slightly bitter
「先崎ぃ、俺、俺、彼女に浮気されてたぁー。ひでぇよぉ」
高校からの帰り道で、一輝がそんなふうに泣きついてきたのは、今から二カ月くらい前、ホワイトデー直前のことだった。一緒にプレゼントを買いに行ったからよく覚えている。
「マジで? 広瀬が? そこらへんはきっちりしてそうなのに」
一輝と広瀬が付き合い始めたのは、高校一年の夏休み前のことだった。これも、俺と同時期に彼女が出来たため、よく覚えている。二人は同じクラスで、登校初日に一目惚れした一輝の猛アタックが実を結んだかたちになった。これだけの情報だと、フラれたことにも納得できてしまうが、俺から見た感じ、広瀬も満更ではなかったはずだ。
それが、浮気? 俺ほど容姿が良くない一輝だが、どちらかと言えば整った顔をしているし、話は面白いし、何より俺よりも恋人を大事にしていた。
「で、なんで浮気してるって一輝が知ってんの?」
「明日美から言われた……」
「直接? すげーな」
女って、自分がどんだけ悪くても自分にとって不利になりそうなことは死んでも言わないタイプが大多数なんだけど。感情的になったか、それとも場の雰囲気にでも流されたのかね。
「うん、なんか、好きな人が出来たって……」
ずずーっと鼻水を啜って涙を流している一輝だが、中学からの友人とはいえ、男に渡すハンカチは持ち合わせていないため、財布の中に入れてあったコンビニのレシートを渡した。
「レシートは吸水性悪すぎだろぉ……」
なるほど、確かにそうかもしれない。ポケットにレシートを入れながら文句を言う一輝に笑みを向けて誤魔化す。ゴミが減ったので俺としてはプラスだ。
「で、その好きな人と浮気したって?」
まぁ、そうなんだろうけど、という意味を暗に込めて何気なく口にした問いに、一輝は「は?」と口を開けて、何言ってんだこいつ、みたいな顔を向けてきた。
「いや、浮気したっつっただろ、お前」
「はぁ?」
再び同じ顔。殴りたい、この顔。
そんな俺の心など知る由もなく、一輝は当然のように言う。
「だって彼氏がいるのに他の男を好きになってんだぜ? これって立派な浮気だろ?」
今度は俺が「はぁ?」という番だった。
「アホか、お前。いや、アホなのは知ってるけど、アホか」
「なっ、なにがだよ……」
本当に分かっていないらしく、少し怯んだ様子でおどおどしている。そりゃあ、一輝にとって広瀬が初カノだったことは俺も知っているけど……。
「そりゃ、浮気でもなんでもねーだろ。むしろ、好感もてるけどな」
「はぁ!? もしかしてお前、今度は明日美を……」
「ねーよ。流石に友達の元カノと付き合ったりは……まぁ、なかったわけじゃあないけど、少なくとも広瀬はねーよ」
「なんでだよ。明日美、可愛いぞ」
「お前、めんどくせー」
はぁ、と溜め息を吐き、横目で一輝を見る。
「とにかく、それは浮気じゃねぇ。お前をキープして、その好きな奴に告白したりしたらギリギリ浮気くらいかもしれねーけど、むしろ広瀬の行動は筋が通ってるだろ。好きになっちまったもんはしょうがねぇんだよ。気持ちは理屈じゃねぇ」
どやぁ!
