小事件 (3)
店に戻ったハイドは、惰性で小事件について考え始めた。ストロングが一体どこに行ってしまったのか、それを知るために今できることは少ない。必要な情報は決して多くなかったが、よくある飼い犬の失踪事件とは少し違っていたため、ハイドも考えてみることにしたのである。
しかし、そのように意気込んだハイドだったが、数分後には考えることを諦めていた。ハイドの気勢とは裏腹に、思考を広げられる範囲は極めて狭かったのである。その代わりとして、ヨシノの練習を見ることにする。
「……惜しいけど、違うよ。この模様は」
「そうなんですか?」
ヨシノは、小物の材料の判定練習をしている。最初は似ている種類の材料を集めてきて、調べている対象がどれと同じなのかをルーペを使いながら決定していく。最近になって始めた新しい練習で、ヨシノは悪戦苦闘していた。
「……これで本当に分かるんですか?」
ヨシノはルーペを掲げてハイドに質問する。ヨシノには、類似の材料の見分けがどうにもできないようだった。
「できるよ。ここに書いている通りの見た目のものを見つければ良いだけだ」
「それが見つからないんですよ」
ヨシノは色々な材料の性質についてまとめられた本と睨み合って判別に臨んでいる。しかし、ヨシノにはその書かれている情報が手助けになっていなかった。ハイドもその感覚が分からないわけではない。
「僕も最初はここに書かれていることで判別できたことなんてなかったよ。何度も間違いを指摘されて強引に目で見て分かるようになったって感じだから。そこに書かれている意味が理解できるようになったのはその後だった」
「それならどうして私にこれを見せているんですか?」
ハイドの昔話を聞いて、ヨシノは不満を込めて尋ねてくる。意味のないことなのであれば、どうしてさせているのかと聞いてきているようだった。
「それはヨシノさんが僕とは違うからだよ。ヨシノさんは僕とは比べものにならないくらい器用みたいだから、最初からこういうやり方でもできるんじゃないかって思った。定規を使った計測も想像していたよりも早く上達しているし」
ハイドがヨシノに自分とは違うやり方をさせているのには訳がある。ヨシノに期待していると言い換えても良かった。
ヨシノにとってこのような作業は初めてのことであるが、同時にハイドにとっても技術を人に教えることは初めてである。そのため、どの方法が最も良いのか判断できない状態にある。それを探る意味でも、別の方法でヨシノに技術を習得させていた。
「……本当に難しいですね。私にできるでしょうか」
ヨシノは弱気になる。しかし、ハイドは全く心配していなかった。
「それは大丈夫だよ。半年で全部のことをできるようにはなれないと思うけど、新しい仕事についた時に役に立つ技を一つくらいは習得できると思ってる」
「……ありがとうございます」
ヨシノは礼を言って笑う。ハイドはそんな笑顔を見てアルが話していたことを思い出した。そして、唐突にそのことを気にしてしまう。
「休憩しようか」
ハイドは気分転換のために提案した。
「それじゃ、お茶を持ってきますね」
ヨシノはすぐに立ち上がって台所に向かう。ハイドは、ヨシノが本当に人として稀に見る人物であると思った。
「……店長、それでさっきは何があったんですか?」
お茶を持ってきて椅子に座ると、ヨシノが興味津々に尋ねてくる。さっきのことというのは、ハイドがアルに連れていかれた件である。
「ああ、なんか飼い犬が逃げちゃったらしくて、その捜索というかどういう経緯だったのかの確認をしてたんだ」
「犬ですか」
「なんでも、大きな犬が繋がれていた紐を引き千切って逃げたんだけど、まだ見つかっていなくて。それどころか目撃情報も今のところない。不思議なことだ」
ハイドは今考えてもそんな漠然とした感想しか持つことができない。偶然誰にも見つからないで逃げている犬が今どこをほっつき歩いているのかなど、誰にも分かることではないのである。
「それは大変ですね。紐を引き千切ったってことは、どこかに行きたかったんでしょうか?それとも逃げたい理由があったんでしょうか?」
「それは分からないな。何かに対して興奮している様子だったらしいけど、何に対して興奮していたのかも分からないし」
「それじゃあ、飼い主さんが嫌いだったとか……はないですかね」
ヨシノが呟く。ハイドはそれを聞いて別のことで思い当たることがあった。それは自分とリッチの関係である。ハイドは、リッチが自分のことを嫌っていると自覚している。事件と関係ないことではあったが、それはどこか寂しさのある可能性だった。
「それはないかな……僕とは違ってその犬の飼い主はとても優しそうな人だった」
「店長も優しいじゃないですか」
ヨシノの気を遣った言葉が飛ぶ。しかし、ハイドはリッチの件もあってそうとは考えられなかった。
「動物って案外人の性格を把握することに長けてるって言われてて、僕もその通りだと思ってる。僕はリッチにひどく嫌われているみたいだから、リッチには僕のそんな性格が分かってるんじゃないかな」
リッチに何かひどいことをしたわけではない。ただ、一緒に暮らしていてその結果リッチの方がハイドに冷たい態度を取るようになっていった。ハイドは、その原因がリッチにではなく自分自身にあると感じていたのである。しかし、ヨシノはそんな悲観的な話を聞いてすぐに否定した。
「私はそうは思いませんよ。私は店長のこと、すごく優しい人だと思っています。私をここに受け入れてくれたことも、それから一緒に生活して知っていったことを踏まえても、私はそう思ってます」
ヨシノはハイドのことを気にかけてくれていて、目を合わせて恥ずかしげもなくそんなことを言ってみせた。聞いていたハイドの方が恥ずかしい思いをする。
