第五章 黒雨の禁忌
1 十月一日 月曜日
翌日、自宅謹慎中の鳥越は柳と近くの小規模な公園で密会していた。木造のベンチに腰を掛けながら、鳥越は必死に耳を傾けていた。現在刑事ではない身である鳥越にも一人の刑事として接してくれるのは、「本当の刑事」を気付かせためだろうか。柳の本心がどうであれ、感謝が込み上げてくる。
柳の話した内容は突飛なもので、一驚に値するものだった。
午後六時頃、つまり鳥越が連絡をもらう一時間前のことである。河辺浩大が最寄りの警察署に姿を現し、自首をしたという。遠野嘉政、向田紗江香が殺害された事件について話したいことがある、と。その後、警視庁へと身柄が移されたとき、柳が隙をみて鳥越に連絡したという。昨日の電話では、これから事情聴取だと焦ってすぐ切られた。それから数時間後、柳から明日詳細を話す、と一報が入ったのである。
河辺浩大の供述は確かに事件に沿った、納得のいくものではあった。
九月十六日の夜、現場近くに用があって歩いていると、現場の大横川親水公園を橋の上から眺めていた。それを目撃した河辺浩大は前にも後にもこんなことはない、千載一遇のチャンスだと思い、声をかけ、自分の素性を明かすと、二人は階段を下った。十五年前の事件について腹を割るよう遠野嘉政に懇願した。一度無罪判決の下った人間を同じ事件、同じ罪で再審は不可能だということはお互い把握していた。しかし、河辺浩大はどんな形であれ、罪を認めて欲しかった。次第に遠野との対立が口論へと発展していき、ついには殺害してしまった。
そしてその一週間後、向田紗江子の自宅を訪ね、ナイフで刺し殺した、と河辺浩大は何のためらいもなく密室部屋で語った。
兄の河辺仁志を絶対に殺害したのにも関わらず、何の罪にも問われなかった遠野嘉政を、十五年間ずっと憎んでいたと河辺浩大はいったらしい。これまでに一度たりとも奴の名前を忘れたことはない、とも。柳先輩と共に河辺浩大の酒屋を訪ねたときにも、同じようなことを言っていた記憶がある。動機はもちろんそれである。
向田紗江子殺害の動機も同様である。向田弁護士が遠野嘉政を無罪という扉へ導き、犯罪者を野放しにしたといっても過言ではない。それを理由に殺害したのだという。
自首しようと腹を決めたのは、罪の重さから抜け出したいという悔恨と反省の一心からだったらしい。本人は素直に罪を受け入れる様子だった。
「だが、一つ問題なのが、具体的な殺害方法、犯行時間は忘れたといって喋らないことだ」
「え?それは、不思議ですね。そこまで罪を認めているのならば、そういった詳細も赤裸々に話せると思うんですが・・・もしかしたら、何か隠しているのかもしれませんよ」
「例えばどんなことだ」
「そうですね・・・誰かをかばっているとか」
「まさかな・・・おまえ、そこで例の中学校の件と繋がらせるんじゃないだろうな」
「え?いや、その・・・」
「そんなこと有り得るわけない」
「有り得るんです」
鳥越は遮るようにして言い放った。それから、今までのことを語った。城川中学の教師をしている恋人結衣から、ピックアップした人物。その人物は学校で正義を看板に問題騒動を起こした生徒、美吉蓮治という少年であること。その蓮治が出場するサッカー大会に昨日、鳥越も観戦しに行ったこと。そこで彼に話を振ったところ、明らかに動揺している姿が見受けられたこと。
「だからといって、直接犯人と結び付けるのはどうかと思うがな」
「しかし、浜田のり子の家宅に設置された防犯カメラには、死亡推定時刻内に河辺浩大らしき人物が被害者の自宅を訪ねた様子はありませんでした。代わりに映っていたのは、少年・・・」
「確かにな、そのうえ、昨日確認したが、河辺浩大が履いていた靴は二十六センチ。遠野嘉政の腹部につけられた足跡は二十八センチ。サイズが合わないってことは・・・」
「犯人は別にいます。つまり、第一の事件も第二の事件も、自首した河辺浩大の犯行は不可能です。彼に二人は殺せない」
「ま、おまえの推理で賛同できるのは、誰かをかばっているってところまでだな」
「でも、俺は絶対美吉蓮治が怪しいと思うんです。まるで死んだ親父があいつを疑え、って言ってる感じがするんです」
ありのままの心情を柳に訴えた。死んだ親父が・・・と言ったくだりも実のところ定かではないが、第六感まがいなものが働いたとき、親父のリードなのかもしれない、とふと感じるときがあった。
「それについてはおいておこう。今はどうすることもできない。それより、最も憂慮すべきなのはこのまま事件が終わる可能性があるということだ」
「え、どういうことですか?」
「河辺浩大が自首したことを利用して、上では早々に片付けるらしい。おそらく、動機も十五年前の事件には一切関係のないものをでっちあげて公表するんだろうな」
「そんな・・・」
鳥越は絶句した。いわば正義の象徴である警察組織が、地位や保身のために事件を隠蔽することが許されるのか。自分もその組織のうちの一人であることに、鳥越は大いなる恥じらいと憤りを覚えた。
「いくら俺らが足掻こうと、もう事件は闇に葬られる。それを寄り戻そうとしたら、次は俺たちの足元が揺らぐからな」
柳先輩のリアルな口調から、ただの冗談で言っているわけではないことを身に沁みて伝わってきた。警察もいわゆる縦社会だ。上位の者に背けば、下位の者は捨てられる。今の御時世、これはどこにでも通用することだ。スクールカーストや院内カーストといった風潮は代表例だろう。このバランスが絶妙な釣り合いを保てる人間こそ、「社会」という戦の場を耐え抜くことができるのだろう。
「でも、先輩の言うとおりのことが起こったとしたら、先日話したことがいよいよ現実味を帯びてきますよね。十五年前の遠野の不正疑惑に警察の人間が絡んでいた疑惑です。それに、当時の染谷建設も一枚噛んでいるかもしれないってことはつまり、遠野が何らの理由で染谷建設へ三千万の不正投資をし、その過程のどこかで警察関係者が援助をした」
「俺も、その件は気になって調べてみたんだ。お前が、自宅に引き籠っている間にな」
「・・・すみません」
バツの悪そうな顔を露骨に見せて小さく呟く。
