第六章 正義の在り処
1 十月五日 金曜日
柳から連絡があったのは今日の午後八時を過ぎたころである。久しぶりに屋台のおでん屋に行くか、と誘いがあったのである。自宅で暇を持て余していた鳥越は、もちろん肯定したが、いきなりどうしたのだろうと逆に奇妙に思えてしまった。
外はパラパラと雨が降っていたが、鳥越は傘を差さずに出かけた。めんどくさいからも一つだが、少し雨に濡れたいからという理由もあった。それから三十分もしないうちに、二人は懐かしの煙が立つ屋台で落ち合った。
このおでん屋は還暦少し前の恰幅の良い強面の初老が立ちあげた屋台で、柳との行きつけの店だった。しかし、ここ二ヶ月くらいは顔を出していない。もう二ヶ月経つのか、と時の移ろいに物寂しげな想いが募った。
鳥越が着いたとき、柳は既にのれんの向こうで座っていた。ゆっくり歩み寄り、それを潜ると黙って席に着いた。
「一体、どうしたんですか。急にこんなところ」
「いいじゃねえか、今日ぐらいは」
「今日ぐらいはって、どういうことですか」
「・・・捜査本部が解散になったよ」
「え?」
鳥越は言葉を失った。唖然して開いた口のまま、柳の次の言葉を待った。
「今回の二つのヤマは、河辺浩大が犯人という結論で収拾するようだ。案の定、特に十五年前のことに深く関わってはいない動機で、マスコミに公表するらしいしな。それで、世間の腹の虫が治まればいいが」
「そんな・・・」
頭を抱える鳥越の言葉は喉で詰まったまま上手く出なかった。この無情感に思わず涙が零れそうになる。しきりに、どうして、どうして、と嘆きが漏れる。あいよ、と言って店主がおでんを乗せた皿を渡した。
「辛いときは、それ食べて元気出せ。まだ若いんだから、挫けんな」
強面だが優しさのある店主の激励と、作ったおでんの温かさが一緒になって鳥越の胸を熱くした。それこそ、瞳から雫が落ちるほど温もりを感じた。でも、やりきれない想いによってわだかまりが生じる。
「どうして、こんなことになるんですか。俺たちの今までの努力は何だったんですか。必死になって捜査して、あれこれ推理して、結局全ては水の泡。かといって、結論は矛盾だらけ。正義の欠片も感じられない。先輩、これでいいんですか!このままおめおめ引き下がれるんですか」
我にも無く立ち上がり息を荒くした鳥越は、柳のビールを飲む姿を一瞥すると、視点の位置が彷徨った。高揚した感情を鎮静させると、ため息と共に腰を下ろした。眼の前では美味そうな湯気がめらめらと立っている。食欲を注がれるが、今の鳥越にその気はなかった。先ほど出されたおでんも、喉を通った感覚はあったが、胃に溜まった気は全くなかった。
依然として沈黙を貫く柳が次に口を開いたのは、そう遅くはなかった。
「おまえの言い分はもっともだ。俺だって引き下がるなんてことこれっぽっちも思っちゃあいねえよ。まだ希望はある。それを伝えるために、俺は今日おまえを呼んだんだ」
「え、希望って・・・」
「十五年前、警視庁に勤めていた人間のなかで、その翌年に退職している者がいた。いや、退職させられたと言って方が妥当だろうな」
「マスコミの興味が冷めた頃にその警察官を退職させたってことですか」
「まあ、そうだろうな。その男、枝野良夫というんだが、その人物は今、茨城に引っ込んで暮らしているらしい。その人物が何かを知っているかもしれない。いくらもいた刑事の中で、唯一正義を貫き、誰も知らぬまま去った無名のヒーロー、だからな」
無名のヒーローという響きに、いささか感激した。十五年前も警察の在り方に疑問を抱いた人間がいたのだ。上層部に威圧され、影で職を辞した人間が確かに存在したのだ。
「明日、行かないか?」
「え?俺も、ですか」
「同じ目的を目指す者同士だろう。俺もおまえも、もうあの事件を外された刑事だ。行動を共にしようが何しようが勝手だろう」
もう事件は終わった。一つの節目を迎えた。しかし、まだ追いかけなければならない真実がある。長い洞窟は途中で新しい道を無理矢理作られ、「虚実」という出口を出た。表向きはそれが「真実」の出口だと信じるのだろう。しかし、「真実」の出口に誰かが辿り着かなければならない。誰かが歩まなければならない。その責任を鳥越は今感じた。もしかしたら、これから先何が待っていようとも、結果が変わることはないのかもしれない。
――でも。
無名のヒーローの称号を掴み取りたかった。本当の刑事とは何なのか追求したかった。そして、正義とは何かを知りたかった。
「先輩、ありがとうございます」
鳥越は深々と頭を下げた。既に目頭が熱かった。何が何でも、柳にただ伝えたかった。感謝の言葉を、深い一礼と共に伝えたかった。
すると、柳は立ち上がり、右手を差し出した。大きくて深みのある、血筋が輝いて見えた手だった。鳥越はその手を縋るようにして握った。
それを実見した店主が、腕を組みながら色の薄い唇を動かす。
「刑事の絆、だな」
2 十月六日 土曜日
今日は土曜日だから午前授業である。帰りのホームルーム、そして当番制の簡易清掃も無事終了し、結衣は職員室で授業用の資料作成に労力を費やしていた。英文と訳文、そしてその文章中の新出英単語についてまとめるものだ。これを手に日々授業を進め、これを参考に生徒たちの理解を深めているのだ。
デスクトップのタスクバーに記された時刻は三時を回っていた。手慣れた手つきで仕上がらせた資料を眺めていると、机の上にカップが置かれた。
「ああ、坂田先生。ありがとうございます」
「いえいえ、お気になさらずに」
坂田が熱いコーヒーを淹れてくれたのだ。時折みせる坂田の優しさは結婚を機にさらに磨かれていったのだろう。最近結衣の頭の中でだいぶイメージが変わったのも、原点は結婚の二文字にあるのかもしれない。
「あ、坂田先生」
「ん?」
「この頃、美吉君大丈夫ですか?」
「美吉?えっと、それはどういう?」
「いや、この前美吉君が久留嶋君のことを殴ったんです。偶々その場に居合わせた私が、止めたんですけど」
「確か、同じサッカー部で、仲が良い二人だろう」
「ええ、特に深くは考えていないんですが、美吉君というと、これまでにいろいろありましたし、それに・・・」
「それに?」
「あ、いや、何でもありません。特に彼の様子に変わりなければ、いいんですけど・・・」
最近世間で騒がれている殺人事件の犯人が、美吉君だと本気で主張する刑事がいて・・・と、あからさまに明かすわけにはいかない。
「そうだなあ。特に変化はないと思うけどなあ。ほら、美吉は石井と付き合っているらしいし、結構充実した学校生活を送っているように思えるけどね」
「そうですか。だったらいいんですけど。ありがとうございます」