「じゃ、じゃあお前、吹石さんが明日美と同じようなこと言ったらどうすんだよ! だまって別れられるのか!?」
「やっぱアホ。俺は今までそんな理由で何人も彼女変えてきてんだ。今更、相手に『駄目ですぅ』なんていう権利ねーの」
視界の隅で、悔しそうに口を噤む一輝が見えた。ようやく大人しくなったか、と思った時、
「アホ! やっぱお前の方が、ずっとアホだ!」
「はぁ!?」
そう言って駆け出した一輝を追いかけようかと足を浮かせたが、すぐに面倒だと思ってそっと地面に下した。そこからは、マイペースに帰宅。一輝は明日殴る。
呑気にそんなことを考えていた俺は、一輝の言うとおり、アホだった。
「私達、別れよう?」
一輝から二カ月遅れて、俺は恋人からその言葉を聞くことになった。
土曜日のデート。その帰りに休憩がてらよった公園でのことだ。六時前の公園にはまだ少し子供が残っていたけれど、俺達が座っているのは隅にあるベンチ。人気の少ないそこを指定したのは、瞳美だった。
思わず「は?」と返してしまったのは、フラれるという経験が初めてだったからだろう。中学時代、覚えているだけでも十人と付き合った。交際期間は様々で、短くて一週間、長くても三カ月くらいだったと思う。それでも、終わりを告げていたのは全て俺からだった。相手がぐずるのも、いつものこと。
「ごめん。好きな人が出来たの」
俺の間抜けな返事とも呼べない返事と沈黙をどう思ったのか、瞳美はそう口にした。
顔を上げると、俺の知る、臆病で小動物的な瞳美はそこにはいなかった。肩にかかるくらい長く、軽くウェーブのかかった黒茶色の髪も、丸顔も、垂れた目も、小さな鼻も、弱点の耳も、普段と何も変わらないのに、瞳だけが違う。力強い、何かが籠っている。
あぁ、誠意だ。見慣れてないから、分からなかったけど、これが誠意か。
『そうなんだ。じゃあしょうがないか。うん、分かった。別れよう』
「……好きな人、ってのは?」
心と裏腹に、全く別の言葉が口から出てくる。SF映画とかでたまにある、身体を乗っ取られている状態ってこんな感じなのかね。
瞳美は答えない。そりゃ、そうだ。俺も同じ理由で恋人を振ったことがある。その時、同じ質問をされたけど『それは言えないよ』と答えた。言えるわけがない。
「あー。今の質問無しで」
そんな誤魔化しの言葉は、少し声が大きくなってしまった気がした。しかし、ここで勢いに任せて言ってしまわないと、自分の口からどんな言葉が出てくるか分かったもんじゃない。
「分かったよ。好きな人が出来たならしょうがない。うん、別れよう」
早口になってしまった。そんな気がしたじゃなくて、自分でも分かるほどに。
瞳美はもう一度「ごめん」と口にしたあとゆっくりと立ち上がり、「じゃあね」と言って公園の出入り口へ歩いて行った。
そんな背中を眺めていると、もしかすると瞳美の私服姿もこれで見納めか、と気付いた。なんとなく、残念だ。瞳美は制服のブレザーが似合わないから。
さて、次の彼女はどうしよう。候補いたっけ。そういやぁ、一年が入ったってのにチェックすんの忘れてたな。明日、練習に顔出すついでに他の部活でも回ってみるか。
テニス部のジャージ姿で学校へ着いたのは、十時を過ぎた頃だった。いやー、遅刻遅刻。もともと間に合わそうなんて気持ちはないけど。むしろ、午前に着いたのだから全然OK。
駐輪場に自転車を置いて、テニスコートへ向かう。練習する気はないけど、たまに顔くらいは出すように言われているし。
こんな俺が部活なんかに入っているのは、頼まれたからだ。男子テニス部と女子テニス部の部長に。いや、元部長か。どっちでもいいけど。
もともとテニス部は幽霊部員の数が多く、部活動を推奨している学校からの隠れ蓑的な部活なのだ。もちろん、ちゃんと練習している部員も少なからずいるが、他の部活に比べれば活動している人数自体は圧倒的に負けている。つまり、部費もあまり出ない。そこで、少しでも多くの部費をゲットするために幽霊部員作戦を敢行した、というわけだ。
俺はそんじょそこらの芸能人よりもよっぽどイケメンなので、そんな部員がいればつられてお馬鹿で可愛い女子が増え、そしてそんな女子を狙って男子部員も増える、というのが元部長二人の作戦で、それは見事に成功したらしい。去年のこの時期、男テニ女テニともに例年より十人ほど新入部員が多いとお礼を言われたが、それは凄いことなのだろうか。十人って、微妙じゃね? 俺のおかげってわけでもなさそうな気がする。
まぁ、イケメンってのは間違いないけど。
間違いない、よな?
