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第二章 白秋の光



   1 九月十七日 月曜日



 青い塔がそびえているのが、この位置にいてもひしひしと伝わってくる。流れる雲も驚くだろうほどの高さを誇るのは、無論東京スカイツリーだ。「武蔵」に擬えて六三四メートルに高さが定められている。

 鳥越俊一郎は大横川親水公園の園内にいた。北上するだけで、スカイツリーが視界に入ってくる。そのさなかでも、青い制服をまとった鑑識課の人間や、黒いスーツを着こなした刑事たちが行ったり来たりしている。

この公園はスカイツリーの南側に位置し、南北に伸びている。その距離はおよそ一八○○メートル。江戸最大の火災といわれる明暦の大火が、一六五七年という歴史に刻まれた。江戸幕府は復興の際に、河川を掘り開き、橋を架け、土地の整備に力を入れた。その際に掘られた河川の一つが大横川である。近年まで舟運、材木の貯留など産業経済の発展に貢献してきた。だが、経済環境の変化により、道路や鉄道が敷かれることになり、昭和五六年から大横川の埋め立てが進められた。後に、緑と清流を復活させ、憩いの場として公園整備が行われ、平成五年に完成したのだ。

ちなみに、横川というのは、江戸城に対して横の方向に流れていたことからきているようだ。昭和四〇年に施行された河川法により、大島川とつなげて、大横川と呼ばれることになった。

北側には船をモデルにした遊具があり、上を自動車が交差する橋を潜ると、円形状に並んだ花壇が心を和ませてくれる。少し、南へ下ると釣り堀が見え始める。今日も老人が数人、腰を掛けながらひっかかるのを待っている。ふと気がつくと、川の流れる音が耳に入ってくる。川に無作為に置かれた岩を伝い、向こうへ渡れるが、その先に橋が架かっているので、わざわざ子どものようにぴょんぴょん跳ねる必要はない。何本かの橋の下を通り、遊具で遊ぶ幼い子ども達の元気な姿を見届けると、通りに辿りつく。小規模な噴水や、花々が優雅な公園を思わせる。遊具も数ありながら、釣り場もあるという、老若男女楽しめる憩いの場だ。

この公園は五つに区分けされている。釣川原ゾーン、河童川原ゾーン、花紅葉ゾーン、パレットプラザゾーン、ブルーテラスゾーンの五つだ。また、この公園には業平橋、平川橋、横川橋、紅葉橋、法恩寺橋、清平橋、江東橋、南辻橋、菊柳橋、菊川橋と、多くの橋が架かっている。後で知ったことだが、かつては長崎橋、撞木橋があったらしいので驚きである。

まだ朝の時間帯ということもあって大抵人は少ないはずなのだが、事件の騒動を聞きつけたのか、野次馬が屯していた。

「あそこか・・・」

 向うの橋の下の方、正確にはその端の階段辺りのブルーシートが目立つ。現場はおそらくそこだろう。

先輩、と鳥越は呼んだ。すると、しゃがんでいた一人の男は振り返りながら立ちあがった。

「おう、遅かったな」

「先輩が速いだけですよ」

 とはいえ、自分が遅れたのは事実だった。まさか道に迷ったなんてこと口が裂けても・・・いや、口が裂ける前に白状するが、容易に言えるわけがない。

 鳥越が「先輩」と呼ぶのは、この顔の厳つさといったらこの上ない必要以上のことなど喋らないような寡黙な刑事、柳憲次だ。「刑事」なのに「憲次」というよく分らない名前なのだが、一応、鳥越と同じ警視庁捜査一課刑事課に所属する。年齢は五十前後だろう。詳しく訊いたことはない。鳥越は今年で二十八になる。柳からすれば、まだまだ尻の青い小僧としか見なされていないのかもしれない。しかし、一刑事として日々勃発する事件に真っ向から立ち向かっている次第だ。

「被害者は遠野嘉政、元国会議員。階段の角に後頭部を打ちつけて死んだらしい。詳細は解剖待ちだが、死亡推定時刻は昨夜の午後九時から十時の間だ。第一発見者は今朝、散歩で犬と歩いてた御老人だ。事件には無関係だろう」

「元国会議員ですか」

「おまえは知らないか。かつて一躍有名になったんだがな」

「何か、功績を残したんですか?」

「著名人は功績を残した者を指すが、有名人は悪行で名の知れ渡った者も指す。決して良いことばかりではない」

 分るような、分らないような・・・。つまりは、かつて悪事を働いた人間ということか。

「もう十五年も前のことだ。俺もその頃は所轄勤務だったから、捜査を担当していたわけではないし、群馬で起こった事件だから、詳しいことは知らないが、今回の被害者遠野嘉政は当時、殺人の容疑で裁判にかけられたんだ」

「裁判?」

「人を二人殺した容疑だ。新年明けて間もない頃、群馬のぼろい廃屋で死んでいたところを発見されたんだ。当時の世間の反応凄まじかったよ。何せ、現役の国会議員に殺人の疑惑、だからな。しかし、状況証拠だけしか揃わず、当時警察も遠野嘉政がクロだと断言していたが、何故か遠野には無罪判決。悔いても悔いきれない、そんな思いをした人間は遺族だけではなかっただろうな」

「つまり、十五年前の限りなくクロに近かった加害者が、今回の被害者、ということですか」

「まさか、過去の事件が絡んでくることはないだろうがな・・・」

 今のところは判断のつかない状況だ。まだ捜査は始まったばかりだ。真実に辿り着くべく、鳥越は進むべき道を進むだけだ。

 そんな大事件が十五年前にあったとは思いもしなかった。その頃、鳥越は中学生になったばかり、そんな年頃だろうか。鳥越が思春期で他愛もないことに確執していた頃、世を騒がせた事件が存在したとは・・・情けないばかりである。現在刑事の身であるからなおさらである。当時ニュースなんてろくに見えていなかった記憶がある。真面目な少年であったはずだが、社会には興味が無かったらしい。当時のニュースを見ていれば、少なからず記憶していると思う。

「仮に過去の事件が関わってくることになると、被害者を恨んでいた人物は遺族だけでなく、仕事関係者を含め、かなりいることになる。全く、厄介なことになりそうだな」

「そうですね。しかし、十五年も前に起きた事件ですよ。事件発生から間もない時期だったら、言葉が過ぎますけど納得いきます。でも、十五年も息をひそめて待っていていざ行動に移すって、理解に苦しみませんか?」

 今回の犯行の動機が過去の群馬の別荘の事件にあるのなら、この十五年間の空白の時間は何だったんだ、という話になる。当時、殺したいほど遠野を憎んでいたとしても、十五年経ったらその怒りも憎しみも、多かれ少なかれ薄れていくものではないだろうか。無論、鳥越はそういった経緯で悲しみに暮れる類の人たちをこれまでに少なくない数目の当りにしてきたが、そういった立場に立たされたことはないため、正直分らない。永遠に憎しみの情が滅さない被害者遺族も一定人数、いや、もしかしたら百パーセントそうなのかもしれないが。

「上の判断にも因りますけど、十五年前の事件、洗い直して見た方が良いのかもしれませんね」

「そうかもな・・・」

 佇む二人の背後では、刑事、鑑識課たちが依然として忙しなく走っていた。


 鳥越と柳は聞き込みを一通り終え、本部に戻って来た。過去に裁判にかけられた元国会議員が殺された事件、ということで上層部も緊迫の様子がみられた。

「そろそろ捜査会議が始まるな」

 二人が足を踏み入れたとき、会議室には既に大人数の刑事たちが待機していた。そこに紛れて、鳥越たちは腰をおろす。まもなくして、刑事部長や参事官など、そうそうたる面子が姿を現した。

 捜査会議が始まった。鑑識課からの報告が始まる。

「階段の状態からして、階段の上から転落したわけではありません。また、腹部に痣が残っておりました。服にはおよそ二十八センチの靴跡が残っており、着衣の乱れがあったことからも察するに、犯人は被害者と橋の下で口論になり、その末に被害者の腹部を蹴り、バランスを崩した被害者はそのまま後方に倒れ、後頭部を階段の角に叩きつけた。状況から考えて、そんなところかと・・・」