その後、結衣は諸事情で自分の担任の二年四組の教室を訪れていた。用を済まし、職員室へと引き返そうとしたが、途中二年二組の教室に二人の生徒の姿が眼に入り、軽い気持ちで室内へ入った。
「あら、都木さんと久留嶋君じゃない」
そこにいたのは紛れもなくその二人だった。
「あ、平本先生」
「何やってるの、二人で。あら、お邪魔だった」
そう言って意地悪そうに笑った。
「そんなんじゃありませんから。ちょっと、深刻な話をしていただけです」
龍也が言い張った。
「深刻って、何かあったの?」
「あ、いいえ。別に・・・」
二人が黙りこくってしまった様子から察するに、彼らの言うとおり深刻な問題を抱えているようだ。
(もしかして・・・)
「美吉君のこと?」
「え!」
二人は仰天した眼差しで結衣を見た。
「・・・そのことを、昨日陽子から聞いて。刑事さんに聞いたって言ってました。龍也にだけは話しておこうと思って、今伝えていたんです。やっぱり、平本先生知っていたんですね」
浪恵の問いに、素直に肯く。すると、にわかに龍也が立ち上がった。
「先生は、どう思っているんですか」
「え?」
「これまでの三年間、蓮治は確かに問題騒動を起こしてきました。自分の正義に反してるとか言って。大会の前日の練習前にも、あいつは俺のこと殴りました。そんな蓮治なら、やりかねないことかもしれません。実際、蓮治の眼は人を殺すような強さを持ってる気がします。
その半面、蓮治がそんな非行に走るなんて、考えられないんです。少なくとも俺からすれば、あいつは不自由なく学校生活を送れていると思っています。あいつには陽子がいて、俺らがいて、クラスのみんながいて、先生たちがいて・・・先生、本当に蓮治は罪を犯したんでしょうか」
「久留嶋君・・・」
龍也の必死の訴えは、結衣の心を震撼させた。彼が、友達思いの心優しい生徒だということを身に沁みて感じた。
「・・・大丈夫。信じてあげようよ、美吉君のことを。きっと、何かの間違いだよ。信じてあげよう」
結衣は信じてあげることしか術が思いつかなかった。結衣自身、何が真実かなんてわからないのだ。
結衣は仕事が残っているから、と言ってその場を逃げるようにして退いた。ただただ辛かったのだ。それだけを理由に、生徒の相談を教師側から断ち切ったのだ。しかし、二人に「信じる」という徳育を伝授したのだ。結衣なりの努力である。
三年二組の教室を出ると、一人の生徒が壁に寄りかかっていた。部活で残っているのだろうか、高月悠史だ。
「ああ、高月君だったよね」
「はい。そうです。先生、今のどういうことですか。美吉蓮治が人を殺したって」
「え、聞いてたの」
「ええ、説明してくださいよ。もし言ってくれないのであれば、久留嶋たちに訊くんで別にいいんですけど」
「高月君」
結衣はできるだけ落ち着いて彼の名前を呼ぶ。そして、ゆっくりと膝を折って、腰を下ろし、両手をハの字に床に置き、頭を深々と下げた。
「せ、先生?」
「お願い。彼のことについては触れないであげて」
「ちょ、ちょっと・・・」
「お願い!」
「わ、分りましたから。頭を上げてくださいよ・・・」
結衣の懇願は高月の心に刺さったらしい。教師が生徒に土下座をするという奇妙な光景を目にする者は誰もいなかった。結衣において、必要以上に勇気のいる行為だったが、そこに恥はなかった。しかし、自分の身を捨ててまで、必死で守りたい秘密が結衣に、そして蓮治たちにはある。
怪訝そうな顔で見送る高月を背中で感じながら、結衣は職員室へと足早に向かう。胸が締め付けられているようで、息をするのに苦しかった。
職員室へ戻ってからも、脳内は蓮治のことで埋め尽くされている。
――彼は本当に人を殺したの?
――だったら、どうして・・・?
*
鳥越たちは柳の車で茨城に向かっていた。隣に座ってハンドルを持つ柳が寡黙なことに変化はなかった。そのことに少し微笑ましく思えたのは、ここ数日柳の車に乗っていなかったからである。
枝野良夫は茨城県日立市の住人らしい。元々港区に住居を構えていたらしいが、上層部の圧制により、遠く茨城まで飛ばされたということだろう。無名のヒーローとして最後まで戦った末、警察の「盾」に茨城の北部にまで跳ね飛ばされるとは、構図を思い描くだけで恐ろしい。
だんだんと車窓からの景色がグラデーションのように小変を遂げていく。けばけばしい明色と寂寞と佇む施設の色とが混合した色から、恩恵や神秘さえ伺える自然の緑色へと変色していく様子に、鳥越は感慨に耽った。
途中、ただ沈黙を貫くのもそれはそれで苦しかったため、鳥越は自分の推理を訊かせた。蓮治が犯人だという仮定の下、これまでの事件に触れながら推理を語った。
「正義のための、殺人か」
「どうでしょうか。美吉蓮治の人柄、可能性の低いことではないと思うんです」
「動機としては、弱いがな。仮に正義を動機に、遠野嘉政や向田紗江子を殺したとして、どうしてその二人だったか、それも疑問だな。確かに、十五年前世間を震撼させた、反感を買ったとんでもないヤマだったとはいえ、他にも事件はいくらでもあったはずだろう。まだ記憶の新しい事件の方が身近に感じるだろうし、正義の鉄槌をかましたいと思えるんじゃないか」
「ええ、まあ、そうですけど・・・先輩は結局誰が犯人だと考えているんですか?」
「分らない。河辺浩大の自主にも納得いかないしな。かといって、おまえの美吉蓮治ってやつが犯人だっていう説にも素直に同意できない。もしかしたら、他に犯人がいるかもしれない。少しでも手掛かりを得たい。だから今、向かっているんだろ」
鳥越は肯いた。窓の外はシトシトと雨が降っている。
なんだかんだいって三時間以上かかる旅路だったが、鳥越たちはようやく一件のアパアートの前に辿り着いた。その一○三号室の表札に「枝野」という名字はあった。
呼び鈴を鳴らした。扉の向こうで物音がするかと思うと、一人の男が姿を現した。
「警視庁捜査一課柳です。枝野良夫さん、ですよね」
「警視庁・・・」
枝野は想いも寄らぬ訪問者に驚いている。白髪が少し目立つ頭髪の枝野は、かつて刑事だった威厳や正義の欠片がその顔つきから伝わってくる。
「十五年前の事件について、お話伺えますか」
「十五年前・・・」
枝野はゆっくりと繰り返す。その頃のことを悔やんでいるのか、枝野は俯いた。
その後、「どうぞ」と部屋の中へと案内された。質素な生活をしているようだ。殺風景な壁に囲まれて、これまで生活してきたのだろうか。
「十五年前、裁判にかけられて無罪判決を受けた遠野嘉政が殺害されたのはご存知かと思います。その一週間後にはその裁判で遠野を弁護した向田紗江子弁護士も殺害されました。
