2,フラグ
夕月はとても可愛らしい。それは僕にとって当たり前のことであり、例え夕月の容姿がお世辞にも美しいものではなかったとしても、やはり僕にとって夕月はとても可愛らしい少女だ。
何の血の繋がりもない赤の他人である僕でもそう思うのだから、彼女の実の両親である二人は僕以上に夕月のことを大切に思っているし可愛がっている。目に入れても痛くないほどの溺愛っぷりは親馬鹿と言うほかなく、そんな二人にとって可愛い娘――しかも手足に障害がある――のために僕という世話係を用意するのは当然のことだったのだろう。ただ、当時はまだ僕も夕月も小学生だったとはいえ世話係に異性を任命するのはどうかと思う。そのおかげで僕は夕月の傍にいることが出来るため文句などあるはずがないが。
そんなわけで、僕と夕月の関係は幼馴染み兼主従といったところだ。僕は彼女の世話係で、すなわち従者や執事と言ってもそれほど間違っていない。実際、夕月の生まれた綾小路家は世界中に支社を持つ超大手企業を創設した一族であり、夕月の父はその筆頭株主。つまりはとんでもないお金持ちということで、夕月たち綾小路一家の住む豪邸には僕を含む使用人たちも大勢雇われているのだ。まあ正確に言うなら僕は雇われているというわけではないけれど、似たようなものだろう。
僕が綾小路家のお世話になり始めて、つまり夕月の世話係となってから十年。僕らは高校三年生となった。
僕らの通う清楼院学園は初等部から大学までエスカレータ式の名門だ。この学園が名門と呼ばれる所以はそこそこ高い偏差値にもあるけれど、何よりもそこの通う生徒たちの家柄にある。殆どの生徒は親が社長だったり国会議員であったり、或いはそれらに準ずる社会的地位を持っていて、僕のような普通の一般的な家庭出身の人間は少数派だ。僕なんかは夕月の世話係だから必然的に初等部からここに通っているけれど、学費の高いこの学園に一般家庭の生徒が通うのは大抵高等部か大学からだ。
そんな清楼院楼学園には当然ながら他の学校と同じく生徒会があるが、その生徒会が最近何やらおかしいらしい。
「生徒会が? ふうん、そんな噂があるの」
「らしいよ。僕も人から聞いた話なんだけど、生徒会のメンバーが揃いも揃ってある一人の女の子に夢中だとか何だとか」
昼休み、学園の敷地内にあるガーデンテラスで夕月と食事をとりながら雑談のネタにと今日聞いたばかりの噂を話す。
清楼院学園高等部の生徒会は以前から目立つ存在だった。生徒会そのものというより、生徒会に所属する人物たちがと言った方が適切だろうか。
生徒会に所属する人たちは何代も前から美形が多かったらしい。それは男女問わずであり、その原因は生徒会選挙の時に見た目で投票する人たちが多いからだ。エスカレータ式で殆ど変わり映えのない学園生活に飽きた生徒たちは、せめてもの癒しにと生徒たちの代表である生徒会役員に美形を選ぶ。選挙には教師が推薦した生徒しか出られず、だから誰であろうとそう悪いことにはならないだろう、それならせめて目の保養になる人物を――と、そういうことなのだろう。
そして件の今代生徒会はといえば、まあいつも通りに見事な美形揃いだ。例えば生徒会長はムードメーカーで少しヤンチャ系の美形だったり、副会長は物静かで涼しげな雰囲気の美形だったり。美形のゲシュタルト崩壊だ。全員男のため男子生徒からはそこそこの評価だが、女子生徒からは絶大な人気を誇っている。以前は全員女子の生徒会なんてこともあったらしく、その時は男子生徒からの人気が凄まじかったとか。
その生徒会メンバーが、たった一人の女子生徒に夢中になっている。そんな噂がまことしやかに囁かれているらしいのだ。
「生徒会って、あの自分たちをアイドルか何かと勘違いしてる人たちのことでしょう。彼らが一人に夢中になるなんて『アイドル』らしからぬことするとは思えないけど」
「僕もそう思ったんだけど火の無いところに煙は立たないって言うし、もしかしたら本当かもね。……まあ、ただの噂だけどさ」
