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第四章 白線の交わり



   1 九月二十七日 木曜日



仕事も終わり、結衣は校門の前で一度立ち止まった。日がどっぷり暮れ、既に深い藍色の空が広がっていた。街路樹を揺らす冷たい風を頬で感じると、秋も深まってきたことを認めた。

(どうせ、部屋散らかっているんだろうな・・・)

 結衣はため息をついた。

鳥越のマンションのことである。前に訪れたのは二週間前、いや三週間前になるかもしれない。鳥越は片付け下手というか、めんどくさがり屋なのだ。山積みにされた小説が崩れても、卓上の缶ビールが床に転がり落ちても特に気にせずに過ごせる人間なのだ。一つのゴミ屋敷に変貌を遂げているかもしれない。

「行くか」

 結衣は意を決し、いつも行く道とは反対の道を誰かに操られるようにして進み始めた。

 自己管理ができないからといって、それを執拗に責めているわけではない。もちろん、直してほしいけれど、自分の暮らしよりも仕事を優先しているシュンだから、仕方ない、と許していた。事件と向き合うまっすぐな瞳。実際にどんな表情で刑事をやっているのかは想像もつかないけど、その分イメージする度にいろいろな連想がついてくる。

 中学の頃、いじめを受けていた生徒を必死になって守った噂も、他クラスに知らぬ間に流れてきた。常日頃、淫らなこととしょうもないことばかり考えるバカな男子どもの中には、そういう真面目な生徒がいるんだ、と感心していた当時、まさかそんな人間と付き合うなんてこと夢にも思っていなかった。その後、いくらかの付き合いはあったものの、特に特別な感情を抱くようなことは一度たりともなかった。

懐かしいあの頃のシュンが刑事になって、そのシュンと付き合っている――今からすれば、奇跡とも呼べるその繋がりに、結衣は改めて感激した。

 鳥越のマンションに辿り着いたのは、学校を出てから一時間半後のことだった。彼の部屋があるのは三階である。エレベーターで昇っていった。鳥越の暮らしている部屋は1LDKの間取りで、家賃もそう高くない。一人暮らしにはもってこいの部屋だった。

結衣は合い鍵を使って中に入った。

「うわっ!・・・びっくりした」

 結衣は一番先に眼に飛び込んできたのが鳥越であったことに驚愕した。確か、大きな事件を抱えているから家にも帰れなくなるとかメールに記されてあったはずなのに、どうしてその鳥越がここで呑気にテレビなんか点けて眺めているのか・・・。

「ああ、結衣。久しぶりだな。二、三週間ぶり、かな」

 真っ黒なジャージを上下に着こなしているシュンは、力のない笑顔で頭を掻いた。

「いや、そんなことより、どうして。え、仕事は?」

「実は・・・自宅謹慎の処分くらっちゃって」

「はあ?」

「例の大きな事件が一段落するまで、自宅待機ってことになっちゃった」

「なっちゃった、じゃないでしょう。どんなことやらかしたの」

「俺はただ事件を捜査していただけなんだよ。今、話題になっているだろう。遠野嘉政っていう元国会議員が殺された事件。あと、その一週間後に起きた向田紗江子っていう弁護士が殺された事件。あの二つの事件には十五年前のある一大事件が大きく関わっていて、それでただ再捜査をしようとしただけ・・・こんなこと言っても、今更、だよな」

「言ってることは分らないけど、伝えようとしていることは分かる気がする。シュンはただ真実を追及していただけなんでしょ」

「そうだよ。それなのに、上層部は十五年前の事件と今回の事件の全ての真相を闇に葬ろうとしているんだ」

「どうして?」

「やましいことがあるからだよ」

 それから鳥越は、絶対誰にも言うなよ、と釘を刺してから、卓上のリモコンを手に取り、テレビを消すと、これまでの事件の経緯を語り始めた。鳥越の話すことは大体理解できた。結衣だってバカではない。毎日のように教壇に立って、中学生を相手に勉強を教えているのだ。一般教養はしっかりと検査されたし、いつもパソコン相手にしている並みのサラリーマンよりかは頭が鍛えられているはずだ。

 要するに、今回の二つの事件は十五年前の事件と深く密接に関係しており、その十五年前の事件を警察のお偉いさん方は保身のために隠滅した。しかし、鳥越と噂のベテラン刑事の二人は十五年前の事件こそ、今回の事件の真相を明かすには必要だと判断し、遺族や関係者にあたった。その結果、お偉いさん方に捜査陣から外されちゃった、というわけである。

「でも、すぐに処罰下すのかな。警告を一回挿んでもいいと思うんだけど・・・」

「一回忠告はあったんだ。だけど、確かめずにはいられなかった。十五年前の裁判記録を確認しただけなんだ。そうしたら、どっかからか漏れて二度目の刑事部長室行きだよ。即レッドカード退場、だよ」

「そりゃさすがにまずいでしょ」

「それは承知の上だよ。まさかそんなに早くばれるとは思わなかったけどね。多分、ありとあらゆる関係各所に一報入れたんじゃないかな」

 どこか楽しげな鳥越が窺えたことに、少々腹が立ったが、だからといって論点を別のところにおいてまで主張するほど、結衣に活力はなかった。

「だけど、裁判記録見れたから、向田弁護士が十五年前の裁判の被告人遠野の弁護を担当していたことの確認が取れた。つまり、この二週間で十五年前の裁判に関わった人間が二人も殺された。これを偶然では片付けられないだろう。被告人、弁護士、とくれば一般人に思いつくのは少ない」

「検事。もしくは、裁判長とか」

「裁判長は五年前に病死で亡くなっていた。殺しの疑いはないらしいから、おそらく犯人はあと一人を殺す。結衣の言った通り、検事だ。石井恭二郎、当時四十二歳。腕利き検事だ」

「ふーん」

 それを私に教えたことで何にもいいことなんて・・・と、密かに抱いていると、それを見透かしたのか、鳥越がいっそう真剣な顔つきに変わった。

「実は、結衣にこうやって事件のこと赤裸々に話したのには、列記とした理由があるんだ」

「・・・何よ」

「驚かないで聞いてくれ。俺は・・・城川中学の生徒の誰かが二つの事件の犯人じゃないかって疑ってる」

 結衣は一旦頭の中が停止したような気分を覚えた。もう一度、鳥越の今言っていたことを心中で繰り返し唱えて、ゆっくり反芻しようとした。結果、発したのは・・・。

「は?」と素っ頓狂な声が出た。理解不能を伝えるに人間の言語の中で最短の言葉だ。結衣の飲みこみを助けるため、シュンはその見識に至った経緯を詳らかに語ってくれた。

 しかし、シュンの推論は、理解はできても到底納得のいくものではなかった。それは結衣が教育者というのも一つの理由だが、その前に一人の大人としてそんな残酷な推理を鵜呑みにはできない。少なくとも、どんな職業に就こうか、どんな大人になりたいか、どんなことやりたいか、未来には数知れない出来事が待っている未成年、しかも人生を十年とそこらしか歩んでいない中学生が大罪を犯しているかもしれないなんてことを、容易く口にしては欲しくなかった。

 現場に城川中学の制服ボタンが落ちていた。防犯カメラに犯人らしき少年の走り去る姿が映っていたからといって、犯人と決め付けるのは勝手な気がする。

「それで、できたらなんだけど・・・」

「何?」

 少々ご機嫌斜めだということを露骨に表した。

「目星つけておいてくれないかな?普通の中学生がこんな事をするとは俺にも思えない。もしかしたら、人とは少し違った考え方をしている子かもしれない。できれば、生徒の保護者にも一通り目を通してもらえると嬉しいんだけど・・・」

「・・・一応覚えておく。そろそろ私帰るね。部屋もそんなに散らかってないようだし」

「え、泊まっていかないの?」

「そういう気分じゃない」

「何拗ねてんだよ」

「拗ねてないし」

 結衣は立ち上がり、水かけ論を無意味にしながら玄関へと向かった。鳥越は後からついてきて、何かを思い出したように「そうだ」と言った。

「犯人の靴のサイズ、だいたい二十八センチだから、それも参考にしておいて」

「そんな足のでかい中学生なんている?」

「いまどきの中学生は大きい人ならそれくらいだよ。じゃあ、くれぐれもよろしく頼むよ」

 鳥越が台詞を最後まで言い終える前に、結衣は扉の向こうにいた。出て右方向にエレベーターがある。早歩きでそこに着くと、密室の箱が昇ってくるのを待っていた。三階に停まり、音と共にゆっくりと扉が開く。中から現れたのは、厳つい人相のスーツ男だ。会ったことはないと思うが、何故か親近感が湧き、無意識のうちに会釈をしていた。その男はエレベーターを降りると、鳥越の部屋の方へ歩を進めていた。

