第四章*破壊
アダムはいつものように目覚めた。体内に時計でもあるのか、決まった時間に目が覚める。目覚めが1分遅れたことも、1分早まったこともない。
気分は快調だった。身体も痛まない。ここ最近、いつでも身体は痛みっぱなしだったが、今日はそうでもないらしい。さらに言うなら、今日は身体が軽い。まるで初めて訓練を受けた前日のようだ。
アダムは着の身着のままで、訓練場へと向かった。戦闘服は訓練場にあるからだ。
今日はディンに話をしてみようと思う。彼女が自分の話を聞いてくれるかは分からない。だが、彼は話を一蹴されたとしても構わないつもりだった。彼は、彼なりのやり方を講じているからだ。
しかし彼は気づいていなかった。狂い初めた歯車を、調節するのは不可能だということに。
もう一つ、彼が気づいていないこと。それは、彼のベッドの上に置き去りにされているもの。……彼の残された時間は、彼が思っているよりも、ずっとずっと短いのだった。
訓練場までの道中、珍しいことに誰にも会わなかった。普段なら、一人か二人はすれ違うのだが。まぁこんな日もあるか、と思いながら、アダムは訓練場の入り口を開ける。一歩室内へ踏み出した、刹那。
──ガチャン!!
足を拘束された、アダムは瞬時に思った。鎖は黒光りしている。彼を拘束しているのは、固くて冷たい鉄の鎖だった。
しかし、鎖に繋がれた時の音のせいで気づかなかったが、ふと足元から顔を上げてみて、彼は驚愕する。大勢の研究員が彼を包囲しているではないか。しかも丸腰の研究員ではない、全員が銃などの武器を所持していた。
「……おい、何のつもりだよ。」
動揺を隠しきれただろうか。彼の声は、気のせいほど微かに震えていた。
アダムの問いに研究員はなにも言わない。ただ銃口や切っ先を彼に向けるだけだ。重い沈黙が張り詰めたその時、一つの声がした。
「これからお前を廃棄するんだ、アダム。」
暗い闇の中で聞いた声と同じ、凛とした声。息苦しい世界の中で聞こえた自由の声は印象深く、今でも音程、リズム、言葉、すべて完璧に記憶している。しかし、その声は長いこと彼に向けられなかった。ようやく、その声が、意識が、彼に向けられたというのに。
──廃棄、する?
今日はこんなにも調子がいいというのに。なぜ、今日に限って。
ルーベンスを従えてディンはそこに現れた。ルーベンスはアダムを一瞥してから、目を伏せる。……痛ましいものでも見るかのように。
「これは今朝、お前の世話役がお前の寝床の上で発見したそうだ。」
ボトッ、という重量のある音と共に投げ出されたのは右腕だった。肩からもぎ取られたかのような、無惨な右腕。
アダムは察した。自分の右肩に視線を移すと、肩から下にあるはずの腕がない。傷は生々しいのに、痛みも違和感も全くない。ここの施設の扉はすべてセンサーが働くから、彼は全く気づかなかった。通りで身体が軽いはずだ。実際に軽くなっていたのだから。
「なるほどな。使い物にならなくなったから、俺を廃棄するってのか。」
「……そうだ。」
ディンは眉を潜めた。彼女はアダムに違和感を感じた。今までのアダムとは決定的に何かが違う。だが今の彼女にはそれを察することが出来なかった。彼女の眼にもやがかかって肝心の答えにたどり着けない。そんな感覚。
もはや、アダムが取ることのできる行動は一つしかなかった。彼はその場で一度、眼を閉じて深く深呼吸する。そして彼は眼を閉じたまま、ごく小さな声で言った。
「俺は、生きたい。」
刹那。アダムは思い切り地を蹴った。固い鉄の鎖は引きちぎれ、彼は自由を手に入れた。そのまま勢いを殺さずに右腕を拾い上げると、右肩に右腕を押し付ける。すると神経が伝っていくような伸びていくような感触を味わった後、完全に腕は元通りになった。
そして勢いのまま突き進み、右腕を前に突き出す。赤色の液体が飛び散り、貫通した手には未だ慣れない感触。
「ディン!!」
ルーベンスが叫んだ。悲痛な声音だった。
アダムは対象の体からズルリと力が抜けたのを確認した刹那、身を翻してその後ろにいた者を同じように一突きにした。
その間、わずかに数秒。研究員たちはただ唖然としているだけだった。
それからの研究所では、殺戮が続いた。アダムは惨い殺戮を淡々と続けていく。研究所内から生者の気配が消えた頃、アダムの殺戮はようやく止まった。
「うっ……、くっ……。」
白い壁は赤に染まっている。静かな研究所内に低い嗚咽が響く。感情が、心が、アダムのもとに戻ってきた。
アダムは涙を拭こうとはせず、ディンとルーベンスに歩み寄る。この二人だけは、首や胴を断ちたくなかった。だから、心臓を貫いたのだ。
二人の口から零れていた鮮やかな赤を、アダムは拭う。二人を担ぎ上げ、アダムの自室へ移動した。ここだけは、まだ赤くない。世界中の気高さや高潔さといったものを集めたような白。入ってすぐの壁に二人を並べて凭れかけさせる。そしてアダムは一瞥もくれずに出ていった。
アダムは気付かなかった。彼が部屋を後にしたその瞬間、目覚めた微弱な意識が二つ。
『……長かったね、ディン。』
『ああ、そうだな。』
『辛かっただろう? もう、頑張らなくていいんだよ。』
『…………。』
たくさん殺してしまって。いつしか世界を変えることなんてどうでもよくなって。けれど、もう後戻りなんて出来ないほど、自分たちは赤黒い罪に染まってしまっていた。
ようやくディンは気がついた。アダムは心を持つようになったのだ。彼の一人称や言動が昨日一昨日よりも格段に大人びている。原因はぼぼ間違いなく、彼に、彼らに思考能力を与えたことなのだろうが。しかしディンはそれを後悔したりしなかった。
『なぁ、ルーベンス。』
『なんだい?』
『お前がいてくれて、お前と結ばれて、本当に良かった。……ありがとう。』
『愛してるよ、ディン。』
『私も愛している、ルーベンス。』
願わくは、幸せな来世になりますように。
ルーベンスの冷たい手が持ち上がった。そっと、彼の手がディンの手に重ねられる。
ディンもルーベンスも息は既に絶えていた。アダムはもちろん、二人の死を確認した。しかし完全に閉ざされた小さな白い世界の中で、二人は微かに息を吹き返す。そして数分後、彼らは今度こそ永久に覚めない眠りについた。
研究所全体が今、安らかな眠りについたのだった。