初日の段階では聞き込みの結果も好ましものではなかった。それ相応の情報しか提供されなかったのが何よりの証拠だ。遠野の自宅を捜査した刑事は、特に目ぼしい手掛かりは見つからなかったというし、現場周辺の聞き込みを担当していた鳥越たち含めた刑事たちも、収穫は悪かった。

ちなみに、遠野嘉政には一人の弟がいるらしい。それ以外、家族はいないという。特に刺激のない生活を送っていたのだろう。

 全ての報告が終わり、今後の捜査方針が指示される頃、険しい顔で、刑事部長の栗松吾朗が立ち上がった。

「おまえら、よく聞け」

 栗松刑事部長の声の張り方に、鳥越は身震いした。周りの刑事たちも同様の反応を示していた。

「分ってると思うが、被害者はかつて殺人疑惑で捜査線上に名を挙げたことのある元国会議員だ。極めて慎重に捜査することを肝に銘じて捜査をしろ。分ったな」

 はい!と揃えた声が捜査会議室に響いた。

 その後、鳥越は書類の整理を手際よく片付けると、本庁を後にした。明日からは本庁で泊まりづけになるかもしれない。体力的にも精神的にも苦しみからは逃れられない日々が待っていることだろう。もちろん今までにも同様の事件は確かにあった。しかし、歳も比較的若いせいか、未だに慣れない。


 自宅に着いたときは、既に十二時を回っていた。

 鳥越の自宅は2LDKのマンションの一室だった。特に欲のない鳥越はここでの暮らしに満足している。

軽くシャワーを浴び、吸いこまれるようにベッドに転がり込んだ。携帯に手を伸ばし、電源を点けると、メールの受信履歴が残っていた。鳥越の交際相手の平本結衣からだった。受信時刻は午後十八時四十分とある。ちょうど捜査会議の時間帯だ。内容を見ると、今度どっか行こうよ、とデートの誘いのメッセージだった。

「ごめんな・・・」

 思わず呟いた。

 鳥越が刑事だってことを含め、結衣は鳥越を受け入れてくれた。それは、二人でどこか出掛けることも数少なくなることも意味する。事件を抱えているときは、会うことさえ困難だろう。それでも、結衣は「シュンのそばにいたい」と、言ってくれた。

 昔から刑事になりたい夢を追っていたことは確かだが、決め手になったのは結衣が背中を押してくれたからだ。

「私はシュンのことを絶対裏切らない。だから、シュンは自分を裏切らないで、夢、追いかけてよ。私、応援するから」

 今に至るまでの刑事生活は、この言葉が支えてくれたといっても過言ではない。結衣の心からの言葉が鳥越を奮い立たせたのだ。

それから警察学校に通うようになり、今では警視庁勤務という順調な道を歩んできているのだ。これは結衣の存在がなければ成就できなかった夢だ。

 画面には「送信完了」の文字が並んでいる。それを見届けると、鳥越は重い瞼をゆっくりと閉じた。



   2 九月十八日 火曜日



 教師の仕事に就いているのは、そして長く続けてこられたのは、自分の性に合っているからだと心から思う。昔からというと抽象的だが、思い返せば小学生の時から学校の先生になりたい夢があった。時々そのことを振り返って思い出すと、まだ三十もいっていない歳でも自分は徐々に歳を取っているんだと、ババくさい思考になることがある。

 船越結衣はJR線に乗車していた。七時過ぎは通勤ラッシュで満員だ。毎日のように経験しているとはいえ、慣れないものである。この窮屈な車内にいるときから、既に仕事が始まっていると思えば、何となく心が軽くなるのかもしれない。

 駅の改札を出ると、すぐ近くのバス停に並んだ。まもなくしてバスが音を立てて停車する。電子マネーで支払いを済ませ、吊革につかまり、鞄から携帯を取り出した。

 受信メールありの表示が目に入った。鳥越からのメールが届いていた。受信時刻をみると、十二時十三分とある。

「返信遅くなってごめん。明日から大きな事件抱えちゃった。自宅にも戻れなくなりそう。事件解決したら必ずどこか行こう。約束する。ホントにごめんね。おやすみ」

 ため息をついた。その後、静かに微笑んだ。

元はといえば、結衣がわがままを言ったことに始まる。最近、二人で出掛けた記憶が無かった。鳥越の仕事柄、そういうことが容易くできないのは重々承知だ。だけど偶には甘えてみたい、そんな軽い気持ちが溢れて昨日のメールを送ってみたのだが、どうやら大きな事件をまた抱えてしまったらしい。

 学校から近いバス停に到着する。泊まったバスを降りた結衣は、ハイヒールを地面に叩きつけながら、勤め先の学校へと向かう。

 結衣が教師として勤務しているのは城川中学校。どこにでもありそうな敷地面積、校舎、制服で良くも悪くも派手な露出が少なかった。

 正門をくぐりぬけ、玄関で靴を履き替えると、途中すれ違う生徒たちに挨拶をしながら、二階の職員室を目指す。

「おはようございます」

 職員室の扉を開けると、朝の挨拶の声を張った。既に他の先生たちは忙しそうにしていた。パソコンと向き合っている先生もいれば、資料をまとめている先生もいる。白い湯気の立つコーヒーを飲んでいる先生は・・・坂田だ。四十前の柄の良いおじさんである。担当は現代国語で三年二組の担任だった。ちなみに、結衣は英語担当で、三年四組の担任を任されている。担当しているのが同学年だからなのかは分らないが、よく話す先生だった。

「坂田先生、おはようございます」

「あら、平本先生。おはようございます」

「ずいぶんとおくつろぎの様子が見受けられますが?」

「ん?いいじゃないか、別に。朝くらいはゆっくりしていいじゃないか」

「ま、いいですけど」

 そろそろ朝学習が始まる時刻だ。一度、担任は教室を覗かなければならない。基本、学級員が仕切ってくれるが、念のためというのは何事においても大切だ。そう教頭は唱えている。

 中学生というのは、ある意味一番扱いずらい時期かもしれない。特に、中学三年生という年頃は。思春期というのは厄介なもので、意味のないことに執着し、意味のないことで笑い合え、意味のないことで傷つけ合い、意味のないことばかりをして過ごし、卒業という節目を迎える。それが青春と称するのならば、それで片付けることが可能だから、また面倒なのだ。

 教室に顔を出してから、再び職員室へと踵を返し、小規模な朝の教員会議があり、ホームルームへと移る。教員会議では学年間での打ち合わせも含まれる。そこでは、今日のスケジュール等について確認する。学年主任の三年一組の担任、木村先生によると、六時限は道徳だが、学年集会を催すという。五時限終了後、多目的室に集合するよう各組の学級委員に伝えるよう指示された。内容は他の先生たちにも内密のことだった。

「何するんでしょうね」

「さあ、僕にもさっぱりだよ」

 内容に思い当たる節が無いため結衣は訊いてみたが、坂田も知らないようだ。この時期に学年集会を臨時に開くのは、何故だろうか。生徒たちの目立つ行為があっただろうか。いじめを受けているなんて噂も特に聞いていない。暴力沙汰の噂も聞いていない。影で何かあったのだろうか。

 結衣はかぶりを振った。我が城川中学の生徒がそんな問題を起こす訳が無い。結衣は胸を張って、一時限担当の教室へと向かった。

 時間の流れ、とは早いもので、一日はすぐに過ぎていく。あと五分もすれば、五時間目の終了を告げるチャイムが鳴ることだろう。チラリと時計を見た結衣は、再び持っているテキストブックに視線を移す。

「One more time,please repeat after me・・・」

 流暢な英語で「もう一度、私の後に繰り返して」と生徒に問いかける。すると、結衣の喋った英文を生徒が繰り返す。「Ok」とその行動を讃え、「Next!」と授業を展開させる。

