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第三章 追憶のハンカチ



   1 九月二十二日 土曜日



 午後四時からの捜査会議が始まる。現時刻は三時五十分。鳥越と柳の二人は早々と席に着いている。

事件発生からおよそ一週間が経った。特に進展はない現状だ。今回の事件の背景には十五年前の事件が必ず潜んでいる。それにいち早く気付いた鳥越たちはゴールへの駒を多く進めたつもりだ。捜査組織全体が本格的に過去の事件を洗い直せていたならば、もっと違う未来が描かれていたのかもしれない。

――いや、違う。

 鳥越は深く考えてみた。いち早く気付いたのは確かに鳥越たちかもしれない。しかし、組織の上層部は、鳥越が疑い始めた頃には既に気付いていたのではないか。もっと言うならば、遠野嘉政が殺されたという事実が発覚したとき、十五年前の事件が脳裡に蘇ったのではないか。警視総監をはじめ、警視監、警視長、あるいは警察庁のごく限られた人間、警察庁長官、次長、局長も把握していたのではないか。何せ、元国会議員が殺人の罪に問われたのだから、容易く忘却するはずはない。けれども、過去の事件の再捜査を試みないのは、よっぽど黒い闇を抱えているからではないか。世間へ公表すれば、確実に社会問題へと発展する大事になるのではないだろうか。

 鳥越は息を飲んだ。ある宙の一点を見つめ、思案に耽る。

 柳が言っていたことが偽りない事実だとしたら、すなわち、十五年前遠野嘉政にかけられた不正投資の疑惑に、水面下で現職警察官が関わっていたのならば、警察上層部の意向も納得がいく。当時は何とかして覆い隠せたのかもしれないが、十五年経った今、再びその姿がひっそりと露になっていくことを危惧しているのではないか。

「そういえば」

 隣の柳が口を開いた。突然のことに少々驚いたが、「何ですか?」と訊ねる。

「さっき現場で発見したボタンの件はどうだった?何か分ったか」

 染谷建設に立ち寄ったついでに、現場の大横川親水公園をもう一度探訪した際に発見したボタンのことを柳先輩は言っている。一課室に戻ったとき、鳥越はすぐさま調べたのだ。

「実はあのボタン、ある中学校の制服についているボタンだったんです」

「中学校?」

「事件とは無関係だろって、先輩は言うと思いますが、何故かあのボタンを看過できないんです。事件に関わっているんじゃないかって」

「その根拠は何だ?」

「勘、です・・・」

「そうか・・・じゃあ、おまえはその中学校の関係者に遠野を殺した犯人がいるとでも?」

「さあ・・・ですから、まだ分りません」

 そこでボタンの件については一旦棚上げになったが、すぐに栗松刑事部長、そして、その他の参事官、管理官が揃う。捜査会議の幕開けだ。

 全員が一礼すると、管理官が話を進める。

「では、聞き込みによって何か情報を得られたか?」

 その問いに、ある刑事が立ち上がる。幸本純刑事だ。鳥越と同期でお互い親身になって話すようにしていた。

「昨日、大横川親水公園を横切る通りで停まっている車があったんです。その持ち主は柄の悪い金髪の男だったんですが、情報が得られました。その金髪男は恋人のマンションが近くにあり、その恋人を待っていたらしく、一五分程度停車していたらしいんですが、一人の人物が事件現場、遠野が殺された場所を数分の間凝視していたらしいんです。少々距離があって、傘も差していましたし、男っぽかったということだけで。しかし、割と小柄な体格だったらしいんです」

「その小柄な男は事件と関係があるのか?」

 栗松が難しい顔をして訊ねる。

「今の段階では何とも・・・」

「遠野が殺された時刻ならともかく、昨日のそんな時間に現場を遠くから見ていたなんて、ただの興味本位な通行人だろう」

「しかし、その後現れた刑事らしき二人組を見たら、急に歩き出したらしんです」

「あらぬ疑いをかけられたくなかったんだろ。座れ!」

「・・・すみません」

 栗松の威圧する声に幸本は委縮した様子だ。あれが自分だったら、と鳥越は考えただけで身震いがした。

「幸本の奴が言う刑事らしき二人組って、俺らの事だろうな」

「あ、そうかもしれませんね」

「そんなやつがいたんだったら、話くらい訊けばよかったな」

「怪しいと?」

「さあな。誰にだって話くらい訊けるだろう。まだ何も分っていない今、怪しそうな人物、関係のありそうな人物には話を訊くべきだ」

 そうですね、と小さく頷く。

 鳥越は幸本の報告に登場した小柄な男、という人物が気になった。もしかしたら、その人物とは未成年なのかもしれない。大学生、高校生・・・鳥越が辿り着いたのは中学生だ。話は先ほどの柳先輩との会話に戻る。ボタンの件だ。現場で見つけたあのボタンに刻まれた模様、あれはある中学校の校章だった。何よりも驚いたのは、その校章の中学校というのが、恋人結衣の勤務している城川中学校だったことだ。しかし、それが大きな問題とは受け止めていなかった。

第一、あのボタンが事件に関わっているかどうかも定かではない。ただ落しただけなのかもしれない。しかし、そうなると新たな疑問が湧いてくる。どうやって落ちたか、だ。普通に制服を着用していたならば、ボタンが勝手に落ちることなどあり得ない。考えられるのは、あそこで喧嘩でもして、激しく戦っているさなか、むしり取られたケース。そもそも、城川中学は荒川区、現場の大横川親水公園は墨田区だ。城川中学の生徒があの公園にボタンを落とすことが現実的に有り得るだろうか。そのうえ、遠野嘉政の死亡推定時刻は午後九時から十時の間。高校生ならまだしも、その間に制服を着ていることなんてあるだろうか。ましてや、そのまま人を殺しに行くなんて事考えられない。

思考はそこでストップした。ふう、と大きくため息をついた。

捜査会議では特に進展はなかった。幸本の情報と同じような中身の報告しか出なかった。然るべき現状だな、そう思った。十五年前の事件に触りも掠りもしていない現在の捜査方針では、到底真実の扉を開けそうにない。

不穏な雰囲気のまま終了した捜査会議。鳥越は幸本にさっきの話を詳しく聞こうと彼を呼んだ。

「ああ、鳥越か」

「なあ、あの小柄な男について、もう少し教えてくれないか」

「どうして?」

「その小柄な男って、どれくらいの歳か分るか?」

「さあ。でも、あの金髪男が言うには、高校生くらいに見えたとも言ってたけど」

「高校生か・・・」

「どうしたんだよ。高校生がどうかしたのか」

「いや、正確には中学生だ」

「は?」

何でもないと、はぐらかしたそのとき、後ろから鳥越のことを呼ぶ声がした。どこかで聞いたことがある低い声だ。瞬間的に頭の中に参事官の顔が浮かぶ。ふりかえると、その予想は的中した。

「さ、参事官」

「後で、刑事部長室に来い。いいな」

 有無を言わせない圧が眼に見えるようにして伝わってきた。幸本の眼は、「おまえ、何かやらかしたか?」と言いたげだ。ごめん、と一言捨て、しかめた顔で刑事部長室へと向かった。

 刑事部長室の扉の前で身なりを整え、心の準備を万端にし、覚悟を決めてドアノブを回した。失礼します、と頭を下げると、既に柳の姿があった。どうやら同じ用件で呼ばれたらしい。急いで柳先輩の隣へ着く。厳つい顔で座っている栗松刑事部長が眼に映る。待ちくたびれたと言わんばかりの大きなため息をついた栗松は、ゆっくりと立ち上がり、窓の方へ歩み寄ると、両手を腰のあたりで組んだ。

「おまえら、何をやっているんだ?」

 静かめのトーンでそう言った栗松だが、今にでも爆発しそうな怒りが含まれている気がした。

「と、言いますと?」

 柳が質問に質問で答える。肩が縮こまってる鳥越は依然として俯いたままだ。

「十五年前の事件をこそこそと捜査しているらしいな」

「ええ、まあ・・・」

 柳は曖昧に肯定する。今にでもガタガタ震えそうな鳥越とは打って変わって、柳はすこぶる冷静な顔つきをしている。いつもと変わらぬ厳つさが宿っている。刑事部長と良い勝負・・・そんなガキのようなことを考えている場合ではない。