「ま、それのおかげで染谷建設が遠野と繋がっている可能性が高いことが分った。遠野の弟、義雄っていう奴が染谷建設の重役だった。バブル崩壊から不景気が到来していた当時、染谷建設は設立された。しかし、やはり実績に伸び悩み、金銭的にも危うい事態に立たされていたという。低迷している期間が続いていたが、あるときを境に右肩上がりの成長をみせた。それがちょうど十五年前のことだった。無論、遠野嘉政に不正投資の疑惑、そして殺人の疑いがかけられていた頃だ」
「そうだったんですか。遠野と染谷建設は繋がっていた。だとしたら、河辺仁志と遠野嘉政の二人がお互い面識があったとも考えられますよね」
柳先輩が指を鳴らした。洒落た仕草に鳥越は珍しさを感じた。
「ビンゴだ」
「え?」
「遠野嘉政の弟、義雄が信頼していた人物がまさかの河辺仁志かもしれない情報を得た。もしかしたら、面識があったのかもしれない」
「だとしたら、こうも考えられませんか。河辺仁志は遠野義雄に買われていたとはいえ、不正投資という非行に反対的だった。そのため、峰里大介に情報を垂らし込み、遠野嘉政がマスコミを敵に回し、あわよくば不正投資の一件も露出してくれればと願っていた。しかし、峰里が問い質した末、遠野に殺されてしまい、偶々居合わせた河辺仁志も口封じされた。結局は、三人全員が顔見知りの間柄だった」
柳先輩は黙っている。何か見解を言うのか、鳥越は心待ちにしていると、いきなり立ち上がった。鳥越に背中を向けたまま、咳払いを前置きにこう言った。
「鳥越、成長したな」
その後、柳先輩とは別れた。これからも河辺浩大の取り調べの担当に付くらしい。一方、鳥越はどうしようか迷ったが、目的地を決めた。
柳先輩の去り際の一言は、大きく響いた。成長した、というのはまだまだ認めてはくれていない、ということだが、それでも嬉しかった。
すこぶる快調の鳥越は、蓮治のアパートに向かっていた。住所は結衣に頼んだ。案の定、初めは抵抗を見せたが、粘り強く交渉すると渋々教えてくれた。鳥越が本気で蓮治のことを疑っていることに、結衣は好ましい感情は抱いていないようだ。
来る途中、そこそこ大きな公園があった。まだ小学生にも満たない子どもたちの歓喜の声が、なんとなく緊張をほぐしてくれた。
どうやら二階の部屋のようだ。ところどころ錆びている階段を上り、狙いの部屋の前に辿り着く。表札には國又、美吉と二つの名字が記されていた。インターホンを鳴らすと、まもなくしてドアが少しばかり開いた。現れたのは四十前後の顔立ちに品格のある男だった。
「どちら様ですか?」
「警視庁の鳥越という者です」
警察、と男は顔をしかめて繰り返す。一般市民の珍しくない反応だ。突然警察の人間が訪問してきて、不愉快にならない人間はいないだろう。この男がおそらく國又豪だ。蓮治とずっと一緒に共棲しているらしいが。
「ある事件の捜査をしているのですが、美吉蓮治君って、ご在宅ですか?」
「いえ、学校行ってますけど」
怪我をしたのは昨日だ。大胆に頭を殴打したはずだが、一日で回復して、学校まで行くとはなかなかの度胸と再生力まがいなものがあるのだろう。電話で結衣は「分らない」と答えていたが、まさか登校するとは。彼が不在だからといって、改め直すのももったいない。この國又という男からも話を聞きたかったのも一つの訪問の理由である。
「そうですか・・・あの、少しお話伺えますでしょうか」
「ええ、まあ。玄関先ではあれなんで、中へどうぞ」
お邪魔します、といって中へ入る。大人二人が横に並んだら詰まるのではないだろうか、と思わせるくらいに狭い廊下を案内され、リビングに着くと、視界がパッと広がった気がした。椅子に座るように勧められ、その通りに鳥越は動く。國又は冷たそうなお茶の注がれたコップを二つ持ってきた。
「國又豪さんですよね」
「そうです。調べてから訪ねてきているわけですか」
「ええ、まあ。幼い頃に両親を失った美吉蓮治君にあなたが手を差し伸べたというのは本当でしょうか」
「ええ、そうです。蓮治の父親が亡くなったとき、その父親と親しくしていたわたくしが蓮治を引き取ったんです。普通のサラリーマンで収入もそれほど高くはありませんが、蓮治が自立するまでは面倒を見ると自分自身に誓ったんで」
「親戚などはいなかったんですか。祖父母とかは」
「随分前に死んだらしいですよ。親戚も聞いたことありませんし、いないと思いますよ」
どこか自棄になっている様子の國又だった。
しかし、蓮治に両親も親戚も皆無とは少なからず魂消た。その半面、納得のいくものがあった。國又の助けは確かにあっただろうけど、ほぼ孤立した状態で生き抜いてきた美吉蓮治が、「鋼のメンタル」と称されるほどの強い心の持ち主だからって驚く要素はどこにもない。もしかしたら、両親の死を、自分自身を強くすることで立て直していたのかもしれない。
「あの、不躾な質問で気を悪くしたら謝りますが、ご両親は病死だったのでしょうか」
「は?」
「蓮治君の父母は病魔に侵されて亡くなってしまったのでしょうか」
鳥越の眼が光った。眼が泳いだことを始め、そのとき、國又はもどかしさやためらいといったマイナスの情が心の端から端を走っているに違いない。ただの勘違いではない。鳥越はそこに大いなる意味があると踏んだ。
「そうです。両者、癌に冒されたようで」
「そうでしたか。お悔み申し上げます・・・ところで、この頃蓮治君に変わった様子などございませんでしたか。どんな些細なことでもいいんですが」
「それは、どういう意味ですか」
國又の警戒の色がさらに強まる。蓮治が何かしたのか、と訴えてくるような眼差しが向けられている気がした。
「何かに怯えていたり、横暴になっていたり」
「さあ、家では特に変わりはありませんでしたけど。学校のことは知りません。彼女ができて浮かれてるぐらいじゃないですか」
「陽子さんのことですね」
「おやおや、そんなことも警察は調査するんですか」
「捜査の一環です」
「ま、悪く思わないでおきますよ。そういえば、昔に会ったことがあったみたいですよ、あの二人。何でも、小学生の頃、ほら近くに公園があったでしょう。昔からあそこ憩いの場でね。蓮治と一緒に遊んだ記憶はたくさんあります。ある時期、陽子さんがこの辺に住んでいたらしくてね」
それから國又は、美吉蓮治、石井陽子の恋物語を快く語ってくれた。自宅謹慎中でろくな捜査もできないため、半ば関心はなかったが、その話に深く感動させられた。ロマンチックな言い方をすれば「赤い糸」的な運命を辿る二人が現実に存在するとは、鳥越のような薄情な職務を全うする生き方をしていても、人生捨てたもんじゃないな、と前向きな思考にさせてくれる。同時に、あの二人が最高に幸せ者なんだと、何の由縁もない鳥越でも微笑ましかった。
