Prologue-01
[ ――『エレウシス』 日本フラグメント―― 7月26日 19:27(UTC + 9:00) ]
「1億シェルや。何遍も言わさんといて」
「えっと、その……、1億っていうのは、あのゼロが8つの1億ですか?」
「それ以外の1億に心当たりでもあるんか」
天に突き出す槍衾のように、細長い樹幹が雑然と乱立し、針葉樹の鋭角的な枝葉が、白雪に塗られて燦々と輝く。横に広がりを見せない針葉樹の木末は、徒に光を遮る事も無く、足跡一つない銀世界を、中天に浮かぶ巨大な月が照らし出していた。頭上に広がる紺色の穹窿では、たなびく幾筋もの絹雲が月光を反射して、風に流れる。
「んと、事情がよく飲み込めないのですが……。まだゲーム開始してから30分も経ってないですし」
数瞬の間を置いて、みすぼらしい身なりをした黒髪の青年が、金髪碧眼の女性に切り出した。艶やかで一点の痛みもない彼女の黄金色の御髪は、肩先の辺りで切り揃えられ、毛先のみ内巻きに癖が付けられている。女性の装いには、特筆するような煌びやかさはないものの、黒系のシャツの上から纏った同系色の前開け上着には、しっかりと獣毛が裏打ちされているし、首周りを覆う毛皮のマフラーは、見るからに上等な品で、簡素な細身の黒ズボンにも高級感が漂う。弦の細い銀縁の眼鏡が、彼女の切れ長の三白眼に理知的な印象を与え、俗に言う“デキる女”のイメージを醸し出す。
何故、自分がこのような女性NPC――プログラムで制御された、プレイヤーの操作しないキャラクターの総称である――に、人気のない針葉樹林の只中へ“連れ去られた”のか、青年――最上 健太のアバターである黒血――には、皆目見当が付かなかった。今まさに、その理由を女性NPCから説明されていたのだが、黒血には、理解ができない。
(……ゲーム開始直後に1億も借金があるって、どういう事よ?)
[ ――日本 『Gnosis』ターミナル―― 7月26日 18:52(UTC + 9:00) ]
世界初の没入型VRMMORPG『Raison D'etre Online』のサービス開始まで、あと8分。最上 健太は、『Gnosis』に接続した状態で、その瞬間を今か今かと待ち侘びていた。
青い水面に包まれたかのような仮想空間上では、作成しておいたアバターに“意識を没入”させ、自由に動き回る事ができる。『Gnosis』で利用可能な各種サービスは、テーマパークのゲートのような形で視覚的に表現されており、アバター黒血は、『Raison D'etre Online』の、未だ閉ざされたままとなっているゲート前で右往左往していた。
ここは、『Gnosis』接続後の開始地点。各種コンテンツや設定操作などを選択する為のメニュー画面と同じ役割を担うが、『Gnosis』においては、個人的な仮想空間として表現される。
《黒円グループが、またしても人類史上に残る変革をもたらそうと――》
《17名の宇宙飛行士が犠牲となったエクスプローラー9号事件から3ヵ月が経ち――》
《人類初の没入型VRゲームが、もう間もなくサービスを開始するという事で、ここ秋葉原の街は、閑散とした状態――》
《では、夏休みのレジャーに最適な――》
《世界初のVR体感ゲーム『Raison D'etre Online』が、遂にサービスを開始します――》
群青に揺らめく仮想空間の壁面には、眩い白色光を湛えるモニターが設置され、黒円グループと提携する、あるいは黒円グループ傘下の放送局が配信している映像コンテンツが映し出されていた。この時間に流れるコンテンツは、前時代からの慣習なのか、ニュース番組ばかりだ。その内の半数以上は、『Raison D'etre Online』のサービスインを報じている。
落ち着かない様子でモニターを眺めていた黒血は、改めて仮想現実デバイス『Gnosis』の性能に感嘆した。
(電子空間上に中枢神経系をエミュレートするなんて、本当にSFの世界だよなあ)