 アメリカ留学で培った英語力を存分に活かせるこの仕事に、結衣は誇りを持っていた。グローバル化が進む現代社会において、英語力は養うべき能力だ。他国の言語、特に英語を必要最低限使いこなせることが出来れば、就職の範囲も大幅に広がる。いろいろな意味で、英語は学ぶべき教科だと強く思っていた。それを一つのモットーとして日々教壇に立っている。

 鐘が鳴る。

英語係の女子生徒に終わりの合図を送ると、それを察した彼女は号令をする。「ありがとうございました」の挨拶を声を揃えて、皆が頭を下げると、結衣は退室し、職員室へと一旦向かった。

 お待ちかねの学年集会だ。職員室で少々デスクを整理してから、多目的室へと向かった。そこでは既に三学年全クラスの生徒が整列して座っていた。まもなくして、司会の三年一組の担任、木村先生が開催の言葉を話し始めた。木村先生は一度芸人を夢見たという話術の巧みな人柄で、マイクを渡されたら饒舌な人間であることが証明されるだろう。学年主任だから、その理由もあるが、こういう場で司会を任されることは多かった。

「今日はある先生から大事な話があるという事で、こうして皆に集まってもらったんだけど、何の話だと思う?」

 木村先生は生徒に話題を振る。ちらほらと生徒は挙手して、他愛もない答えで場を和ます。もう十分だと絶妙のタイミング、というべきかなのかは個人の感覚に頼るが、木村先生は本題へ戻す。

「あれ・・・」

そのとき、結衣は初めて一人の先生の存在が無いことを知った。無論、二組の担任の・・・。

「それでは、坂田先生、ご報告をお願いします」

すると、舞台袖から坂田が現れる。やけに嬉しそうな、まるで花園で宙を舞う蝶のようなオーラを醸し出しながら登場してきた。やがて固定されたマイクに顔を近づけ、「ご報告」を語り始めた。

「えー、実はわたくし、坂田は先週の日曜日、九月九日に婚姻届を提出いたしました」

 その瞬間、生徒たちがどよめきだす。「えー」とか、「嘘ー」とか、「マジでー」とか、色んな声が聞こえる。中には「やっとかよー」と失礼な発言をする者も。

 この報告には、素直に結衣も驚愕した。そういえば、まだ坂田は独り身だった。それさえ忘れてしまうほど、結衣が気にしていなかったといえば、坂田でも多少残念に思うかもしれない。

しかし、日々同じ学校に勤める先生の朗報というものは、すこぶる心地の良いものだ。

(既に四十を過ぎているらしい坂田先生も、ついに結婚へと駒を進めたのか・・・)

と、嬉しさや驚きの他に、別の感情を抱いていることに結衣自身が驚いていた。

 坂田が破竹の勢いで次々と飛んでくる質問を順番に解答している間、結衣は自分のことについて深く思案していた。

 結衣は今年で二十八になる。そろそろ結婚を考えてもいい時期だ。実家長野の父母も何とか健全に暮らしているようだが、どうかそのうちに娘として花嫁姿を披露したい。親からしてみれば、それこそが至上の嬉しさというものだろう。

結衣の頭の中に、必然的に鳥越の顔が浮かんだ。本庁に異動になってから何年か経つが、鳥越が新米刑事であることに変わりはない。でも、今も大きな事件を抱えているらしい。事件と衝突すれば、場合によってはかなりのリスクを背負うことになることは、素人の結衣でも想像はつく。でも、そんな鳥越を支え続けたい、そう心から願っている。そこには偽りもなければ、迷いもない。

結衣は目の前でワーワー盛り上がっている生徒たちに目を配ると、虚空を見つめ、過去の記憶を呼び覚ました。

鳥越との出会いというのも、遡れば中学時代だ。同じ部活でもなければ、同じクラスにもなったことはなかった。しかし、お互いの友達経由で知り合い、度々会話していた、そんな程度である。卒業後、二人はバラバラの高校に進学し、いつしかお互いの存在は記憶から忘れかけつつあった。しかし、二十歳のときの同窓会で訳もなく意気投合して、その後も何度か食事したりと、親交を深めていき、いつしか交際に至った、というわけである。

結衣はあのとき――同窓会で再会したとき、尋常ではない、そして今まで感じたことが無い、言葉では言い表しようのない不思議な感触を受けたことを未だに覚えていた。今思えば、何かしらの因縁によって生まれた情だったのかもしれない。いわゆる「運命の赤い糸」的な・・・。

しかし、人生何が起きるか分らないものである。中学生のときは特に何の感情も抱かなかった相手と数年後再会したら、交際に発展し、今もこうして付き合っているのだから。まだまだ長い人生捨てたもんじゃないなと、人生捨てようなんてこと思ったことないが、心の中でそう呟いた。

(あちゃー・・・)

 またババくさい思考回路が組まれてしまった。いや、「ババくさい思考回路」ではなく、「大人な女性の思考回路」と合理化しておこう。

「・・・というわけで、わたくしからの報告は以上とさせていただけます」

 いつの間にか「ご報告」は終わりを迎えていた。八割がた、いや、最初のさわりしか聞いていなかったが、まあ、ろくなことは喋っていないだろう。そうやって都合よく勝手に決め付け、水に流した。結衣の悪い癖、かもしれない。

 生徒たちが退場していく。この後からは、「ご報告」の件と重ね合わせ、「人との付き合い」について検討するように指示された。

「坂田先生」

結衣は気取った口調で呼んだ。

「ああ、平本先生」

「ご結婚おめでとうございます」

「どうもどうも」

「知ってたじゃないですか、学年集会の内容」

「え?」

「今朝、『僕にもさっぱりだよ』とか何とか言って、はぐらかしましたよね」

「あー、そんなこともあったけなあ」

 素直に認めろ!と心の中で毒づく。

「まあ、僕の意向でサプライズにしておきたかったんだよ。あの時点で知っていたのは学年主任の木村先生だけだね」

「そうだったんですか。まあ、とにかくよかったですね。結婚できて」

「ああ、人生これからだって強く思えるようになった」

「どんな方なんですか?」

「ん?それはさっき言ったでしょう。まさか、聞いてませんでした?」

「え?あ、いや、ちょ、ちょっと考え事を」

 しまった・・・と、墓穴を掘ったことに今更のことながら後悔する。

「そういや、平本先生はまだ、でしたよね。もしかして、自分の結婚について深く悩んじゃいましたか?」

 坂田は時々鋭いことを口にする。何も分ってなさそうな風にして、何でも分っているのかもしれない。

「ええ、まあ・・・」

「早いうちに結婚しておいた方が良いですよ。特に女性は。結婚して仲が悪くなるとか、倦怠期とか言うけれど、幸せな人生になると思いますよ」

「参考にしておきます」

 その後、二人はそれぞれの教室へと向かった。

 新婚ほやほやの当事者から言われると、何だか信憑性に満ち満ちているように聞こえる。経験者は語る、ってやつだろうか。無論、間違っていることは言っていない。結衣だって同感だ。けれども、鳥越はどう思っているのだろう。結婚よりも、仕事を優先してるのかな・・・と不安になる。もしかしたら、どこかのタイミングで結婚を申し込んでくれるのかな・・・と、授業中の教師らしかぬ妄想にしばし溺れていた。

 ふう、と一息つくと、一旦結婚のことは棚にあげ、教師の顔で三年四組の扉を開けた。教室内では先ほどの話題が絶えない。「静かに」と声を張っても、なかなか静まらなかった。

 ふと窓の外に視線を向けると、枝の先に小鳥が止まっていた。すぐにどこかへ飛んで行ってしまったが、その刹那に結衣は幸福を覚えた気がした。



   3 九月二十一日 金曜日



 捜査開始から何日かが経ったが、手応えのある証言は出てこなかった。栗松刑事部長の顔も難色を露にしている。そこにはもっと深い意味があるように鳥越には思えた。その正体は見当もつかないが、とても肝要で、事件に大きく貢献すべき秘密があるのではないか、そうも思えた。

