞こうと思ったんだけど」


 ハイドは、どうせ腹の中に隠しているものをアルは話さないだろうと考えて問いかけた。そのため、アルが今までにない質問を投げかけてきて驚きを隠せなかった。


 「どうしてそんなことを?」


 「気になったからに決まってるだろ?四ヶ月も一緒に生活していたんだ。こっちとしては何もないなんて考えられない。……ヨシノさんに手を出したんじゃないかって本気で思ってる」


 「してないよ」


 ハイドはいきなり何を話し始めるのかと本気で困惑してしまう。酔いはハイドの思考を妨げるほどではなくなっていく。


 「こんなことを聞くのは野暮だって分かってるんだけどな。……どうしても気になる奴はいるらしい」


 「……普通に聞けば良いだろ?」


 「絶対に教えてくれないだろ?自信を持って言える」


 「当たり前だ」


 ハイドはヨシノのことを思い浮かべてアルの言葉に即答する。ヨシノに新しく変な噂を疑われるわけにはいかない。煙を出さないようにどんな火種にも気を配っていたのである。


 「そんなことを気にしている暇があったら、もっと別のことに頭を使った方がいい。……大体、僕がそんなことをするような人間じゃないって分かっているんじゃないか?」


 「まあ確かにそれもそうなんだけど。……でも俺が分かることは、ハイドの態度とか仕草からなんとなく推測できることだけだ。本当はどんなことを考えているのかなんて分からない」


 アルはまだ諦めていないのか、ハイドに問いかけてくる。アルはどうしてかこんなことに興味を持ち、気になって仕方がないらしい。ハイドは少し考えた後に口を開いた。


 「アルがホウカとかに勝手に話すようなことしないって確信できたら話してもいいんだけど、あいにく簡単にアルのことを信じられない。大人しく諦めるんだな」


 ハイドは勝ち誇った表情をしてアルに言い放つ。アルは不満げな表情を見せたが、それでもこれ以上往生際の悪いことはしてこなかった。少なくとも、ハイドにはそのように見えていた。


 それから数時間後、ハイドは強い睡魔に襲われていた。それは再び酒に酔ったことが原因である。ハイドはアルの計画を粉砕したことで少し気を緩ませていた。そこを攻められたのである。アルはハイドの事を心地よくさせた後に、店一番の強力な酒を飲ませてハイドの意識と行動を完全に分離しようとしていた。


 それは簡単に成功し、ハイドはアルの悪い視線に晒されていた。


 「……悪いなハイド、そろそろちゃんと教えてくれ。今日は帰ってもホウカには怒られないことを約束するから」


 「………」


 ハイドはすぐに目を瞑ってしまう。しかしそのたびに、アルは頭を軽く叩いて起こしていた。


 「ヨシノさんはいい人だよな。……ハイドにはもったいない」


 アルは今までと方向性を変えて作戦を遂行しようとする。前回の失敗から学び、ハイドは直接的なことを質問されても話さなくなっている。そのため、アルは段階を経て話を進行させる作戦に移っていた。


 「……そうだな」


 ハイドは意識がもうろうとしている中で口を小さく動かす。アルはそれを良い兆候と捉えて次の話に進む。


 「ハイドもそんなことを気にするんだな。てっきり雇用者として仕事をしてくれるのならそんなことは関係ないとか言ってくると思ったのに」


 「関係ないとかそんなことは言えない」


 ハイドはあくまでもアルの思惑通りに物事を進めないようにしている。それはハイドがアルに対立しているからではない。ヨシノに話したことが伝わってしまうことを恐れていたからだった。


 「……隠していても始まらないだろ?別に勝手なことをするつもりはないし、勝手に何かを言いふらすようなことをするつもりもない。ただ、友人として聞きたいことがあったから聞いただけだよ」


 「………」


 アルの言い方はハイドを困らせた。どうして友人がそんなことを把握する必要があるのかはよく分からない。しかし、アルがいつものような下世話を働いているわけではないと、思考回路が切断されているハイドは思ってしまった。


 アルにヨシノのことで何かを話したところで、大きく二人の関係が変化することはないはずある。アルに自分の心の内を話す必要は全くないが、話さないでいる理由もない。ハイドはどうしてかアルの指示に従ってしまうような方向に考えを働かせ始めていた。


 「話しても、このことを誰にも話さないって約束できるか?」


 「そんなことを俺に約束させるな。無理に決まってる」


 アルは即答する。ハイドはそれを聞いて安心した。ただ、自然と制動がかかって黙ってしまう。


 「……早く言えよ」


 アルが急かす。ハイドは自分がどのような言葉で表現しようか夢中になって考えていたことに気がついて、アルに一言告げた。


 「好きだよ」


 「………本当に?」


 ハイドはヨシノへの気持ちをはっきりとアルに伝えた。すると、アルは声を裏返して驚く。ただ、ハイドは真剣に答えている。その言葉に偽りはなかった。


 「本当だ。四ヶ月が経って、ヨシノさんのことを理解していく度に心が締め付けられる。まだ四ヶ月だ。僕が知らないこともたくさんあると思う。それを思うと、知りたくなって仕方がないんだ」


 「待て待て、いきなり話しすぎだ。ハイド、今日は酔ってないんだろ?」


 「酔ってないことはない。でも、自分の行動の自制がきかないほどは酔ってない。きっと、明日になっても今のことをはっきりと覚えていると思う」


 「それならどうして話したんだよ?」


 アルは今更になってハイドが話してしまった理由を問い詰める。ハイドの意識がまだ残っている間に、こんな重大な事実を話してしまうことが信じられないようだった。


 「……変なことを言ってる自覚はある。こんなことをヨシノさんに聞かれたら大変だってことも分かってる。だけど、こんなことを考えないといけなくなったのは初めてだ。だから、どうして良いのか分からない」


 「……それを聞くと泣く奴もいるだろうしな」


 アルは大きく息を吐いて黙り込む。ハイドにはアルが話していることの意味を理解するまで頭を働かせることはできない。しかし、アルの様子がいつもと違うことをなんとなく察した。


 「こんなことを聞いておいて、良い言葉を返すことはできそうにない。……悪いが、その気持ちは自分で温めて自分で解決するしかないな」


 「最初からそのつもりだった」


 「でも、陰から見ていることはできる。俺が誰かに話すようなことは……。とにかく、何か面白いことが起こりそうだな」


 「勝手にしたら良い。ヨシノさんとはどうせあと二ヶ月で契約が切れる。何もないまま終わってしまうと思う」


 ハイドは正直に感じていることを話す。ハイドはヨシノのことを好きになった。しかし、だからと言ってヨシノに何かを求めることは考えていない。ヨシノには戦場に最も近いこの街から離れて欲しいとハイドは考えている。そのため、これ以上深い想いを持つべきではないという考えが心の中を占めていた。


 「さて、そろそろハイドも限界だろう?帰らないとヨシノさんが心配するんじゃないか?」


 アルは目的を達成したからか、ハイドのことを心配して帰るように促す。しかし、ハイドにはそんな気になれない事情があった。少なくとも、話してしまったことを完全に忘れてしまわなければ、ヨシノと顔を合わせることはできそうになかったのだ。


 「まだ飲む。……付き合えよ」


 ハイドはグラスをアルに突きつける。アルはいつもと調子の違うハイドのことを制御できなかった。

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