終章 三人の黙契
蓮治の葬式を終えてから、数日後のことだ。
國又は写真立てを手に取った。蓮治と二人で映っている写真が収められてある。蓮治が小学校二、三年生の頃の写真だ。つまり、五年以上前のものだ。しばらくの間、写真の中で笑っている蓮治を見つめ合っていた。
あどけない笑顔で映っている蓮治の姿からは、純粋な心と懐かしさと、それでいて強さが伝わってくる。この頃から、彼の正義は潜在的に存在していたのかもしれない。しかし、今となってはその正義の暴走を止められなかったことに大いなる後悔を抱えていた。
いつになっても消えそうにない悔恨の念を抑えようと、自らの手により文にして綴るため筆を持った。
拝啓
寒さも厳しくなってきましたが、この度はどうしてもご報告しなければならないことがあるため、こうして筆を取らせていただいた次第です。
まず、蓮治の葬式に立ち会ってくれたこと、深く感謝しております。その蓮治の犯した罪について明かしておかなければならないことがあります。もう鳥越さんのことですから、お気づきかもしれませんが、ボタンの件です。大横川親水公園の現場に制服のボタンを落としたのは、紛れもないこの私です。実は私も蓮治と同じ城川中学出身の身でして、棄てるのが惜しくて制服を保管していたのです。幸い、特に制服の変化もなく、ボタンも蓮治のものと変わりはありませんでした。
さて、何故私がそんなことをしたのか、鳥越さんはどのように推理しますか。蓮治のちょっとした変化はすぐに気付きました。そして同じ頃起きた事件を耳にしたとき、信じたくない想像が頭の中に浮かびました。とはいえ、蓮治のことならやりかねない、そうも思えました。以前から自分の「正義」に確執し、中学校でも諍いが問題となり、担任の先生と面談したこともありました。その延長線上で悲劇は生まれたんだと、私は痛感しました。蓮治とずっと暮らしていながら、このようなことになってしまったことは、悔いても悔いきれません。その後悔を少しでも貢献に変えるため、私はボタンを落としたのです。城川中学の校章が刻まれた制服ボタンが、警察を蓮治の元へと導いてくれるのではないか、と願いを込めてみたのです。
ここで、また疑問が生じることでしょう。後悔を貢献に変えたいのなら、直に警察を訪ねればいいではないか、と。俗に言う勘で犯人だと思います、と問い合せても取りあってくれはしないだろうと感じたことも一つの訳ですが、心のどこかで、蓮治に捕まってほしくないという気持ちがあったのだと思います。少なくとも、蓮治を一番目にしてきたのは、この私です。蓮治の父母があのような形で亡くなってしまい、私が進んで手を差し伸べました。まだ蓮治が一歳に満たない頃の話です。その蓮治を、蓮治と共に生きた時間を、思い出を易々と失くしたくはなかったんです。わがままで身勝手な理由と言われれば、全くその通りですが、これも一つの人情として優しく受け止めてはくれないでしょうか。
今、私と蓮治が一緒に映っている写真を見て、どうにか生きる希望を貰っています。いつしか読んだ本の主人公の台詞に、こんなものがあったのを思い出しました。
――大切なものは、失くしてから気付くものですね。
蓮治を失ってから、蓮治との過ごした全てが、大切な大切な宝物だということを痛いほど感じました。もう一度会って話したいな、などと叶わぬことを夢見ている今日この頃です。蓮治の歩んだ短い人生を決して忘れないことを、蓮治の分まで生きていくことを誓った次第です。
最後になりますが、いろいろと深くお詫び申し上げます。そして、いろいろとありがとうございました。鳥越さんも刑事として、正義を貫いてください。
敬具
平成二十六年 十月十日
國又 豪
鳥越俊一郎様
*
衝撃の結末を目の当りにしてから数日が経った。
まさか、蓮治に自殺の意志があったとは思わなかった。恋人との一時を終えた蓮治を大通りへと誘導し、盗聴器で鳥越たちの会話を聴いて待っていた柳の車に乗せようとしたところ、急に道路に飛び出たのだ。大型のトラックに撥ねられ、鳥越たちが駆けつけたときには、既に虫の息だった。彼は鳥越があの日呼び出したときに、全てを悟り、覚悟を決めていたのだろう。その証拠に、彼の最期の手には、恋人石井陽子との想い出の品である黄色いハンカチが握られていたのだから。
