第五章*世界
アダムは研究所の入り口思われるところへ向かった。といっても、訓練場と自室、それから目覚めたときの生成室程度しか道順を知らないために、長く時間がかかってしまったが。
入口の造りは思いのほか簡単で、指紋を認証しさえすれば開く仕組みになっていた。今となっては知る由もないが、おそらく自分を含めたこの研究所の職員はみな、この閉鎖された研究所の中で閉ざされた生活を送っていたのだろう。食べ物も自給自足、ここ数年あるいは数十年の間にこの研究所から出た者はいないと思われる。出た者がいないのなら扉は開かない。ならば入って来た者もいないのだろう。
アダムは自分の指紋で扉が開くか疑問に思ったが、考えたところでどうにかなるわけでもないため、とりあえずその認証システムに向かって手を伸ばしてみた。指先がふれると、男とも女とも似つかない機械的な音声が流れる。
《ADAM、認証しました。これより30秒後に扉が開きます。》
指紋を採られた覚えはない。もちろん密に事を運ぶこともできるが、利点がイマイチわからない。アダムの結論は、初期のアダムから指紋を採取し、そのまま変えないようにしていたのだろうというに至った。
そんなことを考えていると、30秒などあっという間に過ぎてしまう。
研究所内の他のどこよりも厚く堅牢なチタンの壁が、放出される空気の音を盛大にあげながら移動していく。完全に扉が開ききるまでには20秒ほどかかり、その間アダムは動かなかった。……否、動けなかった。
ーー俺は、この空を知ってる。
アダムは思った。扉が開き始めたとき、隙間から染み入る光に覚えがあった。扉が中ほどまで開いてきたとき、流れ込む土のにおいに覚えがあった。扉が開ききったとき、ようやく見えた雲一つない美しい青空に、確かに覚えがあった。
どうして、知らないはずの太陽の光や大地のにおいや空の広さを知っていたんだろう。アダムは泣いた。幸か不幸か、兵士といったような人影は見当たらない。晴れた日の真っ昼間は、遠くまで見渡せるから、あまり戦闘には向かないのだろうか。とにかくアダムはしばらく静かに泣いていた。血を拭い忘れた右腕がひどく重たくて、彼は涙を拭うことができなかった。
少し視線を右にずらせば、近くに研究所とは違う大きな建物を確認できる。しかし、この屍であふれる荒野には、ひどく不釣り合いだ。辛うじて点在している廃墟は、もとは民家かなにかだったのだろうか。
アダムは思った。
――外の世界はこんなに明るくて、こんなに広いのに、どうして。
どうしてこんなに、暗いと思うんだろう。狭いと思うんだろう。どうしてこんなに、息ができないんだろう。
「ハッ……、こんな世界、救えるわけねーじゃねーかよ。」
いったい、ディンやルーベンスは、どこに希望を見いだしたのか。アダムの自嘲が、大気に溶けた。刹那。
「貴様、何者だァ!!」
辺りに怒号が響き渡った。これだけなにもないところでこれだけ響くのだから、相当声を張り上げているのだろう。
アダムが声のした方に視線を向けると、軍隊と呼ぶに相応しい、隊列も装備も整った軍団がいつの間にか彼を包囲していた。装備が整っているといっても、見渡す限りでは、怒号を張り上げた声の主も、それに従うものたちも、満身創痍で、目ばかりが異様な光を宿しているのだが。
この草ひとつ生えない不毛の大地で、食料等の物資は期待できない。彼らは生命活動を営むことを、半ば諦めかけているようだった。誰もがみな、疲れ果ててしまっている。
そこに健康そうな青年が現れたとしたら、狂っている奴らからしてみれば、良くて殺人の欲望をみたすオモチャ、悪くて食糧としての獲物といったところだろう。
――これが、ずっと夢に見ていた外の世界。
この狂気しか宿していない人間たちは、もとは幸せに暮らしていたのだろうか。それとも、生まれたときからこんな生活を強いられていたのだろうか。……自分のように。
いつから、こんな世界になってしまった。いつから、悲しみだけが跋扈する世界になってしまったんだ。
希望があったという、昔の世界を自分は知らない。けれど、その世界に焦がれている自分がいることも、アダムは知っていた。暗くて狭いと思うのも、息苦しいと思うのも。なぜそう思うのかという問いの答えなんて、とても簡単に見出せる。……知っていたからだ。明るくて広くて、息がしやすい世界を、アダムはきっと知っていたのだ。
「お前らァ、久方ぶりに食事にありつけるぜぇ? しくじるなよォ!?」
その声でアダムの意識は現実に戻ってくる。先ほどの隊長らしき人物の言葉は脳に届いていたため、アダムは顔をしかめた。
――やっぱり食用か。
この狂気を咎められるものなど、いまは存在しないだろう。弱肉強食とはよくいったもので、狂気に呑まれてしまえば、なんとか生きていけるのかもしれない。彼らは生にしがみつくのに必死なのだ。
