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第二章*無知

 


「がっ……は!!」



 ――おれは一体、何してるんだ。


 アダムはそう思わざるを得なかった。右腕からは致死量をはるかに超えた血が滴り落ち、更にはおかしな方向にねじ曲がっている。


 赤い鮮血はこの空間に無数に飛び散っており、それはどこに目を向けても血が目に付く程だった。


 つい先ほど蹴られたせいで、口からは新たに鮮血が滴る。意識は朦朧としていて今にも倒れそうなアダムに気づいた様子の対戦相手がせっかく攻撃を止めたのに。



「おい何してる。攻撃の手を緩めるな。」



 思わず上を見上げればそこには高い位置から見下ろすディンの姿。相変わらずの黒髪は上でまとめ、そこそこ高めのヒールを履いている。


 高い位置といっても彼女がいる先は別室で、この空間が一望できるガラス越しにアダムたちの戦闘を見物していた。


 対戦相手はよほど調教されているらしい。彼女が先ほどの言葉を口にした瞬間、相手はまたアダムにこれでもかというくらい攻撃をしかけてきた。



「くっ……そ、はぁっ…!!」



 肺が潰れそうだ。酸素を取り込む度に肺が軋む。


 アダムは相手の攻撃を避けながら、自分の攻撃を繰り出していく。しかし避けるといっても、全ての攻撃を避けきれているわけではないため、生傷は時間の経過と共に増えていく。


 終わりの見えない血みどろの戦いに、アダムは絶望していた。



  


 

 あれから何時間経っただろう。この空間には時計がないから、朝か夜かも分からない。


 それ以前に、アダムは朝も夜もどんなものなのか知らなかった。例えようのない虚しさが彼の胸を吹き抜ける。


 既に意識の半分が飛んでいった頭でそんなことを考えていると、忌々しいあの声が彼の耳に届いた。



「今日はここまでだ。」



 その声を聞いた瞬間にアダムは思う。



 ――この女、いっそ殺してやろうか。



 アダムの目がギラリと光り、殺気を帯びる。


 いつだって、彼がどんなに酷く傷ついていたって、彼女は顔色一つ変えなかった。眉一つ動かさなかった。


 今日もまた、血で汚れた強化ガラスの向こう側で、この血なまぐさい戦いをただ傍観している。



「くそっ……。」



 ――この感情は、一体なんなんだ。



 殺してしまいたい、楽になりたい、これ以上痛い思いをしたくない、などの思いとは違う、ひどく切ない感情。


 胸を締め付けられるような、土砂降りの雨の中に一人取り残されたときのような、そんな胸の痛み。


 何度も思った。戦闘訓練を嫌というほど受けたアダムにとって、ディンを殺すことなど簡単であるはずなのだ。


 しかし、いつだって気が萎えてしまう。そしてその複雑な気分のまま自室に戻り、また戦闘訓練を受け、同じことを繰り返す。


 終わることのない苦痛。理解できない胸の痛み。


 生まれ落ちるといっては少し語弊があるかもしれないが、初めてこの研究所を目にしたときから、あまり良い感情なぞ抱いていなかった。


 戦闘訓練が始まってからは、話しかけてくる者も少なくなった。アダムが生まれ落ちた日、戦闘訓練が本格的に始まる前日には、あんなに気遣ってくれたルーベンスでさえ、あまり口を利かなくなってしまった。


 ……アダムを目にする度、辛そうにしていたから。アダムは彼を避けた。同情されているのだと思い込んだのだ。もちろん、あながち間違いではないのだが。


 とにかく、彼らが口を利かなくなった原因はどちらなのかと問われれば、どちらも、という気がする。


 しかし、ディンだけは別だった。


 彼女はアダムに暗黒の未来を宣言したあの時以外、ただの一度も、まともに彼に話しかけたことはない。彼女の場合はいつだって、ルーベンスを通すか強制かのどちらかだ。


 そんな考えごとをしながら、気づけばアダムは自室を通り越した先の通路まで来てしまった。思わず肩を竦めると、右肩に鋭い痛みが走る。



 ――なんか、変だ。



 アダムはそう思った。日によってもちろん差はあるものの、普段なら戦闘訓練で受けた傷は直ぐに癒える。それなのに、今日はひどく治りが遅い。


 直後。ふらりとアダムはよろめいた。足の力が、急に抜けたのだ。まるで故障寸前の、あるいは故障直後の機械のように、二・三歩前に進もうとしながらもよろめき、結局壁にぶつかった。


 厚いチタンの壁の衝撃を覚悟し、せめてもの抵抗として痛む肩を庇い、壁に背を向ける。


 しかし、その衝撃を音で表現するのであれば、トン、といった軽い調子の音だった。代わりに、妙な浮遊感に包まれたかと思うと、一拍おいて、背中にダン!というに相応しい衝撃が走る。



