序章 昔日の少年
「豪兄、早く行こう」
「ちょっと、待てよ」
玄関で靴を履いた美吉蓮治は、「早く早く」と跳ねている。やっと来た豪兄――本名國又豪なのだが、蓮治が「ゴウニイ」と呼んでいるのだ――に満足したのか、さっきの不満そうな表情から豹変し、笑顔を見せた。
蓮治の冬休みに入ってから、最初の土曜日。この冬になって、未だに東京での初雪がみられない。温暖化というものを真剣に考慮すべきではないか、画面の向こうで専門家はそう語る。
今日は晴れた。でも、風は冷たい。今朝の天気予報が言うに、氷点下まで下がらないものの、厚手をしないとさすがに耐えられない。とはいえ、子どもというのは元気なものだ。「子どもは風の子」とは、よく言ったもので、國又はつくづく感心させられる。
二人は最寄りの公園に足を運んでいた。いや、正確には自転車で行ったから、「足を運ぶ」という表現はよろしくない。
「あ、蓮治だ」
同じ一年生の友達の一人が寄ってきた。
「今、サッカーやろうって思っていたところだから、早く来いよ」
「じゃあ、行ってくるね、豪兄」
そう言って、走っていく背中は愛嬌があって可愛らしい。その姿を見送って、近くのベンチに腰を下ろした。昨晩から熟読しているミステリー本を取り出し、読み始めた。
この公園には、蓮治を一人で行かせてもいいことにはいいのだが、常に心配りしないと、いてもたってもいられなかった。両親を亡くした事実さえ記憶にない蓮治を、下手に一人にさせるのは忍びなかった。
(それに・・・)
國又は誓ったのだ。蓮治の父、そして母が亡くなったとき、自分が一生を懸けても守り続けると。綺麗事に聞こえるかもしれないが、汚れなき本心である。
血のつながりもない國又が引き取ったのは、かつて蓮治の父親と親しい仲だった故である。引き取ってくれる当てがどこも見当たらず、國又が覚悟を決めた次第である。そのとき蓮治は、まだ生まれて間もない時期である。
――大切なものは、失くしてから気付くものですね。
この台詞は、この本のクライマックスにあった。追い詰められた犯人が自供し、ふとこの言葉を口にした、といったところだろう。國又には心の芯にまで響いた。理由は國又自身想像もつかない。
冬の昼は短い。四時半――空の翳りが見え始めた頃まで、ついつい読書に耽ってしまい、蓮治の看視を怠っていた。ふと顔を上げると、一緒に遊んでいた同級生の友達の姿はあるが、蓮治の姿だけ見当たらなかった。
「どこ行ったんだ」
瞬間的に不安が込み上げてきた。慌てて、その友達たちに訊ねた。
「蓮治、どこ行ったかな」
「蓮治なら、知らない女の子と一緒にいたよ」
一人の男の子が答えた。
「知らない女の子?」
「うん。知らない女の子」
「どこで見たかな」
「川の方」
「川の方だね」
「うん」
「ありがとう」
礼を言って、走り出した。知らない女の子とは誰だろう。何故蓮治がその女の子と一緒いるのか。とにかく、無事でいてくれと願うばかりだった。
「蓮治!」
川までやってきた國又は、川の前に立っている蓮治を発見し、大声で叫んだ。その声に気付くと、蓮治は振り向いた。「よかった」と安堵の声を漏らし、近寄っていった。
「何やってたんだ、こんなところで・・・ん?」
途中、蓮治の服がびっしょり濡れていることに気付いた。
「どうしたんだ?何で、こんなに濡れているんだ?」
「これ、洗濯して」
今まで気がつかなかったが、蓮治は右手に黄色いハンカチを持っていた。「これ」というのは、自分の着ている衣服ではなく、このハンカチを示しているのだろう。
「何だい、それは。拾ったのか?」
「いいから、洗濯しないとだめ」
そう言った後、蓮治はくしゃみをした。
「その前に、蓮治の洋服を洗濯しないとだな。話は帰ってから聞くから、早く帰って、着替えよう」
國又は蓮治の身を最優先し、すぐさま連れて帰った。家に着くやいなや、着替えさせ、風呂を沸かした。蓮治はくしゃみを連発していた。
(風邪引いたか・・・)
蓮治が風呂に入っている間、國又は自分の看視の甘ったるさに情けなさを感じた。やれやれ、と頭を抱える。
風邪で済めば良かったものの、夕食のさなかに、蓮治が寒さを訴えてきたため、試しに体温計で測ってみると、三十九度の高熱を数値は示したのだ。驚く間もなくすぐに寝かせた。
「明日、お医者さんに行こうな」
「・・・うん」
高熱で赤みを帯びた頬を緩ませて、蓮治は笑ってみせた。それに答えるように、國又も笑顔を作ったが、何故ずぶ濡れ姿になってしまったのかが一番知りたかった。
「どうして、あんなに濡れたんだ?川で遊んでいたのか?」
「ううん」
「じゃあ、どうして濡れたんだ?」
「内緒」
「蓮治が持っていたハンカチは、どうしたんだ?」
「内緒」
「全部内緒じゃあ、豪兄分らないだろう」
どうして、蓮治が「内緒」にするのか全く理解できない。これまでこんなこと一度もなかったから、余計に気になる。それよりも、今は蓮治の高熱が治癒してくれることを願うだけだ。「ゆっくり休めよ」とだけ残して、國又は寝室の扉を閉めた。
「はあ・・・」
例の黄色いハンカチは、蓮治の言うとおり、洗濯しようと思っているが、誰のものなのか、それさえ分らぬままだ。
(そうだ)
國又はハンカチに名前が示されているのではないか、そう閃いたのだ。咄嗟に洗濯籠の中から、ハンカチを取り出した。
豪はもちろんのこと、小学一年生の蓮治にとって、将来思いもよらぬ形で、この黄色いハンカチの持ち主に会うとは夢にも思わなかった。無論夢のような話である。