 今すれ違った男が誰の正体かなんてこと気にも留めず、はあ、とため息を一つ。何か不穏なまま鳥越の部屋を抜け出してきたが、大丈夫だっただろうか。あんまりそういうことを意に介さない性格だから、結衣も結衣で心配の「し」の字の欠片もしていないのだが。

 一階に着き、出口を通り抜けると、結衣はそのまま自宅へと続く道をやおら歩き出した。


       *


――バタン。

 扉を閉められた。

不機嫌なまま部屋を出て行った結衣だが、だからといって深く考えてはいなかった。明日になれば、何事もなかったように何かしらの報告をしてくるであろう。結衣と付き合ってからもう何年も経つ。だからってわけではないが、彼女のことは何となくだが察しがつくのだ。恋人同士音なんて、そんなもんではないだろうか。あれこれ模索するも、何の根拠も持たずにこうだろうと決めつけ、時に空回りしたり、時に傷つけたり・・・。

鳥越は首を左右に激しく振った。どこぞのラブソングの歌詞の一節じゃああるまいし、イタい妄想するロマンチストのアイドルじゃああるまいし、変、とは一概にいえないが、刑事に似合わないことをむやみに掘り下げることはやめた。自宅謹慎中でも、刑事という職業を辞したわけではない。

と、自分が今でも刑事だということを再認識させられるのは結衣が出て行ってから三十秒も経たない頃だった。

呼び鈴が鳴った。結衣が忘れ物でもしたかな、と一度思った。もしかしてやっぱり泊まる、とか甘えに戻ったのかとも思った。そんなことない、と思いつつも心のどこかで期待しながら扉を開けると、思いも寄らぬ人物が待っていた。

「せ、先輩。ど、どうして」

 そこに立っていたのは紛れもなく、顔の厳つさを競い合ったら全国の警察官のトップクラスに君臨するだろう柳だった。勤務中のはずだが、わざわざ鳥越のマンションまで一体何事だろうか。

「上がっていいか?」

「え、ええ。いいですけど」

 柳をリビングに誘導し、お茶でも入れますね、と言ったが、すぐ本庁に戻るからという理由で制された。

「一体、どうしたんですか。こんな夜分に」

「一応、これまでの捜査の報告とお前への注意をな」

「報告と、注意、ですか」

 それから柳はリビングに突っ立ったまま、その報告と注意を話し始めた。

 先日遺体となって発見された向田紗江子弁護士だが、鈴木という秘書によれば、遠野嘉政殺害事件に酷く動揺していたらしい。どうしたんですか、と鈴木が訊ねると、向田は曖昧にその場を濁したらしい。その後の職務も普段とは若干違う、仕事をしていても違うところに気が散っているような、そんな感触を向田弁護士のそばにいて受けたらしい。それから、向田弁護士のデスクの一番下の鍵のかかった引き出しを、被害者の家宅から探しだした鍵で開けてみると、十五年前の事件について記されてあるファイルが発見された。

これらの事実から推測するに、遠野が殺された一報を耳にしたときから、少なからず嫌な予感を抱いていたのではないか。遠野を殺した思い当たる人物を可能な範囲で詮索していたのではないか。そして、もしかしたら犯人は十五年前の裁判で遠野を無罪に導いた自分の存在も抹殺しにくるかもしれないと、大いに恐れ戦いていたのではないか。少なくとも、柳はそう踏んでいるという。

途中、気付いたことだが、柳は向田紗江子が十五年前の裁判の弁護士を務めていたことを把握していた。鳥越が自宅謹慎を命じられることをも恐れずに捕まえた情報だというのに。

 それから、十五年前の被害者のうちの一人、峰里大介の勤めていた新聞社にも立ち寄ったらしい。当時彼の遺体を最初に拝んだという編集長の藤村慎司に話を訊いたらしい。当時の警察からもいろいろと訊かれたらしい。当時の状況に着いて訊いたが、今までの情報と大して変りのないもので、つまりは収穫が無かったということである。「峰里さんの親類は何故遺体確認に伺えなかったのか」という柳の質問に、藤村は「両親はいませんでしたが、妻がいたんです」と答えた。どうやら、峰里の妻は妊娠中で入院しており、峰里の死体に立ち会えることができなかったらしい。子どもが生まれる前に夫を亡くして、そのショックからか妻も死んでしまったという。全く悲劇なもんだ。遠野は河辺浩大、峰里大介だけではなく、峰里の妻も殺したといっても過言ではない。藤村によれば、数時間後、若い青年が霊安室に駆けつけたらしいという情報までしか得ることができなかった。

 刑事部長直々の忠告を受けてから、柳は慎重に捜査しているらしい。峰里の新聞社を訪問した際に、他社の人間だと偽って話を聞いたことからも察するに、かなり慎重になっているらしい。刑事としてあるまじき行為だが、ひたむきに事件を追う熱血な点は感心すべきかもしれない。それでいて、十五年前の事件も掠めながら慎重に捜査しているとは、さすが柳先輩と敬意を表するべきだ。感情的になったら、猪突猛進する鳥越との違いである。そう感じたとき、柳先輩から「おまえは刑事じゃない」と吐きられたことにもおぼろげにだが納得がいった。そういうことなのだろうか、とも一瞬疑ったが、もっと深いメッセージが込められているはずだと、それについて追及するのは一旦中断した。

 これからは慎重に慎重を重ねて、上の顔色を窺いながら捜査することを心掛けるように命じられた。

 用が済むと、柳先輩は風のように去って行った。鳥越はテレビを点けたが、大して面白そうな番組がやっていなかったため、すぐに消して床に就くことにした。

 刑事ではない、無職同然のここ二日、三日のせいで、刑事としての腕も人間としての本能も怠けているような気がした。

何も考えることもできず、消灯して暗闇と化した部屋で独り、鳥越は瞳を閉じた。




   2 九月二十九日 土曜日



――土曜授業なんて、憂鬱だな。

 土曜日に登校する度にそう思っていたのは、先週までだった。だいたい、休日が日曜日だけというのは納得いかない。日頃、勉学に励んでいるし、蓮治にしてみれば運動部に所属しているんだ。日曜日だけでその疲労が完全に解消されるかいうと、決してそんなことはない。それに、これを抱いているのは蓮治だけではないはずだ。半数以上の生徒は絶対に思っている。

 しかし、今はそんなこと思っていない。いや、少し語弊がある。今でも、少しばかりは抱いているけど、陽子の笑顔に吹っ飛ばされるのだ。どんな屈辱を受けても、どんな苦い、辛いことにぶつかっても、どんなに疲れていても、陽子が笑ったら遠い彼方へ消えるかのように、気持ちが晴れていくのだ。無論、今のような関係が成り立ったからである。生活態度の変わり様はこの通りである。

 変わったといえば、陽子と付き合い始めてから、蓮治は遅刻をしていなかった。具体的に理由は説明できない。自分なりに答えを探してみると、無意識のうちに陽子と早く会いたいという想いが行動に出ているのかもしれない。まったく、一週間前の土曜日には、こんなことに頭を使うとは夢にも思わなかった。一寸先は闇とはこういうことである。

 数学、国語、歴史、英語と続き、トントン拍子でホームルームを迎えた。坂田先生の言葉もサラッと聞き流し、「さようなら」の礼をすると更衣室へと向かった。蓮治が急ぐのも、明日は待ちに待った(?)サッカーの試合である。そして、陽子との約束が待っている。渾身の一発を陽子の前で決めなければならない。

――絶対に決めてやる。

 蓮治は靴の紐をギュッと強く結んだ。あの宣誓だけは必ず守る。その一心が、蓮治の身を奮い立たせる。

グラウンドには、既に龍也がアップを始めていた。さすが、何週間前から気合十分のサッカー部部長龍也である。明日に大会を控えた本日が、今までよりも一番真剣なのは言うべきことではない。

「龍也。おまえ、やけに早いな」

「当たり前だろう。明日は、大会だ。いつもより張り切るのは当然だろう。それより、陽子と何やら約束をしたそうだな」

「あ?」

「明日、一本でも渾身のシュートを決める、って」

「ああ、どっから漏れたのかは知らないけど、龍也まで渡っていたか」

「浪恵に決まってんだろう。そういう情報のタネは」

「なるほどね」

 陽子は口が軽いということを、久しぶりに思い返す。蓮治との「約束」も、浪恵にはすらすらと何の抵抗もなく話すのか。蓮治的には二人の間だけの「秘密」ということにしてほしかったのだが。

