笑顔
あまりの騒音に目を覚ませば、そこは雑踏の中だった。ふらりと立ち上がると、其所はごみ捨て場という事が解った。背広に付いた異臭が鼻に突く。
古村芳雄は込み上げる吐き気と心臓が鼓動する度にズキンズキンと痛むこめかみを抑え、ふらついた身体をどうにか支えた。
昨夜は飲み過ぎたのかも知れない。自らの吐く息から酒の匂いがした。
此所は新宿。朝の新宿だ。スーツ姿の男女が行き来する。時折此方を怪訝な目付きで一瞥して行く輩もいたが、大概が無関心に通り過ぎて行った。
古村は酒臭い息を吐くと、さて、と考えた。考えたは良いが、何も浮かんで来ない。頭の中にぽっかりと穴が開いてしまったかのように、または靄が脳味噌全体を覆ってしまったかのように、何も浮かんで来ないのだ。
記憶の糸を手繰り寄せる。確かに昨夜飲んだ事は覚えているのだが。
ガサリと何かに触れた。無意識にポケットを探っていたらしい。それを取り出す。
「……メモ……?」
それは一枚の紙切れだった。丁寧に四つに折られている。それを広げると、
『新宿駅 東南口 ロッカー前』
それだけが丁寧な字で書かれていた。古村は小首を傾げ、暫しそれを見つめた。
一体、どういう意味だろうか。東南口のロッカー前へ行けという事だろうか。
古村は溜め息を吐いた。考えていても仕方が無い。取り敢えずは東南口のロッカーへと向かう事にした。
東南口はさほど混雑はしていなかった。ロッカーは改札口の右手にある。そのロッカーに背を凭れ、足をぶらぶらとさせながら俯いている少年がそこには居た。
古村は左腕に嵌めた腕時計で時間を確認した。午前7時35分。こんな時間に子供が新宿駅で何をしているのだと言うのだろうか。
ふと、顔を上げた少年と目が合った。途端、少年の顔がパッと変わった。
「パパ!!」
「えぇぇっ?!」
驚く間もなく少年は古村の元に掛けより、抱き付いた。
「もう、遅いよ、パパ」
呆然とする古村に、少年は口を尖らせて見せた。
「それにお酒臭いっ」
「いや、あの……」
古村は袖口に鼻を付け、臭いを嗅いだ。確かに酒臭い。
「あのね、俺は君のお父さんじゃないんだよ。俺は古村芳雄。君の名前は?」
「けんじ」
「お母さんの名前は?」
少年のは何も答えない。
「お父さんの名前は?」
「こむらよしお」
古村はがっくりと項垂れた。
取り敢えず近くの喫茶店に入り、少年──けんじにはオレンジジュースを与え、自分は熱いコーヒーを注文した。
警察に連れて行くべきだろうか。しかし、少年が自分を父親だと言っている以上、警察に行っても取り扱ってはくれないだろう。それどころか子供を捨てようとする親とみなされてしまうのがオチだ。
古村はまたがっくりと項垂れた。古村は27歳。独身で勿論子供も居ない。恋人は居るが、その恋人との間に子供は出来ていない。もしかして出来ていて古村に内緒で生んだ? いや、そんな事は有り得ないと古村は首を横に振った。少年はどう見ても5、6歳だ。
「けんじ君、いくつ?」
訊ねると少年はストローを弄っていた手を止め、両手で6という数字を作った。
「お家は何処?」
古村は出来るだけ優しく少年に問い掛けた。少年は今度は首を横に傾げた。くりくりとした目に、さらさらとした真っ黒い髪。Tシャツに白いパーカー、ジーンズにスニーカーといういでたちだ。
うんうんと唸る古村に、少年はねぇねぇと袖を引っ張った。
「おうちに帰ろうよー」
その肝心のお家は何処なんだと、古村はまたがっくりと項垂れるしかなかった。
「おーい、色んな物触るなよー」
古村はバスルームから声を掛けた。少年を連れて一時帰宅したのだ。少年を放って置く訳にはいかなかったし、何より酒と汗の臭いの付いた身体を洗い流したかった。誘拐にはならいよな、と内心ビクビクしながら。
しかしどうしたものだろうか。少年は古村が父親だと言い張っているし、1Kの狭い部屋にも何の疑いもなく付いて来た。あのメモ用紙を入れたのは誰だろうと思いを馳せる。
昨夜は学生時代からの友人と居酒屋で飲み、そのまま行き付けのスナックへと梯子した。そこまでは覚えている。嫌な事があって飲みたい気分だったし、その気分に流されるままウィスキーの一気飲みまでした。それがいけなかったのだが。
頭からシャワーをかぶると全身を洗い流し、バスルームを出た。いやに静かだった。
「けんじ君?」
不安になり、バスタオルを腰に巻いたまま部屋を覗く。と。