「十五年前の捜査を指揮した覚えはない。忠告だ。これからは言われた通りのことを調べ上げろ」

「しかし、今回の事件の背景には必ずといっていいほど、十五年前の遠野嘉政の事件が関わっています。今回の事件の真相は十五年前にあるんです」

「だから何だ!」

 突然の栗松の大声に、鳥越は心臓が止まった気がした。

「おまえらは指示された通りに動くたかが駒だ。おまえらに発言権はない。もう一度言っておく。これからは言われた通りの事を調べ上げろ。今回はイエローカードだ。次ここに呼ばれたときは、覚悟を決めとけ。いいな」

「・・・はい」

「以上だ」

 失礼します、と言って二人は部屋を出た。柳は何も言わず足を動かす。鳥越はあの地獄のような空間から解放され、少なからず安心していた。コーナーを曲がると、柳はやがて口を開いた。

「鳥越、この呼び出しが何を意味しているか分るか」

「え?どういうことですか」

 柳は廊下で止まった。つられて鳥越も立ち止まる。

「俺らが訪ねたのは染谷建設だ。十五年前の事件のことは確かに訊いた。河辺仁志の事を重点的にな。そして、刑事部長からの呼び出しがあったということは、染谷建設が告げ口したってことだろ。つまり、警察上層部と染谷建設は繋がっている」

「警察と、染谷建設が・・・でも、どうして」

「簡単だ。切っても切れない関係になってしまったんだろう。俺の見解はこうだ」

 その後、柳が語り出した見解は、驚愕すべきものだった。十五年前、不正投資の疑惑がかけられていた遠野嘉政が大金を水面下で注いでいたのは、先ほど訪ねた染谷建設だった。遠野に手助けしていた現職の警察官の正体を突き止めた警察組織の上層部は、その警察官に何らかの処分を下し、事実を抹消させた。

つまり遠野嘉政、当時の警察官、染谷建設。この三つのうち、どこか一つの防壁が壊されたら、雪崩のように全てが崩され、十五年前の事件の水面下で行われていたもう一つの事件の事実が、世間に明るみになるということだ。

「とんでもないことになってきたな」

 柳の言う通りである。遠野が殺されとき、違和感にも似た虫の知らせがしたが、いよいよとんでもないことになってきた。

 しかし、事件はまだまだ始まったばかりだった。


 二日後、第二の事件が発生した。朝早い時間帯から鳥越たちはパトカーに乗車し、現場へと向かっていた。

 鳥越たちが到着する頃、既に白と黒の塗装がされた車がいくつも停まっていた。閑静な住宅街の一角で、騒がしい光景を目の当たりにした。黄色と黒のテープがあちらこちらに張られており、携帯電話を片手に持った野次馬があちらこちらに集っていた。

 並みよりは広い大きな家の玄関に、腹部が真紅に染められている一人の女性が倒れていた。すでに帰らぬ人と化しているこの女性は、弁護士向田紗江子、四十五歳だ。鑑識課の人間の話によれば、第一発見者は新聞配達員。ポストに新聞を入れ込んだ際に、ふと扉を見てみると、微かに開いていることを認めた。不審に思って扉を開けてみると、死体とご対面になったようだ。死亡推定時刻は昨日の午後八時半から九時半の間。おそらく犯人はインターホンを鳴らし、被害者が出てきたところをナイフで刺したらしい。そのままその場に倒れ込み、息絶えたということだ。

 やがて、遺体は最寄りの病院へ搬送された。捜査員たちは、広い家の中を行ったり来たりして、調べ上げていた。何か事件の手掛かりになるようなものが出てくれば幸いなのだが。

「先輩、もしかして今回の被害者、向田紗江子って十五年前の裁判の弁護士だったりするんじゃ・・・」

「分らね。そこまで詳しくは知らないが、可能性は大だな」

「もしかしたら、先週起きた遠野の事件と繋がっているってことですよね。もっといえば、十五年前の事件とも」

「ああ、そういうことになるな・・・よし、この家の中は他の人間に任せよう。俺らは外、当たるぞ」

 鳥越は了解し、二人は外へ出た。まだ野次馬が減っていない。こういう現場はいくつも見てきたが、捜査の邪魔になって仕方が無い。だからといって、構ってはいられない。なるべく無視しようと努めた。

 近所に聞き込みをして回ったが、大した情報は得られなかった。このあたりは人通りが少ないらしい。時期も時期で日没の時間が早まっているため、目撃情報が乏しいのは理解ができた。

再び向田邸の前まで戻ってきた二人。鳥越は辺りを見渡した。ぐるっと首が一周すると、鳥越は何か重大なものを見た気がした。慌ててその正体を探す。

(あ――)

 鳥越の眼が捉えたのは、向田邸の四、五軒隣の向かいにある家の玄関に取りつけられている防犯カメラだった。少々距離があるが、向田邸の入口は範囲内ではないか。鳥越は希望を胸に、黙って歩き出す。

「おい、鳥越、どうした」

柳も慌ててついてきた。野次馬を掻き分け、二人は小走りになっていた。目的の家宅に辿り着くと、「あれ、見てください」と指差した。

「なるほど、防犯カメラ、か・・・」

 鳥越は範囲をおおよそ手で表し、ぎりぎり向田邸が視野に入っているだろうことを確認すると、鳥越はインターホンを押した。表札には「浜田」とある。はい、と小さな女性の声がした。

「すみません、警視庁の鳥越という者ですが」

「あの、何でしょうか」

「お宅の防犯カメラ、拝見させてもらってもよろしいでしょうか」

「はい?」

 しかし、鳥越の説得によって、何とか承諾を得られた。こうまでして抵抗を見せたのは、ただ警察に関わりたくはないだけではないことを察した。それはわざわざ防犯カメラを設置していることも含め、何か事情を抱えていると睨んだ。

 お邪魔します、そう言って、部屋に上がらせてもらった。お茶を入れますね、と配慮してもらったが、すぐに立ち去りますので、と言ってやめさせた。簡単な自己紹介を形式的に済ませ、彼女が浜田のり子というらしい。

「あの、防犯カメラを設置している目的って・・・」

「実は私、ストーカー被害を受けているんです」

「え、本当ですか?」

「嘘でこんなこと言えません」

「・・・すみません」

「もう三カ月になります。変な内容の手紙が不定期に送られてきたり、後をつけられたり、いろいろ・・・」

「そうだったんですか。警察には?」

「もちろん、被害届を出しました。ですが、特に取り合ってくれなくて・・・」

「そうですか・・・すみません。警察もいろいろと忙しいのでご容赦ください」

 鳥越は素直に頭を下げた。柳が本題へ戻す。

「それで、防犯カメラを設置しているんですね。そうですか。その映像はどれくらい保存しているでしょうか」

「え、三日分は記録されておりますが。徐々にデータは消されていく仕組みになっているので。では、少々お待ち下さい」

 お願いします、と深々と頭を下げた。柳は寡黙を貫き通している。部屋を出て行ったのり子が戻ってくるまで、鳥越は右手を顎に添えた。

もしも、防犯カメラに少年らしき人物が映っていたとしたら・・・一連の事件の首謀者はその少年の可能性が高まる。だったとしたら、一体誰がそんなことを企てているのか。そして、実行しているのか。幸本の報告にあった「小柄な男」。現場に落ちていた城川中学の校章が刻まれた制服ボタンの持ち主。全ての原点が恋人結衣の学校にある気がした。

「お待たせしました」

 のり子はケーブルをテレビに繋ぎ、映像の準備をし始めた。すぐに画面には外の風景が映し出された。

「昨日の午後八時頃に巻き戻してください」

早送りに映像が巻き戻される。時折人が通っているが、指を折って数えられるほどだ。

「あ、止めて」

 鳥越は思わず叫んだ。確かに、向田邸を訪ね、すぐに立ち去っていた人影がいたのだ。犯人の姿かもしれない。息を飲んでその人影が現れる瞬間を待った。

「来た」

 ずっと立っていた柳もしゃがみこみ、画面に釘付けになった。黒い服装をした人影が周りを気にしながら、向田邸に入っていく。そして、三十秒もしないうちに再びその姿は現れた。