二人は一課で今回の事件についてあれこれ思案していた。

「遠野嘉政、どんな人間だったんですかね」

 鳥越はふいに口にした。

「どうした、急に?」

 少し溜めてから、様々な感情を含ませて発言する。

「事件の真相を知りたいのならば、被害者容疑者含め、事件に関わっている人間の生い立ちや人柄を知るべき」

「おまえの親父の言葉か?」

「ええ、そうです。最後まで正義を貫き通した挙げ句に、殉死したバカな刑事です」

「そんな言い種はないんじゃないか?」

「だって、そうじゃないですか!」

 鳥越は大声を出してしまった。残りの刑事がビクリと反応した。謝罪の意を込めて一礼すると、ゆっくりと席に着いた。

「なに、躍起になってんだ?」

「すみません。だって、自分の命に変えてまで犯罪を追い続けるなんておかしいと思います。正義だ何だって、命あって初めて感情を抱けるんです。全ては命があるから。その命を粗末にしていいと思いますか?」

 感情的になっている鳥越とは対照的に、柳はいつもと変わらぬ厳つい表情のままだ。冷静になっているとも言うべきだ。二人の間に沈黙が流れる。鳥越は黙って柳の口が動くのを待っている。

「なるほどな・・・」

 柳はいきなり立ち上がった。鳥越は見上げる形になった。自分自身驚いている顔だと認識できる。

「おまえはまだ刑事じゃない。「刑事」という看板を良いように振りかざしている一人の民だ」

「え?」

 それだけ言うと、柳はどこかへ去って行った。他の刑事たちの視線が自分に集まっていることに鳥越は察していた。しかし、鳥越はただただ茫然としていた。柳の言葉を幾度と繰り返し心中で呟くうちに、喉から溢れ出てた。

「俺は・・・刑事じゃない」


 時計の針が進む音でさえはっきりと聞こえる寝静まった暗闇の一課で、鳥越は自分のデスクで一人、缶コーヒーを片手に柳の言葉の意味を探っていた。

鳥越の父は元警察官だった。今の鳥越と同じ警視庁に勤務するやり手の刑事だった。といっても、もう十年前のことだ。銀行強盗犯を追跡するさなか、車道に飛び出た犯人に続いていった親父は大型のトラックと衝突して死亡。まだ鳥越が高校生のときだった。

「いつか、親父みたいにカッコいい警察官になる」

 子どもの頃からこの台詞を何度繰り返したことか。思春期になって反抗期を恐れていた両親の懸念も、多少の抵抗をしたものの比較的小さな闘志で治まった。刑事になりたい、という夢だけは不変だった。母親は「遺伝子ってすごいものね」と、たいそう誇らしそうにしていた。

――しかし。

 鳥越が刑事になる前に、親父は殉職した。悲劇の連鎖は続くもので、母親も翌年病死した。高校時代一年以上親族に引き取られ、辛い日々を過ごしていた。いつまでも親戚に迷惑をかけられないため、高校卒業した折に独り立ちしたのだ。

 この激動の青春時代を送った全ての始まりは親父の殉死にあると次第に思えてきた。

――親父が死ななければ、母親も死ななかった。

――母親も死ななかったら、俺は辛苦の青春時代を過ごさずに済んだ。

 そう考えると、特に訳もなく親父が憎く思えて、尊い命を粗末に扱った親父が理解できなかった。「バカな刑事」と、鳥越は蔑んでいたのだ。

「俺は、刑事じゃない」

 柳の言った言葉の真のメッセージは一体何だったのだろうか。それを知れるときがいつかは来るのだろうか。

 理由もなく、結衣の声が聞きたくなった。縋るようにして携帯電話に手を伸ばし、彼女の番号に電話をかける。こんな遅い時間に出ないかな・・・と、時計を見ればあと十分で日を跨ぐ。若干不安になりつつも、鳥越は携帯を耳に翳してそのときを待った。

――もしもし。

「あ、結衣。寝てた?」

――ううん。まだ。そろそろ寝ようかと思ってたけど。

「そっか。よかった」

――どうしたの、急に。電話なんかして。仕事中じゃないの?

「まあ、もう大丈夫。もう寝てる奴らもいるよ」

――それで、どうしたの。

「いや、その・・・ちょっと、結衣の声が聞きたくなって」

――何それー、もし私が寝てて、そんな用件で電話してきたら半ばキレてるよ、絶対。

 結衣は笑いながらそう言った。笑顔できついことを言う結衣が結構好きだった。きついことを言いながらも、どこか照れが見え隠れする結衣が。

「ごめんごめん。実はさ・・・」

 鳥越は柳に「おまえはまだ刑事じゃない」と吐き捨てられたことをあからさまに語った。結衣はふーんと発した後、しばらく黙った。お互い電話越しに沈黙が宿る。

「俺ってさあ、刑事向いてないのかな。何年も本庁に勤めてるベテラン刑事に言われたんだよ。お前はまだ刑事じゃないって。そりゃあ刺さるよな」

――でもさ、そのベテランの刑事さんは、まだ刑事じゃないって言ったんでしょ。まだってことは、いずれかは刑事になれるってことでしょ。今のシュンにはまだ欠落している大事な何かがあるんじゃないかな。刑事って職業を遂行するのにあたって大事な何かが。

「大事な、何か・・・」

 結衣の言う大事な何かとはなんだろう。もちろん、鳥越だって自分に何かが不足しているから、柳先輩に「おまえはまだ刑事じゃない」なんてことを言われたんだと思った。しかし、大事な何かって、一体・・・。

 大きなあくびの音が聞こえてきた。

――はあ、眠くなってきた。そろそろ寝るね。

「え、あ、うん・・・」

――まあ私は、シュンは立派な刑事だと思うよ。だから、色んな事件と向き合って、ベテラン刑事に認められるような刑事になっていけばいいんじゃない?私が言えるのはそれくらい。

 その後、結衣の流暢な「グッドナイト」を最後に、二人を結ぶ電波は途切れた。しかし、心の中に発生したもやもやとした霧が少しだけ晴れたような気がした。それがどうしてか、と訊ねられると返答に窮するのだが、一番的を射ている答えは「何となく」である。

やっぱり、自分を信じてくれる大切な人を人間一人でも持つべきだな、と哲学的な結論を出した鳥越は、コーヒーの残りを全て飲み干すと、そのまま意識が遠のくことを覚えた。



4 九月二十二日 土曜日



 自分のことを呼ぶ声がする。

「おい、鳥越」

 眉をヒクリと動かし目を開ける。眩しい光のせいで、もう一度目を閉じた。そして、もう一度細く瞼をのぞかせる。やっと輪郭がしっかりとしてきた。見ると、柳の顔が飛び込んできた。

「や、柳さん・・・」

どうやらデスクの上で眠り込んでしまったらしい。時計を見ると、既に八時を回ろうとしていた。

「こんなところで寝るとはな。おまえも良い度胸だ」

「すみません・・・」

「鳥越、十五年前の遺族を訪ねるぞ」

「え・・・あ、はい」

寝起きの脳が追いつかず、いまいち状況整理のつかないまま、身体を起き上がらせた。目をこすりながら、一課を出ていく。昨日の一件は今にでも蘇るように鮮明に覚えている。しかし、今後の捜査に支障を来しては、再び柳の鋭く冷たいお言葉が飛んでくることになるだろう。できるだけは平静を装うことにした。

「先輩、十五年前の事件の遺族を訪ねるって言ってましたけど、被害者は二人いましたよね。どちらから、ですか?」

 河辺仁志の弟河辺浩大は、現在は四十代になっているはずだ。父母は早いうちに亡くなっているだろうから、被害者と一番距離の近い遺族といえるのは河辺浩大以外いないだろう。もう一人は記者の峰里大介。霊安室には編集者が駆け合ったという。遺族の明記はされていなかったが、まずは峰里大介の勤務していた出版社を訪ねるのが先だろうか。

 柳の方針は河辺家から聞き込みするらしい。二人は地下へ下りると、柳の車で目的地へと発進させた。外はシトシトと雨が降っていた。小雨とも言えないが、普通の雨にしてみれば勢力が弱い、そんなところだ。

