Prologue-04
[ ――『エレウシス』 日本フラグメント―― 7月26日 19:01(UTC + 9:00) ]
穢れのない純白の粉雪で覆われた大地が、たおやかな月の光に照らされて、微かに隆起しただけのなだらかな丘陵からも一望できる。濃紺の夜空には、彩も鮮やかな星々が煌々と瞬き、見た事もない大輪の月華が、優しくも心強い月明かりを放散させていた。遥か地平では、黒々とした木々の連なりと峻厳なる霊峰の頂きが空に突き出し、幻想的な雪景色に厳かさを添える。
街灯はおろか、人々の住まう気配すら感じられない厳然たる自然の中で、夜闇の黒と雪原の白を対比して眺める事など、現実世界では叶うまい。しかし、頬を刺す寒風の鋭さも、舞い落ちる白雪の冷たさも、生身の感覚と紛う事無き刺激を返して、この世界が現実なのだと訴えかけてくる。ここが仮想世界『エレウシス』である事の証左は、厳冬の地にしては暖かすぎる、という事実のみだ。
(もしくは、人混みのせいで寒さを感じないのか、あるいは、この神殿っぽい建築物の効果か……)
『エレウシス』へと降り立った黒血は、一際大勢の人間でごった返す大通り――“神殿”へ丘陵を昇るように作られた石畳の直線――から脇に避けて、周りを見渡していた。
簡素な石柱を組み上げただけの原始的な“神殿”が丘の上に建ち、“神殿”の周囲には、淡い藤色をした百合のような花が咲き誇っている。異空間で女神と相対した時に薫った南国蘭の香は、あの花の匂いだったのだ、と黒血は瞬間的に理解した。あれは、女神を象徴する花『マテル・リリィ』だ。
開始国の選択をする際、システム ボイスが国や文化について、しきりに“説明する許可”を求めてきたので、黒血は、一々全ての説明を聞いていた。『マテル・リリィ』についても、その時に説明を受けていたのである。説明された情報の中には、小説『レゾン・デートル』を読み、既に知っていたものも多くあったが、黒血は、得られた情報に概ね満足していた。
黒血が開始国に選んだのは、『レムリア大陸』北端の国『聖アイオティア女王国』。神話の時代、『レムリア大陸』を統一した“聖女帝”ソフィアの興した『アイオティア帝国』の、その正統な後継国として、“ソフィアの娘”と呼ばれる女王が代々治める女性上位の国家である。寒冷地故に農業は盛んでないが、豊かな海の恵みと森林資源、『リフェアン山脈』から得られる豊富な鉱物と宝石とで国庫は潤い、文化水準も高い。国土の広さや経済力の割には、大規模な軍隊を所有していないが、『聖アイオティア女王国』の二大兵団『白雪聖騎士団』と『氷華魔法師団』は、小説『レゾン・デートル』の中で大陸最強と謳われ、他国からの侵攻をことごとく阻んでいたという。
開始国の選択時に聞いた説明によれば、『聖アイオティア女王国』は、生産者や女性プレイヤーにお勧めとの事だったが、当然黒血は、そのどちらでもない。
(女性NPCと女性プレイヤーに囲まれて、ハーレム ライフを満喫するんだ!)
黒血は、左腕に嵌めた腕輪を、右手の親指と人差指で摘まみ、メニュー画面のホログラムを出現させた。彼が何より驚いたのは、この地へ降り立った際に表示された時刻が、あれだけ長時間の『女神の試し』と“システム ボイスさんによる『エレウシス』講座”を終えた後だったというのに、ゲームを開始した時刻とほぼ同じだった事だ。メニュー画面に表示された仮想時間と現実時間は、共に[19:01(UTC + 9:00)]となっている。恐らく、プレイヤーは、皆同じタイミングで『エレウシス』に第一歩を刻んだのであろう。
プレイヤーは、10の国家から開始国を選択し、各国30程度の開始地点に分散転送されたのだが、それでも、黒血の目の前には、1万人近いプレイヤーがひしめいて見えた。ある程度、転送タイミングをずらしても良かったのではないか、と思う黒血であったが、無駄にシステム ボイスの説明を全て聞いても、出遅れなくて済んだ彼は幸運だ。
(システム ボイスといえば、全部の説明を聞いたお礼だかで、初期装備を特別品にしてくれるって言ってたな……)
『Raison D'etre Online』では、初期装備も『女神の試し』の結果やランダム要素によって変化するようだ。今“神殿”付近にいるプレイヤー達の中にも、他のプレイヤーとは違った装備品を身に纏い、自慢げにしている者達が多くいる。
(そういえば、さっきからチラチラ見られてる気がしてたんだよなー。ふふふ、早くもハーレムへの階段を一段昇ってしまったか)
確かに、黒血の方を一瞥して通り過ぎていくプレイヤーが多い。先ほど通り過ぎて行った女性3人組みなど、黒血を指差して嬉々とした笑顔を見せていた。また一人、黒血を目にした女性プレイヤーが、くすりと微笑んで歩いていく。
(ん……、何か笑われてないか?)