「こ、こっちへ来る」

 来た道とは逆方向に、すなわち浜田宅の方へとその人影は走ってきたのだ。

「止めて」

 鳥越はグッドタイミングで合図を出した。非常口の緑のランプの人間のようなポーズで、その人影は静止している。

 フードを被っていたため、顔までは正確に拝めなかったが、体つきからして、まだ未成年の雰囲気が漂う。少なくとも、犯人が女性だという可能性は消えた。剛健な走り方からして、男性だということは確実だ。

(細い糸で、繋がった・・・)

 鳥越は犯人像が決してイメージできたわけではないが、真実の扉を開けるために必要な鍵は、どうやら城川中学にあるようだ。

「先輩。一応、科捜研に提出しておきますか」

「そうだな。そうしておこう。この防犯カメラの映像、提出していただいても、よろしいでしょうか」

「・・・はい。いいですけど。一つ条件があります」

「何でしょう」

「ストーカーの犯人、突き止めてください」

 のり子は真剣な眼で柳に訴える。少し間をおいてから、柳は「任せてください。必ず捕まえてみせます」と、男前な台詞・・・いや、刑事らしい台詞を言った。

 世の中には、まだその姿が露になっていない犯罪が幾多もある。あるいは、警察に駆け合ってみても、相手にされない事件が幾多もある。事件に大きいも小さいもないのに、正義に偏りはあってはならないのに、そういった現状が確かに存在する。

 のり子の怯えや悲しみ、そして必死の訴えが込められた瞳を眼にしたとき、鳥越はこの人を救ってあげたい、そう強く思えた。そして、「正義」とは一体何なのかという疑問も同時に浮かんだ。



2 九月二十三日 日曜日



 はあ、はあ、と息を切らしながら、先週と同じように蓮治は走っていた。向田紗江子という弁護士を殺害し、逃走するべく思いっきり走っているのだ。ふと腕時計を見ると、午後九時を過ぎている。家を出たのは八時だが、この一時間がしごく短いものに感じられた。

 正直、あの日と同じように陽子と会うのではないかと、期待と不安の両方を抱いていた。しかし、そんなことなんて二度とないだろう。蓮治はこんな状況でも、甘ったるい思考へと転換してしまう稚拙な自分を、自嘲するように笑った。

 午後九時半ちょっと前、自宅へと舞い戻った蓮治は、ゆっくりと、なるべく豪兄に気付かれないように扉を開けた。

「どこ行っていたんだ?」

突然、豪兄が自室から出てきた。反射的に肩が数センチ上がった。それから笑顔をつくって返事をする。

「豪兄・・・夜の、散歩だよ」

「・・・そうか」

 疑いの眼で蓮治を睨んできたが、まだ自宅でやるべき仕事が残っているのか、自室へ戻った。覗いてみると、案の定豪兄愛用のパソコンのディスプレイに、多色のグラフなど、情報や文書が映し出されていた。仕事の邪魔になると判断してそっと遠退いた。

 布団を敷くやないなや、失神したように、ばたりと倒れ込んだ。先週と同じように、次第に疲労感がどっと蒸し返してきた。でも、先週は車内だった。京浜東北線の中、陽子を隣に座っていた。

 今になっても、あの日の記憶は時折蘇ってくる。自分でも驚くくらい鮮明に――である。

 「また、明日も学校か・・・」

 小さく呟いた。大きく深呼吸をして、蓮治は瞼を閉じた。

 

翌日の月曜日の朝、豪兄の作ってくれたトーストをかじりながら、蓮治はリモコンを手に取った。

「昨日、弁護士の向田紗江香四十五歳が、何者かによってナイフで刺され、自宅の玄関で遺体となって発見されました」

 まだ若い女性アナウンサーは、事務的にそう喋った。彼女が言うには、「警察は先週起きた、元国会議員の遠野嘉政氏が殺害された事件との関連性を洗っている模様」のようだ。

(さすがに警察もやることが早いな・・・)

 日本の警察の有能さ、機敏さに感心しながら、ミルクを飲みほした。現状をニュースで一通り確認すると、急いで歯を磨いて、「行ってきます」と言い、アパートを飛び出した。

 蓮治は学校に通うのに、いつも自転車を漕いでいく。健康を気にする歳ではないが、わざわざ満員電車に乗って、人の波に揺られるよりは、多かれ少なかれ日々変化する街並みを眺めていたほうが、よっぽど好い。

 今日はどんよりとした曇り空だ。やっと秋らしくなってきたのか、汗をかくほど暑さは感じられない。不定期的に吹く風も、暑苦しくなかった。すれ違う人たちの服装の変わり様からも、季節の転化を思わせる。以前まで緑の葉をワサワサ茂らせていた大樹も、どことなく寂しくなってきた。

 所定の位置に駐輪し、校舎へと入っていく。玄関で靴を履き替えていると、龍也が登校してきた。

「よお、蓮治」

「おはよう」

 龍也の明るい挨拶とは対照的に、蓮治はぼそっと言った。「元気ねえな」と、蓮治の肩を叩いた。元気がないというべきなのだろうか。実際、そうなのだろうが、認めたくないというか、「元気がない」と、あっさり処理されてはいけないというか・・・とにかく、すぐに説明のつくほど容易な状態ではないのだ。

 いつのまにか、後から来た龍也の方が先へと進んでいた。

「そういえばさ」

少し行ったところで、龍也何かを思い出したようだ。

「蓮治、おまえに貸したCD。そろそろ返せよ」

「CD?」

「もう二年くらい経つんじゃね?貸したでしょ」

「に、二年?」

 「CD」と聞き、思い当たる節が無かったが、「二年くらい経つ」という言葉を耳にしたとき、蓮治は(やべえ、どこやったかなあ・・・)と、思わず頭を掻いた。

「そんなに急かさないけど、早いうちに返せよ」

「お、おう」

 龍也は階段を、得意そうにスタスタとかけ上っていった。家に帰ったら探そう、と腹を決めて後に続いた。

 教室に入り、自分の席へ向ったら、龍也たちが集まっていた。輪の中に入ろうと、「どうしたの?」と声をかけてみた。

「あ、蓮治。おはよう」

陽子が気付いて、いつものように活気ある声で言ってきた。

「え、ああ、おはよう」

 挨拶もろくにできないほど、龍也の言う「元気が無い」のである。情けない以外のなにものでもない。

「おお、美吉。朝のニュースは見たかい?」

 例の高月が訊ねてきた。「朝のニュース」と聞いた瞬間、以前のこともあって、向田紗江香弁護士殺人事件のことだろうと察した。

「『朝のニュース』だけじゃ、何か分らないだろう」

 龍也が気の悪そうに言った。

「向田っていう弁護士が殺害された事件だよ」

「ああ、そんな事件あったっけなあ」

 蓮治の思った通りである。

「で、その事件がどうかしたの?」

「実はさあ、前に話した遠野嘉政殺害の事件あったでしょ」

「元々国会議員で、過去に裁判にかけられたあの遠野嘉政?」

 浪恵が確認を兼ねて訊いた。

「そうそう、その遠野嘉政。そいつが殺された事件と、弁護士の事件、どうやら関係があるらしいよ」

「え?同じ犯人ってこと?」

「さあ、どうだろうね。警察は関連性を疑っているって言っていたから、間違いないんじゃない」

「どうだかね」

 蓮治は負けずと割り込んだ。

「どういうことだよ」

 不満そうに高月は言う。

「警察なんて信用できないだろう。正義の看板を立てて、市民の気も知らず、プライベートにもずかずかと土足で踏み荒らし、面子、保身のために時には禁断の隠蔽を謀る。ハハ、どうしようもない組織だ」

「おい、蓮治。度が過ぎてるぞ」

 慌てて龍也が制しにかかる。蓮治はふと陽子を見た。別次元の生き物を恐れるような眼で、今にも泣きそうな眼で、小刻みに震えていた。蓮治の視線を辿った龍也や高月も、その先にいた陽子を見る。