「枝野さん。一体、十五年前に何があったんですか。遠野嘉政が裁判にかけられ、証拠不十分を理由に無罪判決が下されました。人を二人も殺害した疑いがあったのにもかかわらず、です。それに、当時遠野には不正投資の疑惑があったはずです。警察内部にその不正に加担した人間がいたという噂もあったらしいですね。枝野さんは少なくとも僕らよりは、当時のことについて知っているはずです。教えていただけませんか」
鳥越は必死の想いで懇願した。真実を知りたい、その一心だった。すると、枝野は意を決したようにまっすぐと鳥越を見つめた。
「私が今年還暦を迎えます。十五年前というと四十五の歳でした。その頃、大きな事件がありました。あなたがたのおっしゃるように国会議員の遠野嘉政が二人の人間を殺害したという事件です。発見されたのは群馬の山奥でしたが、どうやら本当の殺害現場は東京のある公園らしいことが分った。当時警視庁に勤めていた私も捜査に加わりました。
殺害されたうちの一人は峰里大介という新聞記者でして、その峰里が勤める新聞社の方々に聞き込みをするうちに、峰里と親しくしていた人間に話を聞くことができたんです。その方によると、峰里は遠野嘉政の不正投資の疑惑を追及していたらしい。しかも、その情報源が現職の警察官から内密に告発されたものだったと言うんですよ。正直、私は魂消ました。峰里の友人は二人で杯を交わしている際に聞いたことのようで、峰里は酔った勢いでつい喋ってしまったんでしょうね。
遠野の不正投資の疑惑は確かなもので、それをネタに峰里に脅されていた遠野が殺した。そして、その光景を目撃してしまった、名前を何といったかな・・・ああ、河辺仁志が口封じのため殺された。この筋書きで遠野は便宜上送検され、裁判も行われたんですが、警察上層部は現職警察官の汚職が漏れることを避けるために、多額の金で遠野を無罪にしたんです」
「ちょっと、待ってください。そんなことが可能なんですか?警察組織だけで抱えきれる問題ではありませんよね」
柳先輩は思わず制して、枝野に訊く。
「もちろん、警察だけではなく、あらゆる組織、あらゆる省が遠野のために尽力したようです。裁判も実際に行われてはいなかったんじゃないか、と大胆な発想を綴る週刊誌もありましたよ。架空の裁判だとね」
「架空の裁判・・・」
鳥越は背筋に寒気が走った。現実にそんなことが起きるのかと思うと、恐ろしくて震えてしまう。もしもそれが事実だったとしたら、いよいよ警察や官僚、いや、日本政府の終焉を感じる。
「私は堪らなくなって、刑事部長に直談判したんです。こんなことが許されるのか、黙って見過ごせるのか、と。しかし、あまりにも執拗に問い質したため、私は辞職を迫られました。事件勃発からおよそ一年後、世の中が事件を忘れた頃に、静かに私の刑事人生は終わりました。私と同じように疑問を抱いた刑事たちはいたはずですが、私が警察から消されたのを恐れてか、その疑問は心の中だけで治まってしまったようです」
「そうだったんですか・・・」
枝野のやりきれないもどかしさや、そこから生まれる儚さや怒りが鳥越には伝わってきた。同じ刑事として、感じるものがないわけがなかった。柳先輩だってきっとそうだ。
しかし、鳥越は十五年前が異次元の世界のように感じた。正確にいうと、十五年前の警察、一部の国の背景に感じたのだ。正義を看板に全国の治安の保持を担っている警察が、たかが一つの事件で殺人犯を世に放つとは恐れ入る。今までの歴史の過程で、そういった罪業がいくつも水面下で行われていたのかもしれない。それを考えると警察の存在意義に小首を傾げてしまう。
「それからは、もう脱力しましてね、茨城に引っ込んでからは安穏に生活していますよ。元刑事であることも忘れてね」
「枝野さん。先ほど仰っていましたが、遠野に助太刀していた現職の警察官の名前をご存知ですか」
柳先輩が訊いた。その質問によって挙げられた名前に、鳥越たちは驚愕した。
「まだ忘れられませんよ。國又教史という警部補です」
「ああ、鳥越さん」
國又は覚えてくれていたようだ。まあ、そりゃあそうだろう。しかし、「刑事さん」ではなく、名前で「鳥越さん」と呼んでくれたことに、覚えてくれていたんだ、と特別な想いを抱かせてくれる。だからといって、特に意味はないが。
茨城からとんぼ返りで東京へ戻った。車中、鳥越の同期の幸本に國又教史という人物検索を頼み、國又豪という子がいることを確認すると、鳥越たちは國又のアパートを訪ねていた。再び、十五年前と現在とが一本の糸で結ばれたのだ。
「あなたのお父さん、國又教史さんについて伺いに来ました」
訪問の目的を述べると、國又はついに来たか、とそんなことを彷彿させる表情をした。柳も手応えのある反応だと見切っただろう。
「お茶入れますね」の配慮に「お構いなく」と柳は言った。
「それで、親父のことを聞きたいって、一体どういうことですか」
「あなたの御父様は昔、我々のように警視庁にお勤めでしたね」
「ええ、そうです」
「ある方から、十五年前のある事件を折に退職をされたことを聞きました。それは、今回の被害者遠野嘉政が人を二人殺したという事件です。その遠野が不正投資をしていた疑惑があり、それはある方の証言によって確かなものだと推測されました。その不正投資に現職の警察官が手を貸していたのではないか、という悪い噂があったんです。その警察官というのは、あなたのお父さま、國又教史さんですね」
黙ってしまった國又をみて、「どうしました?」と鳥越は訊いた。すると、いきなり立ち上がり、「ちょっと待ってください」と残して、自室と思われる部屋からノートらしきものを手に持ってきた。
「親父はよく新聞の記事をノートに貼っていたんです。これはそのうちの最後の一冊で十五年前の事件、遠野嘉政という国会議員が裁判にかけられた事件の記事が貼ってあるんです」
國又からそのノートを授かった柳先輩は、指示されたページを開く。確かに十五年魔の事件の新聞記事が大事そうに貼られてある。「遠野国会議員に殺人容疑」や「不正投資の次は人殺しか」など大きな見出しが眼に飛び込んでくる。黄色く変色してしまっている箇所もちらほらあるが、保存状態が良かったのか、傷など全くといっていいほど無かった。
「見ると分りますが、その記事で終わっているんです。その理由は、次のページに書かれています」
言われて、柳先輩はページをめくる。驚いた瞳の柳先輩につられて、鳥越もその文章を黙読してみた。
俺は罪を犯した。遠野に弱みを握られた。遠野のせいで俺も罪人だ。三千万の不正投資は確かに取引された。何故だ。何故あいつは罪に問われない。どうして俺は苦しまなければならない。あいつは将来絶対に不幸の道をゆくだろう。あいつは人間という名の悪魔だ。
二〇〇一年 國又教史