感情やモラルは、今を生き抜くためには必要ない。むしろ邪魔なだけなのだから。
「残念だけど、俺は喰えないよ。」
アダムは口の中で呟いた。もちろん喰われるつもりはないが、自分は人造人間で半分は得体の知れない薬品でできているのだから、生物が食することなど不可能だ。
しかし、狂った彼らには理解できないだろうことも分かっていたアダムは、仕方なく血まみれの右腕を持ち上げた。
「あんだテメェ? 軍隊のオレらと殺りあおうってかァ!?」
アダムは初めて狂気を目にしたのに、なんの興味も湧かなかった。好奇心旺盛だった頃の自分がどれだけ幸せで無知だったかが今なら分かる。
なるほど、そんな甘ちゃんには誰も話しかけたくはないだろう。研究員に良心があったなら、なおさら話しかけにくいはずだ。外の世界を知らない0歳のガキと呑気に話なんて出来るわけがない。みんな、焦っていたんだ。
「殺れえええェェーーーー!!!!」
裏返ったような耳障りな怒号と共に、茶色い荒野に弾丸が煌めく。研究所のモニターでこの光景を見たのはつい昨日のことのはずなのに、もう何日も前のことに思えた。
今見ている光景は現実で、その証拠に高性能の鼓膜を無数の銃声が大きく震わせる。
しかしアダムを貫通した弾はひとつもなかった。かすっただけの弾はいくつもあったが、目立った外傷はない。戦闘訓練を受け続けていたのは、このためだったのだと、アダムはまたひとつ理解する。
「ごめん。」
アダムは小さく謝って、右腕を振った。最初に隊長を葬ると、隊列は乱れてしまう。何度か同じように右腕を振って殺戮を繰り返すと、力の差が見えてきたのか、逃げ出す者や無理に襲いかかってくる者が出てきた。
完全に狂気に呑まれたのであろう後者は葬り、前者はそのまま逃がしてやった。今この状況で理性が少しでも残っているなら、いつかこの世界が変わってから、真っ当に生きていけるかもしれないと考えたからだ。
後者の人間を全て始末したあと、今度は無数に転がった血肉を求めて新手が来ると厄介だったため、直ぐにその場を離れることにした。廃棄室のモニターの映像が脳裏に甦る。なるほど、無惨に散らばった屍を土に還そうとしたとしても還せないわけだ。
それよりもアダムは、先ほどの自分の考えに自嘲していた。
いつか世界が変わったら? 真っ当に生きるかもしれない?
もう世界は変えられないほど腐ってしまっているというのに、一体どうしてそんな考えを持てたのだろう。ディンやルーベンスもこんな風にありもしない希望が現実になることを夢見ていたのだろうか。
そんなことを考えながら歩くうちに、ホログラムの女性が言っていた建物にたどり着いた。本当に研究所の近くにあって、研究所とこの建物だけが、この荒野にそびえる建物だったので、すぐに見つけられた。
――あのディンが残した“鍵”……か。
“鍵”とは一体なんのことなのだろう。アダムは何度も考えてみたが、予測すらたてられなかった。
彼は建物の正面と思われる場所に立ち、中に入る方法を調べ始める。建物は半球型いわゆるドーム状で、正面には研究所で見たような大きな扉があるものの、外側にはつまみもなければ指紋認証装置もあるはずがなく、どう入ればいいのか分からず、アダムは困惑していた。
脳をフル回転させても思い付くことはなにもなく、同じ場所、しかもこれほど目立つ場所に長時間いるのは得策とは言えない。そのため、アダムは一旦諦めて、まずは安全に隠れることのできる場所を見つけることに決めた。しかし。
「……っ!! ぐぁっ!!」
右腕が落ちた。
研究所と違って、下は地面だったために、あの重量感のある音を聞かずに済んだが、冗談抜きでそろそろ身体は限界らしい。少なくとも、もう右腕は使い物にはならないだろう。
アダムはよろめき、建物の壁にもたれかかった。右側を下にしてしまったため、右肩から流れる微量の血が壁に付着する。
彼は思わず笑みをこぼした。
感情を無くすよりも先に、痛みを無くすことはできなかったのだろうか。もちろん人が感じる痛みよりはだいぶ軽減されているとは思うが。しかし、今朝に右腕を落としていたことに気がつかなかったということは、痛みを感じてはいなかったはずだ。
ということは、研究所を破壊する際に、無理に接合したことが原因だったんだろう。
口元にまたもや自嘲の笑みを浮かべた、その時だった。
「ん? なんの音だ。」
高性能の鼓膜が小さく震える。常人には聞こえない、人造人間だから聞き取れるのであろう微かな音。
アダムは体勢を保ったまま耳を澄ます。どうやら機械音のようだ。建物のなかというよりは、外壁のなかから聞こえてくる。
どうやら音源は目の前の扉の内部らしく、もう一度扉を確かめようと体を起こしかけた、その時。
プシューー……ウィーーン。
「え。う、わぁっ!?」
ドシンッッ!!