鳥越は事件の全貌を報告することはしなかった。どうせ相手にされないまま終わるのだろうから。真実を上層部に伝えれば、称賛されるどころか、枝野良夫のように首が飛びかねない。世間は河辺浩大が一連の事件の犯人だということで浸透されたのだろう。蓮治の死亡は単なる事故死という扱いになったと聞いた。真実を「隠蔽」することに、柳も異論は示さなかった。無難な結論、というべきだ。
全く虚しいものだ。真実を究明しても、正義を貫こうとしても、強大なる権力を前にしては、糠に釘、のれんに腕押し、濡れ手に粟、すぐさま破綻してしまう。正義の在り処は個人の心の片隅、だとか何とか綺麗言を吐いたはいいものの、無力感に苛まれる今日この頃だった。
しかし、だからといって後悔はしていなかった。上層部の人たちの個人個人にも正義があり、その正義が、事件を隠蔽することが正しいと判断したのだ。それは一つの見解として、尊重できなくても理解しなければならない。
一課で書類整理をしていると、柳が封筒片手にやってきた。
「鳥越、手紙が届いていたぞ」
「手紙、ですか。誰からですかね」
そう唱えると、柳は封筒の裏面を鳥越に見せた。そこには「國又豪」と、ボールペンで記されていた。思いも寄らぬ人物からの便りに、いささか驚いたが、それを手に取ると、ありがとうございますと柳に静かに言った。カッターでゆっくりと封を切り、中身を取りだした。
そこには遠野嘉政の殺害現場に落ちていたボタンの謎と、蓮治への想いと、願いと・・・力強い一字一字からは交錯している様々な情が伝わってくる。二、三度読み返し、危うく目頭が熱くなって、そこから液体が溢れ出てくるところだった。
「鳥越、今日空いてるか?」
ふと、柳がそんなことを口にした。思わず出そうになった涙をぐっと抑えて、曖昧に肯定する。
「おでん、行かないか?」
鳥越は、はいと威勢良く首を縦に振った。
その晩、予定通り鳥越たち二人は例の屋台にいた。柳に何の目的があって鳥越を誘ったのかは定かではない。もしかしたら、ただ一緒に飲もう、というだけのことだったのかもしれないのだが。
美味いおでんも酒も進み、それまで特に会話をしていなかったが、ついに柳が真剣な物言いで訊いてきた。
「鳥越、おまえはこの事件で何を感じた?」
「え?・・・そうですね。遺族の悲しみ、人間の闇、正義の正体、それから、刑事の・・・刑事の宿命です」
「それが分ったなら、おまえは本物の刑事だ。以前のおまえはこう言っていた。――自分の命に変えてまで犯罪を追い続けるなんておかしいと思います。正義だ何だって、命あって初めて感情を抱けるんです。全ては命があるから。その命を粗末にしていいと思いますか?とな。おまえの親父さんを蔑んだ言葉だ。
だが刑事ってのは、命に変えてまで犯罪を追い続けようと必死になれる職業でもある。少なくとも、俺はそう思っている。美吉蓮治との会話聞かせてもらったが、そのときに言ってたよな。正義はその人の感情そのものだって。生きた人間の数だけ正義がある。おまえの親父さんの正義も確かに存在していたはずだ。親父さんは刑事人生に命を懸けていた。だから、おまえの言ったようなことを信念として掲げていたんだろ。
それから、実はな。今まで黙っていたんだが、以前おまえの親父さんに会ったことがあってな」
「え、親父と会ったことが?本当ですか」
「ああ、もちろん事実だ。一度だけ飲みに行かせてもらったことがあった。俺が所轄時代の頃だ。そのとき、おまえの親父さんに言われたんだ。『おまえはまだ刑事ではない』ってな」
「そうだったんですか・・・」
柳にそんな過去があったとは全く知らなかった。まさか、自分の親父と以前会ったことが、それも杯を交わしたことがあったとは・・・。
「俺は必死に『刑事』ってものを追及した。おまえよりも若い頃だったかもな。それで、様々な事件を経験していくうちに、おまえと同じように『正義の定義』みたいなものに辿り着いたんだ。まあ、それを気付いたときには、おまえの親父さんはもう、空に行っちまったがな」
そういえば、柳がふと思い出したように言った。
「浜田のり子のストーカー犯、捕まったらしいな」