当時の國又教史の苦渋の訴えが、今でも色褪せることなく、そのまま滲んでくるようだった。この文章が本当ならば、不正投資の事実を立証することは難しい、不可能だろうが、その事実が存在したものであることは理解してもらえるのかもしれない。
「このノート、筆跡鑑定のためにお借りしてもよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
國又教史が十五年前に筆で描いた文字くらい捜査資料等から必死で探せば、筆跡鑑定は可能だろう。
「しかし、どうしてこんな大事なものを今まで黙って保管していたんですか。早く警察に届けてるなりしてくれていたら、少なくとも我々二人は助かったんですけど」
「実はこの文章の存在、というかノートの存在に気付いたのが結構最近なんですよ。それも理由の一つですが、大きな訳は他にあります。仮にもしもっと前に発見で来ていたとしても、私は提示しなかったと思います。親父の言うとおり、遠野を罰せなった警察を信用できませんからね。それに、親父の想いの詰まったこの文字を、自分のものだけにしたい、独占みたいな感情生まれたんです。不正投資の助太刀をしたとはいえ、遠野に脅迫されて仕方なく乗っかった船ですから・・・実の父ですから」
刑事の立場からすれば耳の痛い話だったが、一人の人間、親父を持つ子どもの視点からすれば、実父を慕う強い絆が伝わってくるようで、悔しいが内心頷けるものがあった。
「鳥越さん」
急に國又が鳥越のことを呼ぶ。はい、と慌てて返事をすると、國又が突然頭を下げた。
「お願いします。蓮治を助けてください」
「え?どういうことですか」
「・・・それだけ、です」
「はい?」
「蓮治を、助けて欲しいんです」
その後、國又が口を開くことはなかった。
――蓮治を助けて欲しい。
國又のその訴えは鳥越には痛いほど理解ができた。鳥越は國又の頼みを全身全霊、あるいは刑事人生を懸けて受けて起とうと腹を決めた。
それから二人は國又の部屋を出た。
驚くことに、その日のうちに例の文章は國又教史本人のものだということが証明された。日本の警察組織の真骨頂というべきだろうか。それとも、科学捜査の発展の目覚ましさというべきだろうか。両方、ということで鳥越は無難に片付けた。
「先輩」
その日の夜、鳥越の推理は一つの結論を出し、宣誓を示すために柳を呼んだ。
「何だ」
「俺、美吉蓮治を助けます」
3 十月七日 日曜日
――今日どっかで会ってくれない 陽子
そうメールが来たのは何の変わりもない土曜日の朝だった。昨日の喧嘩、いや、それ以上のぶつかり合いになってしまったが、少なからず抵抗や気まずさが胸中に在った。仮に承諾して、いざ会うとなったら、蓮治はどんな顔で陽子と向き合わなければならないのか。そう思うと、すぐに指が動かなかったが、やがて蓮治は内容を仕上がらせて返信ボタンを押した。
豪兄に「行ってきます」と一声かけて、アパートを飛び出した。
二人は皮肉にも、学校近くの公園のベンチで隣り合って座っていた。正午を一時間後に控えた頃のことである。この場所を支持してきたのは陽子の方だ。特に意味はないけど、と前置きがあったから、ここを選んだことに深い理由は無いらしい。
「昨日は、ごめんね」
陽子が先に口を開いた。その色から、本当に悔いているようだった。
「ねえ、正直に言ってくれる。蓮治はさあ・・・ホントに・・・いや、何でもない」
「そう、殺した。人を」
陽子の言い淀んでいる姿が至上の苦しみだったが故に、蓮治はできるだけ冷静にそう言った。
「そっか・・・」
あまり驚いている様子ではなかった。罪深き殺人鬼が隣に座っているという自覚が無いのか、まだ言葉の意味をよく理解していないのか、ともかく蓮治の想定を超えた反応であった。
「でも」言葉を失くした陽子を見るに見かねて、言った。
「陽子と付き合い始めてから、すっごい後悔っていうか、何をしてしまったんだろうって思えちゃって。俺はなんて大バカ者なんだって気付いちゃって。ずっと、毎晩うなされて、苦しくて・・・」
今まで一人で抱え込んできた何もかもを一気に吐いたような、そんな勢いで言葉を並べた。
「最初はさあ、自分の正義が絶対って信じ切っていて、人間じゃないような人間を恨んでさあ、気が付いたら、殺してた。それから、何か手が覚えちゃって、気が狂っちゃって、二人目も殺しちゃ・・・」
「もうやめて!」
陽子が叫んだ。涙が零れていた。
こうなることは、陽子が涙することは分っていた。しかし、自分を一番分ってくれる、自分のことを一番信じてくれる人には、本当のことを知ってほしかった。何かもを共有したかった。
「ごめん・・・でも、本当の事は、陽子にしか話せないと思ったから」
「私さあ、それでも蓮治のこと、嫌いになれないんだよ」
「え?」
「だって、私、蓮治のこと、心の底から好きだから。絶対に嫌いになれないよ。本当に好きな人のこと、簡単に嫌いになれないから」
蓮治は言葉が詰まるほど嬉しかった。今までの苦しみを全て吐いたからか、嬉々たる想いが溢れ返ったのだろう。これほどまでに愛してくれる陽子を裏切るような愚行を実行したことを、改めて、今まで以上に痛感した。自然と目頭が熱くなる。
「ありがとう・・・ありがとう・・・」
それを繰り返す以外の言葉が、蓮治には浮かばなかった。涙も溢れだしてくる。
――俺を慰めてくれて。
――俺の話を聴いてくれて。
――犯罪者だって分っても、俺を責めないでくれて。
――何よりも、俺のことを愛してくれて。
指で涙を拭い、ふと陽子の方を見ると、眼が合った。その後に適応する行動は以心伝心、お互い分り切っていた。徐々に顔を近づけていったが、世の中従順に事が運ばれなかった。生命を賜わなかった機械だから仕方がないが、蓮治の携帯電話がピリリとなり出したのだ。ごめん、と一言残すと、蓮治はスマフォを耳に翳した。
「もしもし」
――蓮治か。俺だ。
「どうしたの、もう少しタイミングっていうものを考えて欲しかったんだけど」
――あ?何かあったの?
「いや、いいから、用件は?」
たとえ自分の人生の十中八九を助太刀してくれた豪兄でも、まさか恋人と口づけを交わそうとしたさなかだったんだけど、なんてこと言えない。
――実は、先ほど例の刑事が来てな、蓮治の行方を訊いてきた。
「そっか。それで?」
――知りませんって言ったよ。本当に知らないから、それ以外言いようがないけどな。
「豪兄には伝えてなかったね。あんまり知られたくなかったから」
――それより、鳥越さんが、午後にでも大横川親水公園で話でもしたいって、誘われたんだけど。これが最後になるって言われた。
「・・・分った。OK出しておいて」
――わかった。じゃあ、連絡しておく。じゃあな。
「あ、豪兄」
――ん?何だ?