「約束を交わすのは何の問題もないけど、それで自棄になって焦るんじゃないぞ」

「は?それって、どういう意味?」

 何をいいたいんだ――蓮治の眼には、一瞬だが龍也が「敵」として映った。

「その約束を果たすためむきになって、プレーが疎かになるって意味だ。そりゃあ、恋人の頼み事を一生懸命に叶えてあげたい気持ちは十分分るが、味方も敵に回すように独断でプレーして、相手の思うつぼになったらおまえはどう責任をとる」

「おまえ、それマジで言ってんの?俺がそんな下劣なことする訳ないでしょ。その気になれば一点くらい、どうってことないでしょ」

「どうだかね。事前に言った通り、相手は前大会の準優勝の強豪チームだ。妙に敵視して、おまえのその『鋼のメンタル』が暴走するんじゃないのか?」

「ふざけんじゃねえよ!」

 龍也の胸倉を掴んだ。「鋼のメンタル」が侮辱された気がして、自分のすべてを否定された気分だった。故に、行動へと転換してしまったのだ。

「ほらね。明日もこういう風にならなきゃいいけど」

 その言葉に蓮治の闘争心が度を超えた。舌打ちをして、右手の拳で龍也の頬を殴りつけた。龍也はその場にへたりこむ。苦虫を噛みしめたような顔で、蓮治を睨みつけた。でも、すぐに冷静な表情に戻り、すくすくと立ち上がった。口元に今できた痕が赤くなっていた。

「その勢いじゃ、人殺せるな」

「は?・・・」

 龍也の鋭い眼光に、龍也は身震いした。ちょっと大げさな冗談を言ったつもりだろうけど、瞳の奥には何かが眠っているような、そんな風に蓮治は感じた。事実、その勢いで殺人を犯してしまっているのだから、蓮治からすればずばりと見抜かれたような感覚だった。

 少しの間、この世界に自分一人しかいなく、真っ暗な場所に棒立ちしているような幻覚に、蓮治は囚われていた。

「ちょっと、何してるの」

 突然声がした。それによって「幻」から夢覚めた。二人に向かって駆けてくるのは、四組の担任結衣である。めんどくさいことになりそうだな・・・と、いつもなら変な危惧を抱くが、今はまだ動揺が消えずにいたため、そんないとまもなかった。

「君、美吉君よね。どうして久留嶋君を殴ったの?暴力は良くないでしょう」

「別に・・・」

「ったく、美吉君はいつもそうよね。以前にも指導受けた事あるらしいし。結構先生方の間で有名よ、君」

「ああ、そうですか」

「被害者に訊いた方が良いかな・・・どうして喧嘩になったの?」

 結衣は立ち去ろうとする龍也の背中に訊く。龍也はゆっくり振り返ると、別に大したことありませんから、と言って再び歩き始めようとしたが、その前に結衣が呼び止める。

「久留嶋君が殴られても大したことないって紛らわすのは、私に叱られる時間があるなら、明日のための練習に励みたいから?それとも、ずっと同じサッカー部で心許し合ってる親友同士だから?」

 何だその選択は、と船越の理解不能な発言に毒づいた蓮治だが、一方の龍也は純粋な笑顔を飾って言った。

「その両方です」

 龍也はきっぱりと即答した。これには蓮治も驚かされた。同時に胸に込み上げるものがあった。ついさっき暴力を振るわされても、龍也は蓮治を「心許し合っている親友」であると認めてくれた。変に付け込まれたくないから、自分の爽やかなキャラ像を固定するため、上辺だけ飾った言葉だとしても、拳をぶつけたことに少なからず後悔があった。

「あれでカッコつけてるつもりかしらね」

 結衣が大きな独り言を叫ぶ。それは教師としてさあ、と一応返事をして蓮治は歩き出した。

「ねえ、美吉君」

 蓮治は立ち止まった。

「何ですか?」

「自分を強く信じるのは良いけど、だからといって何でも許されると思ったら大間違いだから・・・あと、大切な人は大切にしてあげてね」

「え、それは、どういう・・・」

 結衣はそのまま黙って去っていった。あの静かめな物言い、そして真剣な顔つきだった結衣は一体何を伝えたかったのだろう。しかし、既に後の祭りだ。深い勘繰りは明日の試合にマイナスになる。

「大切な人、か・・・」

 ふと二階の三年二組の教室の窓を見てみると、陽子と浪恵が楽しそうに話している。陽子が蓮治の視線に気づくと、「練習、頑張ってね」と大声で叫んだ。

「あの、バカ・・・」

 小声で呟く。ぞろぞろとグラウンドに出てきた後輩たちに「先輩、熱いですね」と囃し立てられた。これが想定されたから蓮治は面白く思っていなかったのだ。自分でも頬が紅潮していくのが分かった。でも、「大切な人」からの声援は蓮治の心に強く根付いた。

 いつのまにかユニフォーム姿の選手の数が増しており、全員が揃うと、明日の大会への最終準備に取りかかった。

 空を仰げば、燦然と輝く太陽が眩しい光を送っていた。嘘も偽りもない光を送っていた。


   *


蓮治に叱りをつけてから、結衣は彼の下駄箱の中を覗いた。蓮治の出席番号は事前に控えてきてある。十七番だ。この学校の一クラスの人数は四十人。基本男子女子それぞれ二十人ずつだ。蓮治は頭文字が「み」だから、男子の後半ということになる。

今は部活用のスパイクを履いているから、登下校用の外履きと上履きは下駄箱に入っているはず。案の定、確かに二組の靴が置かれてあった。この学校の規則として、登下校はローファーを履くことになっているのだ。それを取り出し、蓮治の履いているローファーのサイズが二十七センチだということを知る。ちなみに、上履きも同じサイズだった。ローファーと上履きのサイズが二十七センチならば、普段履いているシューズが二十八センチだとしても不思議ではない。

 なんだかんだ言って、鳥越の依頼をこなしているのだ。昨日の仕事終り、ついでに、を理由につけ、鳥越も含めて生徒の情報が詰められた資料を調べていた。

 結衣が蓮治にスポットを当てているのも、鳥越の仮説が正しいということを前提にした場合、城川中学の生徒の中で、足の大きさが二十八センチもあり、高校生くらいとも呼べるほど身長もあり、なおかつ他人とは違った事情を抱えた子は多くない。片手で数えられるほどに絞られるかもしれない。中でも、結衣が真っ先に浮かんできたのは他をおいて、蓮治だった。

これまでの過去三年間に彼が引き起こした問題は確かに数回あった。彼自身が言うには「自らの正義の為」とか言っていたが、それと同じ理由で人を殺したとしても・・・と、自分が恐ろしい推測をしていることに結衣は気付く。

鳥越の部屋で、中学生が殺人という大罪を犯すなんて有り得ない、と強く信じていたが、今となってはどうであろう。一種の捜査ごっこに没頭している。自分が汚れた物の怪のように思えた。自虐的思考に陥ってしまったのも、全ては事件のせいであった。事件を生みだした世の中とも言うべきか。

教師という自分の立場を一度忘れ、結衣は美吉君の情報を探っていた。

蓮治は生まれてすぐに親を失くしており、國又豪という男性とアパートの一室で共生しているらしい。おそらく、この國又のことを父親のように慕っているのだろう。結衣の知ることが可能な範囲は彼の家庭事情に留まる。これだけでも、鳥越に伝えておこう。

学校を出て、結衣は鳥越のマンションへ進路を定めた。調査報告が一つの理由だが、何となく、今日は甘えたかった。

二日前を思い出す。機嫌悪くして扉を閉めた記憶がある。ま、大したことはないだろう、と玄関子機のボタンをゆっくりと押した。

その後、鳥越の部屋で報告を終えると、缶ビールを片手に鳥越が口を開く。

「一回、その美吉蓮治って子に会ってみたいな」

「ホントに疑ってるの?」

「当たり前だよ。最近多いだろ、未成年の犯罪。性犯罪もそうだけど、このごろ未成年の子どもが親を殺したり、同級生を殺したり、強盗図ったり。とんでもない世の中になっているだろう。そんな世の中が、元国会議員、そして現役弁護士の二人をも殺害する中学生を造り出したとしても、何だか納得してこないか?」

