第三章*真実
おれは一体、何を期待していたんだろうか。
アダムは自分とよく似た無数の死体を見つめながら、そう思った。彼のその瞳は硝子玉のようで、感情は無く、ただ眼下の光景を映していた。
『ルーベンス博士!! No.29572が目覚めました!』
研究員の一人が、自分が目覚めた時にそう言っていたのを思い出す。となると、このゴミ箱には、29571体もの死体があるというのか。
死体はあちこちのパーツが外れており、血はもう凝固して変色している。なのに、腐臭はしなかった。死体もまた、膨張しているようなことはなかったし、白骨化していることもなかった。ただ壊れたオモチャのように、体がグチャグチャになっているだけ。
「俺は人造人間だったな……。」
ヒトに造られたヒト。それは人ではなかったらしい。今更ながらに、アダムは気がついた。
ただ認めて欲しかった。なんども殺意を咎めたのは、本当に殺したいとは思わなかったからだ。多分、自分を愛してほしかった。そんな感情があるなんて、今初めて気がついた。
どこから、どの時点から、こんな思いが生まれていたのかは分からない。ひょっとしたら初めから持っていたのかもしれない。
「俺も、進化したんだろうか。」
自問だった。故に答えは期待していなかったが、自分より幾らか高い声が、この問いに答えてくれた。静かで無機質だけれど、少しだけ気遣いを含んだ声。
「そうかもね。あなたはこれらと、どこかでリンクしているのかもしれないわ。」
労わるようなこの声は、優しさというものなのだろうか。いつから自分は、優しさという言葉を知っていたのだろう。戦闘には必要ない、けれどもこんなにも愛しくて、欲しいと感じる言葉を。
彼女の答えに、そうか、と口の中で呟いて、アダムは振り返る。ホログラムの女性の無感情と思われる白い目に自分の目を合わせると、アダムは今度こそ彼女に向かって問いかけた。
「ここの奴らは、一体何をしようとしているんだ?」
その問いに、女性はしばらく沈黙した。アダムは答えを急かすことなく待った。明日にもまた訓練がある。体は既に悲鳴をあげていた。しかし、今の彼には一切がどうでもよかった。
女性は一つ溜め息をついて、片手を軽く上げる。すると、巨大なモニターが現れた。
「……分かった。ちゃんと説明するから、まずはこれを見て。」
モニターの映像は初め、砂嵐がひどかったものの、徐々に映像が鮮明になっていく。もやか何かがかかっていて、それはとても見にくかったが、そこに映るのが外の世界らしいということは辛うじて分かった。初めて見る外の世界は、上も下も茶色く濁っていて、その上とても暗かった。これが夜というものなのか。
音は無い。空気の音も、画面に煌めく弾丸を打ち出すための銃声も、翻る大きな剣の音も、何も聞こえなかった。音声を切っているのだろうか。
「この研究所が厚いチタンの壁で出来ている理由は、これよ。」
外は死の世界だった。全体に茶色がかったとても暗い世界。真っ白なこの空間に血の赤は非常に映えるが、外の世界では倒れる無数の陰があるにも関わらず、血の色が目立たなかった。
なんて、不思議な光景なのだろうか。倒れる陰はあちこちに散らばっていて、この空間のように一ヶ所に集められているわけではない。
古来より生命の象徴とされてきた血液も、この空間のように映えているわけではない。先ほどの赤い光景にあれほど衝撃を感じたにもかかわらず、外の世界の死は、まるで元々決められていた景色のように見える。
死が、こんなにおざなりでいいのか。
アダムはそう思った。大小様々、明らかに複製された人造人間のアダムとは訳が違う。
れっきとした、人。人造人間のアダムと違って、唯一無二の命。彼らはそれぞれが異なる個体で、リンクしているところなどないはずだ。
死は等価であるはずだ。少なくとも、アダムはそう思う。自分も、これまでに研究所によって殺された自分によく似た人造人間も、そして茶色の地面に横たわる彼らも。死は誰にでも酷いものであるはずなのに。
「なんで……、こんなに違うように見えるんだよっ!」
確かに、人造人間の死体もおざなりに処理されている。赤が映える空間で、ひとまとめにされて。
けれど、心に直接感じられる、この違いは何なんだろうか。
死体を隠す暗くて茶色い空間、まばらに散らばり数も分からない死体。
死は、等価であるはずなのだ。
「外は争いばかり。この研究所はチタンに覆われているから、安全なの。」
アダムは何も言わなかった。吐きそうなくらい、気分が悪い。
「ここの人たちは世界を変えようとしている。……失敗続きだけれど。」
世界を変えたくて、こんな世界は間違っていると、そう考える気持ちは分からなくもない。しかし、アダムはその言葉を聞いても、どこか納得いかなかった。形容出来ない苛立ちを、ホログラムの女性はいとも容易く、言葉にしてみせる。
「みんな、生きていたのにね。」
アダムの目から、涙が零れた。そう、生きていたのだ。たとえ人造人間だとしても、29571人が生きていた。
研究所の都合で、生を強引に押し付けられ、連日傷つけられ、死までもを強制される。
――こんな世界は、いやだ。
「どうしたら、世界は変わるんだ。」
あの過酷な訓練には、意味があるんだろうか。耐え抜けば、世界は変わるんだろうか。けど、あのようないつ死ぬかも分からない状況に立たされ続けることに、アダムは納得がいかなかった。
――俺だって、生きたい。
研究員は大きな失敗をした。人造人間に、思考する能力を与えてはならなかったのだ。でなければ、完璧な戦闘兵器にはなりえない。
唇を噛みしめて俯くと、ホログラムの女性の声が耳に届いた。