「では、特に変わった様子はなかったんですね」
「ええ、まあ・・・」
曖昧で非常に如何わしい反応だったが、それ以上口を割ることはないと判断し、すぐに引き上げようとした。玄関の扉を開け、「ああ」と何かを思い出したように鳥越は言った。
「最後に一つ訊いてもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「近頃、蓮治君に制服のボタンの購入などは頼まれなかったでしょうか」
「は?いいえ」
「そうですか。では、失礼します」
背を向けようとしたとき、國又が鳥越のことを呼んだ。
「鳥越さんの目的って何ですか?自分で言って何ですけど、わたくしは割と人が良い方だと思っています。だから、こうしてあなたの話を従順に聞きました。でも、こういうこと望まない、嫌う人の方が、一般社会多いものでしょう。それはともかく、あなたの目的って、追っているものって何ですか?」
今までそのことについて触れずにいてくれたのは幸いだった。このまま何とかやり過ごそうと足早に帰ろうとしたが、帰り際になって訊かれるとは。返答に窮している鳥越に「具合が悪いことなんですか」と配慮してくれた。そして、一番無難な答えに思考が辿り着いた。
「では、蓮治君に訊いてみてください。勝手な推測ですが、多分、彼なら分るはずです」
國又の表情も窺わないまま、逃げるように階段を駆けていった。後ろでバタンとドアの閉まる音を鼓膜が察知すると、鳥越はふりかえって今までいた部屋を一瞥した。
その後、鳥越は蓮治と陽子の思い入れのある場所でもある公園に寄り道した。自販機にコインを入れ、コーヒーを買ってふたを開けると、昨日のことを思い出した。同じように、缶コーヒーを開けていたことを。ふいに陽子の涙と嘆きが脳裡に蘇ってきた。
美吉蓮治と石井陽子。あの二人は運命によって導かれた出会いをした。先ほどの國又から聴いた話をもう一度思い返す。
國又の話によれば、蓮治少年が走っていると、ある女の子とぶつかって、その際にひらひらと川の中へと落ちていった彼女のハンカチを取りに、厳寒の水中へも恐れずに彼は踏み入れていったそうだ。この事実を知ったのも、実のところ蓮治が最近話したからだそうだ。というのも、物置の奥の方にしまってあった通称「宝箱」を開ける機会が、近頃蓮治にあったらしく、そのときに黄色いハンカチが出てきて、その実体を知るため、國又に相談したところ、美吉蓮治の過去の記憶が蘇生したという。当時の國又は、蓮治少年の武勇伝の最後にしか直面しておらず、「ずぶ濡れになった蓮治がいたなあ」「それから、名前が刺しゅうされたハンカチを持っていたんだよなあ」というように、断じて曖昧なことを呟いただけだそうだ。それにしても、文字通り「宝」が出てきたんだから、「宝箱」という呼び名も相応しい。
もしも自分が当時の蓮治の立場だったら、と鳥越は本気で考える。彼のような男前な振る舞いができただろうか。そう考えると、本当に自分が情けなく思えて、大声で叫んで鬱憤を晴らしたくなる。
そのとき、鳥越に降ってくる事実があった。
確か、十五年前の裁判の検察官の名前は・・・。
――石井恭二郎。
まさか、と鳥越の頭の中には新たな線が生まれた。城川中学の生徒と十五年前の事件が一本の糸で繋がれた。すぐさま、柳に連絡をする。
「柳先輩、十五年前の事件の検事、石井恭二郎のことなんですが」
「それがどうした」
「石井恭二郎の家族構成って把握してますか」
「いきなりどうしたんだよ」
「石井恭二郎の娘に陽子という名前の娘がいるはずなんですけど」
「そういえば、確かにいたな。実の娘ではなかったはずだが」
「そうなんですか」
「その陽子っていう娘の母親が一度離婚したあと、もう一度結婚したんだ。その相手が石井恭二郎だったらしい」
「・・・そういえば、まだ殺されていませんね。石井恭二郎。十六日、二十三日。どちらも日曜日でした。ってことは、昨日殺されていてもおかしくはありません」
「ま、河辺浩大が真犯人じゃなかったらの話だがな」
鳥越は柳先を無視して、話を先に進める。
「美吉蓮治の付き合っている女子が、石井陽子って名前なんです。もしも、本当に真犯人が美吉蓮治だとしたら、彼の恋人の父親を殺せるはずがありませんよね。たとえそれが母親の再婚相手だったとしても」
携帯画面の向こうで、柳が黙っている。柳さん、と一度呼ぶと、ふう、とわざとらしいため息が聞こえた。
「そっちの件はお前に任せた。好きにしろ」
「え?」
「俺は俺の捜査をする。なら、おまえはおまえの捜査をしろ」
「・・・はい、分りました」
自由に「捜査」しろと言われたのか、責任は自分で持てということか、見放されたというべきか。とにかく、我が道を行けというメッセージに変わりはない。言われた通り、鳥越は自分の独断で捜査をする。
恋人の父親を死に至らしめることなど、絶対にできるはずがない。しかし、蓮治は迷い、苦しんだはずだ。なぜならば、彼には何をおいても尊重し、優先し、信頼してきた正義が存在するからだ。今まで貫通してきた正義が、「愛の力」で崩れてしまうのだから。彼のような生い立ち、境遇、人柄でなければ、この心情は到底虚王寛できないものだが、鳥越には納得のいくものがあった。そのわけは、彼の素性をしつこく追及しているせいかもしれない。しかし、もっと大きな根拠があった。
それは、鳥越俊一郎と美吉蓮治、この二人の人間が類似しているからに他ならない。時期は違えど両親を亡くしていること、自分を愛し、支えてくれる恋人がいること、まっすぐに突き進むことができる俗にいう「強さ」があること。「彼のような生い立ち、境遇、人柄」の人間に鳥越も当てはまるのではないか。
鳥越は川の方へと足を進めていった。
――ここで二人は出会ったのか。
蓮治の武勇伝はこの川から生まれたものだ。公園に流れる川としてはそこそこ広い川だ。薄暗い青色がゆっくりと流れていく。
蓮治と陽子はお互いがぶつかり合い出会ったわけだが、鳥越だって、中学時代に何の感情も抱かなかったような結衣に、社会人になってから好意を抱き始めたのだから、運命的といえば運命的なのではないだろうか。近頃の恋愛ドラマにでもありそうな話だ。