「あのさあ・・・今まで、ありがとう」
その言葉に、豪兄は黙ったままでいたが、むしろ何も言ってほしくなかった。まるで幻影の如く目の前に現れたかのように、哀愁溢れる豪兄の姿が思い浮かび、蓮治には彼が何を言いたいのか分る気がした。
それから電話を切って、一つため息をついた。陽子も蓮治の言葉を不審に思ったのか、立ち上がり、ねえ、と恐ろしそうに訊いた。
「まさか、蓮治・・・」
「いつかは来るんだよ。そういう日が、絶対に・・・」
陽子に背中を向けたままそう言った。蓮治、ともう一度陽子が呼んだが、ふと蓮治が空を仰ぎ真っ赤に照る太陽を眺めると、陽子もその眩しい姿に魅せられたのか、歩み寄る足を止めた。そういえば、久しぶりの太陽だった。
連日のぐずついた天気から一変して晴れ渡った空は、覚悟を決めて去りゆく正義の英雄にはすこぶる相応しいと感じた。
宣言通り、蓮治は大横川親水公園に来ていた。既に陽が傾いている頃、鳥越刑事がやってきた。十分ほど待たされたが、気持ちの整理を付けるには十分な時間だった。
「蓮治君、待たせたかい」
まるで待たせていた恋人に言う台詞のようだ。しかし、そんなことで笑ってはいられない。
「一体何なんですか。こんなところに呼び出されて」
蓮治はあえて嫌悪感を強調して言った。鳥越の向こうの空を貫く東京スカイツリーは、いつ見ても荘厳なオーラがびしびしと伝わってくる。あの蒼き塔は日本を象徴する電波塔に相応しかった。
もちろん、何も知らない素振りを装うため、冷然としているわけだが、正直なところ「ついに来たか」と蓮治は覚悟を決めていた。どうしてここに呼ばれたのか、何故最後になるのか、これから想定されることも蓮治は全て承知していた。
少々ためらうような動作を見せながら、鳥越が口を開いた。刑事ドラマにはお決まりの推理タイムが始まるのだろう。
「ここは、十五年前に捜査線上に挙がった公園だ。国会議員の遠野嘉政はここで二人の人間を殺した。一人は峰里大介。もう一人は河辺仁志という会社員だ。そして、十五年の月日が経った先日、その遠野嘉政が殺害され、当時の裁判で遠野の弁護を務めた向田紗江子という弁護士も一週間後殺害された。十五年前の事件と今回の事件は繋がっている。俺たち刑事はそう信じて捜査をしてきた。十五年前に誕生した人間に人は殺せないが、十五年経ったらもう立派な中学生だ。物事の判断がある程度利くようになる。結論から言おう。俺は、今回の一連の事件の犯人は君だと考えている」
鳥越がストレートに言い放った。蓮治は黙ったまま何の反応もせずに佇んでいたが、それに構わず鳥越は話を進める。
「あることをきっかけに君のことを調べることになったんだ。『鋼のメンタル』と称された君の正義感の強さは折り紙つきだった。病室でも話したが、それが凶となり、何度か問題騒動になったこともあった。その正義が遠野嘉政を許せなかったんだろ。十五年前、二人も人を殺したのにもかかわらず、裁判では無罪判決。そのうえ、不正投資の疑惑があったりした。世間誰もが遠野嘉政が犯人だと断言していた。しかし、法は裁いてくれなかった。だったら、自分で罰を下してやる。そう意を決したんだね。
君は九月十六日。何らかの事情を経て、遠野嘉政と出会った。遠野を説得させ、少し会談をするようになり、二人は十五年前の現場、つまりこの公園に来た。そこで、対話するうちに、お互いの意見が平行線のまま、ついに君の怒りが爆発して遠野を蹴り倒した。それでバランスを崩した遠野は階段の角に頭をぶつけて死に至った。
君は人を殺すことに抵抗を感じなくなったのか、第二の殺害も企てた。向田紗江子という当時の裁判の弁護士の自宅まで行き、玄関の扉が開いたところをナイフで一刺し、殺害した。君は気付いていなかっただろうけど、君の姿は防犯カメラにしっかりと映っていたんだよ」
「防犯カメラ?」
「まあ、君だと断定することは難しい映像だったけど、未成年ではないか、と疑うには十分な証拠だった」
被害者の近所に住む浜田のり子という女性がストーカー被害を受けていて、その対策として防犯カメラを設置したらしい。蓮治は自分の迂闊さに呆れかえった。まさかカメラに映っているとは思っていなかった。ある程度防犯カメラの位置は事前に調べていたのだが、個人所有の防犯カメラまでは気が回らなかった。
「十五年前の裁判記録を見たとき、犯人の狙いはこれだと思った。そうしたならば、当時検事だった人間も殺されるのではないか、そう考えた。それも、一週間ごとに殺されていく傾向からみて、九月三十日にその殺人が実行される可能性が高い。しかし、事は起きなかった。この前、調べて分ったよ。君の付き合っている彼女、石井陽子さんの父親が石井恭二郎だったということを。
そのとき、君は大いなる葛藤を抱いたんじゃないか?自らの正義のため、人を二人も殺してきた。しかし、いざ三人目となったとき、その相手が自分の恋人の父親だった。正義を取るべきか、愛を取るべきか。中学生の君に人生最大の選択を迫られたんじゃないか。血の繋がっていない実の父親ではないから、殺してもいいのではないか。だが、少なくとも彼女は悲しむ。だからといって、今まで信じ、貫いてきた自分の正義を捨てることも惜しかった。違うか?」
「さっきから黙って聞いてれば、いろいろ言ってくれてますけど、その推理にはところどころ穴がありますよね。遠野嘉政と出会った理由を、『何らかの事情で』、って曖昧にまとめたり、物的証拠の一つもありませんでしたよね」
せめてもの悪あがきをする。鳥越刑事が全てを把握していることはおおよそだが見当はついている。だが、正義感溢れる英雄は全てが終わったときに、ありのままの身をさらけ出すものだと、苦しい言い訳を心掛けていた。
「では、核心に入るか」
鳥越の眼付がいっそう真剣さを増した。ついに英雄の終焉を告げる鐘がどこかからか聴こえる気がした。
「君も既に知っているかもしれないが、マスコミではある人物が犯人として片付いている。無論、警察がそう公開したからな。その人物とは、河辺浩大。十五年前、遠野に殺された河辺仁志の弟だ。彼がちょうど先週の日曜日に自首してきた。
事情聴取によって語られた河辺浩大の話は一件筋の通ったものだった。遠野が蹴られた際に付いたと思われる腹部の靴跡は二十八センチのサイズだったが、河辺浩大の靴の大きさはそれには届かない二十六センチ。そのうえ、浜田のり子の自宅玄関先に取り付けられた防犯カメラに映っていたのは少年と思われる人間だけだ。彼に犯行は無理だ。
つまり、誰かをかばって自首したことになる。俺の推理上、犯人は君だ。したがって、河辺浩大がかばっている真犯人とは、君だ。
しかし、ここでまたしても謎が生まれる。どうして河辺浩大は君のために罪を被ったのか。俺は一つのとんでもない仮説が生まれた。それは君が二人の人間を殺した本当の動機にも繋がり、河辺浩大が自首してきた謎にも繋がるものだった」