「でも、どうして十五年前の事件を?上から、そんな命令されたんですか?」

「いや、いつも通り、関係者、現場周辺の聞き込みを指示されている」

「だったらどうして?確かに、遠野が殺された動機が十五年前にある可能性はゼロではありませんけど、確信するにはまだ早いと思います」

「この二日三日、聞き込み回っても大した情報は得られなかった。無駄な骨を折るよりかは、調べて価値のありそうなことを調べようと思っただけのことだ。当時の捜査資料も一応一通り目を通してきた」

 それから柳は、目を通してきたという捜査資料の内容をたゆみなく語り始めた。

 おおよそ次の通りだ。

――十五年前の九月十六日。

 群馬のとある別荘で男女五人のグループが宴を催していた。夜遅くまで盛り上がっていた彼らの内の一人の女が、部屋へ戻り、窓の外を見ると、市街に出る道の向こうで彼らのものではない車が停車いた。その車を運転していたと思われる人影が後部座席の方から引っ張り出してきたのは、得体の知れない大きな「物体」で、よくよく目を凝らして見ると、それが人間らしいことに気づき、女は言葉を失くした。しばらくその様子を震えながら見つめていると、誰にも使われていない既に廃屋と化した小屋の方へと「物体」をひきずり運び、人影は闇の中へと消えていった。これは尋常ではない、と耐え切れなくなった女は、皆の元へと舞い戻った。事情を説明すると、五人は懐中電灯片手に外へ出た。目撃した女の案内を頼りに、五人は団子状態になって一歩一歩足を動かす。やがて目的の小屋に辿り着くと、既に小屋の前に停車していた車は消えていた。五人は顔を見合わせ、一人の男がゆっくりとドアノブを回した。微かな音と共にその扉は開き、中へ入った。懐中電灯は部屋の奥の方をまず照らした。これといって特に何もない。窓はところどころに傷が目立つ。その隣の窓は惨さをも感じるほど大胆に割れていた。やがて部屋の中央当たりを照らす。光が標的を捉えたそのとき、五人は悲鳴と共に驚愕したのだ。二つの人間が折り重なるようにして倒れていたのである。尋常では無いことを察した一人は、すぐに警察へ通報。その後、群馬県警が現場に到着した、そういった流れである。

「そのグループも、とんだ災難に遭いましたね」

「まあな。結局、警視庁も加わって捜査することになったんだが、そこには理由があった。今言った通り、十五年前、河辺仁志と峰里大介が発見されたのは群馬の別荘。しかし、本当の犯行現場は東京だったんだ」

「え?つまり、遠野は東京で殺してから、車に死体を積んで群馬まで運んだわけですか?」

「そういうことになるな。何といっても驚いたのが、その本当の殺人現場というのが、大横川親水公園だったことだ」

「え!ホントですか?」

「ああ、捜査記録には確かにそうあった。一つの証言が功を奏したらしい。その後大がかりな捜査の末、血液反応も出たらしい。まあ、そこはさすが日本警察と呼べるかもな」

「十五年前と今回の事件の現場、日にちが一致している。こんな偶然ってありますか」

「犯人は遠野がどんな形でも良いから罪を打ち明けることを望んでいた。しかし、その希望は叶わず、犯人は遠野殺害に至った」

「今のところ、何とも言えないけどな。少なくとも、俺は今回のヤマの動機は、必ず十五年前にあると信じている。それに・・・十五年前の事件を洗い直そうと決めたのには、理由が他にもある」

「他にも?」

柳の続きの言葉を鳥越は静かに待つ。少し躊躇いがちに柳は口を開いた。

「事件の真相を知りたいのならば、被害者容疑者含め、事件に関わっている人間の生い立ちや人柄を知るべき、だからな」

 まさかの発言に思わず視線を、煙草くわえた柳の口元に移した。そして小さく、ありがとうございます、と小さく呟いた。

車窓を覗くと、街路樹が次から次へと視界の端へと消えていく。以前ここを通った記憶がいつのものか定かではないが、今ひとつ活気のない葉の色が時の刹那を感じさせる。

「鳥越・・・」

やがて、寡黙の柳が珍しく口を開く。とはいえ、柳は必要最低限のことは喋らない主義だ。仕事関連の話題に置いても、あまり胸の内を明かさない。鳥越は耳だけ傾けることにした。

「今回の事件、一筋縄でいくヤマじゃないぞ」

「え、それはどういう?」

「いや、分らない。長年の刑事の勘がそう言ってるだけだ。ただの取り越し苦労で済むといいんだけどな」

 鳥越の耳には、その言葉が妙にひかかった。何故か理由は自分でも分らない。ただ共感した、それだけのことかもしれない。

都心から外れると、閑静な住宅街が並ぶのが雰囲気で解る。

 まもなくして、目的の渡辺家に辿り着く。木造の一軒家で一階が酒屋になっている。どうやらここで生計を立てているらしい。雨に降られながら入口へと走っていき、中を覗くと、カウンター席に一人新聞を読んでいる男がいた。それ以外に客も含めて人の気配はなかった。鳥越たちは「御免下さい」と言って、存在を知らせる。

「いらっしゃい」

 低い声が店内に響く。鳥越はどこか懐かしさを覚えた。どうやら刑事をしているうちに、人間本来の純粋な心を忘れかけてしまっているのかもしれない。捜査の延長線上に、刑事と一般人の境界線を特殊な形で感じた鳥越であった。故に田舍くさい、といったらそれこそ心無い人間の使う言葉だが、そんな感傷的な気分になったのかもしれない。

「河辺浩大さんですよね」

「そうですが・・・」

 一期に警戒の色へと顔色が変わる。尋常の客じゃないことを一瞬にして悟ったらしい。そこに深い疑念は抱かなかった。同様の反応は珍しくない。

「警視庁の者です。兄の仁志さんのことについて少しお話を聞きたいのですが」

「仁志のことを・・・」

「驚きなのは十分承知です。十五年前の事件について再検討しているんです。協力していただけませんか?」

 浩大は少しの間躊躇している様子を見せたが、構いませんが、と言って応対してくれた。

「暇だから、ここで済ませよう」

「いいんですか?」

「どうせ暇な身だ」

 浩大は自嘲を込めた苦笑をした。

「遠野嘉政、この名前を覚えていますか?」

「ふん、忘れたことなんて一時もあるわけないだろう」

「そうですか。言わずもがなのことですが、十五年前、あなたの兄仁志さんを殺害した容疑がかけられた人物、その遠野嘉政が先日亡くなったのは御存知でしたか?」

「ああ、ニュースで見たよ。殺されそうだな。ま、当然の仕打ちを受けた、ただそれだけのことだ」

「と、いいますと?」

「これこそ言わずもがなのことでしょう。奴は罪を犯した。この事実は揺るがない。十五年経った今、やっと天罰が下ったんだ。死人に対して失礼だけど、やっと肩の荷が下りた気がして、少しは楽になったよ」

「そう、ですか・・・」

 鳥越は発する言葉がすぐに出てこなかった。俯く姿を見て、それが合図かのように柳が訊ねる。並べられてあるビンの酒を眺める目はそのままだ。

 威勢のいい「いらっしゃい」の表情とは全く別物の顔色である浩大の様子を見て、警察に対しても腹を立てているように感じる。警察が物的証拠を提示すれば裁判を立ち上げることができ、少なくとも今とは違う未来が望めたかもしれない。いや、そうに違いないだろう。そういう意味では浩大の怒りの理由も納得はいく。そのうえ、十五年も経った現在になって再び過去のことをほじくらされて、浩大からしてみれば溜まったものではないのだろう。しかし、真実を明かすには、これくらいの犠牲、とは言えないが、抵抗を無視することも大事だということだ。もしかしたら、それもスキルの一つかもしれない。

「ちなみに、河辺さんは四日前の午後九時から十一時の間、どこで何をしていましたかね」

「アリバイ調査、という訳ですか」

「形式的な事です。協力してください」

「ふん。今に至っても警察組織っつうのは、こうも横暴なのか。まあいい。その日は夕方過ぎまで出かけていて、ここへ帰ってきたのが、八時過ぎだったかな。それからはずっとここにいたよ」