ウィーーン……ガコン。
アダムはこの一瞬のうちに何が起きたのか、全く理解できなかった。
先ほどまで目に映っていたのは赤茶色の世界だったのが一変し、真っ白な世界。まるで、あの研究所内のような。ただ最後の研究所は鮮やかな赤一色だったが。
アダムにようやく思考力が戻ってきて、それからの状況把握は速かった。あの機械音は扉を開くために内部の複雑な電子のカラクリが作動したもので、ここはあの建物の内部だということだ。
右肩と自分が倒れこんだ入り口とを見比べるが、右腕はそこになかった。どうやら外に放り出されたままらしい。とはいっても、今さら右腕などに未練はないのだが。ただ自分の体の一部が少し離れた場所にあると思うと違和感がする。そして、激しい痛みを感じていたことにようやく思い当たったときには、既に痛みは鈍いものに変わっていた。
アダムは改めて辺りを見回す。彼が思っていたよりもこの建物は狭かった。研究所が広すぎる、と言ってしまえばそれまでなのだが。
最初に目についたのは中央部に置かれている祭壇のようなものだった。造花か何かが献花されているのか花が盛られている。その花に囲われて、机のような箱のようなものが置かれていた。しかしそれよりも、目の前にあるそれがそもそも本当に祭壇なのかすら、彼が座り込んでいる位置からでは分からない。
次に目についたのは祭壇の右斜め前あたりに置かれている机と椅子。これはアダムがいる位置からでもはっきりと確認できた。
その机の上にある深い緑色の革表紙と見られる本と献花だけが、この真っ白な世界を彩っていた。
アダムはよろめきながらも立ち上がると、祭壇のもとへと歩み寄る。少しの距離であるにも関わらず、足に先ほどの右肩のような激しい痛みを感じたために、随分と目的の位置まで移動するのに苦労した。
――頼む、もう少しでいいから。
アダムは自分の体に、願うように唱えた。あの研究所のなかで科学にまみれた生活をしてきたのに、自分の体ですら科学の結晶といっても過言でないのに、こんなに非科学的なことを思ったのは初めてだった。
――もし、カミサマってやつが本当にいるなら。頼むから、せめて、せめてあと1日で構わない、あと少しだけ生かしてくれよ。
この高潔な空間のせいなのか、アダムは一心に祈っていた。心のなかで祈りながら祭壇を覗き込む。
近づいてみた結果、献花されているのは縁側だけらしい。中央部は窪んでいて棺のようだった。献花されているからそう見えたが、おそらくこれはベッドのようなものなのだろう。
窪んでいる部分には、白磁の肌に透けるような金の髪をした少女が横たわっていた。
《EVEからADAMへ。
一緒に楽園を追放されるか、
一緒に楽園で生き続けるか。
好きな方を貴方が選んで。》
そう書かれたカードが少女の胸の上に置かれていた。アダムが左手でそれを拾い上げて読み終えると、カードは初めから存在しなかったかのように消え失せる。感触があるように感じたが、実際はホログラムだったのだろうか。
ディンの言っていた“鍵”とは、この少女のことなのだろうか。いかにも人間以外を物として扱う彼女らしい表現だ。
この少女が自分と同じ人造人間であることは確かめるまでもなかった。
少女は最初のアダムが造られた時と同じか、それよりも前から存在していることになる。もちろん、自分が来るまではこの空間で食事等は一切取らずにただ眠り続けていたはずだ。となると普通の人間であるはずがない。ホログラムでもないから、人造人間なのだろう。
カードが消え失せた左手を見つめて考え込んでいると、何かが動く気配がした。気配の元を辿ると少女に行き着き、彼女は花のなかで身動ぎをする。
少女が急に気配を発し始めたことに驚きを隠すことができず、アダムが注意深く少女を凝視していると。ついに少女の目が開かれ、深い青の瞳が瞼の隙間から覗いた。