「陽子どうしたの?」

心配した浪恵が、陽子の肩を持って訊いた。肩に触れられ、現実の世界に引き戻されたように、「え?」と逆に訊ねた。

「陽子、今、何て言うんだろう・・・なんか、すごい恐ろしいものを見たような顔していたよ」

「そう・・・何でもないよ」

 最後は笑顔で首を振ったが、その場の空気は陽子の笑顔だけでは戻らなかった。「そろそろ席着かないと・・・」と、陽子がぎこちなく笑って、その場は終わった。

 気をつけ、礼――。

 学級委員の声さえ、まともに耳に入らなかった。あの顔が未だに頭から離れない。警察を真っ向から否定した蓮治を奇異に思ったのだろう。眉が額の中心に寄せられ、引き締められた唇。そして、澄んだ瞳が蓮治の眼をじっと見つめていた。

 そのとき、自分は人を二人も殺めた殺人鬼だということを、深く考えさせられた。

――殺人鬼美吉蓮治は、今も学校に通う中学三年生。

――殺人鬼美吉蓮治は、今も食事を摂れて、温かい布団の中で眠れる。

――殺人鬼美吉蓮治は、今も不自由なく生きている。

 自嘲とも捉えられる思考を中断して、ふと隣を見ると、悲愴な表情の陽子がいた。どうにかして、いつもの幼げな、微笑みを絶やさない、時にむかっとする、それでいて可愛げな陽子にしてあげたかった。 

 ホームルームの時だけではなく、ひもすがらずっと思っていた。でも、何もできず、声さえも掛けられず、自分の無力さに浸るだけだった。下校中、愛用の自転車を漕ぎながらも、それは消えなかった。

「ただいま」

 蓮治が学校から帰ってきて家に着いたときは、いつも國又はまだ仕事から戻っていないのだが、習慣というものはすごいもので、昔から続けてきた挨拶というのは、誰も聞いてくれないとしても、口からポロリとでてきてしまうのだ。

蓮治は靴を脱ぎ、自室へと向かった。ため息と同時に床に座って、悔恨の声と共に拳を叩きつけた。堪らず舌打ちをして、頭を掻き毟った。時々ねっ転がったり、そんな動作を繰り返すこと十分。これが何の助けにもならず、何のためにもならず、何の意味も持たないことに気付き、仰向けになっていた身体を起き上がらせた。

(・・・そうだ)

 今朝の会話を思い出した。龍也に貸していたCDを探さねばいけない。一年も前に貸してもらったCDを、いつまでも保持しておくわけにはいかない。TSUTAYAだったら、延長料金が増していき、いいお値段になるのでないだろうか。それはともかくとして、さっそく作業に取り掛かった。まず、CDをしまっておく小サイズの棚を調べてみた。一枚一枚念入りに調べてみたが、それらしきものは無かった。第一、貸してもらったCDというのが何なのか、記憶になかったから、どうしようもないといえばどうしようもないのだが。次に、机の引き出しを一段ずつ確認していく。一段目には、主に文房具が収納されている。二段目には、昔好んで買った小さな人形や、キーホルダー等が入っている。他の段とは二倍以上の大きさがある三段目は、ファイルやノート類、それから本、漫画が何冊か倒れていた。

(もしかしたら・・・)

 蓮治は瞬間的に閃いて、箪笥の扉をバッと開いた。そして、旅行用のバッグや今でも使えるのか分らないがらくたを掻き分けて、奥の方に大切にしまってある、いわば「宝箱」に手を伸ばした。國又が以前買ってくれたものだった。今となっては、何年前かも思い出せない。蓮治は手を伸ばし、取っ手を握って、「宝箱」を机にドスンと置いた。持ってみて気付いたことだが、結構重量がある。最近触れていないから、何が入っているかいまいち覚えていない。かなりの埃を被っていて、開けるのにも少々躊躇ったが、大いなる期待を込めて開けてみた。

「あった」

 思わず歓喜の声を上げた。見ると、「SMAP」と書かれている。人気アイドルグループSMAPのアルバムを二年くらい前に借りていたとは、驚きである。それにしても、何故「宝箱」に入れてあったのだろう。記憶のページをいくらめくっても、このCDを「宝箱」に入れた光景が見当たらない。

(まあ、見つかったからいいか)

 蓮治は「宝箱」の中を覗いた。興味が湧いてきたため、全部「宝」を取り出すことにした。小学校の卒業文集に、ちっちゃい頃ハマった仮面ライダーのフィギュア。死んだ母のメッセージが詰め込まれたカセットテープ。懐かしさ、驚き、憐れみ。多種多様な感情が一つ一つの「宝」から芽生えてくる。

「ん?」

 不思議にも「宝箱」に入っていた黄色いハンカチを取り出した。変なところで折り目が入っていたが、愛嬌のあるハンカチだ。しかし、自分がこんなものを使っていたのだろうか。また、このハンカチにそれ相応の思い入れがあるのだろうか。この二点が疑問である。

 蓮治は心臓が止まるかと思った。

 ハンカチの裏面――今まで自分が見ていた方とは逆の面を見てみると、「多田陽子」と刺繍されていた。

「多田陽子・・・」

 瞬間、同級生の石井陽子と繋がった。

(同一人物か、では何故名字が違うんだ?陽子の親は離婚したということか。それで、名字が変わったのか・・・いや、待て。俺は何を考えているんだ。『陽子』なんて名前、世にごまんといる。俺の知っている陽子であるわけ・・・)

 そう思いつつも、蓮治はこの「多田陽子」という人物が、「石井陽子」なのではないかと本気で気になっていた。

 一番の難題として、何故「多田陽子」のハンカチがこの宝箱に収められているのか。いくら考査で素晴らしい成績を叩きだした頭脳でも、仮の見当もつかない。とりあえず、龍也のCDとハンカチだけを残して、他は全部「宝箱」にしまった。

 机に向かい、必死でこの黄色いハンカチは、いつ、どこで、どのようにして入手したのか記憶の再生に耽った。

 ガンッ――。

 頭をぶつけた。ゆっくりと眼を開いた。

「また寝ちゃったよ・・・」

 瞼を閉じて記憶を呼び覚まそうとしたためか、そのまま意識も遠退いてしまったらしい。「また」である。あの日も寝ていた。あの日は陽子の隣で眠っていたのだ。

 玄関のドアが開く音がした。國又が帰ってきたようだ。

「おかえり」

「おう、蓮治。ごめん、今日疲れてるから作れないわ。だから、買ってきた」

 國又の手にはコンビニのビニール袋があった。

 蓮治たちはすぐに夕食にした。

「蓮治、カレーとスパゲッティどっちがいい?」

「じゃあ、カレー」

 レンジで温め、「いただきます」と声を合わせ、スプーンを動かしだす。コンビニの品物も、意外と美味いものだ。改めて感心させられる。

「豪兄さあ、俺の『宝箱』って知ってるよね?」

「ああ、箪笥の奥にしまってあるやつだろう。それがどうかしたのか?」

「あの中にさ、龍也から借りたCDがあったんだけど・・・」

「そういえば、俺が入れたかなあ」

「ええ!やっぱり、豪兄が」

「散らかってる蓮治の部屋が悪いんだろう。二年くらい前だったかな。掃除しようと思って中に入ったら、捨てられたように置かれてたからな、とりあえず『宝箱』に入れておいた」

「それならそうと言ってよ」

「悪い悪い。それは謝る」

 蓮治は本題に入った。

「それで、『宝箱』の中身を確かめてたらさ、黄色いハンカチが出てきたんだよ」

「黄色いハンカチ?」

「そう。豪兄、なんか知らないかな?」

「何か記憶にあるんだけどなあ。思い出せない」

「『多田陽子』って刺繍されていたんだけど」

「多田、陽子?待てよ・・・」

 まもなくして、豪兄は「思い出した!」と大声で叫んだ。蓮治は詳細を話すように、催促した。



   3 九月二十四日 月曜日



「陽子、大丈夫?」

 陽子は今日一日ほぼ何にも喋らない。その理由の正体は知っていた。そして、寡黙になった陽子を浪恵が心配していることも・・・。

 陽子と浪恵は、学校から近くのさほど広くない広場みたいな場所にいた。朝から陽子の様子が変だと察知した浪恵から誘い出されたのだ。

「何で、蓮治ってあんなこと言ったのかな」

「あんなこと?」

「警察を敵に回すようなこと。警察に、個人的な恨みでもあるのかなあ」

 蓮治のあの言葉に対する心配、疑念が込み上げてくる。足先で地面の砂をいじくる。

「何でそんなに蓮治の事気になるの」

 陽子は浪恵を見た。隠れそうで隠れていない夕日に浪恵はたそがれていた。

「好きだから」

 陽子は即答した。浪恵は驚いたように視線を陽子に移す。

「蓮治の事好きなんだよ、私。だから、今朝みたいにマイナスのことはっきり言われると、妙に心配しちゃうんだよね。何か、自分が否定されてるみたいで、恐怖だって感じられるんだもん」