「証明できる人はいますかね?」鳥越が訊く。

「いるわけないだろ。俺一人で住んでんだから」

 鳥越は必死で右手のペンを走らせてメモをする。多少汚くても、読めればいい。とか言って、自分でも読めなくなるほど崩れることがある。それはさておき。

「河辺さん。我々は遠野嘉政が殺された今回の事件の原点は、十五年前の例の事件にあると考えています」

 河辺は黙ったままだ。

「そこで、もう一度遠野嘉政という人間について、過去の事件について洗い直そうと考えているんです。とはいえ、他の刑事たちがどう動いているかは知りません。僕たちだって、上司からの命令に背いてのことです。真実を知りたいんです」

「そこまで言われてもね、僕が特別に知っているわけではない。質問されて答えることができれば答えられるが、それでもいいかな?」

「構いません。では、早速。今でも、十五年前の犯人が遠野嘉政だったと断言できますか?」

「胸を張って言えるな」

「では、それを前提に話を進めますね。遠野があなたのお兄さんを殺害し、遺体はとある病院の霊安室に運ばれたと思われます。捜査記録には弟であるあなたが立ち会ったとありました。遺体を目にするまでの経緯をできれば詳しくお話ししてくださいますか?つまり、警察から訃報があなたに入るまで、ということです」

 鳥越が頼みの言葉を言い終わると、河辺浩大は一度瞳を閉じてから、当時を偲ぶように深みのある物言いで語り始めた。


       *


「行ってくるね」

 後になって痛感するが、これが最後の兄との会話だったのだ。

 前の季節とは少し違った、物寂しくも冷たい秋風が吹き始めた頃だった。いつものように兄の河辺仁志は努めている会社へと家を出て行った。

 河辺浩大と仁志は二十歳前に父母を亡くし、それからは二人で住んでいた。父の生命保険のおかげで古いが一軒家に暮らせることができている。一階は酒屋になっており、弟はそこを一人で経営して、兄の稼ぎと合わせて生計を立てていた。

 その日も、いつものように仁志は一サラリーマンとして通勤していったのだ。異変を感じたのは通常なら帰宅している七時過ぎになっても、帰ってこなかった頃からだ。とはいえ、どこかで油を売っているのだろうと、特に心配はしていなかった。しかし、刻一刻と時は過ぎるうちにその不安は大きく膨れ上がっていった。九時、十時、十一時・・・。ついには日を跨いだ。何回も携帯から連絡を試みるが、虚しい音がツー、ツーと流れるだけ。向うからももちろんなしのつぶてであった。

 電話の着信音が殺伐としたリビングに響く。

 さすがにまどろんでいた浩大は、すぐに飛び起きた。鳴りだした携帯を急いで手に取ると、画面に現れた「仁志」の文字を認めた。

「もしもし、仁志か!」

「残念ながら、仁志さんではありません。警察の者です」

「は?」

 全く状況の理解が追いつけない。仁志の携帯から何故警察の人間が相手に出るのか。浩大はその場で固まった。

「・・・仁志が、死んだ」

 その事実を突きつけられたとき、浩大は唖然とした。虚実であることを瞬間的に祈ったが、そうすることによって逆に偽りのない真実だということを痛感させられた。

 訃報を耳にした日の朝には、浩大は東京のとある病院の霊安室にいた。

 刑事からはかいつまんで事情を知らされたが、まともに耳に入りはしなかった。目の前で瞳を閉じて眠っている兄をずっと凝視していた。眠ることができずに一睡もしていない瞼の重みをも忘れるほど、その光景が目に焼き付いてくる。

「仁志・・・」

 何故か、涙は一粒も溢れはしなかった。前日まで生きていた人間が、次の日にはこの世にいない。この一文が頭に浮かんでも、他人事のように思えて、特別な情も込み上げてこなかった。

浩大が部屋を出ると、刑事が待ちかまえていた。

「お気の毒なところ申し訳ないのですが、質問させていただいてもよろしいでしょうか」

 全然気は進まなかったが、仕方なく応じた。浩大は刑事の問いに素直に答えた。河辺家の事情や昨日のこと。どうやら警察は浩大の事も少なからず疑っているようだ。初期捜査においては万人を相手に捜査していることをよく刑事ドラマで目にする。不愉快ではあったが動じずにいた。

「実はお兄さんは、群馬のある廃屋で遺体となって発見されたんです。群馬には何かゆかりがありますか?」

「群馬?・・・いいえ、全く」

 群馬の廃屋で死んでいた。どうして仁志はそんなところで・・・浩大の疑問はおそらくこの刑事も抱いていることだろう。

「それから、驚くことに、もう一人亡くなっていたんです。折り重なるようにして」

「は?どういうことですか?」

「そのもう一人の遺体は峰里大介という新聞記者だったんです。この名前に心当りは?」

「峰里・・・知りません」

 もちろん、本当のことだ。初めて聞いた名前だ。仁志が名前も知らない男と折り重なるようにして死んでいた。いまいち想像ができずにいた。想像したくないだけなのかもしれない。しかし、仁志は峰里とかいう男と面識があったのかもしれない。

「今後もご協力いただくかもしれませんが、そのときは宜しくお願いします」

「はい・・・」

 病院を出て、ふと東の空を見ると、既に陽が高い位置まで昇っていた。広がる青い空を仰いでいるうちに、枯れ葉を運ぶ風が頬を叩いた。その風を感じたとき、初めて自分が独りになった身であることを知らされた気がした。


       *


 あの風の感触は今でも脳裡に蘇ることがある。十五年前の一時が昨日のことに思える日も少ない数あった。

「まあ、ざっとこんなもんだな」

「ありがとうございます。よく分りました。改めて、ご愁傷様です」

 浩大は軽く会釈した。礼を言われるようなことは何もしていないが、こうして頭を下げてくれる刑事を見て、世の中捨てたもんじゃないな、と憎み恨んでいた警察組織の温もりに時代の移ろいを感じた。

「それでは、十五年前、あなたのお兄さんが遠野に殺される理由について、何か心当りは?」

「さあ?今までに兄のゆかりのある人間を自分なりに調べたりしたがね、見当もつかないままだ。国会議員なんて人間と付き合いがあったなんて、そんなこと耳にしたことも無かったからな。まあ、実際どうなのかは知らんが」

「面識もない人間に殺された。つまりはそういうことですか」

「まあな」

「では、遠野嘉政が殺害された理由については、どうお考えですか?」

「愚問だな。十五年経った今でも、奴の魂を地獄の海へと沈めてやりたい、俺みたいな人間がいるくらいだ。遺族以外の人間でも奴に恨みを抱いていた人物は、あんたらが想像している以上にいるだろうよ。これは然るべき結末だ。下るのが遅すぎる天罰だよ」

 二人の刑事は礼を言って、失礼しますと言って酒屋から出て行った。

 自分以外いない静かな店内に戻り、浩大はゆっくりと息をつく。さっきの刑事が来たとき、警戒と共に苛立ちが胸の中に湧きあがってきたが、十五年前のことを偽りなく赤裸々に語った後は、どういう訳か心朗らかだった。相手がだれであろうと、自分の苦しみを分かち合うと、多かれ少なかれ晴々とした心になれるのかもしれない。

「遠野、嘉政か・・・」

 浩大は自分の抱えている、まだ伝えていない事実をどういう路に辿らせるべきか迷っていた。何もせずにいれば、いずれかは知られてしまうだろう。しかし、それも一つの結末と受け入れる、そう腹を決めた。自分の知る真実が白日のもとへ晒されないことを、浩大はただ願うだけだ。

 浩大は咳払いをして、再びレジ席で新聞を読み始めた。



5 九月二十二日 土曜日



 河辺家を出て、鳥越と柳は再び車に戻った。中途半端な勢力の雨は止みそうにない。柳は運転席に腰をかけると、煙草の箱から新しい一本を取り出し、それに火を灯した。さすがヘビースモーカーのことだけはある、鳥越は心の中で少し笑った。