蓮治の心臓は今にでも破裂しそうな勢いで鼓動が高まっていった。冷静になろうと努力すれば努力するほど、高揚していく自分がいた。鳥越刑事の次の言葉によって、それは最高値にまで達したのだ。
「十五年前、遠野に殺されたうちの一人である峰里大介は、君の実の父親なんじゃないか」
4 十月七日 日曜日
鳥越は蓮治の明らかな動揺に気付いていた。動揺している自分をみせないため、鎮静にしようと努めていることも窺えた。
「峰里大介の編集長の藤村という者の話によると、霊安室へ足を運んだのは自分だといった。何故身内じゃなかったのか、峰里には家族がいなかったのか。それは違った。彼には両親は既に他界していたものの、愛する妻がいた。その妻は遠野の事件のさなか、妊娠中でちょうど入院していた。無事子どもが生まれたものの、夫の訃報を訊いた妻は絶大な衝撃を受けた。そのショックから立ち直れず、一年後虚しくも他界した。そのとき誕生したのが美吉蓮治、いや、峰里蓮治だったんだね。両親を亡くした君を引き取ったのは、血の繋がりもない國又豪、今も君と同棲してる國又さんだった。
実の父親を殺した、そして同時に母親も殺した遠野嘉政を君は許せなかったんだね。物心ついたときはまだ理解できなかったのかもしれないけど、だんだんと父母の死について興味が湧いてきたんだろうね。真実を聞いたのは國又さんからか?」
美吉蓮治は小さく黙って肯いた。
「そうか。國又さんも辛かっただろうね。本当のことを伝えるのは・・・話を戻そう。さっきまで俺は正義のための殺人だと言ってきた。しかし、それだけではなかった。いや、むしろそれ以上に大きな動機があった。両親を殺された十五年前の復讐。
では、河辺浩大が君をかばった理由は何か。ここまでくればだいたい想像はつく。どちらが言い出しっぺかはおいといて、まあ、河辺浩大ということにしておこう。河辺浩大は君のアパートを訪ねた。そのとき、國又さんは不在だったんだろう。偶々留守番をしていた君はそこで河辺浩大と出会った。十五年前の被害者の遺族同士、意気投合したんだろうな。そして、話題は復讐の話になっていった。自分の正義からしても、遠野を到底許せなかった君たちは殺害を計画した」
依然として彼は黙っている。西日は刻々と傾いていく。高度が次第に下がっていっているのは彼の狼狽や高鳴りを抑えつけているかにも思えた。
すると、美吉蓮治は何もかもを捨てたように語り出したのだ。刑事ドラマにはお決まりの犯人が泣き崩れ、赤裸々に経緯を明かす時間だろう。しかし、美吉蓮治は泣きもしなければ崩れもしなかった。今みたいなタイミングでも正義の強さが根付いている証拠だろう。
「浩大さんと出会ったのは、夏休みも終わりに近づいてきた頃のことでした。アパートを訪問してきたんです。峰里大介の息子を探していたらしく、十五年前、遠野嘉政に殺された河辺仁志の弟だって自己紹介されて、近くの公園で話をしました。最初は当時のことをなぞるようにして語ってくれました。豪兄からはほんの一部しか話してくれなかったんで、興味深かったんです。浩大さんの苦渋の想いがだんだん伝わってきて、俺の方から復讐しないかって提案してみたんです。もし捕まったとき、君の人生を狂わせることになるって言って、浩大さんは賛成してくれませんでした。そのとき、俺はこう言ったんです。『俺が殺します。もしも、警察が俺の元へ来たら、そのときは自首してくれませんか』って」
「なるほどな。俺が病室を出たあと、君は河辺浩大に連絡したんだね。警察が君のことを疑っているって言ったのか」
「そうです。そしたら、本当に自首してくれて。ニュースで見ました。浩大さんが自首をしたって。事件も終わりを迎えたって・・・」
河辺浩大の美吉蓮治への献身は確かなものだったのだ。それがどんな献身であれ、蓮治は嬉しかったはずだ。
鳥越はまだ訊いておきたいことがあった。疑点はまだ全て晴れたわけではない。
「第一の事件のことだが、君はどういった経緯で遠野嘉政に会うことが出来たんだ?」
「それは・・・浩大さんと、次に遠野と会ったときに実行しようと決めたんです」
「え、どういうことだ?」
思いも寄らぬ返答に、催促して説明を急いだ。
「浩大さんと問題になったのは、どうやって遠野と対面するか、でした。殺害しようにも、遠野と会わなければ実現不可能です。それで、浩大さんに持ちかけたんです。次、どちらかが遠野と会ったら、そのときに実行しようってことを言ったんです。もしかしたら、復讐をせずに終わるかもしれない。でも、そう決めました。まさか、こんな早くに起こるとは夢にも思わなかったですけど。あの日は、浩大さんが偶々遠野を見かけたんです。十五年経ったとはいえ、浩大さんの眼に狂いはありませんでした。それから、俺のところに連絡が来たんです。遠野が見つかったって」
「ってことは、遠野と会ったのはホントに偶然で、遠野を殺したのはその延長線上ってことか」
美吉蓮治はそうです、と心無しに言った。
ということは、十五年前遠野が殺した日と今回遠野が殺された日が一致していたのも、単なる偶然だったということか。それを確認すると、彼は恐ろしいものですよね、と言って苦笑した。
それから、美吉蓮治は遠野と会ったときのことを語り始めた。
*
「遠野さんですよね。遠野嘉政さん」
「誰だ、君は」
「美吉蓮治、正確には、峰里蓮治ですが」
「峰里?・・・」
確実に相手の気を惹いた。「峰里」の名字で反応するということは、すなわち十五年前の事件に大きくかかわった正真正銘遠野嘉政だということだ。
「時間があれば、話をしたいんですが」
それから、二人はタクシーで大横川親水公園へと向かった。車内ではお互い無言だった。生々しい話をしてタクシードライバーに不可解に思われても困る。それに、蓮治からすればそれなりの緊張はあった。隣に座る遠野とやり合うには心を安静にする時間が必要だった。
目的地に着きましたよ、と運転手が言った。意外にも、代金は先方が払ってくれた。
「ここ、覚えていますか。遠野さん、あなたですよね。俺の父親を殺したの」
「君は峰里とかいう記者の息子かね」
「そうです。まあ、父親といっても、俺が生まれる前に死んだから、実際に顔を見たこともありませんけどね」
「そうか・・・」
「どうなんですか。本当は殺したんでしょう」
「まあ、たとえ人を殺していたとしても、私は人間っぽいような気がして、あながち非行とは思えんのだよ」
「はあ?どういうことだよ。人殺すのが人間的ってことか」
「まあ、人にはいろいろあるんだよ。それも大人にはね」
「ふざけた口きいてんじゃねえよ」
蓮治は遠野の胸倉を掴み上げた。怒りがこみ上げてくる。
「君は」遠野が苦しそうに言った。
「君は、老人を労わるということはしないのかね」
「てめえに、言われたかねえよ!」
手を離し、足で遠野の腹を蹴った。グハっという嗚咽と共に、遠野は後方へよろけていった。石に躓いたのか、後ろへと頭から転ぶ。鈍い音がしたかと思うと、遠野は動かなくなった。蓮治は自分が何をしたのか、我に返った。脈を測ると、こいつは死んでいるという事実を実感した。