「あ、ホントですか。良かったですね。これでまた一つ、正義が貫かれたんですね。國又さんの手紙の最期に書かれていたんです。刑事として、正義を貫いてくださいって」
「そうか。これからも、努力しなきゃな」
「はい。頑張ります」
その後、二人はいつもよし少し長くおでん屋に居座り続けた。そのときの鳥越の心がほっこり温かかったのは、熱々のおでんのせいだけではないだろう。先輩刑事の温もりに触れた一夜だった。
マンションに戻ると、結衣がテレビの前で笑っていた。鳥越の帰宅に気付くと、「おかえり」の一言。
「遅かったね」
「先輩と、飲んでてね。やっと、刑事として認めてもらえたよ」
「ああ、前言ってた先輩刑事さんのことでしょ。よかったね」
「風呂入ってくる」
「ちょっと冷めてるかも」
時計を見ると、もう十一時を過ぎていた。
結衣の言うとおり、少し冷めていたが、鳥越は湯船に浸かって疲れを取った。例の事件が終わり、一段落したといえばしたのだが、まだ心が完全に晴れた訳ではなかった。
ふと國又からの手紙の内容が蘇る。印象的だったのか、一文が鮮明に脳裡に浮かぶ。
――大切なものは、失くしてから気付くものですね。
「大切なもの、か・・・」
自ずと、今リビングでバラエティ番組を眺めている結衣の顔が浮かんでくる。これまでたくさんの出来事が確かにあった。一度寝れば忘れるような喧嘩もあったし、なかなか仲直りできなかった喧嘩もあった。優しい口づけも、雑な口づけもあった。笑い合った日も、泣き合った日もあった。
「大切な人」を「一生大切な人」に変えれば、「失くしてから大切に思える人」になるなんてことない。
鳥越はふう、と気合を入れると、浴槽を出て、部屋着に着替えた。一度キッチンへ行き、未開封のワインと二つのグラスを持ってリビングへ戻った。
「結衣、飲む」
「あ、飲む飲む」
鳥越はグラスにワインを注いだ。二人分注ぎ終わり、グラス片手に乾杯すると、結衣は本当に美味そうに飲む。飲んだ後の笑顔は、鳥越の溜まり溜まった疲労を解消させた。そのとき鳥越は思った。
――自分は結衣のことを心から愛しているんだ。
改めてそう思えた瞬間だった。鳥越はリモコンを手に取り、テレビを消灯すると、できるだけ真剣な顔つきをした。
「結衣」
「ん?」
「結婚しよっか」
一度口元に寄せたグラスを持った結衣の手が止まる。若干驚いた眼差しを向けてきた。彼女の返答を待つ鳥越が次に耳にした言葉は、緩んだ口元から発せられた英語教師らしい結衣の答えだった。
「Of course.I really love you」
*
――事件から二カ月後。
「あ・・・」
廊下に展示された二学期期末試験の成績上位者トップ十のリストの中に、「美吉蓮治」の名前がなかった。それはこれまでにないことだった。トップ十のリストの中に、蓮治の名前が載らなかったことは一度もなかったのだ。
葬式が済み、皆の心も次第に柔らかくなってきて、もう二カ月が過ぎた。陽子も前までの気持ちを取り戻しつついたが、まだ心は不安定だった。この先、この不安定な心は延々と継続していくのではないか、時折そんなことも考える。去年の冬に、こんな苦い思いをするとは夢にも思わなかった。
苦い思いといえば、希との一件があった。あの後、何もかも話してくれた。ずっと蓮治のことが好きだったらしい。他の男子生徒の告白は全て断るほどだ。でも、蓮治は振り向いてくれなかった。そのうえ、陽子とそういう関係になったがために、希の嫉妬は度を過ぎたのだろう。全て、希が仕組んだことだったらしい。あの日、陽子の下駄箱にあったメモ書きも、蓮治の財布を隠して教室に越させたのも全部希本人が工作したことだった。今頃になって責める気にもなれず、それどころでは無かったため、あまり深くは考えなかった。
事件後、鳥越と会った際に封筒を渡された。そういう類のものは、すぐ無くしちゃうから陽子さんにあげますよ、と言って渡された。國又豪と記名されており、中身は鳥越宛に書かれたものだった。それを何故、鳥越は陽子にあげようと思ったのか。それは、この一文を読ませたかったのだろう。陽子は後半部分にあった一文に胸を打たれた。
――大切なものは、無くしてから大切だと気付くものですね。