「ってぇー!!!!!!」



 思わず叫んだアダム。訓練後の傷んだ体に、その衝撃は重かった。


 右肩を押さえながら、痛みに悶絶していると。妙に耳に残るような、不思議な声がした。



「大丈夫? あら、あなたは確か、新しいアダムさんね。」



 ふっと寝転んだまま顔を上げると、そこには半透明で自分よりも幾らか年上に見える女性がいるではないか。


 アダムはその女性を、少なくとも今までは見たことがなかった。その女性には形容し難い違和感があり、こんな不思議な違和感を感じたのは初めてだったからだ。


 半透明な女性。彼女は幾らか、自分よりも機械的なように思えた。



「あんた……ホログラムか?」



 そう、確かそんな感じのシステムが存在するはずだ。少なくとも知識の一つとして、アダムは知っていた。


 問われた女性はただ微かに首を傾げる。



「ホログラムに自我は存在するのかしら。わたしは一応、自我を持っているけれど」



 静かで冷静な彼女の声とは裏腹に、アダムの響くように痛む肩。打ちつけた背中が痛い。


 しかし、アダムは他に嫌な存在を感じていた。胸騒ぎ、だろうか。肩や背中のように響くような痛みが心臓にも伴う。


 透けた彼女の後ろ。その床には大きな円形の溝があった。いや、これは溝といったレベルの話でない。形容するなら、まるでクレーターが中心部にいくに従って深く沈んでいくような。そんな空洞だった。


 そこは深すぎるのか、あるいは自分のいる場所が遠すぎるのか。今は浅い部分しか見えない。


 アダムは何があるのか、なんとなく知りたくなかった。けれど体は立ち上がっていた。



「あそこ、何があるんだ?」



 そう彼が問うと、ホログラムは振り返る。困ったように、彼女は肩を竦めた。



「知らない方が、あなたのためよ」



 空洞を見つめながら、女性は続ける。答えをぼかした彼女に、アダムは無意識に眉を顰める仕草をした。



「わたし、本当は自我なんてなかったの。でも、わたしはここに長いこといた。そしたら、進化してしまったのよ」



 機械が、独りでに進化するなんてことが、可能なのだろうか。使われる部品は、人も機械もおよそ決まっている。人型のロボットには、心臓の代わりにバッテリーが組み込まれる。脳の代用品はメモリーカードだ。合金等で作られた、冷たい身体も必要である。


 しかし、ホログラムに関しては人間らしい部品はさほど持たないはずだ。電力とメモリーカード、それからメモリーを受け取り反映させるコンピューターがあればいいのだから。


 そう考えていると、ホログラムの女性は悲しそうにアダムを見た。



「自我に目覚めてしまったら、ここは地獄よ。あんなものを見るのは、わたしと一部の職員で十分だわ」



 その悲痛な視線を受けて、ようやくアダムは、きちんとその目に彼女を写した。


 20と幾らかだろうと見受けられる、端正な顔立ちの女性。白いワンピースに白い髪、そして白い瞳。肌さえもが血の気の感じられないような、白。


 ホログラムの女性には、一切の色素がなかった。


 先ほど感じた違和感の正体はおそらくこれだろう。


 こんな、惨い仕打ち。彼女が一体何をしたのだろうか。ただ人型であれば接しやすい。色素なぞなくても問題ない。所詮は機械なのだから。そんな研究員の心根が窺える。


 機械に感情は存在しない。そうタカをくくっている彼らは、彼女の進化に気づいているのだろうか。


 そんなことを考えていると、不意にアダムは気になった。自分を抑えていられない程にあの空洞が気になった。


 ただ、彼らを非難する材料が欲しかっただけかもしれない。ホログラムの女性を通じて、自分も辛い目にあっていると確認したかったのかもしれない。


 アダムは女性の制止に耳を貸さず、空洞に歩み寄った。そして、ある光景を目にして、彼は自分の甘さを恥じた。



「なんだよ、これっ……!!」



 空洞は想像していたよりも深かった。ずっとずっと深いその空洞は、まるでゴミ箱のようだった。無惨に捨てられているのは、死体だろうか。


 なぜ、どれもこれも、同じ顔をしているのだろう。


 なぜ、どれもこれも、自分に似ているのだろう。


 アダムの顔から感情の色が消え失せていく。ホログラムの女性のように、その顔はのっぺりとした白色に変わっていった。



「何なんだよ、これ」



 自我を手に入れたホログラムの女性の背筋を凍らせるには十分な、冷たく、暗い声が、彼の口から漏れたのだった。




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