【BL】軍人になった時の志望動機は「失恋」でした。
ヴァナルガンド王国王立海軍の第1艦隊の旗艦「リンド」の中央部、そこに設けられた鉄の壁の檻。少年は、閉じこめられていた。白が基調の殺風景なそこに、髪も肌も白い彼は、溶け込むように座っていた。10代になるかならないか、それぐらいの年の幼い子供。とても狭い訳ではないが、広くもないその部屋の真ん中に鎮座する少年は、ひとり、本を読んでいた。当時、まだ新人といえたハロルドは、「様子を見てこい」と上官に指示を出された先にやってきたそこで、息をのんだ。そして、眉を顰めた。子供を閉じこめておかなければならない。そうしないと、先に進めない。その事実は、あまり純粋な動機で軍人になった訳ではない彼にも、手酷い話だと思わせた。人を、特に、彼のような幼い子供を守る為の自分達ではないか。いくら現在、人類を危機に晒している化け物達への対抗手段を得る為に、必要な措置としても。最初は、そんな同情心。
実際は、それは檻などではなく、シェルター。緊急時にはそれが単体で脱出ユニットになる。それは自動手動、そして内外どちらからも、素人でも操作可能だ。だから少年がそこを動かないのは、誰よりも彼自身の意志だった。そして、それはいざとなれば、艦隊が潰滅しようと彼ひとりだけでも脱出させる為の装置だった。のちにそれを知っても、それでもハロルドの記憶中枢は生涯、あの光景を忘れないだろう。その後、本当にシェルターを使う事になってしまったから、尚更だ。
大型の海洋性異類の大量出現。それによるリンド艦隊の全滅寸前、ハロルドは他1名と共に運良くシェルターに同乗した。潰される旗艦からの脱出に成功した時、少年は涙をこぼした。脱出の振動と轟音で、少年の嗚咽は掻き消された。少年が、彼なりの決意でそこにいて、そしてそれがこの時は敵わなかったと知った時、彼は悔しさで泣いた。それを見て、あの光景を思い出して、その対比に、ハロルドは決意した。
2度と、少年を泣かせまい。少年の決意を、悔悟を知った自身が守って、活かしてやらねば。その時、ハロルドははじめて、軍で出世しようと決めた。守る為には、自分が出世し、少年を「運用」する立場になる事が重要だったから。多分この時、彼は自身が軍に入った時の気持ちを忘れる事が出来たのだ。
それから3年。ハロルド・クリスチャニアは、大佐の地位にあった。部隊の旗艦「フリーン」司令室、司令官たる彼の隣に控えた嘗ての少年は、背が伸びて声も低くなり、それでも白いままでそこにいる。青が基調のスーツに近い軍服に身を包んだ彼は、少尉の位を示す肩章をつけていた。書類上だけでも旗艦の司令室に置いておけるだけの位を与えられた少年、アイニー・ジェイムスは、黒い盆を片手にふと、思い出したように尋ねた。
「クリスチャニア大佐って、ウチのマーガレット義姉さんの元彼だったって本当ですか」
ハロルドは吹き出しかけた。コーヒーをまき散らす醜態は何とか抑えたものの、激しく噎せ込んだ。それはヴァナルガンド王国領海フィンランド方面、フリーン部隊の遊弋任務中の事だ。辛うじて飲み込んだコーヒー。カップは机に置いた。手の甲で口元を拭うハロルドは、椅子に座ったままでアイニーを睨み上げる。緑色の目は彼をそれなりに強く射貫いたのだが、少年の白すぎる肌はハロルドの視線を弾き返した。淡々と見下ろしてくるアイニーに、彼は恨みがましそうに問いかける。それは同時に少年の問いかけを肯定するものだった。
「誰から聞いた」
「マギー義姉さんから」
「マギー……!」
肩を竦める少年の形の良い唇からもたらされたのは、確かに中学時代、ハロルドが付き合っていた女性の名だ。同級生で友人で、彼の初恋ではじめての彼女。そして彼を結果としてふり、進路を悩んでいたハロルドに中卒で海軍入りを決意させた女性でもある。17年前の「事件」以来、軍隊の中でも最も人員を求めていたのが海軍だ。死と隣り合わせの忙しさ――文字通り「心を亡くす」程の――に身を投じれば、失恋の痛手を癒せるかも知れない。そう期待しての事だった。結果として、この目の前の少年を守るという人生の目的を見いだせたのだから、ハロルドとしてはこの選択は成功だった。ただ、少年がその初恋の女性の義弟だというのはとんだ誤算だったが。アイニーと交流を深め、家に遊びに行ってみれば元恋人と出会した時の衝撃は忘れられない。