「そう言われると、そうも思えるけど・・・一教育者から言わせてもらいますけど、だからといって大した証拠もなく中学生を捜査の対象にするのはいかがなものかと思いますが」

 皮肉を込めて、鳥越に訊ねる。そろそろ酔いが回ってきたのかもしれない。

「人を疑う仕事なんだよ、刑事は。人を疑うことが仕事、そしてそれが宿命だ。それがたとえどんな人物であろうと、対象を外してはならない」

 精悍な顔つきで鳥越はそう言った。渋く、老けた顔に思わず笑い出しそうになったが、堪えて訊く。

「それって、お父さんの言葉?」

「そう。殉職した元刑事の親父の言葉だ」

 そのとき、鳥越は懐かしみにも似た、穏やかな微笑みを浮かべた。深い意味が込められている気がしたが、その正体こそ知らないけど、少し歪んだ形の「愛」が感じられた。

 結衣は突然あることを思い出した。

「あ、そうだ。そういえば、明日、サッカーの試合があるんだけど」

「サッカー?」

「うん。言ってなかったけ。美吉君、サッカー部なの」

「ああ、なるほどね」

「美吉君と話したいんだったら、来れば。一人の観客として」

「急に協力的になったね」

「別に。美吉君には何もないってことをシュンに知ってもらいだけ」

お互いの缶の中身が無くなり、ふう、と同時にため息をついた。どうやら鳥越は明日、蓮治が奮闘する試合を、観戦を口実に捜査に踏み込むらしい。自宅謹慎の処分を下された刑事がそんなことをしていいのかと一応確認してみたが、あくまでも試合観戦ということで貫くらしい。

それからは、およそ一ヶ月ぶりに二人で長い夜を過ごした。やっぱり今日の結衣は甘えたかったのである。



   3 九月三十日 日曜日



 鳥越は玄関先で暇を持て余していた。

「お待たせ」

 結衣が急ぎ足でそう言った。結衣も鳥越と一緒に観戦に行くらしい。仕事の方は休暇を取ったらしい。全くの破天荒な教師だ。それでいいのか、と思わずつっこみを入れてしまいたくなるが、自分も自分である。全くの破天荒な刑事だ。

 鳥越は本庁へ出勤するときと同じ格好でマンションを出た。それには訳があった。いくら自宅謹慎中の刑事とはいえ、プライドを捨てたくはなかった。また、ラフな格好で観戦に行き、接触した際に身なりについて訊かれたら言葉が詰まる。まさか、「今、自宅謹慎中なんだ」なんて胸張って言えるわけがない。それこそプライドを破棄するような行為である。指差され、笑われ、バカにされ、結局何の利もないまま帰ってくるのがオチだろう。

 中学生の大会、ということであまり期待はしていなかったが、それなりに敷地面積の広大な場所をスタジアムとしている。二人は観客席の一番上の列の中央辺りに腰を下ろした。まだ早かったのか、試合はまだ始まっていなかった。そりゃあそうだろう。まだ九時にも満たない時刻だ。それなりに応援する人がいるとはいえ、何の縁もない鳥越は自分が浮いているようで気まずかった。その半面、結衣は勤務する中学校の生徒たちの試合だ。「あれは誰誰君で、あれは・・・」と、片っ端から名前を言えるのだろう。

 少しの間、何もせずにボーっとしていると、視線の片隅に二人の少女がいた。二人とも、少し寒いくらいの今日の天気にはうってつけともいえるファッションをしていた。制服ではないから、中学生かどうか、と判別つかなかったが、すぐにその答えは一声によって導かれた。

「陽子!」

 青いユニフォームを着た少年が観客席の端の方から現れた。陽子、と呼ばれた少女は反応をみせた。もう一人の少女も同様の反応だ。すると、隣の結衣が左手で口元を覆いながら身をよせてきた。

「今、『陽子』って叫んだあの子、あれが美吉蓮治君」

(あいつが、美吉蓮治、か・・・)

 スポーツマンらしい爽やかな笑顔をしているが、その表情の奥には得体の知れない強大なものが在るような気がした。

「で、今、美吉君と話してるあの子が石井陽子さん。美吉君と付き合ってるんだって」

「へえー、もうそんな年頃か。青春を謳歌してるって感じだな」

 確かに、二人の会話している様子は、特別な関係であってもおかしくはない雰囲気だった。するとそこへ、もう一人のユニフォーム姿の少年が現れた。短髪で、男前な顔つきが誇らしくみえる。その少年は美吉蓮治たちの輪の中に入っていった。

「あ、あの子は久留嶋龍也君。久留嶋君は石井さんの隣にいる長髪の女の子、都木浪恵さんって言うんだけど、その子と付き合ってるの」

「え、それは驚きだな。じゃあ、あの四人は全員恋人持ちってことか?」

「まあね」

「っつうか、よく把握してるな。生徒の色恋沙汰なんて軽いもんだろ」

「そんな言い種ないんじゃない。あ、さては、自分の中学時代、モテてなかったから嫉妬してるんでしょう」

「うるせっ!んなわけないだろ」

鳥越が声を張ると、図星ね、と意地悪そうに結衣が笑う。全くこの小悪魔が、と内心毒づく。確かに、中学時代、何の色気もない青春時代であったことは確かだった。真面目、その三文字が似合う、ひねくれていた少年だった。嫉妬というならば、嫉妬なのだろう。

 鳥越の声に驚いたのか、例の四人組が鳥越たちの存在に気付いた。すると、四人は階段を駆けて上ってきた。

「平本先生!」

 陽子は階段の中途で結衣のことを呼んだ。すると、結衣も笑顔になって立ち上がり、劇的な再会とでも言わんばかりに嬉しそうに駆けていった。教師の姿、である。

「平本先生、どうしたんですか?」

「応援に来たのよ、美吉君たちを応援するため」

 陽子の問いに、結衣は素直に答える。

「それはどうも」

 蓮治が照れくさそうに言った。

「あ、もしかして、隣の人、彼氏さんですか?」

都木浪恵が訊く。小声で言ったつもりだろうが、鳥越の耳にはしっかりと届いている。

「うーんと、まあね」

 悩むな、と心の中で憤る。

「へー、結構ハンサムなんですね。いがーい」

「意外って何よ、もう」

 そうだそうだ!意外とは何だ!と、心の中で反抗する一方で、ハンサムと呼ばれたことに快感を抱いていた。

「確か、平本先生の恋人って、刑事って噂があったけど」

 龍也がそう言ったそのとき、鳥越の眼光は蓮治君の表情に向けられていた。確かに動揺をみせた顔を鳥越は見逃さなかった。「刑事」という言葉を鼓膜で感じた瞬間、蓮治の顔は強張り、驚愕の顔色で龍也の方に向けた。声さえ発しなかったものの、鳥越は一つの小さな収穫として得ていた。

「まあ、そうなんだけど」

「えー、ほんとに!」

「現職の刑事さんなんだ」

 女子二人組はすこぶる興味があるようだった。不思議というより、複雑な感覚だったが、それよりも鳥越はこれからどうやって蓮治に話を訊こうか、その手段に迷っていた。しかし、その暇も与えてくれなく、いつのまにか鳥越の眼の前には、活気溢れる女子中学生の姿があった。

「刑事さんは、何しに来たんですか?もしかして何かの事件ですか?」

「え、うん、まあ、ちょっとあってね」

「へえ、何の事件ですか?」

 陽子が好奇心に満ちた瞳を輝かせる。

「君たち、遠野嘉政って人間知ってるかな?」

 蓮治の剣幕が瞬間にして驚愕の色に染まった。手応えは確かに感じた。少なからず、何かを知っている。犯人かどうかは、今のところ定かではないが、事件の核心について知識がある、情報を所有している、鳥越はそう視た。

「あー、確か、過去に裁判がかけられた元国会議員だよね」

「このまえ、殺されたんだろ。ニュースでやってたけど」

浪恵、龍也コンビが顔を見合せながら、確認を取り合う。陽子は蓮治の異変に気づき、彼の顔を静かに見つめている。蓮治は彼女の視線に気づくと、口元を締めて、そっぽを向いた。明らかに動揺している。

「君たち、よく知ってるね。実は、俺はその事件について捜査している身でね。野暮用でちょっとここに来ているんだ」

 嘘にしては、少し苦しいか・・・と、今更のことだが悔いる。だが、誰も怪しんではいないようだ。独りを除いては。無論、蓮治である。険相な面持ちで、なおかつ強さのある眼差しを鳥越に向けて刺しているかのように、激しく伝わってきた。