 陽子は途中から涙を見せていた。自分で言うように、怖いのかもしれない。でも、好きだから・・・というこのジレンマが心痛い。瞳から零れる涙を指で拭った。

「陽子・・・」

「それと、最近感じるようになったんだけど、何か、蓮治とはずっと昔に会ってる感じがするんだよね」

「え?昔に、会ってるの?」

「気のせいだと思うけど・・・何か、ごめん」

 このもどかしい空間で口を開くことは、それなりの勇気が必須だ。地に生える草木を揺らす秋風が無情でむなしい。

「もう帰ろう。遅くなったら、いろいろ面倒だし」

「面倒」というのは、先生からのありがたいご指導を受けることになることだ。そういうジョークを挿めるほど、陽子の気持ちも静まったのだ。

いつもの浪恵なら、「好きならガンガン行っちゃえ」とか言ってくるのだが、場を読んだのか、特に会話もない。駅で別れて、陽子は一人になった。

この時間帯、電車は少々混んでいる。もちろん、椅子に座れない。蓮治と一緒に座れたあの日が、ずっと昔の事のように懐かしい。過ぎる時間は光陰矢のごとく凄まじいものだが、数日経ってこうして「思い出」となると、遠い昔と化しているのだ。この儚さに思わず泣きそうになった。

その日の夜、陽子は、蓮治への想いを「好きだから」と浪恵に告白したことに、清々しさを覚えた。胸に抱え込んでいた張り裂けそうな想いを、浪恵が共鳴してくれたことで爽快感が生まれたからだろうか。もっとも、もともと浪恵は、陽子が蓮治に寄せる恋心に勘付いていたが。また、自分の感情を言葉として表せたことに安堵したから、そういう理由も含まれているのかもしれない。

――言葉は生きているんだよ。

亡くなった祖母がよく言っていた。言葉にすることで、初めて「自分がこんなことを思っているのか」と、実感できるのだ。それが愛情だとしても同じこと。愛情も言葉にすることで、自分も相手も理解できるのである。そして、共感できるかもしれない。

「言葉にして初めて分ること、か」

 それこそ「言葉にして」、陽子は繰り返した。浪恵は「女子は直球で勝負」という信念の通り、龍也に直球でいったらしい。具体的には聞いていないが、龍也が認めるほどの情熱的な豪速球だったのだろう。

「直球か・・・」

その日は心地良く、眠れた気がした。

翌日、電車を降りて、学校へと歩みを進める。三つ目の信号に引っ掛かったとき、背後から鈴の音が響いた。驚いて振り向くと、自転車に乗った蓮治が笑ってた。

「よう」と、いつになく馴れ馴れしかった。

「ああ、おはよう」と、いつになく緊張した。

 信号が緑に変わった。

「あ、そうだ」

 ちょっと先の方まで漕いだ蓮治が、振り返る。

「放課後、ちょっと話あるから」

「え?」

「近くの広場でいいよね」

「わ、わかった」

 突然の誘いに、ドキリとした。

(話って何だろう――)

 学校に着くまで、それで頭は満たされていた。昨晩の浪恵との会話が、今になって恥ずかしくなってきた。

 蓮治が自転車で学校まで行き、駐輪場所で停めて、玄関まで戻ってくる時間と、陽子が玄関まで行く時間はほぼ一緒で、下駄箱で靴を履き替える際には一緒になっていた。

無意識のうちに、蓮治の顔を見ていた。眼まで伸びている前髪、理想的な輪郭を持ち、それでいて細々とした感じは一切なく、鋭く、優しい眼がクールに思える。

下駄箱を開けたとき、蓮治の眼が変わったことに気付いた。どうしたのだろうと、見つめ続ける。蓮治が手にしているのは一通の手紙らしかった。

(まさか!・・・)

「まじかよ・・・二年牧田、詩緒里。誰だこいつ?」

 蓮治自信、一番驚いているようだ。陽子の視線に気付くと、その手紙の形が崩れることに何のためらいもなく、あわててポケットにしまった。陽子も、動揺を隠せなかったが、何も言わずに教室に向かった。

 扉をいつもより強く開けたから、ドア付近の生徒たちは迷惑そうな顔をした。そんなのにも構わず、席に着いた。

「陽子、どうしたの?」

浪恵が訊いた。すると、陽子は龍也をはらって、浪恵の腕を引っ張った。

「ちょ、ちょっと」

 教室を出て、右を見ると俯きながらトボトボと歩いてくる蓮治が眼に入った。一瞬睨んで、浪恵を左方向へ誘導し、女子トイレの中へ連れ込んだ。

「どうしたの?いきなり」

「さっき、下駄箱で見ちゃった」

「何を?」

「手紙」

「手紙?」

「そう、蓮治あての手紙」

「え!それって、ラブレターってこと」

「二年の牧田詩緒里って人らしい。そう呟いていたから」

「ああ、その子なら知ってる。確かテニス部だった気がするけど」

「でも、誰だろうって言ってたから、蓮治は知らないんだと思う」

「つまり、見知らぬ後輩からのラブレター・・・」

 二人はうーんと唸った。

「どうするの?陽子。見知らぬ後輩でも、早くしないとヤバいんじゃない」

「分ってるけど、分ってるけど・・・分ってる」

 最後はむきになった。

「精々頑張ってね」

「ちょっと何よその偉そうな口ぶり」

「私はもう龍也がいるし」

 そう言って、浪恵はトイレを抜け出した。

 言おうかと思ったが、あえて放課後蓮治に誘われたことは黙っていた。余計な気がしたのだ。とにかく、「放課後の話」が何なのかを早く知りたかった。

 教室に戻ると、蓮治が席に座っていた。陽子も席に向かった。座るやいなや、蓮治が「なあ、陽子・・・」と呼んできた。

「何も、言わないで。全部、後で訊くから」

「・・・分った」

 普段より、授業が長く感じられる。早く終わらないか、時計の針の速度が速まらないかななんて、叶いもしないバカげた願いを、ひたすら祈っていた。昼休みを割愛してほしいと、こんなに思ったことは今日が初めてだ。浪恵は委員会の集まりがあり、蓮治たちはグラウンドでバスケをして盛り上がっていた。よって、一人で窓の外を眺めるだけの、ただの暇な時間を過ごした。

 いよいよ、担当の掃除も終わり、自由の身になれた。蓮治は既に先に行っているはずだ。陽子は久しぶりに走った。正面から吹いてくる風がちょっと冷たかった。昨日は浪恵と一緒にいた場所だ。蓮治は昨日のベンチの前で、こちらに後姿を見せている。

「蓮治!」

 陽子は思いっきり叫んだ。蓮治は振り返る。

「話って、何?」

 単刀直入に訊いた。今、陽子は胸の高鳴りを感じていた。期待、そして、一抹の不安とが混在している。蓮治がこっちに寄ってくる。十メートルはあった距離が、一メートル程度に縮まった。蓮治の足音が聞こえる度、陽子はドキッとした。

 すると、蓮治はスクールバッグに手を突っ込んで、何かを取り出した。

「これ、見覚えある?」

 蓮治の右手にあったのは、黄色いハンカチだった。ぱっと頭に浮かんでこなかったため、それを凝視したが、見覚えは無かった。

「どうしたの?こんなもの」

「ここ見て」

 蓮治は裏返しにして、刺繍されている文字を見せつけた。その字を見るなり、陽子は心臓が潰れるかと思った。反射的に右手は口を押さえていた。

「多田陽子って、おまえのことだろ」

 言葉を発さずに、首を動かして頷いてみせた。

「俺、『宝箱』っていう大事なものをしまっておく箱があってさあ、ちょっと事情があって久しぶりに開けてみて整理してたら、これが出てきて・・・。豪兄、知ってるだろ、俺と一緒に暮らしてる。その豪兄が少し覚えてくれていたみたいで、話してくれたんだよ」