「どうですかね、河辺浩大」

「まあ、嘘は付いていないだろうな。特に疑う要素はない」

「しかし、当然の仕打ち、とか天罰とか、結構死者に対して酷いこと言ってましたけど」

「遺族はそんなもんだろう。実の兄が殺されたんだ。あういう様子が、河辺浩大が純粋な人間だと証明してくれる」

「そうですね・・・これからどうしますか?」

「一応、河辺仁志のかつての勤務先を当たりにいこう。『染谷建設』ってとこだ。何か分るかもしれない」

「十五年経つはずですけど、潰れてないんですか?」

「ああ。そこそこ大きな墨田区にある会社だ。社長も若いときに就任したらしく、未だに変わっていない。当時の話が訊ける可能性は十分にある。スカイツリーあたりだろうな」

 さすがベテラン刑事である。そういった情報をいつ仕入れたのかは知らないが、全て頭に入っているのだろうか。

 それから二人は黙った。

 柳は基本的に必要最低限のことしか話さないため、世間話の「せ」の字も発さない。それだけ仕事に身が入っているということだから、鳥越は特に気にせずにいるが。

 この空間をただ「沈黙」で済ましては、時間の無駄だ。鳥越はこれまでのことを踏まえ、少し考えてみることにした。

 十五年前、果たして何があったのか。群馬の古びた小屋で河辺仁志と峰里大介が遺体となって発見されるまでに何があったのか。この被害者たちは、お互いのことを知らなかった。まだ峰里の関係者を訪ねていないが、当時の資料にも残っていたらしいから、それは事実なのだろう。そうすると、仮説が浮かび上がる。

 一つは、河辺仁志と遠野嘉政がお互いを知っていたケース。だが、この二人が繋がりそうな共通項はない。プライベートで関係があったのか。それもないだろう。歳も離れているし、はっきり言って暮らしが違う。

一方の、峰里大介と遠野嘉政が顔見知りだったというケースも有り得ない事はないが、可能性は低いだろう。新聞記者と国会議員が繋がるなんてこと聞いたことない。さらにこちらもプライベートでの繋がりはゼロだろう。

となると、AがBを知っていた。しかし、BはAを知らなかった。この微妙な関係が当てはまりそうだ。Aが誰であれ、遠野嘉政はBに当てはまる。テレビ越しに存在を知れるだろうからだ。しかし、直接顔を見た、という条件を加えるならば、Aは峰里大介が妥当だろう。新聞記者という仕事柄、遠野嘉政にマイクを向けたことは一度二度に限らずあるのではないか。

以上の事から、遠野嘉政と峰里大介の二人にスポットを当ててみる。峰里側からすれば、現職の国会議員の汚職事件はかなり旨い話になる。ジャーナリストは皆そうだろう。国会議員、そして新聞記者。この二つの職業を兼ねて何か想像してみて、と問われれば、汚職に辿り着く者は少なくないと思う。

つまり、峰里は遠野のダークな情報を密かに入手していた。それを餌に遠野を吊ることはできるだろう。その秘密を突きつけられた遠野は衝動的に峰里を殺めてしまった。ここで登場するのが河辺仁志だ。その光景を偶然にも目撃してしまったのだ。それに気付いた遠野は口封じのために河辺仁志も殺した。このままではさすがに危険だと、保身のため地位のため、この事実を抹消しようとしたのだ。二つの遺体を自分の車に乗せ、あてもなく北上するうちに群馬のとある森の中へと辿り着いた。五人の男女が集っていた別荘は暗闇と一体化したため、遠野の目に入らなかったということにしておこう。最初に発見した女も、電気は付けずに月明りだけで、遠野の様子を見つめていたらしいから、おそらく気付かなかったのだろう。気付いていたのなら、他の場所に遺体を投棄するはずだ。

 どことなく違和感が含まれる仮説だが、筋は通っているのではないだろうか。被害者二人同士が面識のなかったことも納得はいく。現在向かっている河辺仁志の職場は墨田区にあるらしい。現場の大横川親水公園もそのあたりだ。もしかしたら目と鼻の先にあるのかもしれない。仕事帰りにその光景を目撃してしまったとしても何の不思議もない。

 しかし――鳥越は思った。

 十五年経った現在、鳥越のような経験の浅い刑事でも、少々頭をひねれば組み立てることが可能な仮説だ。この仮説に大きな間違いはないと感じる。簡単にいえば、この推理に自信がある、ということだが、となると一つの疑問が湧いてくる。どうして当時、物的証拠が見つからなかったのだろう。鳥越のような推理をした刑事は必ずいたはずだ。そうしたならば、どこかで物的証拠が見つかるはずだと思う。いくら調べに調べても、それらしき証拠は浮かんでこなかった、と言われれば、そうですかと仕方なく返事するしかないのだが、鳥越にはもっと大きな秘密が隠されている気がしてならなかった。

(まさか・・・)

 推理を一旦初めの方へ戻す。峰里大介が殺されたのは遠野嘉政の知ってはならない情報を仕入れたため、そして、それを遠野本人に提示したためである。その「知ってはならない情報」が、とんでもない事態が引き起こされる事が想定される秘密だとしたならば・・・。

「先輩」

 鳥越は思わず隣で運転する柳を呼ぶ。無論、返事は返ってこないが。

「当時、遠野関連の噂ってありましたか?それもかなり深刻な」

「お前も、そこまで辿り着いたか」

「え?」

「おそらく、俺もおまえと同じことを考えていた。これまでの事情から推理すると、それこそが十五年前の事件の核心だと理解できるからな」

 柳も推理をしていたのか。鳥越と同じように。ただ沈黙を貫き、ただ運転に集中しているだけではなかったのだ。さすが本庁で何年も事件と向き合ってきた刑事だ。鑑とも称せる柳に、鳥越はこれまでになく敬意を抱いた。

実は、と柳は話を切り出す。

「遠野には不正投資の疑いがかけられていた。おおよそ三千万だ」

「さ、三千万!何に使ったんですか?」

「まあ、どっかの会社に内密に金を流していたってとこだろ。検察も腕を揮って遠野を叩きつぶしに行ったが、特に何の手がかりも出てこなかった。それよりも、厄介なのは当時警察内部で話題に上った噂だ」

「警察内部で?」

「とはいっても、一部のマスコミにも流れ出たといえば流れ出たんだが、その不正投資に警察官が関わっている疑惑が浮上したんだ」

「け、警察官が?」

「ああ、警視庁上層部だけではなく、監察官をはじめ、警察庁の人間までもが震撼した。未だに誰だか分っていない。いや、もしかしたら上層部は把握しているのかもしれないが、公表はされていない。まあ、そうだろうな。警察の信用ががた落ちになるからな」

「そんな、ことが・・・」

 十五年前、様々なメディアによって大々的に報道された大事件の背景には、警察内部が酷くざわつくほどのもうひとつの事件が在ったのだ。

 再び沈黙が襲ったが、まもなくして「着いたぞ」と柳の声がした。十階近くある大規模な会社だった。十五年経った今日でも潰れずに経営されていることにも納得がいった。

 受付の女性に警察の人間だということを知らせると、「少々お待ち下さい」と言って、どこかに電話をかけた。会社上層部にコンタクトを取っているのだろう。やがて、受話器を置いた。

「失礼ですが、案内の者が来るまでお待ちいただけますでしょうか」

 二人は了解し、少し離れた柱の前で待機した。やがて、眼鏡をかけ、四十後半といったところだろうか、しかしまだ若々しさが残る顔をした男が「お待たせしました」と現れた。エレベーターで最上階まで昇り、案内されたのは使われていない会議室だった。「どうぞ」と椅子を薦められ、言われるままに二人は腰をかける。その後渡された名刺によって、この男が「西森」という男だと知った。