「……げ……」
悲惨な状況が目の前に広がっていた。
フローリングの床に顔のような落書き。壁にタコのようなイカのような落書き。硝子テーブルの上にも落書き。挙句、ベッドの上の布団にまで落書き。しかも少年が握っているのは黒の油性ペンだった。
「……っ、こらーっ!!」
古村は思わず大声を張り上げ、少年からペンを奪い取った。
「何でっ、こんな……っ!」
ギリッと少年を睨み付けると、少年の顔が徐々に変化した。しまった、と思った時には既に遅かった。うわーんと辺りに響き渡る大声で泣き出してしまったのだ。
顔をくしゃくしゃにして泣き喚く少年に、古村はどうして良いのかわからずあたふたと部屋を行ったり来たり。
「おーい、泣き止んでくれよ〜……」
古村はうろたえながらも少年の頭を撫でたり手を握ったりした。だが、効果は無く、こちらが泣きたい気分になった。仕方なく少年を抱き上げ、身体にぎゅっと押し付ける。背中をぽんぽんと優しく叩きながら、ごめんごめん、と繰り返した。
次第に落ち着いてきたのか、泣き声はしゃくりあげるものになり、最後はくすんくすんと鼻を鳴らすだけになった。
「あーあ、こんなになっちゃって」
ほっと一息吐く。涙と鼻水でべとべとになった少年の顔を、古村はティッシュで丁寧に拭いてやった。
「怒鳴ってごめんな」
古村は優しく少年の頭を撫でた。少年はこくんと頷くと、
「パパ、お腹すいた」
時計を見ると、正午に近い時間だった。古村は苦笑しながらも少年を傍に降ろすと、ペンを少年の前にかざした。
「いいかい、落書きは紙にするものだよ。床や壁には描いちゃいけないんだ。わかったかい?」
優しく言うと、少年はこくんと頷いてわかった、と言った。古村は少年の頭をくしゃりと撫でてから、手頃な紙を少年に渡した。
「はい、これならいいよ」
「ありがとー」
素直な少年の言葉に、古村の顔からは自然と笑みが零れた。その顔に自分自身戸惑いながらも着替えを済ませると、昼食を作るべくキッチンへと向かった。
フライパンを使いながらも後ろを振り返り、時々少年の様子を見る。楽しそうに落書きをしている姿が古村には微笑ましく、またつい笑みが零れてしまった。
出来上がったやきそばをテーブルに置くと、二人でいただきます、と声を揃えて言ってから食べ始めた。少年はまだ箸を上手く使いこなせないのか、あちらこちらにソースや野菜が飛び散る。少年の口の周りにもべっとりと。
「あー、ほら」
古村はそれをティッシュで拭う。
「美味いか?」
「うん!」
満面の笑顔。古村はまた笑みが零れた。子供はこんなに可愛いものだっただろうか。自分の少年時代を思い出してみる。
いつも何か悪戯をしては母親に叱られていた。悪さをした後はおやつ抜き。家事の手伝いをして誉められた事もあった。父親とはキャッチボールをした。良い点数を取った時は頑張ったな、と頭を撫でられたものだ。
いつの間にか忘れていた記憶がどんどん蘇って来た。いつから忘れていたのだろう。たまには郷里の母親にでも電話してやるかな、と古村は思った。
食事が済んだ後は、近くの公園へと足を運んだ。少年が公園で遊びたいと言ったからだ。途中で軟式のボールを1つ購入した。
公園ではベビーカーを押した母親や、砂場やジャングルジム、滑り台等で遊ぶ子供達とそれを見守る母親達で結構な賑わいを見せていた。
適当な場所でボールを少年に投げてやる。するとボールは少年の頭上を飛び越え、ころころと転がって行く。それをきゃっきゃと声を立てながら追いかける少年。少年が投げて寄越したボールをキャッチすると、また投げてやった。少年は上手くボールをキャッチする事は出来ないが、それでも楽しいらしい。満面の笑みでボールを追いかけている。
「パパー! いくよー!」
「よーし、こい!」
いつの間にか古村はパパと呼ばれる事に抵抗が無くなっていた。本当の親子のようだ、と何だか自分でも可笑しくなる。
「パパー! ジャングルジムー!」
「はいはい」
少年がジャングルジムによじ登る。古村は落ちないかと冷や冷やしながら見守り、万が一落ちた時の為に常に少年の傍に居た。
「パーパー!」
ジャングルジムの一番上から少年が手を振る。古村も手を振り返した。と、その時だった。少年の身体がぐらりと揺らぎ、外側へと落下した。
「!!」
ドサリ、と古村は尻を強打した。腕の中には少年を抱えている。