「お世辞でも、そんなことを言ってもらえて光栄だよ」
ハイドは話を区切るためにヨシノに感謝をする。ヨシノがハイドのことをどのように考えていたところで、これからの二人の生活が大きく変化することはない。ハイドはそれを知っていて、気恥ずかしい思いをすることが嫌になったのである。それでも、ヨシノは言葉を続ける。
「本当にそう思ってるんです。私が店長に感じているこの感覚は間違っているんでしょうか?」
「いや、そんなことを言われても……」
ヨシノの言葉はハイドを困らせる。ハイドが人の特殊な感覚について尋ねられたことは今の今まで全くない。それなりに多くの時間を一緒に過ごしているアルやホウカからでさえ一度もなかった。そのため、ハイドにはその言葉に簡単に返答することができなかった。考えるだけの材料がハイドにはなかったのである。
「何にしても、リッチも店長のことを本当に嫌ってるわけじゃないと思いますよ。だってそうじゃないと、リッチがここを出ていった後にまた戻ってくる理由がないじゃないですか」
「腹が空いて帰ってくるんじゃないの?」
「でも、ご飯はホウカさんがあげることの方が多いですよ?」
ハイドが示す可能性をヨシノはすぐに否定する。ハイドは、ヨシノがそこまで強情に意見を通そうとしていることを不思議に思った。しかし、ハイドはそれを聞いて気になることが出てくる。
「……じゃあ、ストロングも腹が空けば帰ってくるだろうか」
「ストロング?」
「ああ、逃げた犬の名前なんだけど、彼ももしかしたら腹を空かせると帰ってくるかもしれないと思って」
ハイドが考えていることは、ストロングが無事だということを前提にしている。その仮定の中で、逃げるような想像を膨らませていた。今までストロングはどこでも見つかっていない。その事実から、ストロングが唐突に帰ってくることはほとんどないと言って良かったのだ。そのことは、ヨシノもすぐに指摘した。
「私はそうは思いません。お腹ってすぐにすくんですよ?」
「……まあそうだよね」
ハイドはヨシノの根拠のない話に納得する。ストロングの気持ちを理解することができなくても、生きている限り空腹が訪れるという感覚は全ての動物が共有していることなのである。
「……じゃあ、どうなってるんでしょうね?」
「分からないな。……そもそも、ストロングが紐を引き千切ったのかどうかも分からなくなってきた」
ハイドはよくよく考えてみると、たとえ大型犬であっても紐を引きちぎることが可能なのか怪しく感じてきた。
「誰かが切ったんじゃないですか?」
「それはないよ。飼い主の人はストロングが自分で紐を千切ったところを見ていたそうだから」
「……それなら、誰かが紐に切れ込みを入れておいたとかはないですか」
ヨシノはいくつかの可能性を示唆していく。そして、最後にヨシノが示した仮説について、ハイドは可能性があると感じた。しかし、それでもはっきりしたことは断定できない。
「それはあるかもね。今まで丈夫だった紐が唐突に切れてしまうことはそんなにあることじゃないけど、誰かが故意に千切れるようにしておいたのであればまだ理解できる。……だけど、そんなことをする理由が思い当たらないけど」
「……そうですか。自警団のお仕事ってすごく大変なんですね。私にはさっぱりです」
「僕にも分からないよ。……でも、切れ込みを入れたっていう可能性はあるかもしれない。まだそれを確かめてないから」
ハイドは調べる価値が十分にあると考える。怪我をしている身として、できることはなるべくしておきたいのである。
「でも、そんなこと調べて分かるものなんですか?」
「それは分かるよ。切られた紐の断面をこれで確認すれば良いんだ」
ハイドはそう言ってルーペを手に取る。
「さっきは肉眼でしか見ていなかったから、紐の大まかな繊維がばらばらになっていることしか分からなかったけど、これを使えばその繊維がどんな力を受けて切れたのかが分かるからね。もしそれで千切れた繊維と切られた繊維が混在していれば、ヨシノさんが言ってくれた仮説はより真実に近いものになると思う」
ハイドは簡単に説明してから、早速ルーペを懐にしまって出かける準備を始める。ヨシノはそれを見てハイドに質問した。
「また出かけるんですか?」
「気になったらいても立ってもいられなくて。遅くなると飼い主の人に迷惑もかかるし」
「一人で行くんですか?」
ヨシノの問いかけは、ハイドがこの小事件を解決する上で特別重要なことではない。ヨシノはただ、ハイドが一人で出ていくのかということを確認する。
「……まあ、アルはどこかに行っちゃったし」
ハイドは簡単に答える。しかしその後すぐに、ヨシノがどのような意味を持って問いかけているのかを理解した。ヨシノはハイドと同じように何かを気にしている表情をしていたのだ。
「もしよければ一緒に来てくれないかな。一人だと片道だけで日が暮れそうだから」
ハイドはヨシノにお願いをしてみる。すると、ヨシノは頷いてすぐに支度を始めた。ハイドは考えていた通りだと納得してヨシノを待った。
「……そんなに気になったの?」
二人の準備がすむと、ヨシノはハイドの車椅子を押して店の外に出る。ハイドはそんなヨシノに背を向けたまま問いかけた。ヨシノの新しい一面を知ることができるかもしれないと思ったのだ。ヨシノは戸締まりをしてからその問いに答える。
「そうですよ。一人だと危なっかしいですからね」
「……?」
ハイドが投げた会話は、よく分からない返答となって戻ってきた。ハイドは会話が噛み合っていないと感じたが、それでもヨシノが協力してくれることに感謝して再びストロングが住んでいた老夫婦の家に向かった。




