放浪者ヨシノ (2)
「それで?私に何か言うことはない?」
帰宅したハイドは眉間にしわを寄せたホウカに捕まる。初めてホウカの怒りに触れた人は恐怖するかもしれない。ただ、慣れていたハイドは簡単に謝った。
「ごめん。今日が議会だって忘れてて。誰か来たりした?」
「別に誰も来たりはしてないけど」
「あ、そう」
それならば何を一生懸命怒っているのかとハイドは考える。しかし、ホウカを噴火させないために聞きはしなかった。
「じゃ、俺は一旦帰るわ。警戒の時間にまた来る」
アルが手を振って去っていく。ハイドはその言葉で夜間警戒の当番だったことを思い出した。
「じゃ、僕も帰るから」
ハイドも店に戻ろうとする。しかし、ホウカはそんな勝手を許さなかった。
「どうせまだ何も食べてないんでしょ?せっかくだから何か作ってあげようか?」
「別に良いよ。これ以上借りを作るのはちょっとね」
訝しがったハイドは怪しい誘いを断る。しかし、ホウカは強引に提案を押し進めた。
「別にハイドのために作るんじゃない。私が好きなものを食べたいから誘ってあげてるの」
ホウカが再び眉間にしわを寄せる。断ることはできそうにない。ハイドは扉を開けてホウカを店の中に入れた。
「……だとしても、どうしてわざわざ僕のところで?」
機嫌良く台所に立っているホウカに尋ねる。すると、ホウカはさも当たり前といった様子で返答した。
「ここ、色々と食材揃ってるから。向こうじゃ、自由に好きな物が食べられないの。ただでさえ食べ物少ないし」
「聞き飽きた理由だな」
ヨシノの家は宿屋を経営しており、少ない食料を客に提供している。ホウカはそのあおりを受けているのだ。ホウカはハイドの少ない友人であり、助け合いは必要だった。
料理のできないハイドが後ろに控えていると、リッチが足元にやってくる。珍しいと思って手を伸ばしたハイドだったが、リッチは一直線にホウカのもとへすり寄っていった。
「この薄情猫め」
「優しくしてあげないから懐かないんでしょ?今日だってご飯あげたの私だし」
ホウカは器用ににんじんの皮を剥いている。ハイドはその技術を羨ましく感じた。
「リッチを飼ってもらえるように説得したのは僕なのに、その恩も忘れて今ではこの有様。……昔の方が可愛かったな」
ハイドは昔を思い出して懐かしむ。出会いはリッチがまだ子猫の頃で、五年以上も昔のことである。
「さ、できたよ。テーブルについて」
しばらくすると、ホウカは皿に盛り付けた一枚の生地を運んでくる。ハイドはそれがホウカの得意料理であることを知っており、匂いにつられたリッチもテーブルの下に待機した。
「なんて言うんだっけ、これ」
「トートス。いい加減覚えてよ」
ホウカがトートスを切り分けていく。ようやく空腹を満たせることをハイドは嬉しく感じた。
「じゃ、いただきます」
食べ始めると、ホウカが何かを期待した視線を送ってくる。ハイドが美味であることを伝えると、ホウカも食べ始めた。
「……ところで、今日はどんな話し合いだったの?」
食事の途中、ホウカがふいにそんな質問をする。ただ、大半の時間を集中していなかったハイドに具体的なことは話せない。
「予算のことを色々とね」
「ここは大丈夫だったの?いつも東地区の人たちが予算を削ろうとしているんでしょ?」
ホウカは街の行政についてほとんど知らない。しかし、ハイドが予算関係でいつも攻撃に遭っていることは知っていた。
「いつも通り現状維持に終わったよ」
「なんか毎回思うんだけど、その話し合いって意味あるの?」
「何も話し合わないよりは健全だろうな。目を光らすことで不正が減るから」
「……ふーん」
結局、ホウカは興味をなくす。街の大半の人にとって、議会はその程度にしか見られていない。ホウカの態度は、ハイドにその事実を改めて理解させた。
「でも、一つ新しいことを聞かされたよ」
ハイドはつまらなそうなホウカに話題を振る。ホウカは顔を上げて反応した。
「一週間前くらいに帝国の皇帝が死んだそうだ」
「へー……それは大変なことなの?」
「まあね」
ホウカはこの話の重要性を理解できていない。皇帝の死がメンデレーに与える影響について、ハイドは教えることにした。