 蓮治は陽子の眼をじっと見てくる。陽子はその瞳が、過去に出会った男の子の瞳と重なった。そのとき、蓮治が何故このハンカチを持っているのか、陽子の脳内では一瞬にしてその謎が紐解かれていった。 



   4 九月二十四日 火曜日



 黄色いハンカチを持っている蓮治の右腕は、微かだが震えていた。それに視線を送っている陽子は、依然として茫然と立ち尽くしている。時折背後にある樹木を揺らす風から、無情感が漂ってくる。

「俺たちが、小学一年生くらいの出来事だったよな」

 そう前置きをして、あたかも当時の様子を思い返すように、蓮治は暮れなずむ西の空を眺めた。


*      *       *


「イエーイ!ゴール」

 小学一年の蓮治は、フットサルにも満たない少人数でサッカーの試合をしていた。

「ねえ、そろそろドロケーしない?」

 サッカーを苦手とする子が、不機嫌そうに言う。その子は足には自信があるようで、ドロケーのようないわゆる「鬼ごっこ系」で楽しみたいようだ。

「仕方ねえな。ずっとサッカーやってちょっと飽きてきたから、ドロケーやるか」

 坊主の子が賛同した。それがスイッチになったのか、みんなの意見はまとまり、ドロケーをすることになった。公平なじゃんけんの結果、蓮治は「ドロ」、逃げる側になった。サッカーで鍛えられた足は並より速かったから、蓮治にはそれなりの自信がある。

「よし、逃げろ!」

 蓮治は川の方へ駆けていった。

――うわっ!

 突然蓮治は誰かとぶつかり、その場に倒れた。「イテテテ・・・」と眼をそっと開けると、蓮治と同じくらいの歳の可愛らしい女の子が、同じように痛そうに頭を抱えている。

「大丈夫?」蓮治は声をかけた。

「う、うん」彼女は答える。

 その声を聞いたとき、蓮治は何かを感じた。

彼女は川の方に視線をやると、「あっ!」と叫んだ。それにつられて蓮治も見る。そこには、黄色いハンカチがぷかぷかと浮かんでいた。

「あれ、私の・・・」

 どうやら、すぐそこの手洗い場で手を洗い、あのハンカチで手を拭いているとき、蓮治とぶつかり、その拍子に川へと舞っていったのだろう。

「俺が取ってきてやるから、待っとけよ」

 自分のせいで・・・と思った蓮治は、ジーンズの裾をめいっぱいめくって、川の中へずかずかと入っていった。冬の川の水はさすがに冷たい。大人にとって、この川の深さは大したものではないが、小学一年生の蓮治にとっては決して浅いとは言えない。

「うわあ」

 足元にあった何かに躓いたのか、蓮治は川の中にしぶきを上げて倒れた。

「きゃっ!」

 彼女は悲鳴を上げた。すぐに起き上がった蓮治に「だ、大丈夫?」と、声をかけた。

「くっそお!」

 顔を上げたときには、ハンカチは既に沈んでいた。濡れた髪を掻き上げた。冷たい水面に顔をつけ、手を伸ばし、ハンカチだと認識し摘まみ上げた。

「すごーい」

 彼女は蓮治の活躍ぶりを讃え、拍手をした。川にあがってきた蓮治は、彼女にぎこちなく笑った。一方、彼女は純粋な笑顔をみせた。

――ハックション!

 蓮治はくしゃみをした。

「はは、風邪引いちゃったかなあ」

「本当に、大丈夫?」

「うん。大丈夫。そうだ、これ、洗って返すよ」

「え、いいよ。洗わなくていいよ」

「だめ。それじゃあ、けじめがつかないだろう」

「でも・・・」

「君、明日も来る?」

「う、うん」

「じゃあ、明日渡すね」

 そう言うと、蓮治は小指を出して、「約束」と呟く。それに答えるように、彼女も小指を差しだし指切りをした。「指きりげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」とリズムよく唄い、二人はケラケラ笑った。


*      *       *


「あのときの女の子が、おまえだったんだろう、陽子」

 蓮治は陽子に背を向けたまま、そう訊いた。

「そう。でも、あのときの私は、『石井陽子』じゃなくて、『多田陽子』だったけど」

「それは、俺もよく分らない。どうして、名字が違うのか」

「簡単だよ。昔、「多田」だったけど、離婚して、別の男と母が結婚して「石井」になっただけのこと」

「そう、か・・・」

 そう言うしか、かけてあげる言葉が無かった。陽子にそんな過去があったとは、もちろん初耳のことだった。どのような心境なのか知りたいが、知ろうとしてはいけないことだった。

 陽子は口を開いた。

「でも、その翌日、蓮治は来なかったよね。私、寒い中、ずっと待っていたんだけど、蓮治は来なかった」

「実は、あの日の晩から高熱出して、動けなくなっちまったんだよ。ついにはインフルエンザにもかかっちまって、一週間くらい寝たっきりだったからね」

「そうだったの・・・私はてっきり、約束すっぽかされちゃったのかなって思ったんだけど」

「俺が約束忘れるわけねえだろ。破ったら針千本飲まされるんだから」

 自分で言って、自分で鼻で笑った。そして振り返り、涙ぐんでいる陽子をじっと見た。

「でも、俺、完治してから数日間は待っていたんだよ、おまえの事」

「え、そうなの?」

「結局すれ違っちゃったわけだけど」

 二人の間に、またも沈黙が通り過ぎる。途中、陽子は何か言いたそうな様子が何度か見受けられた。その光景が三、四回続いた末、やっとのこと切り開いた。

「私のためにあんなに頑張ってくれた人、あのときの蓮治が初めてだった。自分の身体も捨てて、冷たい川の中から私のためにそのハンカチを取ってくれた・・・変わらないね、今も昔も。蓮治はやると決めたら、それをこなすまで諦めない・・・私、そういう蓮治が、好きだよ」

 陽子の涙した眼は、蓮治の瞳を確かに捉えていた。彼女の瞳は純粋な涙で洗練されたためか、いつも以上に美しく、輝いて見えた。風が二人の髪を揺らし続ける。それは、二人の心が激しく揺れている象徴かもしれない。

 蓮治は一度俯き、覚悟を決めた。二人の距離を詰めていき、蓮治は陽子の頭を優しく支えて、自分の胸に押しつけた。それにより、陽子はさらに涙する。それは、陽子が今までに感じた多くの感情が、一瞬にして溢れだしたようだった。

「俺も、素直に泣いてくれるおまえが、好きだ」

 陽子の耳元で呟いた。無論、この言葉を喉まで持ってくることは容易なことだが、そこから先が困難なことである故に、莫大な勇気を必要とした。

「ありがとう・・・」

 蓮治に抱かれた陽子は、涙を流しながら言った。それを言うのが精いっぱいのようだ。

「ほら、これで拭きな」

 過去の想いが詰まった黄色いハンカチを差し出した。長い間渡せずにいた、約束通り洗濯したハンカチを陽子に渡す。蓮治が見守る中、陽子は涙を拭った。

「もう、遅いし、帰ろうぜ」

「うん・・・」

 やっと泣きやんだようだ。蓮治はスクールバッグを肩にかけ、陽子と並んで帰っていった。今朝のラブレターの差出人には断っておいた話はちゃんとしておいた。不安材料を陽子につくっておくことはいけないから、そう思ったからだ。

信号が思うより早く「緑」へと変わっていく度に、残念がる二人の姿がそこにはあった。


 布団に入り、うつ伏せになりながら、蓮治は一枚の紙片をじっと見ていた。そこには、四人の人物の名前が記されてあった。


  遠野嘉政・・・被告人

  向田紗江子・・・弁護士

  石井恭二郎・・・検事

森本哲司・・・裁判長


 この紙片はある人物から仕入れたもので、二十年前の裁判の主な関係者が書き留められている。

既に、遠野嘉政、向田紗江子は抹殺した。聞いたところ、裁判長の森本哲司は数年前に病死しているらしい。すなわち、正義の鉄槌を下すべき人間は、とりあえずあと一人ということだが。