俺がテニスコートに近付くと、コートの外で休憩していた二人組の一年生らしき女子がこちらを見て固まった後、「わぁ!」と驚いた声を出した。
「もしかして、先崎先輩ですかぁ?」
二人は小走りで近付いてきて、一人がそう訊く。
見たことないけど、容姿は○。十分合格点。しかも右の子は瞳美と違ってスタイルもよさそうだ。瞳美はちっさいし痩せてるし胸もなかった。初めて見たときは、栄養不足なんじゃないかと思うほどだったが、昼飯の食いっぷりは同じクラスのデブよりも爽快なものだった。あの栄養はどこに消えていたのだろう。っと、そんなことより、しばらく来ない間に良い人材が集まっておるではないか。ほほほ。
「うん。そうそう。えっと、一年生だよね」
「はい! 私、テニス部に先崎先輩がいるって聞いて入ったんですけど、全然姿見なくて、話聞いたら幽霊部員だって聞いて、それで――――」
「そこの二人! 休憩終わり!」
マシンガントーク(一人は頷くだけだったけど)が始まりそうだったが、コート内から聞こえてきた声に、二人は揃って肩を跳ね上げた。振り返る二人の向こうで、コートから背の高い女子が出てきた。
「ぶ、部長、もう少しだけ……」
「駄目。戻って。それに、先崎君は彼女いるんだから、逆ナンも禁止」
「えぇー」と不満を言う一年生に、部長は溜め息を吐く。
「先崎君も、珍しいね。今日は彼女とのデートはいいの? あぁ、彼女、吹奏楽部だっけ。じゃあ練習中か」
そんなことを平然と聞いてくるけれど、女テニ部長、福原先輩は中学時代の恋人だった。何番目だっけ。五番目とか、そのへんだったと思う。何週間、何か月付き合っていたかまでは覚えていないけれど、別れるときにすんなり了承してくれたことだけは記憶に残っていた。
まぁ、今はただの先輩後輩か。付き合い始めたら名前呼びってのは中学時代の俺の自分ルールみたいなもんで、先輩のことも名前で呼んでいたはずだけど、もう思い出すことも出来ない。
「はい。ってか、別れちゃいました」
そう言うと、福原先輩の眉間に小さな皺が寄った。そんな表情を不思議に思う暇もなく、斜め下から「えぇー!」と今度は嬉しそうな声が聞こえた。
「そうなんですか!? じゃあ先崎先輩、今は……」
「寂しい独り身だよ」
「彼女欲しくないですかっ!? 私、立候補しますよー!」
笑いを交えているけど、多分、この子は本気なんだろうな。ここで冗談でも「じゃあよろしくー」なんて言えば、付き纏って彼女面されそうだ。
でも、悪くないんじゃね。可愛いし、胸もデカいし。隣の子の表情を見ると、友情に亀裂が入りそうな気もするけど、俺には関係ないし。むしろ落とすきっかけになる可能性もある。
そこまで考えて、俺は笑みを作った。
「あはは。本当に? ありがとう」
でも、と、また体が乗っ取られる。俺の知らない何かに。
「たまにはさ、しばらく独り身を楽しもうと思ってるんだよね」
「えぇー」と再び不満そうな声。胸の小さい一年生は少しホッとしていたようだけど、この子も俺に気があるのかな。そんな風には見えなかったけど。
「ほら、早く戻りな。田辺達が待ちくたびれてるから」
一年生二人の腰を叩いて練習に送り出してから、福原先輩はこちらを振り返った。中学の時は髪を伸ばしていたのに、今はセミショートくらいの長さ。でも相変わらず美人だった。
「福原先輩、新入部員はどうすか」
「可愛い子が入ったか、ってこと?」
微笑を浮かべながら言う福原先輩に、俺も笑みで返す。
「まさか。部長として苦労してるなら悩みを聞くくらいしますよ、ってことっす」
「なに? 彼女にフラれて私に乗りかえる気?」
「まさか」
即答。あー、まただ。また、操られた。
福原先輩は可笑しそうに笑うと、俺に背を向けた。