「……この建物の近くに、もう一つ似たような施設があるわ。」
独り言のように呟く女性に視線を移すと、彼女はただモニターを見据えていた。表情はない。したがって、何を思っているのか汲み取ることが出来なかった。
困惑の表情を見せるアダムに気づいているのかいないのか。彼女は視線をモニターに向けているのに、そこに見えないものを見ているかのような瞳をしながら、ただ淡々と話を続ける。
「研究員の話が本当なら、ディン博士はそこに大切な“鍵”を置いてきたらしいの。」
「鍵って?」
「さあ、知らないわ。とにかく、わたしが言えること、知っていることはこれだけよ。」
そう言った彼女から視線を逸らし、アダムは白銀の金属で構成された地面を見つめながら考えた。
あのディンが大切だと言ったもの。鍵と言うからには、この世界を変えるために必要な何かとみて、まず間違いはないはずだ。
とにかく、明日も早いことだし、一度部屋に戻ってから考えようと、アダムは顔を上げると部屋に戻るためにきびすを返す。しかし隠し扉の前に立った時、背後から声がかかったため、アダムはその足を止めた。
「あなたが進化して、自我だけではなく心までもが芽生えたなら、あなたを止めることがわたしには出来ない。」
肩ごしに振り返ると、彼女は目を閉じていた。半透明だった身体が、徐々に薄くなっていく。彼女もまた、眠るのだろうか、次にまた誰かが来るまで。薄くなるホログラムの女性を見ながら、そんなことをアダムは考えていた。
「あなたが何をしようとも構わない。でも一つだけ頼みがあるの。」
しかし、その言葉を聞いた直後、女性に視線を向けていたアダムは驚きに目を見開いた。向こう側の壁がよく見える程にその女性は薄くなっているものの、彼女の目尻には、光るものがあったのだ。
――そんなバカな。
ホログラムはプログラムを映像化したものであるはずだ。ここの研究員が、わざわざ泣くという動作をプログラムしたとは到底思えない。
もしもこれが、進化ということなのだとしたら。
「チタンは炎に溶けない。だからこの空間を、そしてわたしを、消してちょうだい。」
既に消えかけていた彼女が指差した先には、巨大なコンピューターがあった。そして、その上には研究員から拝借したものと思われるマッチの箱。
無音だったはずのこの空間に、パタリという音がした。女性がいた場所に、もう彼女はいなかった。ただ何故か、一滴の水滴がそこに存在していた。
その、あるはずのない一滴の水滴こそが、彼女が存在したことを示す唯一の証拠である。
「本当にいいんだな。」
アダムは目障りな程に巨大なコンピューターに歩み寄ると、メモリーカードを取り出した。
一見なんの変哲もない、ノート程の大きさのメモリーカード。しかしここには、彼女の苦痛や思いといったものが詰まっている。
なんて不思議なのだろうか。
「色々教えてくれてありがとな。……お疲れ。」
聞こえてるかなんて分からない。けれどアダムはそう言った。渾身の力を込めて、金属製のメモリーカードを真っ二つに折ってやる。
二度と複製されることのないように、メモリーカードは原型を留めないように何度も割って、あの奈落のようなゴミ箱の中に放ってやった。
気のせいかもしれないが、放る直前に、女性の声が聞こえた気がした。
『ごめんね。……ありがとう。』
微かに見えた彼女の白い肌に、色素が戻っていく。頬が桃色に紅潮して、彼女は微笑んだ。そしてそれきり、その女性の気配は完全に消え失せてしまった。
「次は、っと。」
手にしていたマッチの箱を開けると、そこには五本のマッチ棒が入っていた。アダムは非常に落ち着いた動作で、マッチ棒に火をつける。
橙色に輝く炎を認めると、穴の中に放った。二本、三本と穴の中に放ると、やがて死体に着火する。アダムはそれを見届けて、更に残りも同じように穴へ放った。
まるで墓標のように、一番上に散らばるメモリーカードの破片。デリケートなそれがチタンで出来ているはずもなく、炎に包まれて、やがて溶けていった。
長いこと、アダムはそこにいた。彼はメモリーカードが完全に燃えきったことを確認すると、今度こそ、この部屋を後にする。
――俺には時間がない。
アダムはそう思っていた。既に肩の痛みは消えていたが、なかなか癒えない傷の理由はおそらく。
――俺もきっと、もうじきああなる。
だが、自分がどうにかなる前になんとかしなくてはならない。ここで彼が死んでしまって、あの空間が使用出来ないことに研究員が気づいたら、また可哀想な死の番人が生まれてしまう。
それだけは、避けなければならない。
「脱出すればいいってのか? でも……。」
自室のすぐ目の前に来たアダムは、顎に手を当てて考える。チタンの厚い壁を開けて中に入ると、そこはベッドしかない簡素で殺風景な部屋。自室であることには違いない。
ベッドに倒れ込んで、仰向けになる。そしてアダムはまた物思いに耽った。
――脱出は出来ない。
彼らがこの研究所にいる以上、脱出したらまた新しいアダムが生み出されるだけだ。29573体目のアダムが。
そしてまた、今と同じ日々が繰り返されるだけである。
そう考えながら白い枕に顔を埋めると、急速に睡魔が襲ってきた。どうやら、体の方は既に限界を超えていたようだ。
一度フッと目を閉じると、もう目を開くことはできなかった。アダムはそのまま、眠りにつく。しかし、眠りに落ちる前のほんの一瞬、朧気に、彼の脳裏をなにかが掠めた。
それは何度も彼が考えていたこと。実行したくても気が咎めていたこと。
彼の中で、カチリと音がした。それとほぼ同時に、彼の意識は、完全に絶えたのだった。