(石井、恭二郎・・・)

 嫌な予感が体中に伝わっていく。今になって気がついたが、陽子と名字が一緒ではないか。

「まさか・・・」

 その「まさか」は事実か、思いすごしか、確認すべきことだ。もしも、陽子の父や祖父であったりしたら、いくら正義のためだとしても、彼女の身内を殺害することはかなり抵抗がある。いや、できっこない。

(でも――)

 自分の正義は、そんな甘ったるい私情によって崩されるほど、厚さの薄いものだったのか。今まで絶対だと信じてきた自分が捧げる正義は、たかが愛の力に敗れてしまってもいいのか。今までの苦労は何だったのか。すべてが無駄だったのか。水の泡と化してしまうのか。正義は正当化されないのか。そう考えると、悔しさが滲み出てくる。恋人と並み以上の関係にある人間だからといって差別化するのはいかがなものか、その疑問に達してしまうのである。しかし、陽子は言っていた。離婚した母親が再婚して「石井」姓になったと。つまり、最悪血縁関係ではないということだが・・・。

 その夜は、なかなか寝付けなかった。故に、翌日は、蓮治にとっては珍しくないことだが遅刻した。先生の忠告も、右耳から入って左耳で出て行くように、テキトーに横流しにした。「何故遅刻したんだ?」と言われたとき、蓮治は「寝坊ですよ」と言って、片付けた。理由なんて口が裂けても言うものか。そう言ってやりたかったが、言ったらとんでもないことになる。

 その日の帰り道、陽子にそれとなく訊いてみた。

「陽子さあ、一つ訊いていい?」

「何?」

「お前のお父さんってさあ、何やってんの?」

「どうしたの、急にそんなこと」

 陽子は少々顔をしかめた。

「いや、ちょっと気になったからさ」

 陽子は何の疑いもなく、ただの雑談と受け止めたのか、あっさりと答えた。

「弁護士だよ」

「弁護士?」

「そう、結構腕いいみたいだけど」

 蓮治は「検事」の「け」の字もなかったことには安心したものの、「弁護士」と聞くとまだ心が晴れない。まさか・・・。

「そ、そうなんだ。もしかして、昔は検事だったりした?」

「うん。でも、よく分ったね。確かに以前までは検事だったみたいだけど、十五年くらい前って言ってたかなあ、つまり私が生まれた頃、弁護士に職を変えたんだって。まあ、そのときは今のお父さんじゃなかったけど・・・詳しいことは知らないけどね。多分、お金の問題じゃない。まあ、弁護士で成功しているから、そのときの判断は間違って・・・」

 陽子は蓮治の顔が青褪めていることに気付いたようだ。

「れ、蓮治。どうしたの?大丈夫」

 その声で呼び覚まされ、無理矢理笑って「大丈夫」だと陽子の心配を解いてやった。

「ちなみに、陽子の父さんの名前って・・・」

「恭二郎。石井恭二郎、だけど」

それからは陽子との話は弾まなかった。時々陽子は心配そうな顔で蓮治を覗いた。

 家に帰ってから、蓮治はすぐに自室に籠った。そして、頭を抱えた。

 例の裁判を担当した検事の名は、「石井恭二郎」。陽子の父さんの名も、「石井恭二郎」。この世に、十数年前まで検事で現在は弁護士を職としている「石井恭二郎」がいるだろうか。同姓同名の人間なんてそういるものではない。「恭二郎」なんて、蓮治が今まで聞いたこともなかった名前だからなおさらだ。

(石井恭二郎は、陽子の父――)

 心の中で幾度も繰り返す。

 正義はついに崩れてしまうのか。「鋼のメンタル」と称された、この固くも深くもある信念は折られてしまうのか。

(いや、待て――。石井検事は遠野に罪を償ってもらおうと、罰を下そうと奮闘したのだ。すなわち、形はどうであれ、蓮治と同じ性質の人間だ。つまり、蓮治の正義を石井恭二郎に下す必要は無いのではないか。

 でも、遠野を社会に放したことは事実だ。検事の尽力が不足したとも、見方によっては捉えられる。連帯責任として葬られるべき・・・。自分の恋人の父親だからって、差別することは俺の正義に反している。そのうえ、石井恭二郎は陽子とは血が繋がっていない再婚相手だ。実の父親ではないから・・・)

――ドンっ!

 蓮治はデスクに拳をぶつけた。息が荒かった。たかが二択に、こんなに悩まされたことはこれが初めてだ。言うならば究極の二択である。葛藤による本当の恐怖に触れたような気がした。いっそう、もう止めてしまえば。いや、自分の正義に反している。自分の正義に謀反した他人を罰するのに、自分が遵守しなくてどうする。

 気がつくと、いつのまにか職場から戻った國又がこちらを覗いていた。どれくらいの時間苦しまされたのだろうか。國又は少しだけ蓮治を見つめ、何も言わずに立ち退いていった。



   5 九月二十六日 水曜日



 陽子が浪恵に報告し、浪恵からどんどん枝分かれして、といった具合に新カップル誕生はすぐに広まった。まったく中学校とはそういうものである。当事者がいうのも気が引けるが、蓮治は思った。日々の合間という合間に冷やかしがあったり、妬みがあったり、とにかく充実しているわけだ。

 部活が終わった後にも、彼氏を待っている陽子を見て、後輩たちが羨ましそうな眼で蓮治を見てくる。そういう些細なことに「自分は特別なんだ」「自分には恋人がいる」と、快感を覚えるのだ。龍也はそれを一年以上前から感じられていたとは、蓮治は今になってそう意識するようになったのだ。

「おい、蓮治」

 帰り際に龍也が声をかけてきた。

「思いあがるなよ」

「は?」

「彼女ができたからって思い上がるな。そういう意味だ。時期も時期だ。分ってるだろ」

「分ってるよ」

 そう笑って答えた。

「時期」というのは、前述のように四日後の日曜日にあるサッカーの試合のことだ。恋人ができて、甘い心持で試合に臨んで結果が好ましいものになるかと言われたら、保証はできない。勢いに任せるのではなく、しっかりと練習に磨きをかける方が、勝利に繋がるのではないか。龍也が言いたいのはそういうことだろう。

御尤もな見解だが、人情というのは複雑なもので、そう理屈通りには動かない場合がある。真面目に人を好きになるなんてこと、人生にざらにあるわけではない。貴重な時間を一つ一つ過ごしていきたい。だから、一つの大会くらいこけたとしてもいいのではないか。それに、遠野を殺害した直後は、精神から肉体へと変化が生じ、自分の身体がいう事利かなかったが、今になっては普段通り機能するし、細かい動作も好調である。したがって、特に思い上がってはいけない理由はない、という蓮治の意見だ。とはいえ、その主張も喉から先にはいかない。

「蓮治、覚えてる?」

下校中、陽子が訊いてくる。

「約束?」

「え!覚えてないの」

「約束って、何の約束?」

「本当に覚えてないの?大会で渾身のシュート決めてやるって、約束したじゃん」

「ああ、それね」

 そんな約束したなあ、蓮治は妙に懐かしい気分になった。先日のことが遠い昔のように思えてしまう。その訳は自分でも何となく分る気がした。

「ちゃんと守ってくれるんでしょうね。その約束」

「え?・・・も、もちろん。決まってんだろう」

 頼りない解答に、陽子は「ホントに?」と疑った。

「じゃあ、もし決められなかったら、陽子の願い一つ聞いてやるよ」

「何それ」

「自分を追い込んだ方が、達成しやすくなるでしょ」

 じゃ~あ~、ちょっとしたことで悩む彼女の顔も可愛らしい。付き合う前のあの腹立つ顔は、じっと見てやると、笑みに満ちた愛嬌のある美貌だったのかもしれない。いや、絶対そうだ。自分が勝手にこじつけたせいで、陽子の魅力を見逃していたのかもしれない。こうして、親しく二人で帰っていることを思うと、それは大変な損失だったのだなあと、悔やんでも悔やみきれない。