「運命」といえば、今回の事件において、美吉蓮治に辿り着いたのもそれらしきものに誘われた感じだ。大横川親水公園で遠野が殺された一週間後の土曜日に現場を眺めていたのも、第二の被害者の自宅近くの防犯カメラに映っていたのも紛れもない少年。第一事件現場から発見されたのは、城川中学の制服ボタン。その城川中学の生徒で、自らの正義を大いに信仰している少年とは美吉蓮治。その美吉蓮治の恋人が第三の犠牲者になるかと思われた石井恭二郎の娘。まさに「運命」と称するに適した捜査結果だ。
「制服ボタン、か」
それがネックな課題点だ。夜間に制服を着て人を殺そうとするだろうか。そもそも、警視庁の優秀な鑑識課の人間が重要な証拠品を見落とすわけがない。九月十七日の現場検証の際に、発見されていたはずだ。つまり――。
鳥越は國又の住むアパートの方へ振り向いた。蓮治がこれからどうするのか、どういった道を行くのか、鳥越は一度瞳を閉じた。
次第に明かされていく事件の謎はいつになれば全てが明かされるのか。現在の真実へ続く長い洞窟のどこの地点まで辿り着いたのだろうか。
鳥越はゆっくりと歩み、公園を後にした。背後で揺れる巨木の葉が奏でた切ない音は曇天の空へ静かに轟いていった。
2 十月三日 水曜日
試合での気絶は何だったのか、と思えるような回復で、事情を知らない生徒はいつもの蓮治を見る目のままだった。大会ということもあって、蓮治は未だに微小の疲れがとれていない状況だったが、笑顔で振る舞った。
ハプニングから数日後、いつも通りの平凡な朝を迎えたが、蓮治がドキリとしたのは昼休みのときである。
用事があって、教室のある二階から二階に通じる階段を上っていたのだ。踊り場に差し掛かったとき、二回から駆け下りてくる生徒が視界に入った。そのまますれ違うのが「世」の成り行きだが、そうならないから「世」は面白いし、飽きないのである。良くも悪くも・・・。
きゃ、という甲高い声が耳に入ったかと思うと、その生徒の身体が勢いよく接近してきた。瞬間的に蓮治は腰が引け、両腕が少し開いた状態になった。そして、その生徒は覆いかぶさってきたのだ。いわゆる、蓮治が彼女を抱いた光景になったのだ。突き飛ばそうかと思ったが、蓮治の根っこの優しさがその衝動を抑えて、「だ、大丈夫?」と弱々しい声を出した。
「うん」
「希・・・」
今になって分ったが、顔を見ると、その生徒とは二年のとき同じクラスだった美濃希だった。比較的小顔の希は、ショートヘアーが似合う子だ。その美貌は彼女の一つの武器でもあった。
実は中一のとき、蓮治は希から俗にいうところの告られたのだ。恋愛という概念に深い理解が無かった蓮治は「俺、そういうの、ちょっと無理だから」と、慌てふためいて断った。「それでも・・・」と言う彼女も、その駆け合いが繰り返し行われたら、落ち込んで、泣きそうな眼をして去っていった。そのときの眼は何故か、今でも鮮明に映像としてインプットされていた。脳がこれは忘れてはいけないと、蓮治のためを思って勝手に記憶しているのかもしれない。
「ありがとう、助けてくれて」
希が笑って言った。
「お、おう、怪我しなくてよかった・・・じゃあね」
一刻も早く、想いが先へと急ぐ。「ねえ」と呼び止められる。蓮治が振り返ったことを確認すると、愉快そうに「何でもない」と笑い、ゆっくりと降りていった。
周りを見たが、幸いにも「目撃者」はいないようなのでほっとしたが、希を抱いたという現実に、安堵の時間など無いに等しかった。もし陽子がさっきの光景を目の当たりにしていたら、蓮治はどうしていただろう。どんな言葉を発していただろう。そして、陽子はどんな反応をしていただろう。想像を広げるだけで、快くなかった。
数分階段の途中で硬直していたから、他の生徒が「どうしたんだろう」と、不思議な目を向けていただろうけど、蓮治は全く気に掛けなかった。
その日は希との一件があっただけで、無事に校門を出た。陽子に「委員会だから、先帰ってて」と言われたため、独りで路を歩いていった。陽子は一応学級委員だ。時期が時期になれば忙しい訳だ。中途半端な時間らしく、帰り道、ちらほら数えるほどの人数しか下校している姿は見えなかった。
家に帰った際、昼間に刑事が来たことを豪兄から伝えられたのだが、大して驚かなかったのは豪兄に不信感を与えるかもしれなかった。刑事が来る心当りでもあるのか?と訊かれたが、知らないふりをした。
病室で鳥越が残していった、「今日はこれくらいにしておくよ」という言葉から必然的に結びつくのは、「また来る」という事実だ。それ故、鳥越の来訪には蓮治は驚かなかったが、その事情を知らない豪兄にとっては驚愕の来客だったのかもしれない。
しかし諦めたのか、すぐに問うのは止めた。少し不気味に感じるものがあったが、重く捉えないことにした。
(それにしても――)
明日までの課題を終え、蓮治は胸の前で腕を組んだ。
あの男がどこまで知っているか、それが一番の懸念材料である。初めて会ったのは、既に遠い昔のことのように思えてくる一昨日のことだ。改めてこの事実に驚かせられる。すなわち、この三日間多忙だったということだろう。サッカーの大会はあったし、そこで頭ぶつけて病院に搬送されるし、確かに身体が休みきれていない気がする。
警察が自分に辿りついた過程を知りたかった。どういうルートで辿ってきたのか。何度も事件当日の行動を振り返ってみたが、特に目立った損失はなかった。それよりも、今更のように「恐怖」に戦いていた。今になって、殺人が重大な過ちであることを、自分の内ではタブーだと分っていても、痛感していた。
蓮治は思った。
――もしも、自分がごくごく普通のどこにでもいる中学生だったとしたら、どうだったんだろう。
好きな人がいて、純粋な恋を堪能したいのに、自分には裏の顔があり、それも殺人という血塗られた仮面をかぶっているのだ。
――もしも、純粋に陽子を好きでいられたら、どうだったんだろう。
蓮治の頬に伝わっていくものがあった。それは、顎に着くと、無情にも真っ逆さまに落ちていき、卓上に溜まっていった。必死で拭って、心の昂りを落ち着かせた。
そのとき流した涙が、翌日のとんでもない出来事の予兆だったのかもしれない。もっと警戒するべきだったと、蓮治は明日の今くらいには思っていたのだ。
問題の翌日。昨日の深夜からの雨が引き続き振っており、丸一日傘が必要だと朝の予報は視聴者に伝える。