黒血は、訝しがって自分の身に纏う装備品を見てみた。
(靴は寒冷地仕様のファー付きブーツで、下は茶色のレザー パンツ。うん、普通だな。
で、上は、襟付きの白い長袖シャツか。胸の辺りに盛大に醤油をこぼしたようなシミがある以外、普通じゃないか)
自分の体をまじまじと観察していた黒血は、小さく頷いてから顔を上げた。
一拍置いて黒血は、もう一度下を向き、着ているシャツの胸先を摘まんで見つめる。シャツの胸先――に付着した茶褐色のシミ――を見ていた彼は、ゆっくりと大通りに背を向け、しゃがみ込む。
(…………。
な、何で、ゲーム開始1分でシャツにシミが付いてんだよぉー! これ確実に醤油こぼしてるよね、ユーズド感出してるってレベルじゃないよね。そもそもファンタジー世界に醤油ってあるのかよ!
システム ボイスさん、渡すなら、ちゃんと洗濯したシャツを渡してくれ!)
黒血は、心の中で喚き散らしながら、天を仰いだ。
《【槍術】スキルが上昇しました》
不意に、黒血の視界の隅で新しくシステム メッセージが表示された。しかし、それを疑問に感じながらも、それより何とかシミが目立たないようにできないか、黒血は、シャツの布を折ったり重ねたりと試行錯誤している。
ふと黒血は、メニュー画面からアイテム情報を確認する事を思い立った。先ほどと同じように、左腕に嵌めた腕輪を2本の指で挟み込むように摘まんで、メニュー画面を表示させる。そして、【アイテム】メニューから【装備】メニューへと画面を遷移させ、キャラクターの装備を管理する為のインターフェイスを呼び出し、【胴体装備】を確認した。
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アイテム名 : みすぼらしいシャツ
種別 : 服
希少性 : 一般(白)
性能 : 防御力+1
回避力+1
魅力-20
説明 : 大きなシミの付いたシャツ。みすぼらしい。
新しいシャツを買う金もなく、仕方なく着ているに違いない。
これを着ている限り、多分、ハーレムは作れない。
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「どんだけピンポイントな説明文!? 何でこいつは俺がハーレム目指してる事知ってんだよ! つーか説明文が主観的過ぎるだろ……。もっと客観的事実を書けよ」
思わず声に出して、メニュー画面に向かって怒声を浴びせてしまった黒血は、付近から怪訝な目で見られてしまう。
《【槍術】スキルが上昇しました》
再び表示されたシステム メッセージに、黒血は1つの結論を出した。
(突っ込んだからか? 突っ込んだから“突くスキル”が上がったのか? どんなスキル上昇判定だ!)
《【槍術】スキルが上昇しました》
答えはシステム メッセージで返ってきた。どうやら黒血の想像は、真実へ辿り着いていたらしい。
(いかん、心を静めないと【槍術】スキルが無駄に上昇してしまう……)
大きく深呼吸して、黒血が心を落ち着けていると、またしても彼の視界の隅に、システム メッセージが表示された。
《【瞑想】スキルが上昇しました》
居た堪れない気持ちになった黒血は、人混みから離れ、灯りの無い雪原へと足を向けた。
『エレウシス』転送時の説明によれば、“神殿”付近には、街もなければモンスターも出現しない。従ってプレイヤーは、“神殿”の力で付近の街まで瞬間移動し、そこから冒険を始めるのが定石だという。勿論、“神殿”から歩いて冒険を開始する事も可能だが、そういった選択肢を選んだプレイヤーは少ないようで、黒血の周りからもプレイヤーの姿が徐々に減っていく。
黒血には、もう1つ気になっている事があった。武器の事である。
初期装備がランダムで変更されるとはいえ、武器に関しては、『エレウシス』に転送される前に希望を聞かれる。黒血は扱いやすそうな“短刀”と答えていた。先ほど装備品の情報を閲覧した際、彼は、確かに自分が武器として『ナイフ』を装備しているのを確認している。しかし、装備しているはずの『ナイフ』が見当たらないのだ。
(“みすぼらしいナイフ”とかじゃなくて良かったけど、何処に持ってるんだろ?)
何の気なしに黒血は、臀部のポケットに手を突っ込んだ。するとポケットの中に、ひんやりとした感触があったので、彼は、恐る恐るそれを取り出した。黒血の手に握られていたのは、銀色に輝く掌大の“ナイフ”であった。
黒血は、手に持った“ナイフ”を見つめ、次にメニュー画面を開いて、アイテム情報を確認した。
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アイテム名 : ナイフ
種別 : 食器
希少性 : 一般(白)
性能 : 攻撃力+1
説明 : ナイフ(食器)
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再び黒血は、手に持った“ナイフ”を凝視して、縋るような気持ちで、もう一度アイテム情報を確認した。
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アイテム名 : ナイフ
種別 : 食器
希少性 : 一般(白)
性能 : 攻撃力+1
説明 : ナイフ(食器)
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「説明文が残酷なまでに客観的過ぎるわ!」
《【槍術】スキルが上昇しました》