「おい、蓮治。そろそろ下行かないとまずいんじゃないか?」

「あ、ああ。そうだな」

「美吉君、久留嶋君。頑張ってね」

 結衣は満面の笑みで期待を言葉に込めた。美吉蓮治についての一件を把握しているとはいえ、その発言に浅ましい感情はなかった。

 駆けていく蓮治の後ろ姿を角を曲がり、消えて見えなくなるまでじっと直視した。その後、二人の女子生徒と結衣は小気味よい笑顔と共に前の応援席へと移っていった。彼女らが元々座っていた辺りである。結衣も結衣で、すっかり中学生に馴染んでいた。教師という職業上、思春期の生徒たちと享楽に浸ることは困難なことではないのかもしれない。それとも、思案の邪魔を避けようという配慮なのだろうか。

 何はともあれ、黙考には適した環境へと変わった。彼が去って行ってからというものの、蓮治のあの背中が妙に脳にこびりついていた。

彼は本当に人を殺したのだろうか――と、今まで信じてきた仮説が揺らいだ。理由は簡単である。嬉々とした青春時代を捨ててまで、殺人を実行すると意を決するだろうか、と素直に疑問符が浮かんだためである。彼には陽子という自分を一番に信じてくれる、理解してくれる「恋人」という「存在」と、彼を支えてくれる、彼と一緒に笑い合える「友達」という「存在」がいる。その「存在」を裏切る行いが、彼にとって価値あるべきものだったのだろうか。

遠野嘉政、向田紗江香の二つの事件、そして十五年前の事件を捜査した果てに、美吉蓮治に辿り着いたのは全て状況証拠だ。

――第一の事件の現場に落ちていた城川中学の制服のボタン。

――二十八センチという靴のサイズ。

――事件後に現場を静かに見つめていた小柄な男。

――第二の事件の現場近くの防犯カメラに映っていた少年らしき人物。

 何よりも、制服ボタンが鳥越の心をくすぐった。その原因は予想もできないが、印象強く目に映ったことは胸を張って言えることだ。

 そして、城川中学の全校生徒の中で、結衣の主観に頼った結果、挙げられた名前が美吉蓮治だった。正義という強い信念を理由に、問題騒動を起こしてきたという美吉蓮治の名前が挙げられたのだ。彼が疑わしいという根拠は皆無に等しいが、第六感という異次元の能力が彼を疑っていた。しかし、いざ対面してみると、多少の動揺があったとはいえ、幸せな中学校生活が垣間見え、微笑ましい雰囲気を目の当りにした。それにより、異次元の能力によって導かれた仮説に込められた自信が薄れてきたのだ。

――刑事だって、人間だ。感情を持つのは当然。それによって、迷いが生じる。だから、あらゆる人をとことん疑えば、結果は自然についてくる。証拠はそうやって得るもんだ。

 殉死した親父が疲れた体を癒すため、杯片手に口にしていた記憶がある。

「とことん疑う、か・・・」

 気付かぬ間に時間が過ぎていたらしい。プレイヤーがグラウンドの中央で整列していた。ユニフォームの色からして、美吉蓮治たちのチームはまだのようだが、大会は既に始まっていた。開会式は既に終わっていたらしい。鳥越と結衣が来る前には、終わっていたのだろうか。

 選手たちが四方にばらけていった。やがて、ピー、という甲高い笛の音が青天に昇っていった。



   4 九月三十日 日曜日



「すごーいあの選手」

「今のシュート、すっごいね」

 陽子と浪恵は興奮状態で立ち上がっていた。一方、結衣は静かに戦況をじっと眺めている。一応、教師という立場を壊さないため、ハイにならないように気持ちを抑えているのかもしれないが。

ちょうど今、片方のチームの得点が入ったところである。配置的にフォワードだろうか、一人の選手が豪快なシュートを見事に決めたのである。今行われている試合のチームはどちらとも陽子たちは知らない選手ばっかりだった。しかし、ここまで高揚するとは思わなかった。一言で表すならば、「楽しい」が最も似合う今の陽子だった。

 その後両チーム奮闘するも、結局先ほど得点を得た――陽子たちが感激、唸っていた――チームに勝利の女神は微笑んだ。

 それにしても、よくもああまでして足だけで球を操れるものである。足でボールを上手に蹴ったり運んだりするのは、サッカー経験のない陽子には考えられない。こうして眼の前で走り回る選手たちには感心させられるばかりである。

 ふと、船越先生の恋人の刑事が観客席から抜け出し、階下へ行く姿を捉えた。トイレにでも行くのだろう、と特に気には留めなかった。しかし、先ほどの光景がまだ脳裡に浮かびあがってくる。刑事から「遠野嘉政」という名前が口から零れたとき、明らかに蓮治の様子が奇異だった。それから眼が合ったとき、口元をもごもごさせながらそっぽを向いたことも陽子は気になっていた。

 何か隠し事をしている――陽子はそう踏んだ。それも、とんでもないことのような気がしてならない。盛り上がる心のうちの半分は、蓮治の「隠し事」の件で満たされていた。

「あ、次、龍也たちの試合だよ」

 浪恵の指摘に黙考から覚めた。勝利してほしい一心だったが、ただ勝つだけを願っているわけではなかった。

「蓮治、ちゃんと約束守ってくれるかな」

「約束って何?」

 平本先生が訊いてきた。内緒です、と意地悪そうに笑って見せたが、浪恵がぺらぺらと喋ってしまった。

「観客席で見とけよ。俺が渾身のシュート決めてやるから、だっけ?」

 似せる気もないだろうが、蓮治のつもりで声を低くしてそう言った。携帯電話の形を右手でつくりながら、という見事なおまけつきだ。

「男前だね、美吉君。これじゃあ、石井さんが惚れちゃうのも、無理ないか」

先生、やめてくださいよ、と照れながら言う。紅くなってるー、と浪恵が囃し立ててくれば来るほど、頬に熱が伝わっていくのを自覚した。それでも、陽子は嬉しかったのだ。蓮治を心から好きでいられて。蓮治との関係にからかってくる声も嬉しかった。さっき抱いていた不安も忘れてしまうほどに。

青色のユニフォームを着した選手たちが整列しながら歩いてきた。隣では緑色のユニフォームの敵チームも同じように歩いている。いよいよ蓮治たちの試合が始まる。

陽子は合掌し、真剣な眼つきで両チームが礼するのを見守る。祈りが届きますように、陽子は信じていた。

――蓮治が渾身のシュートを決めてくれるように。

――蓮治の隠し事がただの自分の思い過ごしでありますように。


       *


 ふとした瞬間に恋人のことに気がいってしまうことは仕方が無い。しかし、それ相応、いや、それ以上に例の刑事の存在が懸念材料になっている。今日の観客席は別次元に惹きつけるものが渦巻いているようだ。サッカーに身が入らないことももちろんその対象だが、自分自身のことが一番心配だった。

「どうした、蓮治」

 龍也だ。試合前になって、選手たちの状態には目を光らせているらしい。さすが、キャプテンと称賛すべき行動だ。監視されているような気がして、落ち着かない気分にもなるが。

「別に・・・」

「あの刑事か?」

「え?」

「こんなところに刑事が来るなんてな。何だか知らねえが、おまえが自棄に気になってる様子だから、心配してんだ・・・蓮治、まさか何かやらかしのか?」

 一瞬、心の内を読まれたのかと硬直し、動転したが、恬然とした様子を保ち続けた。

「まさか。ただ・・・」

「ただ?」

「いや、ちょっと気になるだけだよ。本物の刑事なんて見たこと無かったから。レアな経験だろ」

「ま、それならいいんだが。もうすぐ第一戦だ。今は、サッカーに集中しろよ」

「わあってるよ」

 龍也の肩をポンポンと二回叩くと、トイレ行ってくると言って、化粧室へ向かう。用を済ませ、手を洗い、乾燥機で水気を落とすと、廊下に出た。

「蓮治君!」

 背後から声がした。嫌な予感がしたがくるりと振り返る。やはりさっきの刑事だ。名前はまだ聞いていないから、知らない。

「どうも。平本先生の恋人さんですよね、さっき観客席にいた」

「そう。いつも結衣がお世話になってるね」

(結衣・・・そうか、船越先生の下の名は「結衣」というのか)