『Gnosis』に接続すると、脳から脊髄へと出力される神経パルスは横取りされ、現実世界での肉体は、半強制的に仮死状態へと移行される。同時に、脳から発せられる神経パルスは、『Gnosis』の“パルス エンコーダー”によってデジタル信号へと変換され、世界に20台余りが設置されているという黒円グループの中枢サーバーに送られる。1台あたりの処理速度が数億ヨタ フロップスとも言われる中枢サーバーは、受け取ったデジタル信号をインプットにして演算を行い、アウトプットとして新たなデジタル信号を返す。返されたデジタル信号を、『Gnosis』の“パルス デコーダー”で再び電気信号へと変換し、脳に受け渡す事によって、『Gnosis』を仲立ちとした仮想的な中枢神経系が形成されるのだ。
黒血は、現実と寸分違わぬ感覚で動かせる仮想の肉体を観察する。思考も遅滞なく何処までもクリアで――現実の脳を使っているのだから当然だが――、健太は、自分自信とアバターとの境界が曖昧になるのを感じていた。
(んー、いかんいかん。また酔ってしまう)
最上 健太は、数十万人に一人とも言われる特異体質らしく、仮想現実との親和性がとても高い。その為、通常であれば、現実と掛け離れたアバターの操作や、長時間の仮想現実体験などによって発生する自我同一性の混乱が引き起こされ易く、短時間の仮想現実体験でも、現実に復帰した際に、乗り物酔いに似た諸症状を発症してしまうのである。
(ま、まぁ、アバター操作でアドバンテージを得られると思えば、あの苦しみも我慢できるさ……)
自分に言い聞かせるように、黒血は目を瞑った。
[ ――日本 『Gnosis』ターミナル―― 7月26日 19:00(UTC + 9:00) ]
時は来た。
日本時間で7月26日の19時、遂に『Raison D'etre Online』のゲートが開かれた。幻想的な極光の溢れ出すゲートの先へ、黒血は、陸上競技と格闘技で鍛え上げた現実の瞬発力と、数十万人に一人の特異体質による淀みないアバター コントロールでもって、一気に飛び込んだ。
(俺が一番乗りだ!)
心の中で強く叫ぶと、黒血は、『Raison D'etre Online』のゲートの先へと消えていった。
余談ではあるが、閉ざされたゲートに密着しておく事で、ゲート解放と同時に『Raison D'etre Online』の世界へ旅立てるという情報は、多くのゲーマーたちの間で共有されていた。これも余談ではあるが、黒血の『Raison D'etre Online』へのログオン着順は、100万番台にも届いていない。
[ ――Unknown Area―― //月//日 //://(UTC + //://) ]
ゲートを抜けると、視界一面に、淡い緑色をした光の雲が、柔らかな風にそよぐ薄手のカーテンのように、ゆらりゆらりと揺れていた。黒血は、透明な円柱状の道を歩きながら、上下左右にたゆたう翡翠色の淡光を眺めている。
ふいに、視界を満たしていた光の雲が、突風に掻き消される薄靄の如く、凄まじい速度で後方へと流れ去って、代わりに、濃密な黒色をした空間が出現した。
《因果の地平を超えて、事象の狭間に迷い落ちた、祝福を持たぬ旅人よ》
喩えるならば、“星一つない晴天”の夜空。その深い漆黒の闇の中に、温かな女性の声が響き渡った。次の瞬間、黒血の見上げる空虚な中空に、煌々と燃え上がる金色の光の束が幾億本と顕現し、絡み合って女性の躯を形作る。絢爛たる星辰の輝きにも似た白金の粒子が舞い踊り、何処からともなく芳醇な南国蘭の香が漂って、鼻腔をくすぐる。
《汝、『エレウシス』の主たる我『マグナ・マテル』の問いに答えよ。さすれば女神の祝福を汝に与えん》
(……『女神の試し』だな。単純に問いとは言うが、実際には、色々なテストをやらされて、その結果に応じて最初に貰える『栄光の石板』が決定する、と。こういう所も“小説”と同じ展開にする辺り、凝ってるねぇ)
光の編んだ女神の指先が、黒血を指さす。すると、黒血の眼前に、横50センチメートル、縦30センチメートル程の白い薄板が現れた。
《我、汝に問う――》
黒血に対する『女神の試し』が始まった。