「蓮治」と声がした。その声の持ち主は浪恵だった。こっちの返答も聞かずに、「ちょっと来て」と、腕を掴まれ廊下に出た。何か、悪事をやらかして廊下に立たされる際、先生が生徒の腕を引っ張る、今ではほとんど見られなくなった情景が浮かんだ。今の浪恵の勢いだと、廊下に立ってろとでも言わんばかりだった。
「どうしたの、そんな怖い顔をして」
「昨日、昼休み。ここまで言えば、当事者なら分るでしょ」
浪恵の言うとおり、当事者なので理解できた。どうして浪恵の耳にも届いているのか。あのとき観ていた人はいなかったはずだ。蓮治から口を開くことなど、絶対にしない。となると、希がペラペラと自ら語ったということか。何にせよ、結果は最悪のパターンである。
「どうして、そんなことしたの」
「いや、だから、あれはあっちが階段で転びそうになって、それを偶々俺が抱くことになっちゃったって話でしょ。意志があってやったわけ有り得ないでしょ。俺には陽子がいるんだし」
俺には陽子がいる――と、言ってから、何か照れくさくなり、はにかんでしまった。
「だって噂によると、希ちゃんと流れで抱き合ったって」
「はあ?だから階段で偶々・・・」
「分った分った」
浪恵は遮った。
「蓮治が不倫したかと思って、私ホントに心配したんだからね。陽子、まだ来てないけど、どうするつもりだったの?」
「どうするって・・・ってか、不倫って意味違うだろ」
不倫は結婚制度から逸脱した男女関係のことだ。しかし、もともとは倫理から外れた、つまり人の道から外れたことが本来の意味らしく、近代では「男女の秘密の関係」という意味が込められているようだが、結婚していない蓮治に不倫という表現は適切ではない。蓮治はそのことを言いたかったのだ。
「いいの、そういうことは。ま、いいわ」
その後、いつもより遅く登校してきた陽子が話題の一件を聞き、浪恵経由で蓮治からの必死の訴えが伝えられた。
「分ってるよ。蓮治はそんなことしないもん」
陽子は心から蓮治の事を信用してくれているようで、素直に嬉しかった。
「人の噂も七十五日」という諺があるが、本当に人の噂はすぐに忘却されるものだ。しかし、日本には「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」という諺もあり、昔の人はよく考えたものだと、「事件」後の蓮治は感心させられたのだ。
事件は放課後のことだった。用があって、五時前まで学校にいた。帰り際、蓮治は教室に忘れた財布を取りに行ったのだ。無人の教室で、もちろん照明はついていなかった。そのうえ、窓の外は音を立てて雨が降っている。シュールな環境だった。
「れーんじ」
聞き覚えのある呑気な声が蓮治を呼んだ。やにわに声がしたので当然驚いたが、何よりも驚いたのはそこに立っているのが、例の小さな騒動を起こした希である。昨日のように微笑していた。
「どうしたの?こんなところで」
「私ね」希は徐々に近寄って来た。距離が一メートルあるかないかまで来たとき、希は衝撃の言葉を口にした。
「私、蓮治のこと好きなんだ」
「え?」
自分の耳を疑った。
(隙間、すき焼き、スキー、スキンヘッド――)
「スキ」から始まるどうでもいいことばかりを心で唱えて、「好き」の二文字を抹殺しようとした。しかし、ただの無駄骨で、消そうと努力すればするほどその二文字がくっきりと色や形を授かったように頭の中に刻まれていく。
「な、何だよ急に・・・」
「蓮治は私のこと好き?」
「俺には・・・」
「陽子がいるって言いたいんでしょう。蓮治、ほんとに陽子のこと好きなの?」
「・・・当たり前だろう」
未だに希の意図が理解できなかった。
「じゃあ、こうしたら?」
(こうしたら?――)
気付いたときには、蓮治の唇は希が支配していた。柔らかく、心地良い感触を覚えた。十五年して初めてのキスである。相手が希であることも忘れ、蓮治は口づけにただ浸った。やっとのこと我に返り、昨日のように突き飛ばしたかったが、何故か身体が動かなかった。まもなくして、希の顔がすっと戻った。
「どう?」
何もなかったように希は訊く。
蓮治は黙ったままだ。唖然としているというのだろう。照明も点いていない無人の教室の真ん中で、蓮治と希は口づけを交わした。その現実が悪い夢であってほしいと願った。
視線を逸らそうと、焦点の定まらないさなか、捉えた人物は何と、陽子だった。
「嘘・・・」
ショックのあまり、持っていた鞄を落としたようだ。陽子は今にでも泣きそうな顔をしている。
どうやら、一部始終を観ていたらしい。蓮治の胸には絶望の二文字が満たしていた。くっそ、と呟いたときに蓮治は床を見た。もう一度頭を起こしたときには、いたはずの陽子の姿はなかった。
「陽子・・・」
蓮治は振り返って希を見た。蓮治の威嚇の眼差しにも屈しない平然とした希がいた。
「ふざけんなよ」
静かな怒りをぶつけ、舌打ちを残して陽子を追いかけた。
「陽子!」
廊下を駆ける陽子は背を向けたままだ。途中、階下から上ってくる生徒にぶつかり、擦り傷を負い、若干ロスしたが、挫けずに追いかけた。玄関で蓮治が靴を急いで履いているとき、陽子が校門を出ていくのが望めた。傘で肩より上は隠れてしまっていたが、彼女の顔色が眼に見えるようだった。外は雨だが、傘を差すよりも追うことを優先した。校門を出てすぐ、降雨の影響で大胆にずっこけてしまった。ほぼ全身が濡れてしまったが、蓮治は追うのを決して止めない。
何度も「陽子」と叫んだ。何度も「待て」と叫んだ。しかし、どんどん小さくなっていく陽子の後ろ姿は、信号の関係で一分も経たないうちに見えないものとなっていた。
仕方なく追跡を諦めた蓮治は肩で息をしていた。その肩を打つ雨はそのまま心臓に達したように、ズサリと胸が痛んだ。傘も持たずにたたずむ蓮治を見て、通行人は何があったのかと、不思議そうな視線を向けていたが、ただただ通り過ぎていくだけだった。
「陽子・・・」
もう一度、そう呟いた。
3 十月五日 金曜日
蜘蛛の子を散らすように、たちまち蓮治の浮気の噂は広まった。その日から蓮治、そして陽子はクラスで浮いた存在になった。席が隣同士というのも、お互い嫌なことだった。会話も皆無に等しく、二人からは恋人という雰囲気が全く窺えないだろう。
わだかまりが残る空気で、一時限目はやってきた。このクラスの担任坂田先生の国語の授業である。風の便りで事情を把握しているのか、坂田先生もいつになく緊張、羞恥心らしき感情が顔に出ていた。口には出さないが、見様によっては面白い。