生徒会メンバーは顔で選ばれているということは周知であり、本人たちもそのことは十分承知している。そんな彼らはまさに学園のアイドルと言ってもあながち間違いではない。その時々によって「アイドル」らしく振る舞うか振る舞わないかは異なるが、現在の生徒会メンバーは前者だ。特定の相手を作らず全員に笑いかけ、それこそアイドルのように振る舞っている。下手に相手を作るとその相手に嫉妬していじめが発生したり、生徒会の人気が下がることもあるとか。彼らがどんな理由でそう振る舞っているかは知らないが、とにかく「アイドル」らしくしている。
そんな彼らが一人の女子生徒に首ったけだなんて夕月の言う通り本当だとは思えないけど、まあ彼らも男子高校生なのだから有り得ないことではない。それにしても一人の女の子に、というのはおかしい気はするが。それでも所詮は噂だ、多少の誇張は入っているのだろう。
「その噂の女の子の名前はなんて言ったかな……たしか高等部から入学した人だって聞いたけど」
「……あ、レイ。これ美味しいからレイの分も欲しいわ、ちょうだい」
手が不自由な夕月に僕が食べさせていると、ある一品で目を輝かせる。それは僕も一口だけ食べていた煮魚だった。今日の弁当は和食中心で、綾小路家の厨房で働く一流料理人が丹精込めて作り上げたものである。魚はあまり好きではない夕月のために甘く、それでいてさっぱりとした彼女好みの味付けにしたらしい。
僕も美味しいなと思っていたので食べるのを後にとっておいたのだが、夕月が望むなら仕方ない。全て献上しよう。
「僕、一口だけ箸つけちゃったけど大丈夫?」
「構わないわ」
おそらく大丈夫だろうと思いつつ一応確認してみるが、やはり予想通りの答えが返ってきた。もう十年来の付き合いだ、一口二口食べていたところで今さら気にするようなことではない。
それじゃあと一口サイズにして夕月の口に運ぶとあーんと食べついた。箸を引き抜くともぐもぐと咀嚼する夕月が小動物のようで可愛らしい。雛鳥のように僕の手から食事をとる夕月は庇護欲を煽り、思わず頬が緩む。夕月が今日も可愛くて幸せだ。
「んむ……それで、何の話だったかしら。……ああ、そうそう、生徒会の人たちに言い寄られている人の話だったわね」
おっと、夕月が可愛くてさっきまでの会話の内容を頭の隅に追いやってしまっていた。彼女が話題を広げることを望んでいるので、件の噂についての情報を必死に思い出す。
それにしても珍しいな、夕月が興味を示すなんて。いつもなら今のように話題が途切れればそれを続けることはせずにそのまま流していくというのに。夕月にとってはそんなに面白い話題だったのだろうか。だとしたらこの噂を教えてくれた友人には感謝だ。
「その人、たしか……櫻井さんって人だったかな。知ってる?」
もう一口魚を夕月の口元に運び、「櫻井さん」についての記憶を辿っている彼女を微笑ましく見守る。考え事をするときに右下を見て少し目を伏せるのは彼女の昔からの癖だ。そんなところも可愛い。
しばらく櫻井さんとやらを知っていないか考えていたようだが、元々あまり他人に興味のない夕月が知っているはずもなく「知らない人ね」ときっぱり断言するのにそう時間はかからなかった。
そもそも夕月の交遊関係は狭い。自分から積極的に話しかけるタイプではないし、他人から話しかけられるのも好まない。夕月は一人で静かに読書をしたり大好きなお菓子を食べたりするのを好むのだ。例外として幼馴染みで世話係である僕に関してはその限りではないけれど、基本的に無関心無関係無干渉を貫く。僕のような、頼まれるとノーと言えないタイプの人間とは違う。僕は夕月のそんなところも大好きだ。
ちなみに僕は頼まれるとそれが雑用でも本当は僕の仕事ではなくても断りきれずについつい請け負ってしまうくらいにはノーと言えない。夕月のような意思の強さを持ちたいものだ。
「そんな噂があるくらいなんだから、その櫻井さんはよっぽど美人なんでしょうね」
「そうかもしれないね。まあ夕月には敵わないだろうけど」