 蓮治は知らなかった訳ではないが、忘れていたことは認める。というか、お世話になっているのはどちらかといえば我々生徒の側だろう。言葉の綾、といえばそれで済まされるのだが。そういう点が気になってしまうのは、いつものことだが、相手が相手だけに敏感になっているのかもしれない。

「でも、どうして刑事さんがこんなところにいるんですか?・・・そういえば、言ってましたよね。殺人事件の捜査しているって」

「まあね」

「それにしても、こんなところ来て、何か分るんですか?手掛かりになるようなものがあるんですか?」

「ちょっと事情があってね・・・もしかしたら、君が一番分っているのかもしれないけど」

「は?」

 蓮治は心臓を打ち抜かれたような痛みを覚えた。

――この男、まさか・・・。

 拳に力が入って行く。噛み締める力も強まっていく。まさか、俺が人を二人も頃した大罪者だということに勘付いて、ここへ来たのか。光陰矢の如く、蓮治の思考が動き出す。

 何故だ、何故だ、何故だ。何回も心の中で繰り返すが、複雑な迷宮の様にどんどん惑わされるばかりだ。

――どこかに抜け目があったろうか。

――へまをしただろうか。

――ミスがあったのか。

――誰かに見られたのか。

――現場に手掛かりを残していってしまったのか。

 どんどん着想が膨張していく。蓮治!と声がする。龍也の声だった。それにより、入り組む錯綜を解明することから脱したが、迂闊だった。次に鳥越と眼が合ったとき、奥深い意味が込められているだろう眼差しに震えた。「君が一番分っているかもしれないけど」の一言に意図があったかどうかは知らないが、いや、絶対にあっただろう。それによって動揺してしまった蓮治を鳥越は見逃していなかった。

「遅っせーな。何やってんだよ、蓮治」

 どうやらトイレに行ったきりなかなか帰ってこないため、様子を窺いにきたらしい。

「じゃあ、二人とも、試合頑張りなよ」

 鳥越はそう言い残すと、踵を返した。

「あの!」

 何だい?と刑事は振り返り、立ち止まる。

「刑事さん、名前、何て言うの?」

 すると刑事は微笑を浮かべて名乗った。

「警視庁捜査一課、鳥越俊一郎だ」

それから鳥越は観客席へ続く階段の方へと歩いていった。その後、龍也に急かされ、顧問の岡江先生や選手たちの群れに加わった。岡江先生のありがたきお言葉、そして円陣を組むと、蓮治たちは観客席のちょうど真下にあたる通路へ足を運ぶ。そこからグラウンドへと入場するわけだ。

――俺が渾身のシュート決めてやるから。

 陽子との約束はもちろん忘れていない。これを達成するため、できる限り努めるつもりだ。しかし、未だに混乱が治まっていなかった。鳥越刑事が言い放った一言。

――もしかしたら、君が一番分っているのかもしれないけど。

(俺が、一番分っていること・・・)

 あの言葉はどんな意図が込められたものだったのか、蓮治のことを疑っている程度かもしれない。もしかしたら、鳥越は蓮治が殺人犯だということに気づいているのだろうか。

(なぜなんだ・・・)

 それが一番の疑問だった。どうして警察が自分の元へと辿り着いたのか、蓮治がその答えを探すのを拒むかのように、列が進み始めた。

しかし、今は「サッカー少年:美吉蓮治」だ。「殺人鬼:美吉蓮治」ではない。さっきの龍也の言うとおり、サッカーに神経を注ぐべきだ。あまり深く根に持つと、それこそ「約束」が現実のものにならなくなってしまうかもしれない。確かに誓ったのだ。

「見とけよ、陽子・・・」

 そう呟くと、一度唾をごくりとわざとらしく音を鳴らして飲み込み、覚悟を決めた。

 この大会は、一試合三十分ハーフのインターバル十分という無難な時間配分となっている。

 第一試合で白星をあげて、幸先良く二試合目を迎えたい。この大会はいくつかのグループに分かれて行うリーグ戦で、今日の城川中サッカー部は三試合控えている。勝ち進めると、最高で二試合追加されるわけだが、果たして――といった具合だ。

「お願いします」

 声を揃えて、頭を下げる。審判のコインの判定により、我々のボールから始めることになった。蓮治のポジションは昔からフォワードである。いわゆるストライカーだ。背後にキャプテンの龍が位置している。彼はミッドフィルだーのセンターである。これも以前から変わらずだ。

――ピー。

 笛の音がした。すぐさま真後ろにいる龍也にボールを渡し、ボールを落ち着かせると同時に、攻撃態勢を整えた。

まず、右サイドから攻めていく。ワンツーを駆使して、敵をかわしていき、容易く自陣地から見て右側のスペースに走り込めた。しかし、相手も負けずと、そう簡単に得点は許してくれなかった。蓮治の保持していたボールは奪われ、相手側のアタックに変わっていた。

「チッ・・・」

 軽く舌打ちをして、球を略奪された敵選手を追いかける。さすが前大会準優勝チームだけのことはある。ヒョイヒョイとパスを回していき、あっという間にゴール前に辿りついていた。我が城川のキーパーがセーブしたから幸いだったものの、我々は相手チームの力量を認めざるを得なかった。

 強豪チーム相手に城川は踏ん張って、前半終了したとき得点表は「一対一」の同点を示していた。

 お互いの選手はそれぞれのベンチへと歩み寄る。そして、持参の水筒を片手で持ち、ぐびぐびと水分補給をしていた。

 間を計らって岡江先生が口を開いた。

「おまえら、相手は強豪チームだからって少し力入りすぎているんじゃないか。いつものようにプレーしてみろ。それと、小宮山。ナイスゴールだったな。後三十分あるんだ。まだまだ得点できる。一試合目を制覇して、気分よく二試合目行きたいだろう」

 「小宮山」というのは三学年の選手で、「一対一」の城川の「一」を取ったのが小宮山である。フリーキックを得意とする小宮山は、絶好の地点で相手のファールとなり、そこから直接ゴールを決めたというまさに芸術的な得点だったのだ。しかし、その三分後、油断が相手の得点を生んでしまった。分っていながら気が浮いていたのだろう。前回大会準優勝チームから一点奪えたことが、そのまま失点の原因になったのだ。だが、ゴールできた爽快感は並大抵のものではない。「前回大会準優勝」という肩書が無くても、少なくとも油断という悪魔は選手の心に降り立つのだ。

 短時間の休憩が終わり、選手は再びピッチへと戻る。

「蓮治!」

 後ろの方で声がした。振り向くと、観客席で陽子が立っていた。陽子は拳を見せた。「頑張って」という合図だろう。それに答えるようにGOODサインを胸の前で送る。それに微笑した陽子は静かに頷く。同じように蓮治も微笑を浮かべ、背を見せた。

――そうだ、「約束」がある。俺には陽子との「約束」が。

 何日も前に約束したことを、今一度、目を閉じて再確認した。拳を胸に当てて、深呼吸をした。

開始の合図が鳴った。前半開始より、今の方がその音に重みを感じた。後半は相手ボールで始まる。ボールの争奪戦が絶えない。

龍也の分析では、相手は大量得点を武器にしていると言っていたが、チーム城川はその対策を重視してきたので、ラスト十分になった今でも、得点表の「一対一」の数は変化していない。しかし、我々も得点しなければ、勝負は制することができないことは言うまでもない。

試合に大きな変化が見られたのは、それから間もなくのことだった。

キャプテン龍也が左サイドでドリブルしている。

「来るか?・・・」

 蓮治はにやりと笑った。

龍也がゴール前を覗いた。蓮治が奥の右サイドに走り込む姿を捉えたのか、センタリングを上げてきた。蓮治の進む延長線と軌道が重なった。蓮治は自分の勢いに任せる。今まで走ってきた軌跡の全てが自分の背中を押してくれるような実感が湧いた。蓮治の頭に当たった球は方向を変え、枠の中へと吸い込まれていく。

(来たあー!)

 その心の声と同時に蓮治は (あっ・・・) と、恐怖心が込み上げてきた。目の前に縦に長い白い物体が目に飛び込んでくる。反射的に目を瞑ったが、だからといって結果が変わるということはなかった。

 残り時間少ないさなか、栄えあるゴールを決め、歓喜の渦の中、当の本人だけはその声を聞いていなかった。



   5 九月三十日 日曜日



 美吉蓮治は瞼をゆっくりと開けた。

――ん?