「じゃあ、どっか連れてってよ」

 しばらく思案していた蓮治は「へ?」と、マヌケな顔で訊いてしまった。

「だから、どっか連れてってよ」

「俺が、決められなかったら?」

「うん」

「それさあ、普通逆じゃね?ゴール決めたら、どっか連れ・・・それもおかしいか。って言うか、それくらい言ってくれれば、いつでも連れてってやるよ」

「だって、願い事なんて特にないし」

「ったく、夢のないやつだなあ」

「だったら、蓮治に夢ってあるの?」

「え?・・・そう言われると、痛いんだよなあ」

 二人は笑い合った。優しい木漏れ日から温もりを感じられた一日だった。

 幸せな日々――日々といえるほど多い日数を歩んでいるわけではないが――に傷が入れられたのは、付き合い始めてから三日後。すなわち、翌日木曜日である。

 蓮治さえ遅れなかったその日、陽子が遅刻した。

「おい、おまえの彼女、どうしたんだよ」

 クラスメートが訊いてくる。

「知らねえよ」

 もちろん、知らないのは事実である。知りたいのはこっちの方だ。

「まさか、もう喧嘩したか」

「なわけねえだろ」

 冗談で言ったつもりだろうが、当事者からすれば不愉快である。

 陽子は、一時間目が終了し、十分間の休み時間中に現れた。姿を見かけた蓮治はすぐさま陽子に問いかける。

「陽子。おまえ、どうしてこんなに遅刻したんだ?」

 今日の陽子は外見からして暗かった。前髪で顔を隠しているようにも見える。眼を見ると、いかにも憂鬱そうで細かった。全体的に悲しみが伝わってくる。

「陽子・・・」

「何でもないから。何も聞かないで」

 そう答えた声からは、今にでも泣きそうな気配がした。気がついたときには、陽子は自席に到着しており、準備や整理を始めていた。

「おい、蓮治。何かあったのか」

 他人の彼女だが、心配になった龍也が訊いた。いつも仲良くしているから、当然といえば当然事だが、龍也の小さな気遣いに感謝した。

「いや、何もなかったけど。どうしたのかなあ」

「先生に訊いてみたら」

「そうする」

 廊下を歩いていた担任の坂田に、「陽子は何故遅刻したのか」訊いてみた。

「風の便りで知ったことだが、おまえと石井は、どうやら好い関係のようだな」

「そんないやらしい眼で見ないでくださいよ。それで?」

「俺から言うのも、気が引けるんだけどねえ」

「先生の気が引けるほど、苦痛な事があったんですか」

 坂田は「うーん」と唸った。「先生・・・」と、蓮治は催促する。

「お前だから言うぞ・・・痴漢に遭ったそうだ」

「え!」

「登校中の電車内でのことらしい」

 加害者は四十代のサラリーマンらしい。列車内で痴漢に遭い、駅員にそいつを引っ張り出し、事情を話していたらしい。駅員に突き出すこともかなりの度胸が必須だろう。それでエネルギーを失ったのか、ここまで来るのに、亀といい勝負になるほど牛歩してきて遅れたらしい。重度の鈍足になるほどショックだったのだろう。

「おまえが慰めてやれ。彼女、おまえの思うよりずっと落ち込んでいる。このまま心を閉ざし続けていたら、後々どうなるか分らない。頼むぞ」

「分ってます」

 どっかのクラスで一時間目の授業を担当しているのだろう。坂田は時計を気にして、スタスタと職員室の方へ消えていった。

 教室に戻ると、既に半数以上の生徒がいなかった。時間割が示されている後方の黒板をよく見ると、次の教科は憂鬱な「音楽」だった。

「憂鬱、か」

 陽子はどれだけの苦い思いをしたのだろう。蓮治に向かって「何も聞かないで」と呟いた陽子は、学校に来るのに、今日ほどに憂鬱だった日が前例として挙げられるだろうか。どうにかして、心を閉ざさないように、陽子の気持ちを理解して落ち着かせてあげなければいけない。

「蓮治。先生、何だって?」

龍也は待っていてくれたようだ。音楽用鞄を肩にかけていた。見ると、陽子はまだ席にいた。準備をしている。陽子には聞こえないように、龍也を廊下に連れ出し、さっき坂田から聞かされた一件を伝えた。

「それは、とんだ災難だな」

「まさか、付き合い始めて早くも関門が待ってるとはね」

「どうすんだ?蓮治」

「とにかくいろいろ策を講じてみるけど、正直自信が無いんだよね」

「そんなこと言うなよ。これからこんなことがどんどん壁として立ちはだかってきたら、どうするんだよ。おまえは、陽子が一番心を許す同級生だ。そのおまえが弱気になってどうするんだよ」

「わあってるよ・・・分ってる」

 蓮治の肩に手を置いて「先、行ってるからな」と半ばカッコつけて去っていった。既に蓮治と陽子の二人だけだった。その陽子さえ、教室を出ようとしていた。

「陽子!」

 今まで蓮治の存在に気付いてなかったらしい。呼ばれたとき、非常にビビっていた。「ちょっと、待ってろよ」と忠告し、直ちに次時限の支度をした。

「先生から聞いたよ。遅刻した理由」

「そう・・・」

「そんな気落とすなよ。いつもの笑顔でいこうぜ」

 陽子は沈黙を貫く。蓮治の励ましは、完全に空振りしたようだ。どうして、こうも振っても振ってもストライクになるのだろうか。そのうちアウトになってしまう。ターゲットをしっかりと捉えているはずなのだが、かすることもない。この無力感に包まれる自分が、堪らなく惨めに、情けなく思う。

「何で私、痴漢されたんだろう。何で私だったの。何で、どうして・・・」

言っている途中から、陽子は歩みを止め、涙を零していた。口を開いたかと思ったら、自嘲にも聞こえる嘆きで、蓮治の悔しさは募るばかりだ。

「陽子・・・」

 「蓮治!」という声が鼓膜を振動したかと思うと、蓮治の背中に陽子が抱きついてきた。陽子の腕からは温かさが伝わってきた。背中を陽子の涙が伝っていく。

「蓮治、お願い。これからさ、私を守ってくれない?」

「陽子・・・当たり前だろ。絶対に守ってやる。命を懸けても、陽子を守る」

「ありがと・・・」

「ほら、行こうぜ。音楽始まっちゃうし」

「音楽、嫌いじゃなかったっけ?」

 陽子が涙を拭いながら、笑った。

「まあね」

「じゃあ、このまま参加しない方が得なんじゃないの」

「バ―ロ。成績落ちるだけだろ。それに、俺のプライドが許すはずないでしょ」

 笑い合いながら、二人は音楽室へと足を動かした。

蓮治は誓ったのだ。

――必ず陽子を守る。何があっても、救い出してやる。

 音楽室に入るやいなや、チャイムが鳴った。クラスメートたちはニヤニヤしながら、ヒューヒュー冷やかしてくる。特にそれに動じずに、龍也にGOODサインをして、指定の席に座った。いつもより清々しく腰を下ろせた。

 そのとき蓮治は、陽子の父親石井恭二郎を殺害することなんて念頭になかった。


「正義、か・・・」

 その日の夜、自室で一人蓮治は呟く。

正義なんてもの、「愛」によって崩れてしまうものなのだ。諦めたのである。正義を貫いたことによって得られるものは何だろう。自分に酔えるだけなのではないか。正しくても間違っていても、一般論がすべてであって、どれだけ正しいことを提示しようと、聴衆が首を横に振れば確立されないのだ。正義の始まりはいつにあるか、当事者さえ知る由もないが、正義の終わりは必ずやってくる。また、自分が悔しくても「終わりだな」と認識しなければならない。正義の儚さに接触した気がした。

 蓮治は今になって、自分が残虐非道な非人間的な殺人鬼であることを思い返された。激しい頭痛が襲ってくる。石井陽子という恋人に恵まれ、青春真っ只中の自分が殺人鬼。

 デスクの上を見ると、一粒の涙が輝いていた。これが自分のまなこから零れ落ちたものとは思えないくらい眩しかった。

「どんな涙も同じように光っているんだよなあ」

 悲しみに浸っている蓮治とは知らずに、風呂入ったぞお、と國又の呑気な声が聞こえた。返事をして机に落ちた涙を指で拭った。



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