しかし――蓮治は思った。
世の中、不思議な偶然があるもんだ。全知全能の神がいるならば、その神は絶対に個々によって差別している。蓮治と希のキスシーンに陽子が居合わせていたとは、まるで浮気現場の修羅場を実体験したような気分だ。もっとも、蓮治に意思はなかった、希の一方的な好意だったが。それにしても、ぴったりタイミング良く(悪く)、鉢合わせになったもんだ。無性に人為的な遭遇に思えてくる。
(もしかしたら、本当に誰かが仕組んできたのではないか)
蓮治はふと思った。いや、絶対に違いない、頷く度に自信が湧いてくる。その場合、つまり蓮治と陽子が破局して利益があるのは誰だろうか。一人の名前しか出てこない。口づけを交わした美濃希だ。彼女の蓮治に寄せる好意は、二度もその想いを伝えてきたことからも分るように、その蓮治がいうのも何だが、深いものなのだろう。口づけをせがむほどのものだから確かに違いない。蓮治と陽子の二人を別離させ、蓮治を自分のものにしようという魂胆だったのかもしれない。全く魔女のような女である。そう思うと、彼女の顔が牙の鋭い魔女と重なってくる。
思案に夢中になりすぎて、気が付いたらみんなの眼がこっちを向いていた。
「美吉、聞いてるのか」
坂田先生の声だ。もちろん、聞いていない。一度黒板に目を移したが、ノートに転記した字は一文字も無かった。これが意味することは、授業を全く聴いていないということだ。
「聴いてませんでした」
素直に認めた。そのときのみんなの眼は冷淡なものだった。嘲笑しているかのような表情だった。坂田先生も同じような面持ちだった。
「教科書の六十三ページの三行目から読めって言ってんだ」
「ああ、教科書・・・」
教科書さえも開いていなかったため、坂田先生はすこぶる呆れたようだ。それから一度、蓮治の辿りついた推論「希の野望」について、あれこれ模索するのは中断した。やむを得ず、音読をしたが、蓮治の声は心をそのまま表すかのように、細々とした力のないものだった。
昼休み、いつものように窓を眺めていた。空模様だけでなく、自身の心もパッとしなかった。少ししてから龍也が話しかけてきた。話題は何となく察せた。
「おまえ、どういうつもりなんだ、蓮治」
「どういうつもりって、どういうこと?」
「美濃とかいうやつと、キスを交わして何とも思わないわけ?おまえには・・・」
「陽子がいるよ」
「そうだろ。だったら何で」
他人事のくせに、そう言いたかった。その半面、龍也のそういう友達を想う優しさが蓮治にはありがたかった。
「だから、あれは一方的に希が」
「大事なのは経緯じゃなくて、結果だ」
「結果?」
「そうだよ。結果として、おまえは恋人を傷つけてしまった。それが、一番考慮しなければならないことだろう・・・ところで、陽子に何か声かけたのか」
「え、いや、何も・・・」
「何も?謝るとか、誤解を解くとか、そういう努力もしないで何景色なんか眺めてんだよ」
龍也の事が先輩のように見えた。無性に尊敬しなければ、そんな情に駆られるほど、輝いて見えたのだ。だから、浪恵と今まで良好な関係を継続できていたのかもしれない、と不謹慎にも蓮治は正直に感心した。それに対して自分は正式的にというと言葉がおかしいが、異性と付き合うということをまだ知らなかった蓮治には戸惑うことだらけだ。「普段通り接していればいいのだろうか」「そんなことはない」「だったら、どうすれば」と、蓮治なりにもいろいろと試行錯誤を重ねているのだ。
「龍也、一つ聞いてくれるか」
気を取り直して、蓮治は「希の野望」について話してみた。龍也は聴き終えてから、「なるほどね」と言った。
「でも、それを証明できるのか?おまえの性格からして、そういうことは白黒はっきりしたいんだろう」
「まあね。でも、希望ならある。もしかしたらのことだけどね」
蓮治は一層真剣な顔をして語り始めた。
「あのとき、陽子は鞄を持っていた。それに、普段帰るときに使用している東側の階段側の扉に立っていたんだ。このことから察するに、陽子は帰ろうとしたんじゃないのかな。あいつ昨日は特に用事なかったらしいし」
「そうだとしたら?」
「帰ろうとして、何故か教室に戻ってきた。つまり、その間に何かがあったと思うんだ」
「でも、忘れ物をしたということも考えられるだろう。決して有り得ないことはない。それに、おまえを待っていて、中々降りてこない蓮治を迎えにきたということもあるだろう」
「もちろん、いろいろ考えられる。でも、龍也。もう一度振り返るけど、この仮説は希が実行犯だという仮定が基盤としてあるんだ。だから、今言ったようなことは除外する必要があるんだよ」
「なるほどね」
「俺の推理だと、玄関にメモでも置いてあったんじゃないかな。希が偽って、俺になり済まし、「話があるから教室来て」でも書かれていたと思うんだ。多分、時間も指定して。それで、何の疑いもなく、踵を返したということ」
「でも、今話したことって、全部陽子に確認すれば分ることじゃないの」
「そうだよ。もっといえば、希本人を問い質せば済むことだ。でも、俺は自分の手で確かめたいんだ。おおよそ把握できたら、陽子にも・・・」
そう言って、蓮治は教室を抜け出し、階段を駆け下り、下駄箱へ着いた。龍也も後についてくる。
「自分の眼で確かめたいわけか」
蓮治は陽子の靴入れを観察した。陽子のローファーをどかすと、セロテープの跡があった。まだべとべとしているから新しいものだ。ここにメモが貼ってあったのかもしれない。風や、何かの拍子に飛ばされてしまわないように、セロテープで留めるようなところは、希の用意周到さが認められる。
「これ以上は調査実行が困難だな。今思えば、俺が教室に忘れた財布も希が盗んでおいたものかもしれない」
学校に来たら、いつも鞄の内ポケットにいつもしまっておくのだ。それを忘れるとはどういったことか。今になってはバカバカしく思えてくるが、誰かが知らぬうちに盗んでいたなんて、それこそバカバカしい発想には至らないだろう。
「そいつはおまえら二人を操っていたということか。これからどうするんだ?直接訊くのか」
「謝ることも含めてね」
それからすぐに、昼休みの終わりをチャイムが知らせた。教室に戻ると、蓮治は紙片にペンを走らせると、隣にいる陽子に強調するようにバンと、机に叩きつけた。少々驚いたようだが、その紙片に視線を落とした。