「帝国では七つの家が大きな権力を分割して持っているのは知ってるだろ?」
「聞いたことはあるわ。名前は覚えてないけど」
「僕も名前までは覚えていないけど、その死んだ皇帝もどこかの家の出身だった。でも、他の家から嫌われていたんだって」
ハイドは昔にアルから聞いた話を思い出す。アルは仕事の関係で多くの人から情報を手に入れることができるのだ。
「なんでもその皇帝の政策が良くなかったらしい。それでも強引に押し進めたから、他の家の反感を買ったんだって。だから、皇帝だったけどそこまで力を持っていなかった」
「そのことと私たちにどんな関係があるの?新しい皇帝になったら戦争をやめてくれるの?」
ホウカは水の入ったコップを手にとる。自分で言っておきながら、その可能性が低いことは理解しているらしい。ホウカのそんな直感は正しかった。
「その逆だ。今までの皇帝は自らに賛同してくれていた他の一つの家とだけ協力して戦争をしていた。だから戦闘は落ち着いていた。戦力も七つの家が分割して持っているからね。だけど、仮に次の皇帝が七つの家全ての同意で誕生したら、その時は帝国の力が強くなる」
「なるほど。それでどうなるか分からなくて問題になってるんだ」
ホウカがようやく状況を理解する。旧アボガリアの近傍に住んでいる身として、憂慮しなければならないことは間違いない。ただ、ホウカに動揺している様子はなかった。
「でも、そうなって帝国が攻めてきても、私たちはどうすることもできないんだから話し合っても意味ないよね」
「たくさんの人が死んでしまうかもしれない」
ハイドは現実的な危険性を示す。無意識に表情は険しくなっていた。
「ちょっと、顔が怖いよ。私だってこれでも色々と考えているんだから」
ホウカの指摘で、ハイドは強張る筋肉をほぐす。過去の体験がハイドをそうさせたのかもしれない。しかし、それはホウカには関係のない事情だった。
「そうだな。その時に考えるしかないか」
「そうだよ。今日だって自警団の警戒があるんでしょ?……あれって本当に危なくないの?」
ホウカは話の延長として、自警団の仕事の一つである街の夜間警戒について問いかける。女性のホウカは自警団に加わっていない。基本的にハイドやアルのような若い男性が中心なのだ。
「危険がないとは言えないけど、今まで何かが起きたことはない。暗い街の外を眺めてるだけで終わるから」
ハイドの説明を受けてホウカは小さく頷く。しかし、ホウカが自警団の現状を知らなかったとは考えにくい。
自警団の夜間警戒は、メンデレーの夜間防衛を意味する。本来は軍が街の防衛を担うが、メンデレーの駐屯軍は規模が小さく、現在は旧アボガリアに対する作戦に参加もしている。そのため、軍だけで街の防衛ができないのだ。
ただ、旧アボガリアが目と鼻の先のメンデレーはゲリラの攻撃を受ける可能性が高い。自警団はその脅威に対する防衛力として期待されていた。しかし、自警団が人の寄せ集めだということはよく知られている話である。
「夜の街の外、一度見てみたいな」
食事を終えたホウカが皿を台所に運んでいく。ハイドもそれを手伝う。
「ただ暗いだけで怖い。たまに動物が歩いているくらいだ」
「そうなんだ。一回も見たことないから、いつか見てみたい」
皿を洗い始めたホウカを手伝おうとすると邪魔そうにされ、ハイドは引き下がる。リッチは食事を終えてどこかに行ってしまっていた。
メンデレーは国境の街であり、外部からの侵入者に目を光らせている。そのため、メンデレーは夜間になると出入りができなくなる。ホウカが夜の街の外を見たことがない理由はそこにあった。
ホウカはメンデレーで生まれ育った人間であるが、知らないことも多いらしい。ハイドはそれを不思議に感じた。
「それじゃ、頑張ってね」
ホウカは満足げな表情で店から出ていく。宿屋はホウカと両親の三人で経営しており、若い労働力が必要とされている。いつまでも道草を食べているわけにはいかないようだった。
ホウカが戻った後、ハイドも仕事を終わらせるために意気込む。夜間警戒まであまり時間は残されていなかった。