なんせ夕月は世界一可愛らしいのだ。どんな美少女であろうと夕月に勝るとは思えない。
それから会話もなく穏やかな空間で僕らが昼食を食べ終える頃に丁度昼休み終了のチャイムが鳴った。弁当箱(というよりも重箱)を片付けて夕月を教室まで送り、ようやく僕も自教室へと戻った。僕と夕月は残念ながら同じクラスではないのだ。
遅刻ギリギリだったが先生はまだ来ていないためセーフだ。次の授業は、と教科書を鞄から取り出そうとしたところで「よう」と前の席から声をかけられた。
「遅かったな。またお嬢様の相手か、美月?」
「その通りだよ唐野、可愛い可愛い夕月お嬢様のお相手をさせてもらってたんだ」
茶化すように言われたので僕も茶化し返した。数学の教科書を取り出し顔を声の主の方へ向けると僕の数少ない友人、唐野裕貴の顔があった。少し強面だが整った顔立ちで、その見た目に合った男らしい性格から同性にも慕われている。女子からは言わずもがなだ。
「はっは、やっぱりキモいなお前」
「何で罵倒されたの!?」
軽口を叩き合う。彼との応酬はなかなかに面白く、夕月と話すのとはまた違う楽しさがある。流石、一部の男から兄貴と慕われている男だ。にしても、僕には少し毒舌な気がするが。
「お前があのお嬢様のこと好きなのは別に良いとしても、向こうはそんな感じじゃないだろ? よくもまぁ何年も何年も一緒にいられるよな」
可哀想なものを見るような目をされたが、言ってることはよく分からない。首をかしげると付け足すように「報われないのに一途すぎて気持ち悪いってことだ」と言われた。気持ち悪いって、何もそこまで言うことはないだろうに。一途で何が悪いんだ。
「僕は夕月の傍に居たいだけだ。夕月が僕を嫌わなければそれだけで良いんだよ。何か問題でもあるか?」
「……本人が良いなら良いんだろうけどよ。他の女に目移りとかしねえの」
「僕は夕月しか目に入らないからな、他なんてあるわけない」
「うわぁ即答したぞコイツ」
「ほら前向けよ唐野、先生来たぞ」
唐野は根は真面目なため、何故か僕の発言に顔をひきつらせながらも素直に体勢を直した。全く失礼な奴だ、僕は当たり前のことを言っただけだというのに。
そう、僕は夕月しか目に入らないのだ。例えば先日僕に告白をしてくれたクラスメイトだが、誠実に対応したいと思ったものの実際は夕月のことで頭がいっぱいだった。特にあの時は夕月を待たせてしまっていたから尚更だ。そのことが態度に出ていなかったか少しばかり不安だが、あの時の彼女の反応からするとおそらく大丈夫だろう。
夕月が僕を嫌ってさえいなければ僕は夕月の傍に居ることが出来る。だから僕にとって何よりも恐れるべきなのは彼女に嫌われること。基本的に他人には親切にしたいと思う僕だが、そのことで夕月を後回しにすることはしない。誰よりも何よりも夕月を優先するし、僕は夕月の世話係としてそうあるべきだと思っている。
唐野はそれを理解出来ないようだが、この考えは僕が夕月から受けた恩への恩返しにも直結しているし、だとしたら僕以外の人間に理解なんて出来ないだろう。
「……」
授業の板書をしながら昔のことを思い返す。
そういえば、親と過ごした記憶よりも夕月との記憶の方が多い。もう僕は人生の半分以上を夕月と一緒にいるのだと気が付くと、途端に嬉しさが込み上げてきた。出来ることならこれからずっと死ぬまで夕月の傍に居たい。多分これも唐野は気持ち悪いと言うんだろう。
僕は夕月が一番だけど夕月にとって僕が一番でなくてもいい。傍に居られるだけでとんでもない幸運なのだと僕は知っている。これ以上は望めないし、望む気なんてさらさらないのだ。
だから、今のこの状況がいつまでも続けばいい。夕月の世話係として傍に居られる生活。そんな毎日が続きますようにと、心から祈る。
さて、そんなフラグを立ててしまったのが間違いだったのかもしれないと後悔したのはこれよりもう少し後だったわけだが、この時点の僕はまだこれから起こることを全く予期していなかったのだ。