「ハハ、人間って弱いんだな・・・」
*
「それから君は現場から立ち去った、ということだね」
「そうです・・・でも、それが遠野の運命だったんですよ。因果応報ってやつです。悪行をした者は、それ相応の最期が待っているんです。自分が人を殺したときと同じ日、同じ場所で、自分は人に殺されて死んでいく。十五年も人生を楽しむ時間があったんです。十分すぎる期間があったんです。遠野は満足して殺されていったんだと思いますよ」
蓮治はまだ中学三年生だ。生誕してから十五年しか経っていない。しかし、鳥越には自分よりも長く生きている人間にみえた。いや、自分との信念の強さの差にそう錯覚しているだけなのかもしれない。
そんな鳥越に構わず、蓮治の話は続く。
「一週間後、俺は向田紗江子という弁護士も殺した。自宅に行き、持参したナイフで刺して死に至らせた。遠野を殺して世間の反応は面白いものだった。ネットでは『十五年前の天罰が下った』とか『影のヒーロー』とか、殺人を肯定するような書き込みさえあった。心のどこかで心地良い気分を抱いていたんだと思います」
「しかし、三人目に殺害しようとした相手は石井恭二郎」
「世の中って、本当に怖いものですよね。陽子の父親だったなんて。二人も殺しておいて、人を好きになって、その相手の父親が、自分が次に殺そうとしている張本人で、だけど、自分には絶対の正義がある。この葛藤は、俺を本当に苦しませたんです。
それからは、俺は地獄のような辛さを味わいました。純粋に陽子を好きでいたかった。でも、もう自分は血塗られた仮面を被っている。とんでもないことをしてしまった。罪の意識がそのときになって感じられるようになったんです。でも、その苦しみも、陽子の笑顔で吹き飛ぶように一時的に消えました。
一つ訊いていいですか。十五年前の事件はあんなに世間を騒がしたのに、どうして捜査はすぐに打ち切りになったんですか。それに、今回だって嘘を真実として世間に公開しましたよね。そんなことを警察がしていいんですか?許されることなんですか?」
鳥越は十五年前の不正投資疑惑についてあからさまに説明し始めた。彼には何を話しても良い、そう思えた。
「十五年前、峰里大介、君のお父さんが殺されたのは、遠野の不正投資の疑惑のネタを掴んでいたからだ。それを直接知った遠野は君のお父さんを殺害したんだ。それを偶然にも目撃してしまった河辺仁志も口封じのために殺害された。その不正投資というのが、事実をも捻じ曲げるきっかけになった。遠野嘉政の弟、遠野義雄という人物がいた。遠野義雄は染谷建設という会社の重役を任されていた。財政的に破綻寸前だった染谷建設に遠野が政治資金から不正に投資し、回復を図ったんだ。厄介なのは、その取引に、現役の警察官が絡んでいたことだ。その警察官というのが、君も良く知っている國又豪の父親、國又教史氏だったんだ」
「え?・・・そうだったんですか」
蓮治も驚きを隠せなかった。それはそうだろう。十五年前の事件が好ましくない終盤を迎えた理由に大きく関わっていた人物が、彼の最も身近にいた國又の実父なのだから。
「元々君のお父さんと親しかった訳もあるだろうが、もしかしたら、父親の罪を少しでも償うため、君を引き取ったとも考えられる。
君のお父さんの遺体を霊安室で最初に確認したのは、峰里大介と同じ新聞社の編集長だった。その編集長が言うには、自分が霊安室へ足を運んだあと、若い青年が駆けつけたらしい。その若い青年というのは、おそらく國又豪だろう。
実は昨日、君のアパートを訪ねたんだ。君は留守だったけどね。目的は、十五年前の真実を聞くためだ。そのとき、最後に國又さんから言われたんだ。『蓮治を助けて欲しい』ってね」
「え?」
「國又さんは君の異変に確かに気付いていた。君が人を殺したことも、薄々気付いていたんだと思う。
この現場に城川中学の制服のボタンが落ちていた。それも、九月二十二日土曜日に見つけた。この小さな手掛かりのおかげで、君に辿り着くことができた訳だが、よくよく考えてみると、おかしなことだった。もしも、犯人が落としたものだったとしたら、九月十七日、鑑識課が現場検証したときに発見しているはず。日本の警察において、見落としたこと可能性はゼロに等しい。だったら、いつ誰がボタンを落としたのか。これは、俺の推測だが、このボタンを落としたのは國又さんだと思う。君に正直に罪を償ってほしかった。その想いが、行動になって現れ出たんだと俺は思う」
蓮治は黙ったまま俯いている。それがどんな心境を表しているのかは、到底理解のできるものではないだろうが、一言では言い表せない感情だと鳥越は勝手に決め付けていた。
次に彼が口を開いたのは、そう遅くはなかった。
蓮治の足元からは長い影が伸びている。樹木と高いマンションに囲まれている二人のうち、一人は光に包まれ、もう一人は影に囚われていた。
「刑事さん、正義って何だと思います?」
5 十月七日 日曜日
「正義、かい?」
「十五年前、警察は保身を理由に不正を隠蔽したんでしょう。殺人鬼を社会へ放すことになることにためらいもなく。正義を守ってこそ、貫いてこそに警察でしょう。その警察さえもそのモットーを裏切るようなことをしたんですよ。俺はあんまり知りませんけど、これまでにもそういうことが、警察組織の裏ではあったんでしょう。鑑となるべき警察が、正義の『せ』の字もない行動をしていいんですか・・・。
遠野嘉政という人間を生かしておいて良いはずが絶対に無い。自分の手で不正を実行して、当時の警察官も巻き込んで、挙句の果てに二人の人間を殺して、結局無罪。許せるはずが無いでしょう。俺はこの十五年間、遠野嘉政が殺されなかったことが不思議ですよ。俺や浩大さんのような遺族の人たちなんて、悔やんでも悔やみきれなかった。遠野からすれば、世間の反応は気の毒なものでしたね。自分が殺されて死んだというのに、哀しむ者よりも、喜ぶ者の方が多い。人を殺してはいけないことが正義ならば、世間は正義に反している。
刑事さん、正義って、何だと思います?」
鳥越は思った。これこそが、蓮治が一番訊ねたいことであり、一番他人と討論し合いたい、そして共有し合いたいことだと。でも、彼に力説を述べたところで、特に意味はないことを鳥越は同時に思った。
中学三年生という若い頃から、正義というものを唱える。大人でも難儀なトピックだ。子どもの頃から父母がいない環境の中で育ってきたために生まれた確固たる信念が、彼の胸に根付いているのだ。
しかし、鳥越には真実の正義を貫かなければいけない。一人の刑事として、一人の人間として――。
「どんなに悔いても、どんなに腹が経っても、どんなに憎くても、人を殺していい理由にはならない。人の命と釣り合うものなんて、この世に一つも無いからだ。それは当たり前のことだ。でも、こうして言葉にしないと実感が湧かない。命は金に変えられない。命と引き換えに、そんな駆け引きは卑劣極まりない、人間として一番やってはならないタブーだ。