考えてみれば、アイニーの特殊な事情と、彼女の家が代々この国の王家であるフェンリル家に仕える家系であり現在も軍に関わっている事を聞けば、何ら不思議ではなかった。高校卒業後、軍に入った彼女は、今頃はスウェーデン方面で哨戒任務にあたっているだろう。ハロルドは落ち着いた喉でコーヒーを飲む。あの時の、マーガレットのどっきりに遭ったような表情が忘れられない。恐らく自身も同じ顔をしていただろう。隣の少年はきょとりと、赤い目を瞬かせるばかりだったが――マーガレットの現「彼女」の女性と並んで。大きな目で今も見下ろしてくるアイニーは、溜息を吐く。
「仰有ってくれれば気を遣いましたのに。というか、名字で気付きませんでしたか。同じでしょう」
「ジェイムスなんて有り触れすぎててな……! 大体あいつには、僕が知っている限りでは兄弟姉妹なんていなかったんだ。ましてや義理の弟なんてわかるか」
「それもそうですね。俺もまさか、義姉さんに男の恋人がいた事があったなんて知りませんでしたし。俺がジェイムス家に引き取られた時には、もう今の彼女さんと一緒でしたから」
苦虫を噛み潰したような顔で唸るハロルド。アイニーは納得したように頷いた。けれど返した言葉は、更に上官に渋面を作らせる。目を瞬いた部下に、ハロルドは答えた。
「……僕と付き合っていて、はじめて自分の嗜好に気付いたそうだ」
「それはそれは。よくあの時修羅場になりませんでしたね」
言葉通りの心配している様子は、アイニーの表情からはうかがえない。ハロルドは胡乱に紙コップを置いた。
「お前、修羅場になって欲しいと思ったのか。僕はともかく、マギーの事は慕っているだろう」
「いえいえ、面白い事になったらいいなあとは思いましたけど」
「お前が存外にいい性格をしている事は、この3年間でよく理解したつもりだったがな……」
「日々新鮮でしょう」
「殴るぞ」
「まあ怖い。軍隊内暴力反対です」
空になった紙コップを握り潰す、上官の恫喝にも動じない。からかうような口ぶりで、アイニーはころころと笑うばかりだ。少しの間だけ睨み付けていたハロルドも、やがて諦めたように目線を下ろした。血は繋がらずとも、ジェイムス家の人間には調子を狂わされるようだ。彼はそれを理解しつつあったし、その事が嫌いではなかった。やって来た部下のひとりが口頭で告げる報告に頷きながら、ハロルドは勧められたもう1杯のコーヒーを頼む。部隊の端で駆逐艦が捕縛した「異類」についての事だった。
「……ケルピー3頭とマカラ1頭、何れも幼体か。今回はこれ以上は出ないかもな」
「国際色豊かになりましたね。ここ、北欧なのに、ケルピーはともかくマカラって、あれってインドのじゃありませんでしたか」
「情報社会だ。異類についても人々の知識が世界中に広まっていて、海であればどんな異類が出てきてもおかしくないのだろう」
訝しげなアイニーに対し、ハロルドは冷静だ。彼が淹れたコーヒーを今度は落ち着いて飲む。司令室の窓の向こう、彼らが遊弋する海域は「異類」と呼ばれる化け物達を擁している。海の神話や伝説の生き物は少なくない上に、場所が水辺の為にもたらす被害は甚大だ。何せ、海に突き落とされたらそれだけで人は死んでしまうから。
17年前、日本で召喚師一族が引き起こした事件は、世界中に「異類」と総称される化け物達を同時に大量発生させる事となった。彼らは人々の知り、語り、覚え、伝えられる「怪物」の器を借り、異界からこの世界に出現する。殊に情報共有著しい2000年代以降に起きたゆえに、当時は比較的オカルトの関心が低まっていても、その被害や規模はあまりに大きかった。退魔師と総称される者達は有効且つ確実な攻撃手段を異類へ持つが、絶対数が少ない上に、異類との戦いで更にその数を減らした。現在は各国で国ぐるみでその育成に力を入れている為に徐々に増えつつはある。だが彼らのみに頼るのはあまりに心許なく、また、強い火力は異類に有効だと彼らが教えてくれた。だから、各国で軍備の強化が行われた。しかし、その匙加減は、実際に異類と対戦しないとわからなかった。そもそも、その正体が確実でない上に、大まかな出現時期しか特定出来ない彼らと交戦するのはあまりに不利。ゆえに、どの国も彼らを調べる為に、実験材料が欲しかった。