――放課後 話あるから絶対に教室に来いよ
その文字、一つ一つの力強さが蓮治の想いそのものだった。
相変わらず、その後も会話は無だったが、会話無くしても繋がっているようで、先方はどう思っているかは知ったことじゃないが、蓮治は微笑ましかった。
そして迎えた放課後。掃除担当の生徒も仕事が終わると速やかに帰っていき、昨日のような無人の教室が生まれた。昨日同様天気は雨である。陽子ではなく希が現れたら、まるで恐ろしい夢が繰り返されているかのような錯覚を起こすに違いないが、陽子は予告通り現れたから幸いである。
「話って何?」
久しぶりに陽子の声を聞いた気がして、いささか感動を覚えた。
「・・・あれ、昨日のやつ、誤解だから」
「分ってるよ」
即答した。その返答が来るとは想定外だったから、一瞬びくっとした。
「希が蓮治のこと好きだった。それが溢れて行動に出ただけでしょう」
まるで前もって準備していたかのように、淡々と言った。
「だったら、どうして逃げたりなんか」
「分ってよ!」
その声は始めて聞く叫び声で、人がいない教室には非常に響いたが、それ以上に蓮治の心の核を震わせた。天を厚く覆っている灰色の雲も吹き飛ばすのではないか、蓮治は窓に近寄った。
「分ってよ。私の気持ち。私じゃない女の子とキスするなんて、私どう思ってると思う?ねえ、蓮治、答えてよ」
「ごめん、ホントに傷つけたと思う。でも・・・」
「蓮治のせいじゃない。そうだよ、蓮治のせいじゃないよ。全部あの女のせい。私、希が許せないの。蓮治、希をさあ、懲らしめてあげてよ。罰を下してよ。蓮治の正義なら絶対に許せないでしょう」
「陽子・・・」
涙で嘆く陽子が、初めて陽子らしく見えない瞬間だった。笑顔を絶やさない温もり溢れる陽子ではなく、何か悪いものにでも憑依されたのではないか、少し恐ろしくも思えた。
「俺には、できない。罰を下せない」
「どうして?前の蓮治なら、絶対に・・・」
「俺はお前がいるから、自分の正義よりも愛を優先することを学んだ。だから、これからは『正義』を看板に懲らしめるなんてことしない」
「そんな・・・」
陽子はうなだれた。そして、口元を押さえながら崩れた。そのとき蓮治は気付いたのだ。既に、前の自分がいないことを。自らの正義を神聖なものだと崇める「美吉蓮治」ではなく、物の善し悪しを理性的に判別できる一人の人間「美吉蓮治」だったのだ。ぼんやりと意識していたのかもしれないが、言葉として認識したためか、痛いほど実感できた。
陽子から驚愕の言葉が漏れたのは、「もういい」と諦めにも、別れのサインにも捉えられる発言の後だった。
「人、殺してるくせに」
蓮治は全身が凍結したように、ピクリと動けなくなった。「どういう、ことだよ」と、恐る恐る振り返ると、陽子は教室から去っていた。
近くの机に腰を乗せ、しきりに振り続ける雨の色が黒く見えたのは、幻覚が見えるほど動揺していたことに他ならないのである。
陽子の激昂の末、厳粛とした歩みで家に帰ってから、食も進まず、床に就いてからも蓮治は寝付けなかった。
――人、殺してるくせに。
陽子の言葉が、脳の中で幾度となくグルグルと繰り返されていた。反芻できないから、瞼が閉じないのである。もう既に熟知しているということか。蓮治の何もかもを。まず、それ以外考えられない。どうして陽子がそれを知っているのか。頭が働かなかった。ただただ陽子の言葉が、生まれては消えをリピートしているのだ。
「くっそお!」
蓮治は枕を投げつけた。それは怒りではなく、後悔の爆発だった。何故人を殺してしまったのか。正義なんて、後になれば自分を惨めにする材料でしかない。
――正義のせいで、人を殺した。
――正義のせいで、陽子を傷つけた。
――正義のせいで、自分は苦しんだ。
――正義のせいで、俺の人生は・・・。
今まで信じてきた正義がこれほどまで「負」の力に働くとは、悔しいほどに裏切られたような気がして、蓮治は拳を床に叩きつけた。
4 十月五日 金曜日
陽子は泣きながら濡れた家路を踏んでいた。度々つい足に力があって、それによって飛沫が舞い、足にかかった。しかし、悲愴の場面が頭のスクリーンにぱっと映し出されると、それに気がまわらないほど蓮治に意識が集中するのである。
――人、殺してるくせに。
今更だが、取り返しのつかない暴言をぶつけてしまった。さっきは感情の高ぶりから咄嗟に出てしまったのだから、仕方ないで片付けさせてしまうのは蓮治に大変申し訳ないが、仕方ない。
もともと鳥越から、今、世間を騒がせている大事件の犯人が蓮治なのではないか、という推論を聴かせてくれたのは、陽子のことを心から信用してくれたからである。裏切らない保証なんてどこにも無い、「信頼」という抽象的なものを理由に、鳥越は推理を聴かせてくれたのだ。鳥越にもうしろめたさが募ってきた。
もちろん、心の内では蓮治のことが好きだ。堪らないほど好きだ。好きだからこそ、あのように本心をぶつけてしまったということもある。自分の気持ちなんて、誰にも分ってくれない。誰だってそうだろう。正確に読み取れる人なんていないのだ。絶対に微量でも誤差、差違が生じるのだ。「分ってよ。私の気持ち」と叫んだものの、叶わぬ頼みである。でも、分ってほしい。自分を理解してほしい。その想いが前に前にと押し出てくるのだ。
家に着き、自分の部屋の扉を開けるやいなや、それを待っていたかのように机上のスマフォがメロディと共に鳴りだした。慌てて手に取り、指を器用に動かせた。
「もしもし」
相手は浪恵だった。
それから陽子は、母親に断って、浪恵と会っていた。下を川が流れる橋の上である。さっきに比べて雨の勢いは劣化していた。でも両者傘は手放せない。
「どうしたの?こんな時間に」
できる限りの笑顔を作ってみせた。
「大丈夫なの?陽子」
そんなことだろうとは思っていた。蓮治とのこれからを憂慮しているのだろう。
「少し時間経てば、大丈夫だと思うよ。多分・・・」
不安定な解答をした。
「ホントに大丈夫なの?私、友達だから言うけどさ、尋常じゃないと思うよ。蓮治も陽子自身も。本当は今にでも張り裂けそうなくらい苦しんじゃないの?」
陽子は黙った。
――当たり前じゃん。