当たり前に思うことは、どれも雲を掴むように不安定で、掴みどころが無い。だから、理屈では説明できないし、単なる『当たり前』で片付けられてしまう。
正義だって同じことだと思わないか」
「その通りですよ。命と釣り合うものなんてこの世に一つも無い。遠野はその尊い命を、何の罪もない命を二つも奪った。そんな人間を殺していけないんですか?絶対に、おかしいですよ。誰も罰してくれない、だったら俺がやる。勇気ある決断だと思いませんか?」
「勇気ある決断?人を殺す上で、『勇気』なんて言葉を使うのか。とんでもない思考だな」
「誰もやらないんですよ。みんな嫌がってやらないときに、自分がやりますと手を上げる。それって、称賛されるべき行動でしょう?」
鳥越は美吉蓮治との距離を詰め、できるだけ澄ました顔で、そして静かな口調で言った。
「君は、それと同じことを彼女にも言えるのか」
「え?」
今まで威勢の良かった彼が、初めて弱々しい声を漏らした。意表を突かれた、そんな面持ちだ。
「君は、今と同じことを、陽子さんにも面と向かって言えるのか?それ相応の人を殺してもいい。過去に人を殺した人間だから、復讐のため、正義のため殺していい。自分は勇気を出して人を殺した。それは誰もやらないから称賛されるべき行為。全部言えるのか?本気で好きな女性に全てをさらけ出すことができるのか!」
「それは・・・」
彼の眼が憐れな色へと変色した。想像しているのだろう。いや、想像しなくてもそんなことできるはずないと分っていると思う。なおさら惨めに見えてくる。
「蓮治君」
「・・・何ですか」
「君の質問に、ちゃんと答えていなかったね。『正義とは何か?』」
「ああ、はい・・・」
「俺の見解を言っておこう。正義とは個々の想いだ。第一に、一般論として正義は、人の道にかなっていて正しいことを意味する。『人』はこの世にその数だけ存在する。『正しい』というのは、その『人』それぞれによって正しいという基準や価値観が違うため、正しさは人間の数に相応する。人間はいかなるときも感情を持っている。心があるからだ。そのときにものさしとなるのは、今言った『正しさ』。自分の考える『正しさ』だと僕は思う。つまり、正義は人間の感情そのものなんじゃないかな。個人の心の片隅が正義の在り処だよ」
「なるほど。正義の在り処、ですか。まあ、掌じゃ掴めない、理論上でしか存在できないものですからね、正義は・・・分りました。ありがとうございます」
しばらくの沈黙の末、美吉蓮治の瞳が何かを捉えたようだ。鳥越もその視線を辿ると、息を切らして立っている人影があった。西日の光によって、その姿はすぐに判明する。紛れもなく、石井陽子だった。
「俺、ここ来る眼に、陽子に放したんですよ。自分は人を殺したって」
「そうか・・・それでも、追いかけてくれる。君は本当に幸せなんだろうね。少し時間をあげよう。最後に言いたいこと、あるだろう」
すると、蓮治は涙目をしながら、ありがとうございます、小さくそう言った。その言葉には、大罪を犯した者とは思えない純粋な情念と、「正義」の英雄としての剛健な強さが伝わってきた。
*
陽子は一歩一歩蓮治の元へ歩み寄る。再び立ち止まったとき、配慮してくれたのか、鳥越刑事は遠くの方で待ってもらっていることに気付いた。
「陽子・・・」
「どうして、ここに」
「どうしたのじゃないでしょ。だって、蓮治が・・・」
堪えようとしても、涙が溢れてくる。陽子は必死になって指で拭った。
「ごめんな。俺、今本当に後悔してる。いつまでも陽子の隣にいたかった。俺って、バカだよな」
陽子は何も言えなかった。首を横に振るだけだ。
「ねえ」陽子は必死の想いで口を開いた。
「私はどうすればいいの?これからどうすればいいの?」
「俺がいなくても、一人で大丈夫。陽子なら頑張れる。それに、俺とおまえはどんなに離れていても、繋がってるだろ」
蓮治は笑って右手の小指を立てた。照れくさくて、すぐに腰の方に右手を回した。
「どうしてあの日、陽子に会ったんだろうな」
「え?」
「有楽町で会ったじゃん。ずっと考えていたんだけど、やっぱり運命ってあるんだよな。避けては通れない運命が。赤い糸で繋がっていたんだよ、絶対」
「・・・ありがとう」
蓮治が突然抱きしめてきた。温かく、それでいてそして、見つめ合った。蓮治の顔がゆっくりと寄って来たかと思うと、陽子の唇は心地良い感触を味わっていた。熱い情熱的なキスを陽子は唇から感じていた。同時に、瞳から雫が弛みなく零れてくる。そして、重ね合わした二人の唇は次第に離れていった。
「じゃあな・・・」
蓮治はすぐに背を向けて駆けていった。そのときになって初めて、蓮治が遠くへ行ってしまうことを現実のものとして受け入れられた。それ故に、陽子は悲しみの度が越え、全身が震え始めていた。
陽子のファーストキスは殺人鬼とだった。でも、前にも後ろにもこれ以上のキスは無いと思った。もちろん、いろいろな意味で、である。
陽子は三人の姿が見えなくなるまで見つめていた。太陽は変わらず日差しを送りこんでくる。そのとき、陽子はそれが蓮治の最期になるとは全く考えもしなかった。
蓮治と別れた後、陽子は動く気力も失せて、近くのベンチに腰掛けていた。鳥越と共に去っていった「正義」の英雄の姿は、もう二度と眼にすることができないのだろうか。
様々な感情が浮かんだり沈んだり。遊具で遊んでいる子どもの歓声が、蓮治と初めて会ったあの公園を思い出させた。
――俺が取ってきてやるから、待っとけよ。
あのとき、陽子は既に惚れていたのかもしれない。異性の意識は無かっただろうけど、カッコいいとは思ったに違いない。あの鳶色の眼球は、時を経ても忘れなかったのだから、印象の強い出来事だったということは確かだろう。
陽子は走馬灯のように、蓮治との記憶のページが蘇る。
――からかって、蓮治の反応を見て面白がっていたこと。
――夜遅くの電車で、寝ている蓮治の肩にもたれて、自分も寝ちゃったこと。
――蓮治が黄色いハンカチを取り出し、初めて「好きだ」と言われたときのこと。
――陽子の嫉妬から、思いっきり喧嘩したこと。
――そして、蓮治とキスをしたこと。
「走馬灯」という表現は虫の知らせだったのか、電話が鳴った。鳥越からだった。
――え?
陽子は絶句した。思わずスマフォを落とした。それは、蓮治の訃報を知らせる電話に他ならなかったのである。
パトカーに乗せて連行しようとしたところ、蓮治が鳥越を振り払って、走ってくるトラックの前に飛び出したのだという。そこからは想像に難くないだろう。トラックが急ブレーキをかけるが、無論間に合わず、蓮治は数メートル先まで飛ばされた。ほぼ即死に近かったという。三人が確認したときはもう脈は無かった。
そのとき、蓮治は黄色いハンカチを大事に握りしめていたそうだ。そう、運命によって出会った陽子との想い出の品である。