「じゃね。たまには練習していきなよ。先崎君、運動神経いいんだし」
「ほーい」という我ながら生意気な返事は普通に口から出て、少し安心した。
可愛い女子が集まっている部活動というのが、どんな高校にも――男子校とか工業高校とか恋愛の二文字が感じられないところは除外するとして――あるものだ。ここでその部活に該当するのは、さっき覗いた女子テニス部と、もう一つ、女子バスケ部。
というわけで、さっそく体育館へ来た。福原先輩が練習云々言っていたが、残念ながら間違ってサンダルで来てしまったため難しそうだ。怪我しちゃうよ。
体育館を覗くと、半分で女子バスケ部が、もう半分で女子バレー部が練習をしていた。両方ともここらへんじゃあ強豪校に入るため、弱小のテニスと比べて練習も厳しそうだ。完全放任主義のテニス部顧問と違い、こちらはしっかり顧問もコーチしているらしく、女バスの顧問も女バレの顧問も何かあるたびに怒鳴っている。俺には無理だな。怒鳴る方も、怒鳴られる方も。
しばらく女バスを見ていると、何人か壁際に腰を下ろして休憩を始めた。どうやらフリースローラインから何本かゴールを決めた者から休憩に入っているらしい。
休憩に入り、身体の汗をタオルで拭いている女子達を眺めていると、「よし!」という大声が聞こえて、そちらに目が向いた。
「あ」と声は聞こえなかったが、そんな風に口を開いた。
「広瀬! 休憩していいぞ!」
「は、はい!!」
顧問の方を向いた時、福原先輩と同じくらいの長さの髪が揺れる。汗で少し濡れている髪は少し色っぽく感じた。むっとこちらを見た顔は、子供っぽかったけど。
「先崎君が覗きに来るなんて一年振りくらいじゃん」
広瀬は体育館前の三段しかない階段に腰掛けて、柱にもたれている俺を斜めに見上げた。その手にはボトル型の水筒が握られていて、先程からちょびちょびと口をつけている。
今日は快晴だが、風が強く、日が当たらなければ屋外の方が涼しい。少なくとも、熱気を放つ人間が何十人といる体育館よりは。
「そーかも」
「今日はどうしたの? ただの暇つぶし? っていうか、部活に出てるって珍しいね」
「恰好だけ。出てるフリ」
「……よく見たら、恰好だけでもフリになってないんだけど」
俺の足元をじっと眺めている広瀬に「あっはっは」と笑って誤魔化す。
「あ、もしかして、吹石さんの迎えに来たの? 午後からデート?」
どうやら、広瀬は俺と瞳美が別れたことは知らないらしい。そりゃそうか。俺と一輝は仲が良いけど、瞳美と広瀬はあまり関わりがない。クラスでも、賑やかで派手なグループと静かで地味なグループと、見事に分かれているのだから。
「違う違う。ていうか、俺と瞳美、昨日別れた」
「うえぇぇ!?」
それが女子の悲鳴かよ、と言いたくなるくらい品の無い叫びだった。それほどまでに驚いたのだろうが、その理由が分からない。広瀬とは高校からの知り合いだけど、俺の中学での伝説は有名だから知らない人はいないだろう。そんなわけもあり、別れたとか付き合ったとかで驚かれるなんてのは、もう何年も経験していない。またかよ、なんて言われるくらいだ。
「え、なに、フラれたの?」
「なんで――」
分かるんだよ、と言おうとして、先程の福原先輩の言葉を思い出した。
『なに? 彼女にフラれて私に乗りかえる気?』
俺は、別れたとしか言っていないのに、先輩はフラれたと知っていた。ただの冗談? そうじゃないとすれば? 考えられるのは――
「フラれたんだ?」
その声に、意識が現実に戻る。斜め下に目を向けると、広瀬がにやにやと笑っていた。女子の前では極力紳士ぶっている俺だが、思わず舌打ちをしてしまった。
「あぁ、フラれた。フラれました!」