 記憶がしっかりしていない。どこかの部屋らしい。一番最初に目に飛び込んできたのは天井だったから、そう思った。次に、嗅覚が臭いをキャッチした。病院特有のツンとくる臭いである。

(病院の一室か・・・)

 では、何故ここに自分は寝ていたんだ。その質問が浮かんできたが、それを考える前に、誰かの顔がぼんやりと眼に入った。一度瞬きをしてから、もう一度ゆっくりと瞳を開けると、その顔の持ち主は紛れもない陽子だった。

「あ、蓮治。気がついた」

 よかったあ、と安心したような声を出した。何故「よかった」のか蓮治には理解に苦しんだが、身体を起こしてからいろいろと訊こうと思った。

「陽子。ど、どうして。ここに・・・ってか、ここってどこだよ」

 身体を起こそうとしたが、ベッドから四十度くらい持ち上げたところで、頭部に激痛が走った。瞬間的に「痛っ!」と、再び横になった。

「まあまあ、今、お医者さん呼んでくるから、横になって待っててね」

 そう言うと、陽子は立ち上がって蓮治の「待てよ」と止める声も聞かずに、さっさと部屋を出て行ってしまった。

「事情くらい話せよ」

 頭を押さえながら言った言葉は、無論誰も聞いてくれない。何もしないよりはいいと思い、どうにか記憶を辿ってみた。

――そうだ、サッカーの大会だ。一試合目後半残り五分前後で、龍也からのセンタリングにヘッドで合わせて・・・。

 扉が開き、陽子と白衣を着た医者と思われる男が入室した。

「美吉蓮治君。頭は大丈夫かな」

 包み込むような優しい男声だった。包容力に満ちたこの医者は、患者からも評判良いに違いない。蓮治は勝手に感想を持った。

「大丈夫・・・ではありませんけど」

「まだ痛みますか」

「ええ、まあ・・・」

「蓮治、覚えてる?龍也のボールに合わせてヘディングしたら、そのままゴールポストに頭ぶつけちゃって、気失っちゃったみたいで、ここに来たんだよ」

 陽子に成り行きを説明された。

「まあ、特に重く考えることはないよ。痛みは次第に挽いてくるだろうし、もう少し横になっていたら、退院していいよ。保護者の方には一報入れておいたから。大した怪我じゃないから、仕事が終わったら来るそうだよ」

 そう言い残して、医者は一礼し病室から立ち去った。

 豪兄は定刻通りに職場を出れるのならば、八時前にはここへ着くだろう。それまでは暇を持て余すことになるのか。

「大丈夫?私、このあと、用事あるからあんまりここにいられないんだけど・・・」

 用事がある・・・そうか、できればここにいてほしいんだけど・・と甘えたい気持ちが込み上げてきたが、それと同時に窓から差す木漏れ日が既に夕陽の色だと気付く。室内はオレンジに染まっていた。

「ちょっと待って、今何時?」

「今、四時半過ぎ、だけど」

「試合どうなったの?」

 そうだ、あの後試合はどうなったのか。一番気になることだ。

「蓮治の渾身のシュートはちゃんと決まったよ」

「マジ!よかったあ」

 安心した。素直に安堵の息が漏れた。胸を撫で下ろす。あのシュートが決まったということは、つまり陽子との約束が果たされたということに繋がる。しかし、陽子の笑顔が若干憐れみを帯びているように感じた。どうしたの?と訊く。

「一試合目は蓮治の得点で勝てたんだけど、その後、蓮治がいなくなっちゃったから、残りの二試合負けちゃった」

「そうか・・・」

 しばらく沈黙が続く。はっきりとは言わなかったが、つまり今大会も敗退した訳だ。頭を強打して気を失ったことは仕方ないといえば仕方ないが、自分があのときゴールポストに突っ込んでいかなかったら、残りの二試合も勝機があったかもしれない。

「でも、約束果たせたから、それは褒めてよな」

「分ってるよ。すごいと思った。さすが蓮治」

「ありがと・・・」

 称賛されたのに、あまり嬉しくなかった。やはり、どんどん勝ち進めて、願わくば優勝したかった。またしても会話は途切れ、沈黙が流れる。

「ごめんな」

 蓮治は謝ることしかできなかった。目頭が熱くなり、悔恨の涙が零れるのを必死でこらえた。陽子が蓮治の手を握る。柔らかな感触で、温もりを感じさせる優しい手だった。

「大丈夫だよ。大丈夫。蓮治はしっかりとチームに貢献できたんだから」

 陽子の言葉には魅せられた。深みのある一つの一つの言葉達が、蓮治の傷を癒してくれるような気がした。ありがとう、蓮治は何回もそう呟いた。

カーテンの隙間から少しだけ望める景色を眺めた。もう陽は暮れているようだ。

「帰らなくていいの?」

「あ、そうだった。ついつい・・・じゃあね」

 名残惜しそうに立ち上がった。

 陽子と入れ違いで、現れたのは結衣と鳥越だ。蓮治は妙な緊張感が背中を走った。

「美吉君、大丈夫。大事にならなくてよかったけど」

「ええ、お陰さまで。何とか・・・」

「でも、美吉君は幸せね」

「え?」

「だって、石井さんみたいな存在がそばにいてくれているんだよ。お互いを好きでいられる存在、支え合える存在、信じ合える存在。その存在を中学生のうちから知ることができた美吉君は幸せ者だなって意味」

「ああ、それはどうも・・・」

 蓮治は有耶無耶に礼を言ったが、今の結衣の言葉は、蓮治の心の核に響く「何か」があった。恋人という存在がどれほど大切か、蓮治にはおぼろげだが実感できた気がした。

「それじゃあ、私、ちょっと用事あるから。美吉君、お大事にね。明日も学校あるけど、無理しないように」

「はい。ありがとうございました」

 結衣はそのまま退室したが、問題のもう一人の方はまだ留まるようだ。無論、鳥越である。こうして鳥越と二人きりというシチュエーションを思い浮かべると、どこかの古い映画くさい匂いがした。

「とんだ災難だったね」

「前振りはいいですから、御用件を御話し下さい。思うより疲れているので」

 蓮治はできるだけ冷めた口調で言った。

「昨日、君が龍也君と喧嘩になったんだってね。結衣から聞いたよ。君のことをいろいろと聞いたよ。そうしたら、君は興味深い性格の持ち主らしいことが分かった。『鋼のメンタル』と巷で称されるほどの気位の高さは、時に抑えきれずに爆発し、思いも寄らぬ愚行に迸ることもある」

 蓮治は黙って聞いていたが、いきなり何を語っているんだと苛立った。しかし、覚悟はあった。これからの鳥骨子刑事の口から出る話が想定できる気がした。

「紺野忠嗣君。中一の時に、君の制服のボタンが引きちぎられ、それによって喧嘩が勃発した。森口洸太君。今、君と同じクラスメートらしいね。中二の時ちょっとした遊び心で足をかけて、君は転び、運悪く机の端に頭を打ったことに怒りを覚え、喧嘩になり、結果森口君は君の手によって歯が一本折れた。前端圭人君。今年に入ってのこと。君の勘違いが原因で彼を殴ってしまった。他にも、君の正義により発生した事件は、あと数件・・・」

「もう、やめろ!」

 蓮治は怒鳴った。意識的にではないが、その拍子に身体を起こしてしまった。微かに痛みが走る頭を抱えながら、ゆっくりともう一度横たわる。 

「もう思い出すだけで嫌になんだよ!変なこと思い出させるな・・・思い出させないでください」

 憤怒のあまり、ため口になってしまった。森口のことにしても、前橋のことにしても、蓮治に非があるわけではないない。しかし、不快である出来事に変わりはない。

「今も、僕が君のクラスメートだったりしたら、君の身体が万全だったとしたら、君は僕を殴っていたはずだよ」

「だからって何ですか?自分が自分を信じることって悪いことですか?自分の正義を貫くことって悪いことですか?」

「確かに、自分を信じることも正義を貫くことも、大切なことだ。でも、度を越したら途端に悪になってしまうんだよ」

 蓮治は黙った。「度を越したら」の「度」とは何を基準にしているのか。鳥越の言うように、殴ったり傷つけたりすることだろうか。それとも、人を殺めることだろうか。その謎は解かれぬまま、鳥越刑事は「そろそろ帰ろうかな」と言いだした。