特に力強く、目立つように書かれていたわけじゃないが、一通り読み終えた後、その文章だけが異彩を放っていた。これは鳥越からの一つのメッセージだろう。
蓮治を失い、当たり前が当たり前じゃなくなったとき、人は挫ける。その挫折は立ち直るまでに時間はかかっても、乗り越えなければ生きていけない。
蓮治は黄色いハンカチを握りしめて轢かれたらしいが、その本当の意図が少しだけ分った気がした。
「陽子」浪恵が呼んだ。
「何?」
「頑張ろうね、高校受験」
「何、いきなり。分ってるよ・・・ねえ、今度の日曜日、お墓参り行かない?」
「え?」
「三人で行こうよ。龍也も一緒に」
「・・・うん。分った」
約束通り、陽子、浪恵、龍也の三人は、蓮治の遺骨が納められている墓へと足を運んでいた。その日の日曜日は、鱗雲が青い空に浮かび、快い気分を与えてくれた。だが、陽子たちの心はいささか雲がかかったものだった。
蓮治への墓まで三人は特に会話を交わさずにいた。交わせずに、と表現した方が正しいのかもしれない。陽子が桶を持ち、浪恵が線香とライターを持ち、龍也が何輪かの艶やかな花を持っていた。
やがて、峰里家という文字が刻まれた墓地の前に着く。
鳥越と会った際、陽子は驚愕の新事実を伝えられた。それは、蓮治の本名が「峰里蓮治」であったことだった。その詳しい経緯については教えてくれなかったが、そこには深い謎と知ってはならない秘密が隠されているように思えて、陽子は必要以上に問わなかった。その際に、峰里家の墓が東京の西の方の霊苑であると聞いたのだ。
桶の中の水を柄杓でゆっくりと掬い、陽子が墓碑を洗う。陽子の表情にはもちろん哀しみの情もあったが、微笑ましい懐古の念が見え隠れした。既にこの世にはいない蓮治との記憶のアルバムを一ページずつめくっているのだ。そのため、懐かしさが込み上げてきたのだ。
所定の位置に花を添え、線香に着火し、三人は合掌した。瞳をつぶると、陽子はさらに追懐にひたり、蓮治の顔が霞むように現れたりして、涙が零れそうになった。しかし、あのとき最期に蓮治に言われたことを噛みしめ、陽子は必死でこらえた。
――俺がいなくても、一人で大丈夫。陽子なら頑張れる。それに、俺とおまえはどんなに離れていても、繋がってるだろ。
(一人・・・じゃない)
痛烈なとき、手を差し伸べてくれる友達がいる。
――龍也も、浪恵も。そして、蓮治も。
「どうして死を選んだろうな、蓮治の奴」
急に龍也が口にした。彼の眼光はまっすぐと墓標の文字に注がれていた。
「え?」
「しっかり罪を償えば、そのうち新たな人生の再スタートを迎えられるだろ。もちろん蓮治だって知っていたんだと思う。いくら人を殺したからといって、あいつが死んで哀しむ人間がどれほどいるか・・・それなのに、あえてあいつは死を選んだ。何でだよ・・・」
後半、龍也は涙の雫を瞳から落とした。普段あまり泣かない龍也が泣いたのだ。蓮治の葬儀のときでも涙の一粒みせなかったのに、こうして二ヶ月の月日が経ち、改めて蓮治が死んだ事実を深く考えさせられ、込み上げた想いが涙へと変わったのだろう。
龍也の涙に誘われて、陽子も浪恵も瞼が潤む。何も言葉が浮かんでこない自分に対し、陽子は悔いた。
「行こうぜ」
龍也の一声によって、三人は引き返した。たくさんの墓に囲まれた道を一歩ずつ歩いていく。
「陽子、大丈夫か?あ、持つよ」
龍也が桶を持ってくれた。さすがそのあたりの気遣いは慣れてきているのだろう。
「私に優しくすると、浪恵が妬いちゃうよ」
「ほっとけ」
「そんなことで妬くような女じゃないし」
「二人とも強がっちゃって」
「強がってない!」と、二人の声が揃う。すぐに顔を見あわせる二人に、陽子はクスリと笑った。
ふと南西の空を仰いだ。南中時から徐々に高度を落としている陽が、少し哀切な光を送っているように陽子は感受した。三人はしばらくその場で佇んでいた。
初冬だというのに、太陽は照り続けている。これから雪の季節になるが、太陽はいつになっても滅さない。滅びを知らないのだ。雲に覆われ見えなくなっても、夜になって沈んでいっても、太陽は存在し続ける。
蓮治の正義が、陽子の心の片隅にいつでも、そして永遠に存在するように。
終