「けんじ! 大丈夫か?!」
腕の中の少年は目をぱちくりとさせていた。どうやら怪我は無いようだ。その事に古村は心底ほっとした。心臓がバクバクと脈打っている。額からは冷や汗が流れ落ちた。
「パパだいじょうぶ?」
「ああ、大丈夫だ」
古村は少年をぎゅっと抱いた。
その後は何事も無かったかのように少年は滑り台やブランコで遊んだ。気が付いた時にはもう夕暮れだった。
「そろそろ帰るか……」
呟き、古村は溜め息を吐いた。さて、これからどうしたものかと考えたからだ。ずっと家に置いておく訳にもいかない。本当の父親と母親が居る筈だ。
古村は少年に眼をやり、無邪気な顔を眺め頭をくしゃりと撫でた。
「取り敢えず……」
昨晩最後に行ったスナックに行く事にした。そこに行けば何かわかるかも知れないと思ったからだ。
遊び疲れたのだろうか、少年が眠たそうに目を擦っている。古村は少年を抱き上げた。
カランと小気味良い音が鳴り、扉が開いた。
「あら、いらっしゃい」
スナックのママの幸代が声をかける。腕に少年を抱いた古村の姿を見とめると、幸代はクスリと笑みを零した。少年は古村の腕の中で静かに寝息を立てている。
「ねぇ、ママ。この子の事知らない?」
古村はカウンターに腰掛けると、そう問い掛けた。幸代はさぁ、と言いながらもクスクスと笑っている。
「良いパパの顔になってるじゃない」
「そんな事言わないでさ。知ってる事があったら教えてよ。昨日、俺此処に来たよね? その時何かなかった?」
またカランと音がし、今度は男性が扉から入ってきた。古村の友人、瀬川だった。昨晩一緒に飲んだ友人だ。
「瀬川」
「よう、古村。父親になった気分はどうよ?」
にやりと笑う。瀬川は何か知っているのだろう、面白そうに言った。
「瀬川、お前か、仕組んだの」
「何言ってやがる。俺じゃねぇよ」
二人のやりとを聞きながら、幸代がウィスキーを二人分グラスに注いだ。
「どう? 子守は」
グラスを置きながら幸代が訊ねる。
「どうって聞かれても……」
「う……ん」
少年が目を覚ましたようだ。目を擦り、あくびをした。古村の腕の中でうんと伸びをすると、
「あ、ママ」
その言葉は幸代に向けられていた。
「え」
「お帰りなさい、健治。どう? 楽しかった?」
「うん!」
「え。どういう事? この子ママの子? え?」
きょとんとする古村の腕から擦り抜け、少年はカウンターを潜り、幸代の元に行った。
「ぶっ」
噴出す瀬川。古村には何が何だかわからなかった。
「ちょっ、ちゃんと説明しろよ! 部屋に落書きされるわ、泣かれるわ、ソースは溢すわで大変だったんだぞ!」
「そうよー、子育ては大変なんだから」
幸代はそう言って少年の頭を撫でた。
「お前が言ったんだぞ、古村。子育ては女の仕事だって。覚えてないのか? 結婚したら、女は家庭に入って家事と子育てに専念するべきだってね。里香ちゃんが結婚しても今の仕事を続けたいって言ってるのだのなんだの、ぐちぐちぐちぐち。結婚しても仕事を続ける気なら子育てには一切手を貸さないってな。里香ちゃん泣くぞ、それ聞いたら」
「……俺、そんな事言ったか?」
「言った」
瀬川は断言した。確かに恋人の里香とは結婚の話が出ていた。子供の話もした。それを昨晩は愚痴っていたと言うのか。
「だからママがいっぺん子育てしてみたらーって」
「だからって……」
がっくりと古村は肩を落とした。
「自分の子供、他人に預けるか? 普通。しかも俺の事パパって言ったんだぜ?」
「教育が行き届いてますから」
そう言って幸代はまたクスリと笑った。
「ママも人が悪い……」
古村は差し出されたウィスキーのグラスをぐいっとあおった。
少年はスナックのママ、幸代の子供だった。それを聞いて安心したのと騙されて悔しいのと煮え切らない思いでいっぱいだ。
「子育ても悪いものじゃないでしょう?」
確かに、大変ではあったが、今までに感じた事のないような温かい気持ちになったのは確かだ。それと同時に、何故か寂しいような切ないような気持ちにもなった。少年が親元へ帰ると言う事は、もう古村の部屋にも来ないという事だ。
古村はグラスの中の氷を弄び、ポケットからボールを取り出した。
「ほら」
そしてそれを少年に渡す。
「ありがとう!」
にっこりとした満面の笑み。無垢な笑顔。
こんな笑顔が見れるなら……。
古村は里香に謝らなければな、と思った。
―了―