「帰るんですか?」

「君が言ったんじゃないか。思うより疲れているんだろう。今日はこれくらいにしておくよ」

「ってことは、また来るってことですよね」

 鳥越刑事は何も言わぬまま、退室していった。

 蓮治は瞳を閉じた。両手を首にまわし、掌を枕にした。

 どうして蓮治は、自分に白羽の矢が立ったのか謎だった。何度も何度もこの二週間の一部始終を思い出しては、どこかに手抜かりがあっただろうか、と自分なりに探りを入れてみたが、定期テストを解き終えた後見直しをしても、大概ケアレスミスに気づかないように、どこにもしくじりは見つからなかった。

 瞳をゆっくりと開ける。病室の天井の小さな模様がまず最初に眼に入る。眩しい夕陽の日差しに照らされながら、蓮治は意を固めた。

 これから真正の正義を「矛」とする警察と、自分の正義を「盾」にする殺人鬼との壮絶な戦火が繰り広げられるのだろう。フィクションのネタにっするのには面白いだろうが、現実では一大事件である。

 一時休戦を告げた鳥越刑事の去りゆく背中が消えて少ししてから、蓮治は携帯を手にした。


       *


 相手が誰であろうと、患者と長く会談をするのは精神的ダメージを与ええるだろうと憂慮し、鳥越は美吉蓮治のいる病室から去ったわけだが、出て左の方向へ歩き出そうとしたそのとき、一人の人影が視界の端で掠った気がした。その正体を求めるべく、振り返ってみると、壁に寄りかかっていた陽子と眼が合った。

「あれ、用事があるから、帰ったんじゃなかったのかい?」

 陽子は少しの間、何も言わず、やがて物寂しげな口調で口を開く。

「それは、蓮治と刑事さんが話す機会をつくるための口実です。予定なんて、最初からありません」

「想い人さえ騙すほど、俺と蓮治君を合わせたかったのかい?」

「・・・ええ、まあ」

「どういった理由で?」

「歩きながら話しましょう」

ここだと声が美吉蓮治に届くだろう、という彼女の見解を鳥越は暗黙の了解で察知した。既に、彼女がまだ帰っていなかった事実は、彼の耳には届いていたかもしれないが。

 二人は病院を出た。近くの自動販売機が眼に入り、布川は陽子に缶ジュースを奢ってあげた。自分は缶コーヒーを選んだ。パカッという音と共に缶コーヒーの飲み口が姿を現した。一口飲むと、さっきの話の続きだけど、と決まり悪そうに言う。

「俺と蓮治君を会わせた本当の理由って、一体何?」

「・・・何でしょうね」

 陽子は匙を投げるように呟いた。

「は?」

「いえ、私にもよく分らないんです。でも、心のどこかで何かを感じていたんだと思います。理由なんて特には・・・」

 病室の前という環境的に具合が悪かったので答えに窮したと、そう感じ取った鳥越は、期待しすぎたせいか、特に理由なんてないという解答に肩を落とした。

「どうして、刑事さんは蓮治と接触するんですか。今日、言ってましたよね。遠野嘉政の事件がどうとかこうとか。刑事さんがその事件について捜査しているってことも言いました。蓮治が何かしたんですか。蓮治がその事件に関わっているんですか。そこまで蓮治を追及するのはどうしてなんですか?」

 彼女の透き通ったような瞳が鳥越の顔をじっと見つめる。一瞬困惑したが、一度咳払いをすると、鳥越は視線の先を虚空へと向ける。

「君には全てを話した方がよさそうだな。今後どういう展開になったとしても、君のことは信じられる気がする」

 鳥越は「本当に良いのだろうか」「この先後悔などしないだろうか」と、心の中では大いに不安を抱いていたが、今更撤回できない。もしかしたら、刑事の首が飛ぶかもしれない。それでも、蓮治の恋人の彼女には全てを知ってもらうべきだと、鳥越は覚悟を決めた。

 二つの事件、いや、十五年前の事件を含めると三つの事件の概略から、今までの捜査結果、そして城川中学に辿り着いた経緯を事細かに語った。時折彼女の顔が難しい色を示したが、全体の流れは理解してくれたようだ。

「それで、船越先生から一際目立つ蓮治の存在を訊いた訳ですか」

「一際目立つ存在、か」

「だってっそうでしょう。確かに悪いのは蓮治じゃなくて相手の方かもしれませんけど、だからといって正義を看板に暴力を振るうことはだめだと思います。自分の正義を心から崇拝しているように人ですから、蓮治は」

「でも、そのプライドに魅力を感じ、君は淡い恋心を寄せたんだろう」

 彼女は頷いた。

「ええ、そうです。不思議ですよね」

「そんなことない。人間って不可思議の塊の様なものだ。理屈通りに動く方が、ロボットみたいに誰かに操られているんじゃないか、俺はそう思う。人間の心理に置いてはなおさらのことだね」

「鳥越さんって面白いこと言うんですね。恋も感情ですもんね。不思議であって何の問題もない」

「そういうことだ」

 鳥越は微笑ましい表情をした。その後、二人の間に沈黙が流れる。ヒュルルと鳴いている風を頬に感じると、無性に切ない気分に駆られる。人間の真意について唱えていたからなのか、無性に湧いた切なさは無情感へと変貌した。

「話を戻すけど、君の意見を訊いてもいいかい」

「私の?」

「蓮治君が一番心を許しているであろう君の考えを訊きたいんだ。君の前で言うのも勇気のいることだけど、今のところ俺は美吉蓮治、彼こそが犯人なのではないかと思ってる。さっきの彼の動揺ぶりは君も証明してくるだろう」

「蓮治が・・・だったとして、動機は何ですか。刑事さんからのお話からしたら、動機は十五年前まで遡るようですけど、もちろん私たちは生まれていても零歳ですよ」

 だんだんと涙声になって行く様子は、鳥越の心を大いに痛めた。強がっているようだけど、弱さが滲み出ている。しかし、真実へ辿り着く過程である。眼を瞑って冷静を装わなければならない。

――動機。

それは一つの大問題だった。彼女の言うとおり、遠野嘉政が裁判にかけられた十五年前というと、たとえこの世に生を預かっていたとしても、蓮治は泣くのが仕事の赤ん坊だった。つまり、動機が十五年前にあるとしたならば、蓮治は何らかの事情を経て過去の事件を知った。遠野嘉政が犯人にだと断言してやまない代わりに、十五年の時を経て正義の鉄槌を下そうとした。もしかしたら、その時点では殺意はなかったのかもしれない。ただ問い詰めて、罪を認めさせようとしただけなのかもしれない。しかし、お互いの主張がやがて口論となり、揉めることになり、結果として遠野を死に至らせてしまった。

この旨を石井陽子に語り明かしてた。

「正義の殺人、ですか」

「まあ、そういうことになるけど。このストーリーならば、彼が適役だとは思わないか?」

「そうかもしれません。でも、正義なんて殺人という大罪の意識から逃避するための建前ですよね。殺人が正義正当化されるはずが無い!」

 陽子の溢れる想いと涙の嘆きは鳥越の身を振るわせた。同時に冷風が吹き、地面を叩きつけてからどこかへ流れていった。

「俺も同意見だ。ごもっともな意見だけど、それを当の本人に言って欲しかったな」

 陽子の脳裡には彼に対して言えるのだろうか、と疑念がよぎったに違いない。俯いている彼女を見て、鳥越はそう感じた。

 場の空気には似つかわしくない、明るい着信音が流れる。彼女は提げていた鞄から携帯を取り出し、耳にあてた。どうやら彼女の母親の様である。気がつけば、ついつい長話になってしまい、腕時計の針は七時になろうかとしていた。

「・・・すぐ帰る」

 そう言って、彼女は通信を切った。

「ごめんなさい。もう、帰らなきゃ」

「こちらこそ変な長話を聞かせちゃって、すまなかった。彼――蓮治君には今の話、するつもりかい?」

「私に、そんな度胸があると思いますか」

 それだけ言って、陽子は早歩きで暗くなった路を進んでいった。

――本当にこれで良かったか。

 鳥越は口をへの字に曲げた。捜査情報を一般人に勝手に漏らし、物的証拠もない推理をあからさまに披露した。現職の、それも警視庁の刑事がこんな非行をしてはならない、過ちであることは重々承知していた。

「正義のための殺人、か・・・」

 鳥越は闇の中で包まれながら、そう呟く。それが本当の動機なのだろうか、鳥越は深く考え込まされた。

――正義か・・・彼は何と唱えるのだろう。

 懐中で振動音が響く。画面を見ると「柳先輩」とある。一体何の用だろうか、思い当たる節がない鳥越は何の気なしに、「もしもし」と言った。

「事件が進展した」

「え?」

「河辺浩大が自首をした」



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