そう言うと、広瀬は目を丸くしてから、しばらくすると大笑いし始めた。腹立たしい。キスしてやろうか。一輝に呪われそうだからしないけど。
そんなことを考えながら、チラリと校庭へ目を向ける。そこでは暑い中、野球部が練習に励んでいる。ここからじゃ遠くてほとんど誰が誰だか分からないが、センターを守っているのが一輝だということくらいは分かる。多分、向こうもこっちに気付いているだろう。なんせ俺と広瀬が一緒にいるなんて珍しいだろうし。
「あー、可笑しい」
ようやく笑いが収まってきたらしい。笑い死ねばよかったのに。
「それで? もしかして、新しい彼女でも探しに来たの?」
「そのつもり」
だったんだけど。
「ピンとくる子、いないでしょ」
「そうそう。可愛い子はいるんだけど、ピンとくるのがいないんだよ」
俺の言葉に、また広瀬は可笑しそうに笑う。それが少し気に食わなくて、意地悪してやろうと思った。
「広瀬の方はどう?」
「んー? どうって?」
本当に分からないらしく、俺を見上げたまま首を傾げる。
「好きな奴いるから一輝と別れたって聞いたけど。そっちの進展は?」
「あー……」と困ったような声。それと、傷付いたような顔を見て、少し後悔した。でもすぐに、広瀬の言葉で俺も傷付いたし! と言い訳を始める自分がいた。
――――って!
「内緒、かな」
「そーか」
軽く流して、背中を柱から離す。
「どこ行くの?」
「なんか気分乗らないし、帰るよ。また明日」
「ん」
広瀬に背を向けて、俯いて歩きながら、俺は心が乱れるのを感じた。わけが分からなず、歯を食いしばり、怒りに似た何かに耐える。その原因は、自分自身。
なんだよ、傷付いた、って! なんで俺が女一人にフラれたくらいで傷付くんだよ! しかも対して可愛くもねーし、私服も露出少ないお堅い格好だし、地味だし、胸ねーし、手繋いだりキスしたりするたびに目泳がせまくるし、気まぐれで安物のプレゼントしただけで喜ぶ安い女だし……今までの女と比べても……。
モヤモヤする。他のことを考えようとしてもできない。なんとなく走りたいと思って、サンダルで来てしまったことを後悔した。しかし、待てよ、とすぐに顔を上げる。
あるじゃん、運動靴。体育の授業用のが、下駄箱に。ついでに昇降口にある自動販売機でジュースでも買おう。
昇降口に向いながら、財布をポケットから取り出す。やべ、降ろさねーと、金、ほとんどなかった。
昇降口に入り、財布の小銭入れから五十円玉一枚と十円玉五枚を取り出す。こんな情けない姿、女の子には見せられねーなぁ。いや、俺ならその状況すらチャンスに変えて見せ
「あっ」
情けないことに、そんな小さな声が耳に届いた時、俺は一瞬だけ顔を上げることを躊躇った。なんだ俺、いつからこんな口先だけに……元からか。
ゆっくり顔を上げると、自動販売機の前に瞳美が立っていた。自動販売機に向けて伸ばされた右手の人差指と親指には、一枚の硬貨が挟まっている。
「先崎君……」
瞳美は俺のことを名字で呼ぶ。それは、付き合っていた時も同じだった。それでも、俺は気にしなかった。いや、少し気にしてた時もあったけど、気にしなくなった。俺のことを名前で呼んでくれる時間も、僅かながらあったから。
「ひと……吹石、昨日振り」
瞳美は頷くと、俺に背を向けて自動販売機にお金を入れた。チャリン、と小さな音が静かな空間に響く。
「あのさ、吹石」
ボタンを押そうとした瞳美の手が止まり、俺を振り返る。
「福原先輩って知ってる?」
瞳美は首を傾げると、「吹奏楽部の先輩?」と訊いてきた。.瞳美は嘘が下手だ。本当のことを言っている。いや、これも分かってた。だって、昨日の言葉にも嘘なんかなかった。