3年程前の事だ。そんな状況で、アイニーが国に保護されたのは。彼が引き起こした事件が切欠で、アイニーを利用した作戦を組む事となった。島国であるヴァナルガンド王国では海軍の軍備強化が求められていたので、ひとまずはそこに配置されて。その試みは概ね成功していた。少なくとも、最初の1回を除けば。その1回に偶々居合わせ、運良く生き延びたハロルドは、嘆息混じりにいう。
「そもそもヴァナルガンドは比較的多民族だし、はじまりは北欧諸国からの移民の寄せ集めだ。余所の文化を柔軟に受け入れるし、その分、異類も余所の国より発生率が高い。それはお前もわかっているだろう」
「ええ、いやって程」
「それに、それは色んな種類の異類を捕まえられる可能性があるという事だ。研究も進むし、その分、各国に恩も売れる。……お前の存在価値も高まって、お前を殺そうという連中の声も小さくなるだろう」
後半の言葉は、ごく囁くような声だった。窘めるような口調。しかし、対するアイニーは、整った眉を顰めるばかりだ。それは、どこか辛そうに。
「それってどうせ、マッドサイエンティストのダルマチア博士の言い分でしょう。確かにその通りですけど、俺は……」
「自分がいるせいで、余計に異類が発生している。自分が呼び水になっている。アイニー、そういいたいお前の気持ちはわかる。だが結局、呼んでも呼ばなくても、あいつらは来るんだ。ただ、お前がいれば、その方向が決定づけられてこちらの対策が練りやすい。それも事実だ。お前がここにこうして生まれ、生きている、それが現実であるようにな」
「……」
言い含めるような言葉。アイニーは唇をかみしめる。元より目と同じく赤いそれ。幼い少年がする仕草としては痛ましかった。ハロルドはそれを口で止めてやりたい衝動を抑える為にコーヒーを飲み干す。いつもより苦く感じた。
「これが今1番、有効且つ建設的な手段だからな。トラブルが起きたらお前をうまく運用して解決する。それが1番だ。異類が発生したら片端から捕まえていく、それがな」
「……そうですけどね」
渋々と納得した様子で、アイニーは唇をとがらせる。それにハロルドは、苦笑していった。
「それに、僕がお前をうまく運用出来る。今のところ上層部はそう認識している。その僕がどうにか出来ない事態が起きたら、かなり危機に瀕した状況だ。その時は、お前は混乱に乗じて逃げられるぞ」
「逃げませんよ」
「……」
今度はハロルドが黙った。小さいが、決然とした声。けれど表情は、かなしい笑みをたたえていた。
「……逃げませんよ。ここが、今の俺の……アイニー・ジェイムスの家ですから」
「アイニー」
「司令官! 3時の方向に小型クラーケン出現!!」
名を呼びかけたハロルドの声を遮る、それは部下の声。すぐさま彼らは顔を上げた。見れば、大きな蛸の姿――しかし彼らの経験からしてみれば小柄な部類――がある。ハロルドはゴミ箱に紙コップを投げ捨てた。
「よし、いつも通りにフリーンが囮役になる。アイニー、所定のシェルターに着け」
「……了解」
先程までの雰囲気を切り捨てたハロルドに対し、アイニーは少しだけ逡巡した。しかしすぐに駆け去ろうとする。アラームが鳴る、その中でハロルドは振り向かずに彼を呼び止めた。ハロルドはいう。
「いつかお前が出世したら、お前が司令官として部隊を持てるように掛け合ってやる。お前は司令官の才能があるようだからな。そうしたらお前は、異類に攫われない程度に好き勝手にやればいい。シェルターに引きこもるのは、もういやなんだろう」
「……有り難う御座います」
ハロルドは見えなかった。その時のアイニーがどんな表情をしていたかなど。彼らはそれぞれの位置についた。彼らの過去など微塵も感じさせぬ、軽快な足取りで。
軍人になった時の志望動機は「失恋」でした
そしてこの日も、フリーン部隊は無事に異類の拿捕に成功し帰投する。これらの異類の捕縛任務などでの成功を重ね、のちにアイニー・ジェイムスはひとつの遊撃部隊の指揮官を任される。彼の旗艦である巡洋艦は「ヘレネ」と名付けられる事となる。北欧神話から名を与えられる事の多いヴァナルガンド王国にしては珍しいギリシャ神話からの引用だった。それは司令官の実態を知る者達からは納得の命名だといわれる事となる。
End.