「少々お待ち下さい。社長をお呼びしますので」

 西森はすぐに一人の男を連れて戻ってきた。社長らしき人物は髪の毛にところどころ白いものが目立つが、まだ体力のあり余っている男前の体格をしていた。

 鳥越たちは一度立ち上がった。

「この会社の社長の染谷です」

「警視庁捜査一課柳です」

「同じく鳥越です」

 簡単な挨拶を済ませると、三人は静かに座った。西森は立ったままだ。

「一体、どうしたんですか。この会社に何か御用ですか?」染谷社長が訊ねる。

「十五年前、この会社に河辺仁志という人間が勤務していたと思うのですが、どうですかね?」

「十五年前ですか・・・おい、西森」

「かしこまりました」

 そう了承した西森は退室した。名簿で確認するのだろう。十五年前、という単語を柳先輩が発したとき、染谷の顔の色が微かに変わったことを、鳥越は見逃さなかった。何か隠している、そうも想像した。

「しかし、驚きましたね。今になって十五年前の事件について、ですか」

「ある事件の捜査の一環ですので、お気になさらずに」

 五分もしないうちに、再び扉が開いた。西森は片手に分厚い資料を持っている。

「この方ですね」

開かれたページの氏名欄には確かに河辺仁志とあった。鳥越は初めて河辺仁志の顔を知った。当時はまだ二十半ば、鳥越とほぼ同じくらいの年頃だ。人生これからというときに、想いよらぬ悲劇に遭ってしまったのだ。同情してあげようとも、虚しく儚いだけのような気がしてならない。遠野嘉政という愚かな人間の存在が消えたことにより、空の上から弟を見守る河辺仁志の心は少しでも晴れやかになったのではないか。

「この方がどうかしたんですか?」

「この河辺仁志と同僚で、今でもここに残っている人間はいますかね。つまり、河辺仁志のことを知っている人間、ということになりますが」

「十五年以上前から、ですか・・・。この会社でも支店含めれば総数五千人は越える人数を抱えています。一人一人の二元を把握しているわけではありませんからね。そのうえ、十五年も昔のこととなると、お手上げですよ。名簿にもあるように、彼は当時経理部だったらしいですね。同僚が今でもここに勤めていることは、あまり望めませんが・・・」

 注意深く名簿を読んでみると、当時河辺仁志は管理本部の経理部を任されていたらしい。会社の売り上げ、支払いの記帳、請求書発行など、重大な任務であることは間違いない。河辺仁志に仕事をこなす腕があったことを意味している。

「西森、おまえはどうだ」

「そうですね、黒谷という者は昔からいますね」

「ああ、黒谷君のことか。そうだな。黒谷君なら私が会社を立ち上げたときからいるから、何か知っているかもしれないな」社長も頷く。

「それに、現在も経理の仕事を任されています。もしかしたら、以前その河辺仁志という人間とも関わりがあったかもしれません」

「できれば、呼んできてもらいませんか」

「はい、分りました」

 多少のめんどくさいという気持ちは表情からして垣間見える。すぐに黒谷という女を連れてきた。君付けしていたため、てっきり男だと決めつけていたが、実際は女性だった。四十を過ぎていると思うが、まだ若さが漂っている顔立ちで、清楚な雰囲気が場を和ませてくれる。

 同じように軽い自己紹介をして、本題に移る。彼女は黒谷悦子という名前を持つ。

「河辺仁志、という人物を御存知ですか」

 柳はストレートに訊く。

「え・・・」

 黒谷は大きく瞳を見開き、右手を口元にあてた。微かに震えも見受けられる。知っている、と判断した鳥越は、催促を込めつつ配慮する。

「大丈夫ですか?ご存じなんですね?」

「ええ。・・・昔、付き合っていましたから」

「え、河辺仁志と、ですか?」

 黒谷は頷く。

「彼と私は同じ経理部にいたんです。歳が近かったので、話しやすくて、いつのまにかそういう関係に・・・」

「では、御存知かと思いますが、彼が亡くなったとき、あなたはどう感じましたか」

 黒谷は瞳を閉じて、胸に手を当て、そのまま固まった。

こんな不躾な質問をしている鳥越自身本当に気の毒に思っているが、真実追及のため、守るべき国民のため、痛む心を抑えて訊ねているのだ。

「連絡をいただいたとき、本当に驚きました。どうして仁志さんが殺されなければならなかったのか。どうしてこんなことになってしまったのかと・・・」

「彼を最後に見たのはいつですか?」

「あの日です」

「というと、彼が発見された日、つまり九月十六日ですか?」

「ええ。仁志さんは会社に残って残業していました。熱心に仕事に取り組む姿が、私には宝石のように輝いてみえました」

 弟をしっかりと食わせてやろうという兄弟愛が鳥越には伝わってくる。当時の河辺仁志にそんな気持ちが無かったとしても、ひたむきに努力する人の姿は美しい。次第に、鳥越の胸の奥で何かが動いたような気がしてきた。

 小さい咳払いをして、気を立て直してから黒谷に訊いた。

「つまり、あなたが帰るタイミングでは河辺仁志はまだ仕事をしていた、ということですね?」

「はい」

「そうですか。では、河辺仁志の帰り道ってご存知ですか?」

「確か、いつもすぐ近くの公園まで行って、その公園を北上して駅まで歩いていた記憶がありますけど」

「それって、大横川親水公園ですか?」

「ああ、そうです」

 鳥越と柳は眼を合わせた。これで仮説の信憑性がいくらか強まった。十五年前の九月十六日、河辺仁志は残業を終えた後、いつものように大横川親水公園を歩いて帰っていた。そこで、遠野嘉政と峰里大介の口論、そして峰里の死を目の当りにした。河辺仁志の存在に気付いた遠野は彼の口封じにかかり・・・といった流れだ。

 鳥越と柳は染谷社長を含め、三人に礼を言って、染谷建設を後にした。鳥越の提案で、もう一度現場を調査しておくことにした。現場こそ事件の原点であり、どこかしらに何かしらの手掛かりが・・・とはいっても、正直期待はしていなかった。鑑識課が細部に渡る細部にまで捜査の手が及んでいるであろう。新しい糸口が見つかる可能性は低いと決めつけていた。一応、先日起きた事件、そして十五年前の事件の現場を再度確認しておきたかった。

「ここで遠野嘉政は殺されたんですよね」

 上を車が行き交う橋の下で片手傘を持ちながら言った。近くのコンビニで買った安いビニール傘だ。柳も同じものを買って持っている。

夜になると、特に日が短くなってきたこの時期、この辺一帯は暗闇に包まれるのだろう。街灯があるにしろ、歩いて通ろうとは進んで思わないと思う。

「そして、あの階段に・・・」

 鳥越は一連の動作をイメージした。

「衝動的な犯行だろうな。口論の末、蹴り倒した。もし、そうじゃないなら、凶器を持っていたはずだしな」

「そうですよね。そういえば、犯人の足のサイズって二十八センチですよね」

「結構でかい足の持ち主だな。俺だって二十七だぞ。まあ、いまどきの中学生、高校生でも大きい人ならそれくらいはあるらしいな」

「そうですか・・・」

 辺りを見渡す。濡れた地面を舐めまわすように観察眼を光らせた。期待薄と分っていても、その少ない希望に懸けてしまう。それは刑事として、というよりも人間としてといった方が適正なのかもしれない。「ダメ元」でチャレンジしてみる。その後ついてきた結果が望んだもの、あるいはそれいじょうのものだったったとしたら、その「ダメ元」の精神とそれによって生まれた結果にはすばらしい価値が与えられる。その信念がときに幸運をもたらすこともあるのだ。

やがて、鳥越の眼は小さな何かを捉えた。橋の端の柱と石の階段との狭間にそれはあった。

(ん・・・?)

 近寄って見てみる。そしてポケットからグレーのハンカチを取り出し、しゃがみこんでそれを掬う。見てみると、それはボタンであった。真ん中に模様が刻まれている。現段階でその模様の正体は判断つかない。しかし、その小さな手掛かりからは、哀願や切願といったような大きな想いが伝わってくるような気がした。それは真実という出口へと続く、長い洞窟の途中で差した一筋の光とほぼ等しく感じられた。

 ハンカチの上に乗った一つのボタンを黙視している鳥越の前髪を、冷たい秋風が静かに揺らした。

雨はまだ止んでいない。しかし、向こうの空が少しばかり晴れているのは、何かを象徴しているのかもしれない。



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