「いや、知らないならいいんだ。呼び止めてゴメン」
首を横に振って、瞳美は自動販売機に向き直った。ピ、という短い音に続き、紙パックを運ぶ小さな音が聞こえてきた。ほどなくして、ガラン、と鈍い音がすると、瞳美は腰を曲げて取り出し口から紙パックを取り出した。
その時、強い風が吹いて、僅かに瞳美のスカートを揺らした。といっても、スカートがめくれるほどでも、パンチラするほどでもなかったんだけど……。
「み、見た?」
スカートの前後を抑え、自動販売機に背中をつけて俯きがちに俺を見る瞳美の顔は真っ赤で、目は羞恥で潤んでいた。思わず、笑ってしまう。
「見たんだ……」
「見てない見てない。ていうか、今更パンツくらいで……」
言いかけて、止めた。なんとなく、悲しくなりそうな気がしたから。
「ま、とにかく見てない。見えなかった。残念」
両手を肩の高さまで上げて何もしてないアピールをすると、瞳美は顔を真っ赤にしたまま走り去ってしまった。
残念。こんなふうに話せるのは最後だったかもしれないのに。
福原先輩には心の中で謝っておこう。
下駄箱から運動靴を取り出しながら思う。飲み物を買うのは後にすることにした。今、あの辺りには瞳美の匂いが残ってそうで近寄りがたい。
福原先輩、勝手に疑ってすんません。俺と復縁したいから別れるよう瞳美に頼んだなんて、思い上がりも甚だしかったっす。
ていうか、分かってた。全部分かってた。認めたくなかっただけ。俺が女にフラれたこととか、その女にいつの間にかベタ惚れしてたこととか、それが噂になるくらい周りには丸分かりだったってこととか。全部、全部。
運動靴に履き替え、つま先で地面を軽く突く。昇降口から出ると、その場で軽く跳ねてみる。よしよし。身体は軽い。重いのは心だけ。これならいける。
だって、認めたらめちゃくちゃ恥ずかしいし、負けた気分だし。
ゆっくりと走り出す。そこから徐々に加速、のつもりが、足が勝手に前へ進もうとする。まただ。今度は口じゃなくて、足を乗っ取られた。
でも、よく考えたら最初から負けてたんだ。だって、一輝につられてやったから気付いてなかったけど、俺から告白したのなんかあれが初めてだし、一緒にいて全然飽きなかったし、てか楽しかったし。
校門へ向かって走る。体育などで走る外周コース。一周三キロなり。さぁ、こんな馬鹿みたいに全力で走って、俺は何周走れるのだろう。
「アホかってくらい惚れてたんだ! 悪いか、ボケ!!」
悪態をつきながら、走る。汗が気持ち悪い。でも、有難かった。
ぶん殴りたかった。あの時の自分を。偉そうに、一輝に説教くさいことを言った自分を。でも、ある意味、正しかった。あの言葉は。
「好きなもんはしょうがねぇだろ! 今すぐどうこうできるもんじゃねぇよ!」
叫べば叫ぶほど息が苦しくなったけど、心は軽くなった。まだまだ走れる気がしてくる。
学校の周りを走っているわけだから、当然、テニスコートの傍も通るわけで、横から女の子の黄色い声援と野郎共の暑苦しい声が聞こえてきた。
それら全て無視しながら走ると、今度は校庭の横を走ることになる。すると当然、外野を守っていた一輝が俺に気付いた。
「はぁ!? おま、何やってんだよ! 頭イカレたか!」
息も絶え絶え、全身汗だくで走る俺に、学校の敷地を囲んでいるフェンス越しに並走しながら一輝が驚いた様子で言う。
「一輝、あとで俺を一発殴れ。お前にはその権利があるぜ」
「なに恰好つけてんだ! 今のお前殴ったら死ぬぞ! この年で前科持ちとか勘弁しろ!」
いつもと同じツッコミに苦しいながらも笑みを浮かべると、一輝は珍しく呆れた様子で俺に再度こう訊いた。
「で、先崎は何やってんの?」
決まってんだろ。
「青春を謳歌してるんだ!」