自分と付き合っている人が違う女と口づけを交わした。その事実が、陽子の心をか細い糸でグルグル巻きにされたように束縛するのだ。太いロープではないから、触れる面積が極小のため余計にその力が強まるのだ。
いっそうのこと、このまま別れてしまおうか。ふと陽子は考える。しかし、本気で好きになってしまった人を易々と手放してしまうのは嫌だ。この苦痛は人生初めて感じたものだった。
その旨を浪恵に伝えると、くるりと振り返り、川の行方を追うように、眼が遠い空の方を向いていた。
「私もね、陽子は知らないかもしれないけど、龍也と大喧嘩したことあるんだよ」
「そうなの。全然聞いたことない」
「小学生の頃の龍也が昔好きだった子とね、偶然鉢合わせになっちゃって、何かそういう雰囲気になっちゃって、それが原因で亀裂が入っちゃって。そのときね、私その彼女に、ものすっごく嫉妬したんだ」
「浪恵が?」
「そう。誰だってそうだよ。自分の好きな人が他の女子と喋っていると、何か悔しいとか思うでしょ。女に限らず、男子もそうだと思う。世界中の誰もが、恋すると嫉妬が後ろからついてくる。そう思わない?」
「そうだね」
浪恵の唱えには説得力があり、本心から頷けた。
「話戻すけど、それから一週間くらいお互い気が引けて会話できなかったんだけど、時間経ったら、それまで通り接していけたから、陽子も待てば大丈夫だよ。喧嘩した後は距離を置くことが一番だって私は思うよ。まあ、私よりもっと苦しんでいると思うけどね。事が事だし」
「私、蓮治に酷いこと言っちゃったんだよね」
「酷いこと?」
(あ――)
言ってから、陽子は「しまった」と思った。無論、酷いこと=蓮治が殺人鬼だと訴えたことだ。浪恵は鳥越の推論を聞いていないから、何のことか分らないはずだ。
「詳しいことは言えないんだけど」
そう言って濁した。
「素直に謝れば」
「謝って済むようなことじゃないの」
どうすればいいのか、陽子は戸惑った。もう既に鳥越を裏切ってしまった。そうしたら、一回も二回も同じことではないか。そう考えると、浪恵に衝撃の話を明かすべきだろうか。
「どうしたの、陽子?」
「驚かないで聞いてくれる」
その陽子の前置きで、浪恵はよっぽど深刻な話だと察したのか、真剣の色が強まった。
「蓮治、人殺しているかもしれないの」
「え?」
場に似合わず、甲高い変な声を発した。
「どういうこと?」
事の深刻さが徐々に伝わってきたのか、浪恵は微動だが震えていた。陽子はサッカー大会の際に居合わせた鳥越という刑事の説明から、その鳥越が事件を追っていて、その犯人がちょうど今話題になっていた蓮治なのではないか、という突飛な一論を説明した。
「そんな・・・」
言葉を失った様子である。無理もないことだ。今まで仲良くしていた同級生が、人を二人も殺した悪魔だったなんて事実を、誰が認めるというのだろうか。浪恵の姿を見ていると、鳥越から始めて聞かされたとき、あまり驚かなかった自分がいたことに対して、陽子は不思議に思った。
「そのこと蓮治には?」
「だから、酷いこと言ったって・・・」
「え!面と向かって『あなたは人を殺した』って言っちゃったの?」
「『人、殺してるくせに』って」
「同じでしょ」
沈黙が流れた。次第に小雨は完全に降ってこなくなり、二人は傘をすぼめた。雨の上がった天を仰いで、その天から授かったように、浪恵がポツリ呟いた。
「今みたいに、ちゃんと雨上がるのかな」
「え、どういうこと?」
「陽子たちのことだよ。陽子たちの今は、どろどろしていてさっきの雨みたい。その雨は上がるのかなあ、そういうこと。今の雨みたいにカラッと晴れてくれればいいんだけどね」
「止まない雨はないって、よく言うでしょ。どんな雨でも・・・」
強気な発言とは逆に、陽子は自信無さそうな口調で言った。それもそのはず、殺人鬼と言う汚名を被った蓮治と陽子の上に在る空は、黒い雲が覆い、ずっと雨が降り続けるそんな気がした。今のところ、希望の日差しが望める兆しは無かった。
「陽子」浪恵の眼が陽子の眼をまっすぐに捉えた。
「大丈夫だよ。陽子の〝陽〟は、太陽の〝陽〟だよ。いつかは照らしてくれるよ」
太陽の〝陽〟か――。
そういえば、母に聞いたことがあった。小学校四年生の頃だった。小四はちょうど十歳だから、「二分の一成人式」という題目で、自分の出生などについて見つめ直すという時間が設けられた。それを機会に母から聞いたのだ。
陽子という名前は亡くなった祖母が名付けてくれたそうだ。たった二文字の名前でも、そこには多数の意味、願いが込められていたのだ。
まず、今浪恵の言った通り、太陽のような子になってほしい。「太陽のような」にも祖母の様々な思いが詰め込まれている。自分が太陽のような存在になり、場を明るくしてくれるように。太陽の周りを回る惑星や無数の星達のように、いざとなればリーダーシップを発揮して、他者を引っ張っていってくれるように。たとえ雲の陰に隠れたとしても、いつかは現れる太陽のように、どんなときも挫けず、自分を信じるように・・・というように多々ある。
「太陽のような」以外にもある。
――「日向」という意から、社会の闇に触れないように。
――祖母が山陽地方出身だったから。
――「陽」は総画十二画。十二支、十二星座、二六時中・・・というように、十二という数字は縁起が良いと思ったから。
これらを総合すると、「名前」に対し、感謝の情が浮かび上がる。名付け親はその人なりの考えを絞りに絞って導き出すのだ。いつかは自分にもそんなときが来るのかもしれない――そう思うと、取らぬ狸の、とは言うが、陽子は形なき温もりを覚える。
それから二人は離別した。最後は、お互い笑顔で手を振ることができた。
「五月晴れ」という言葉がある。時代と共に言葉も変わるとはよく言ったもので、現在は五月の晴れのことをその意味として掲載している国語辞典もあるらしいが、それは誤用で、元々は梅雨と梅雨の間の晴れの事を指す。
梅雨のような長く儚い雨でも、いつしかは晴れることを信じると陽子は決めたのだ。しかし、一瞬晴れて再び長い雨が到来するのではないか。晴れたのは梅雨と梅雨の間のことであって、それからは虚しくも長期間の降雨が待っているのではないか。一抹の不安を抱いたが、信じることに不安は付き物だと、両者は表裏一体の因縁だと合理化して、陽子は深くみないことにした。
天気予報が言うには、明日の土曜日からは連日の雨から脱し、晴れるようだ。その晴天を半信半疑に思いながら、テレビの画面を消した。