「う……、ん。」
まだ夢見心地といった様子で、少女は眠そうな声をあげる。その声は先ほどまで見てきた現実をかき消すには十分なくらいに、甘美で平和な声音だった。
その後待つこと数分。少女はようやく完全に目覚めたのか、青い瞳を見開いてアダムを真正面から見据える。アダムも意味もなく視線をあわせていると、不意に少女が微笑んだ。
「わたしはイヴっていいます。貴方の名前は?」
イヴと名乗った少女の目には、醜く引きちぎれたような右肩の傷が目にはいっているはずなのに、臆している様子は全くない。同情しているわけでもなさそうだ。
アダムは微かな警戒を解かないままに、彼女の問いかけに答えた。
「俺はアダム。イヴ、お前はこんなところで何してるんだよ?」
イヴは彼の言葉を吟味するように、二、三度首を傾げる。その後なにかに納得したように頷いて、彼を見つめた。
「わたしはずっと眠っていたわ。貴方が私のメッセージを見つけるまで、ずっと。」
白い空間に、白い少女。しかし少女は、研究所のホログラムと違って血色もあり、仕草にも人間味が感じられる。ひょっとしたら、自分よりも人間らしいのではないだろうか。ずっと眠っていた、という言葉に内包されている時間の経過は、何十年というとても長いものであるはずなのに、どうしてかそんなふうには聞こえなかった。せいぜい昏睡状態だった病人が何か月かの間、目を覚まさせてくれる誰かを待っていたというくらいの響きに聞こえる。もちろん人間なら、それだけでもそれなりの時間の経過であるのには違いないが、およそ不死の身体ともいえる人造人間のアダムからしてみれば、瞬き程度には短いものだと言えた。
生命力に溢れているかのような、彼女のキラキラと潤む澄んだ蒼い瞳を見ているうちに、アダムはシェルターの外のことを忘れかけていた。ただイヴの瞳を見つめ続ける。無残に外れた自分の右肩やシェルターの外に放り出されたままの右腕、さらには外の不毛の大地を取り巻く逼迫した状況すら、もう意識の外にあるようだった。
厳密には、頭にモヤがかかって思い出せない、といった方が正しいのだろうか。忘れているというよりも、なにかが忘れさせようとしていると言った方が正しいように思う。
しかしその思考を最後に、アダムはものをよく考えることができなくなった。真っ白でなんの穢れもないこの空間で、アダムもまた、自分が穢れのない存在になったように思う。イヴはただ、アダムに向かって微笑むだけだ。
何を考えようとするでもなく、ただイヴを見つめ続けるだけのアダムに、ようやくイヴが話しかけた。
「貴方はアダムでいいんだよね?」
「ああ、一応はそういう名前だよ。……あんま好きじゃねぇけどな。」
アダムはイヴの問いにそう答えたものの、どうして気に入らなかったのかが思い出せないでいた。そのことへの若干の苛立ちのせいか、眉間に皺が寄っていく。
――俺は何かを忘れてる? いったい何を?
霞みがかった頭のなかで、ゆっくりと間違えないよう正確に事実を構築して、結論を導き出そうとしたその時だった。
「ねえ、わたしと一緒にここでずーっと暮らすか、この白い楽園から追放されて与えられた現実に戻るか、貴方はどちらを選ぶの?」
その言葉で霞は晴れた。頭が覚醒していく。この空間を満たす甘美な雰囲気に、アダムはずいぶん毒されていたようだ。イヴは彼の様子をうかがいながらも、急かさずに答えを待ち続ける。アダムは自分を落ち着けるため深呼吸した。
その時だった。視界の隅が、深緑色を認識する。美しいこの世界に不釣り合いな、少しヨレた革表紙。アダムは言葉を紡ぐ前に、この表紙を開かなければならないという衝動にかられた。しかし、なぜかという肝心な理由の部分は、今のアダムには分からなかった。